分断的な心を思惟する

 

創作と批評 190号(2020年 冬)目次

 

金聖敬『分かれた心』創批、2020

 

キム・エルリ/平和フェミニズム研究所、所長 ellikimy@gmail.com

 

 

 分断を思惟する

 『分かれた心:分断の社会心理学』には、このような問題意識が鮮明に映し出されている。しかも、「心」という感情構造を取り入れた非常に魅力的な方法によるものだ。魅力的というのは、社会科学において、これまで積極的に追究することのなかった「心」にスポットを当てて南北関係を取り巻く平和研究の方法を拡大しているという意味においてである。

 南北の統合を唱えながら敵対心を刺激するような安保言説を再生したり、平和を唱えながら上下関係体制に関しては沈黙したりするようなことは頻繁にある。分断は、統一を語る際に繰り返し引用され、統一のための背景としてしか取り上げられなかった。そのため、平和議論は分断が胚胎した言語と言説体系の中で既存の秩序を再生産するレベルに留まっていた。公論の場で統一と分断を切り離して分断自体を覗き込み、綿密に論じようとする試みは、そういった意味で非常に意義深いと言えよう。最近、分断暴力、分断トラウマ、分断遂行性といった概念によって分断社会である韓国を解明しようとする研究は持続的に行われてきた。その中で、体制や構造、そして遂行性、さらには「感情」を通して分断を考察しようとする試みは分断社会を詳細に見つめ直すための豊富な資源の発掘という意味だけではなく、理性中心の近代的な思惟の枠を越える企画という点で非常に目新しい。この一冊は南北関係と平和研究の地平を広げる貴重な本と言えよう。

 この本の中で「心」とは、それ自体を究明しなければならない存在論的な質問ではなく、日常において人々の生活を構成し、社会的な行為を可能にする「力」を意味する。つまり、ここでの心は、個人の心理の領域に限られたものや理性の二項対立としての感情とは違うものなのだ。それは、理性と感情、意志と情念などが明確に区別されない曖昧な領域であり、状況によって適切に結びつく様々な要素によって構成された総体なのである(1章「分断の社会心理学」)。従って、心は理性/感性、精神/肉体、男性性/女性性のような二分法的な枠組みの中では説明できないものであり、理性中心主義的な近代性を飛び越えようとする意識的なアプローチであり、同時に新たな価値体制を模索しようとする脱近代的な方法論なのである。

 心という概念を方法として取り入れると、分断を日常のレベルで綿密に読み取ることができる。著者は現地研究からデプスインタビュー(深層面接)、映画評論に至るまで、多様なアプローチを通じて南北の分断的な心を分析している。日常の中で分断が如何に作動しているのかを明らかにすることは、今まで余りにも当然で自然なことで却って気づくことのなかった分断の痕跡を浮き彫りにし、そこへと読者を導く作業なのだ。そのため、分断に馴染んでしまった習慣に違和感を感じさせる。そして分断が作動しているその場には個人が日常的に行っている実践が胚胎されており、文化的規範と社会的規則が絡み合っていることを我々に気づかせてくれる。

 その中でも「北朝鮮」への敵対心と優越感は、分断的な心を生み出す根本的要素である。敵対心が一つの民族国家を形成できなかった挫折感から生じたヒステリックな過剰感情であるならば、優越感は資本主義的な発展パラダイムからの視線の主体が放つ権力の欲望であろう。「太極旗部隊」の出現は、分断社会において歴史的に積み重なった不安や恐怖が新自由主義的な経済主義と結び付いて表出された情動であると言えよう。米国が主導する冷戦秩序の下で家父長制的な産業化の主軸であった世代が新自由主義時代に感じる疎外感と不安感の表出なのだ(2章「分断の感情と情動」)。

 著者の語る「分断的な心」とは、まさにそういうものなのである。それを穿鑿することは、韓半島(朝鮮半島)という具体的な地域と歴史的脈略の中で殖民と分断の経験を社会的に共有しながら形成された集団的な感情、文化、生活などを可能にする力を見つける作業なのだ。ならば、「北朝鮮」はどうだろうか。著者は北朝鮮の人民が共有する心の習俗を追究している。主体思想に支配された北朝鮮の心の習俗は徐々に変化している。しかし、スペクタクルな平壌(ピョンヤン)の建設は指導者の影響力を誇示し、それによって北朝鮮の人民を依然として受動的な情動に留まらせる。スペクタクルな平壌の政治の中で情動を受け入れるのではなく、情動を生み出す人民の主体が形成されることを著者は待ち望んでいる(3章「北朝鮮の人民の心」)。

 このようなアプローチは、分断が体制と構造の問題、もしくは軍事と経済の問題だけでは解決できない問題だということに気づかせる。被害と加害の構図を越え、日常的に如何に持続してきたかを示している。この本は、分断体制論を土台としながらも非常に繊細なアプローチを通じて分断に関する理解を深めてくれる。

 これは、単に南北の物理的な分断を意味するのではない。分断的な心は北朝鮮から脱出した難民たちに接する我々の中にも存在する。「ウリ(我々)」は、彼らを他者扱いし分断の境界を作る言説体系の中で構成される(4章「我々の中の他者、北朝鮮出身者」)。そして、その過程にはジェンダーが作動する。越境した北朝鮮の女性は過剰に性愛化され、保護されるべき被害者として扱われ、時には北朝鮮体制を批判するための証明資料としての典型的なイメージへと再現される。しかし、著者が接した北朝鮮の女性たちは、近代国家の人権言説など男性中心的な視線が主流の言説体系に亀裂を入れる積極的な行為者であると言える。彼らは、分断の内と外の境界を行き来しながら、不法と合法の領域を越えたある空間の中で、よりよい人生を自ら切り開いている。結婚の規範を破り、血縁中心の家族イデオロギーから抜け出して生きているのだ(5章「韓半島の外の分断」)。そして、著者は接境地域が近代国家の「外」を想像できる空間となる可能性があると余韻を残す。

 冷戦と脱冷戦、そして新冷戦が歴史的に重なり合う韓国社会において、著者は依然として冷戦秩序の中で排出された感情構造が分断体制から形成されたものだけに、冷戦構図の「外」を想像しながら考える必要があると主張している。韓国社会が南北の協力と共生社会を描くためには、単に北朝鮮を認めるレベルではなく、「ウリ(我々)」の世界を規定していた視点と言説体制を飛び越えなければならないと語る。これに付け加えるならば、韓国社会の思惟は、未だに現実政治のロゴス中心主義に囚われているというのが現実だ。心を通じて南北統合の未来を想像するためには、そのような論理を打ち崩す、もしくは亀裂を入れる支点を浮き彫りにする多様な作業が伴う必要がある。さらに、ジェンダー/セクシュアリティーの考慮を通じて、既存の論理構造に多大な影響を与えている家父長制から生み出された心を解体する作業も求められる。

 著者は理論と分析自体に留まらず、それを実践と連携する。分断を媒介する心と構造が結合した繋がりを断ち切り、敵対心を共感と連帯感へと転換する倫理的な実践に南北平和の未来を託している(6章「共同体、連帯、そして社会」)。この倫理的力量ならば、既存の秩序を固守する平和を断絶し、よりよい社会を作り出す平和を構築することできるという期待感を読者に抱かせるかもしれない。これこそ平和遂行の情動であろう。

 

 

翻訳:申銀児(シン・ウナ)