〔特別座談〕 東学の再認識、今日の道を問う

 

創作と批評 193号(2021年 秋)目次

 

白楽晴(ペク・ナクチョン)『創作と批評』名誉編集人、ソウル大名誉教授。近著に『西洋の開闢思想家・D・H・ロレンス』『文明の大転換と後天開闢』『2013年体制の確立』『文学とは何か、あらためて問うこと』などと『白楽晴会話録』1〜7巻がある。

 

金容沃(キム・ヨンオク)哲学者、韓医師、号は檮杌(トオル)。高麗大教授を歴任。近著に『東経大全』1〜2巻、『老子が正しかった』『私はイエスです』『檮杌・金容沃の金剛経講義』『二十歳、般若心経に酔う』『中庸:人間の味わい』などがある。

 

朴孟洙(バク・メンス)歴史学者、円仏教教務、円光大総長。著書に『生命の目で見る東学』『開闢の夢、東アジアの覚醒』、共著に『東学への道』『朝鮮のすばらしい新世界』『百年の遺産』などがある。

 

 

 

白楽晴 (司会)まず今日の座談会に出席してくださったお二人に、感謝申し上げます。金容沃先生は昔からエネルギーが漲っていますが、それでも本当に殺人的なスケジュールを消化しておられます。座談会にいらして下さり感謝します。朴孟洙先生は円仏教の教務で法名は「允哲」(ユンチョル)、法号が「学山」(ハクサン)です。現在、円光大の総長職にあり、誰よりもご多忙かと思いますが、いらして下さりありがとうございます。『創作と批評』誌で、このような座談を企画することになったきっかけは、金容沃先生が2巻本の『東経大全』(トンナム出版社、2021)を出されたからです。本当に大作です。これをきっかけに、私たちが東学を再認識するのはもちろんのこと、東学が対決した思想的な遺産や時代の現実を見て、今日の状況まで少し幅広く議論してみようと思います。本格的な議論に先立って、お二人も挨拶を兼ねて、簡単なお考えといいますか、この座談に期待されるところをお話し下さい。

朴孟洙 私は1955年生まれですが、大学生の頃に『創作と批評』や「創批新書」の洗礼を受けながら思想形成した時期がありました。そして大学院に進学して、金容沃先生がハーバード大留学終えてきて書かれた『東洋学、どうすべきか』(民音社、1985)を読んで受けた知的な刺激は、誇張して言うならば、一生忘れられないものになりました。世界の碩学とされるお二人と一緒に、末席に連なることになったことを過分な光栄と考えています。普段、気になって聞きたかった内容を数多くお聞きして、私たち後学にとって大きな指針となる場になれば、と思いながら、こちらに参りました。

金容沃私はまず、私たちがこの場に座っているということ自体が、私たちの社会の本質的進化を意味すると思います。過去に会わなかった人々がこのように会い、意思疎通をして、そして大衆に向けて深奥なテーマを真剣に語るということ自体が、私たちの文明の生命力、その創造的な前進を意味すると思います。何よりも、白楽晴先生が、金容沃は正統的な学問の修練を受けた人間だが、韓国の学界ではかなり距離を置かれる印象があり、このような場を通してでも、ある種の歴史的な位置づけをあらためてするべきだとおっしゃって、私は涙が出るほどありがたく思いました。歴史的な評価は、歴史それ自体の役割ですが、今、私が感じているこのような感激が、『創作と批評』誌を読んでいる、若い文学徒や思想学徒たちに対して、斬新なインスピレーションを与えられればと思います。

 

『東経大全』と東学

 

白楽晴 私が金容沃先生にそのような話をしたのは事実です。金容沃先生はファンも多く、読者も多いですが、主流の学界では、わざと垣根を築いているようでもあります。『創作と批評』誌はさほどパワーはありませんが、このようにともに議論する場を通じて、少しでも突破できるのではないかと思います。金容沃先生の『東経大全』1・2巻はそれぞれ「私はコリアンである」「私たちが神である」という副題がついていて、金容沃「著」となっています。単純な翻訳や注釈書ではなく、独自のコンテンツを多く盛り込んだ本だという意味です。まず第1章「緖言」を読みながら、私は小説を読むように面白かったです。「東経大全」(以下、金容沃の著書は『東経大全』、東学の創始者・水雲・崔済愚(チェ・ジェウ、1824-64)の経典は「東経大全」と約物を区別して表記する――編集者)初版本を入手して資料として鑑定し、多くの新たな事実を明らかにしましたが、とにかくその経緯がとても面白かったです。本書を書かれるまでの長い過程で、最も記憶に残る瞬間や、現在の感想を簡単にうかがいたいと思います。 

金容沃 私のよう古典学の訓練を受けた人間には、初版本というのはとても重要です。特に私が学んだ日本・東京大の中国哲学科は、とても厳密な訓詁学的訓練をさせるところだったので、私は初版本の文献学的な意味について多角的な認識がありました。ですが「東経大全」を勉強しようとしたら、初版本がありませんでした。これは2009年にようやく発見され、私の生涯の東学の師であった表暎三(ピョ・ヨンサム)先生も、この麟蹄庚辰版の初版本を結局見ずに亡くなりました。後学として入手した初版本を見たとき、その感動は言葉に言い尽くせないものでした。涙があふれてきて、私がおまえをどれほど探したのに、どうしてこのように今頃出てきたのかと恨みもしましたよ。まず、この初版本については、哲学的な解釈はさておき、ハードウエア的な事実が重要です。この初版本が出てくるまで、これは無批判的にただ木版本としてのみ知られていました。
 八萬大蔵経を見ると容易に分かりますが、木版印刷というのはまず「経板」といわれる木板を作成し、そのうえに文章が書かれた紙を裏返して貼り付け、一文字ずつ鑿で彫るので、膨大な手間と時間がかかるのです。ですが「東経大全」は、ほぼすべての版本が木版本ではなく、木活字本でした。この事実がとても重要です。木版本と異なり、木活字本は木板を用意する必要がなく、それぞれの活字を随時動かせます。木版本のように、全体を木板のうえに彫るのでなく、続けて解版して、2,3の印版だけでも全体を印刷できます。なので、とても簡単に短期間で印刷が可能なのです。
 ですが、これまで木版本だと主張してきた人々は、このような単純な事実に無知です。そして修正されるべき誤りを誤りとして受け入れずにいます。しかしこれは科学です。斯界の専門家を網羅して意見を聞き、韓国の過去の印刷の歴史の常識に照らして考証されるべき科学的事実であるにもかかわらず、考えを変えようとしません。もどかしいかぎりです。

朴孟洙 後学として3、4つほど、大きな印象を受けました、まず今後、東学思想と韓国学の研究が、金容沃先生の『東経大全』刊行の前と後で区分されるほどの一大事件であるという点です。版本学のある種の典範というか模範を、この力作を通し示して下さいました。これを文献批評や史料批判とも言えますが、この部分については後学たちの模範になるだろうと思います。もう1つは、先生の東学研究は半世紀以上にわたります。高麗大の学部時代から、すでに朴鍾鴻(バク・ジョンホン)、崔東熙(チェ・ドンヒ)、申一澈(シン・イルチョル)のような第一世代の東学研究者の方々の洗礼を受けて問題意識を持ち、半世紀の間、そのテーマに取り組み続けて、今回、集大成されたのです。先生個人にとっても大変な学術成果であり、韓国史の大きな成果であると申し上げたいと思います。最後に、私の専攻は近代韓国思想史で、東学や甑山教、円仏教、民衆運動ですが、「東学」とは言い換えれば「朝鮮学」であり「国学」であり「韓国学」です。ですが、これを研究して、その問題意識で韓国社会を進歩させようとした私たちの数多くの先輩たちが、血を流し犠牲になりました。今回、金容沃先生の『東経大全』が出ることで、「朝鮮学」を構想して「朝鮮」をきちんと認識しようした、血を流し亡くなられた数百万の英霊のための、真のレクイエムを捧げて下さったという印象を受けました。

白楽晴 素敵なお話しです。私の少ない知識の範囲の中でも、『東経大全』は金容沃先生の著書の中でも特別なものだと思います。版本学の話が出ましたが、版本学というのは単に韓国学や東洋学だけでなく、西洋でもとても重視します。英文学でも版本学の伝統がかなりしっかりしていますが、韓国にはなかなか見られないと思ってきました。金容沃先生の他の著書にも版本の話が出てきますが、今回のように先行研究をひとつひとつ実名で評価・批判した例はなかったように思います。なので、本当に新しい仕事をされていると思いました。私は批評的な眼目がない文学者たちは、実際に版本学もきちんとできないと思います。正しい鑑定を出しにくいからです。そのような点でも感銘深く読みました。

金容沃 1つ申し上げたいのは、この私の『東経大全』第1巻は、「大先生主文集」(東学の創始者・水雲・崔済愚の一代記)が中心になっています。ですが、「大先生主文集」にも版本学的な問題が絡んでいます。すべての人が「道源記書」という、筆写本として伝えられてきた本を、東学の歴史を物語る最も権威ある本と考えています。「大先生主文集」は、私が新たに発見した文献ではなく、もともとあったものですが、斯界の研究者たちの「大先生主文集」に対する認識が不十分でした。一般的に最も権威あるものと盲信されてきた「道源記書」より、「大先生主文集」の方がよりオリジナルであるという事実に対して、厳密な認識がありませんでした。「道源記書」の前半部が、もとの資料である「大先生主文集」を参照しながら再構成された文献であるという事実を知らずにいたということです。「大先生主文集」は後代に作られた「道源記書」よりも、はるかにリアルな人間としての水雲・崔済愚を物語っています。
 ですので、この「大先生主文集」に示された水雲・崔済愚の全容を、この『東経大全』第1巻に置くことで、人々が彼の著書を知る前に、その人となりがわかるようにしたのです。『孟子』の「萬章下」にこのような言葉があります。「読其書不知其人可乎」(その本を読みその人を知らずして可ならんや)。実際に「東経大全」を読むには水雲という人間をまず知らねばならず、このことを正確に、テキストを通じて伝えなければならない、このような読書法的な作戦が、今回の私の『東経大全』プロジェクトの核心をなすものです。

朴孟洙 私が敷衍説明を差し上げるならば、金容沃先生は「大先生主文集」を最初から最後まで完全に翻訳して注釈を加えています。以前もいくつかの異本を5,6名の方が検討したことがあります。今回、金容沃先生がかなり批判されている金庠基(キム・サンギ)先生が、1960年代に最初に訳注を出され、その次に国史編纂委員会の委員長をされた李鉉淙(イ・ヒョンジョン)先生、そして趙東一(チョ・ドンイル)先生、表暎三(ピョ・ヨンサム)先生がされて、末席に私、朴孟洙や尹錫山(ユン・ソクサン)などがいます。このような従来の研究を、金容沃先生が「開闢」されてしまいました(笑)。賛成や支持・共感を越えて、とても論争的な問題提起をされたので、「大先生主文集」の今回の注釈・翻訳こそ、東学の「開闢」を一挙に成し遂げたといえるでしょう。 

白楽晴 私が聞くところによると、朴孟洙先生は、東学を研究してきた若い後学たちと一緒にセミナーもされたようですが、金容沃先生が一挙にひっくり返して「開闢」してしまった点について反応はどうですか。

朴孟洙 本が出てすぐ、4月中旬から講読会を作って少しずつ読んでいます。反応は両極端です。これこそ模範を示したという熱烈な意見が3分の2で、少し手厳しい研究者たちは議論が必要だといいます。私は個人的に、巨視的に厳密な版本検討と、精緻な注釈作業を通じて、東学研究において1つの新たなフレームを提示した部分には、全面的に共感していますが、細部では少し議論があるだろうと思います。1つだけ例をあげれば、麟蹄庚辰版は庚辰年(1880年)に江原道・麟蹄(インジェ)で出版されたものですが、先生も言っていましたが、奥付(刊記)がありません。出版年度や場所がないんです。ですが、癸未仲春版は1883年の陰暦2月に出たという明確な記載があって、歴史学的にはより信憑性を置くことができ、強調する必要があるという意見です。 

金容沃 1880年版が初版本で、癸未仲春版は1883年に忠清南道・木川(モクチョン)で刊行されました。初版は100部刷りましたが、複数の組織で分けて保管したので、初期から民間で入手するのは困難でした。それに比べて、1883年の木川版はもう少し多くの部数が刷られました。そして仲春版以降、木川が経典出版の中心地となり、癸未年に刊行された版本が権威を持つようになったのです。ですが、初版本の奥付がないというのはどういうことか。これは当時の人々が、これを独立した1つの経典として刊行するという意識がなかったのです。 
 最初に刷った人たちが企画したのは、水雲・崔済愚の文章と生活の両方を包括する、大規模な文集でした。しかし、当時の状況で、そのような総合的な文集を刊行することは困難でした。お金と時間がなかったんです。ですので、水雲の「行状」(一生を記録した文)にあたる「大先生主文集」を入れなかったんです。なので、当時の「東経大全」はある意味では「雑著」、すなわちいくつかの文章を集めた簡単な書物になってしまったのです。そこに詩や手紙、儀礼手続きに関する文章を補って入れました。
 3年後に木川版を出すときは、「東経大全」を経典として正本化しようと考え、内容を付け加えながら、分量と体裁を整え、初めて奥付を入れたのです。1883年の木川版、慶州版で内容が付け加えられたという事実は、私たちとしてはありがたいことでしょう。ですが、その事実にかこつけて、「東経大全」の草稿が口伝によるものであるという、とんでもない仮説を立てる愚かな人たちが多いと思います。付け加えるといっても、基本をなす経典には変化がほとんどありません。すべての版本が1つの母本を持っていたということです。
 そして、庚辰版と木川版を比較しながら、庚辰版の方がよくないと考えるのは、愚かな判断です。2つの版本で重なるテキストをめぐって綿密に対照すれば、庚辰版の内容の方がはるかに正確で厳密です。つまり、初版本の権威は絶対的だということです。これは私の私見ではなく、斯界の大家たちの一致した見解です。

 

「プレタルキア」と民主主義

 

白楽晴 金容沃先生の『東経大全』でもう1つ大きな部分をなしているのが、独自に書かれた「朝鮮思想史大観」という論文です。私が見るところ、そのキーワードは「プレタルキア」(pletharchia)という言葉です。「プレタルキア」と民主主義の問題は、今日、私たちが最後の方で取り上げたいテーマですが、ここで金容沃先生にお聞きしたいのは、なぜ、よりにもよってこの難解なギリシャ語を持って来られたのだろうかという点です。

金容沃 まず、人々に新鮮なイメージを与えます。新しい考えを伝えるには、新しい言葉を作るのがはるかに有利です(笑)。ハイデガー(M. Heidegger)もそのようなことをかなりしました。「プレタルキア」で「プレトス」(plēthos)は民衆を指します。これに「アルキア」をつけました。「デモクラチア」(demokratia)で「クラチア」は「治める」という意味ですが、実際にはデモス(demos)、つまり「民」が直接の主体になって治めるというのは、歴史の中でほとんど存在していなかったんです。結局は少数が支配するのですが、民意を反映し、多数の生活の改善のために努力する人々が政治を行うということです。実際にギリシャ語で「デモクラチア」はとても悪い言葉です。軽蔑的な意味合いが含まれます。

白楽晴 反対する人たちが貶めるために作った言葉です。愚かな大衆が治めるという意味で。

金容沃 ですが、この「民主主義」という言葉のために、みなまず東洋思想を低く見ます。おまえたちは民主主義以前の段階の、王政構造の政治形態しかないというのです。人類がきちんとした民主主義を実践したこともないのにです。なので「デモクラチア」という言葉自体がでたらめだという感じがしました。そして、アメリカの代表的な政治学者ロバート・ダール(Robert Dahl)も、アメリカ憲法が果たして民主的かという問題を提示し、今日でも選挙人団のような問題で醜態が見られますが、アメリカ憲法を作った人たち自身が、アメリカ社会がこれからどう進むべきかに対する正確なビジョンがなかったということです。きわめて偏狭な文献だということです。 
 ですから、仏教学の大家であるエドワード・コンツ(Edward Conze)が指摘したように、民主主義、その言葉自体がとても独断的な、悪い神になってしまったという考えに私は同意します。民主主義は偏見を作り出す、唯識学でいうところの「名言種子」です。「民主」という名言種子の業識に執着して、その言葉ひとつですべての健康な言説が払拭されてしまうということです。ですから、「民主」という言語の暴力から自由になることも重要です。私たちの東洋思想にも、西洋よりも至高の理念である「民本」思想があったということを強調したのです。西欧のように王権を制約する議会を作るとかいう制度的な方式で、民本を実現できなかったとしても、私たちの政治形態の内部は、もう少し細かく見る必要があると思いました。その意味で「プレタルキア」という言葉を作ったのです。

白楽晴 その趣旨に共感します。世界が民主主義をきちんと実践したことがないというお話しもその通りです。ですが、私は、アメリカ憲法を作った人々が、アメリカの将来について何らのビジョンもなかったとは思いません。民主主義は明らかにやらないという意識を持って作ったと思います。多数が支配すると考えて三権分立も徹底し、大統領間接選挙も行い、上・下院も分離させました。民主主義ができないようにきちんと設計して、それがしばらくはうまく作動したと思います。ですが、今は、昔のように、本当の責任あるエリートが行う寡頭政治ですらなく、お金を中心に回る寡頭政治になりました。その一方で、昔と異なるのは、むしろ今は民主主義を掲げているということです。ですから、きちんとした民主主義が実現していないというのは同感ですが、「プレタルキア」の「アルキア」(archia)は「原理」という意味です。「民衆の原理」という意味ですから、「民本原理」ないし「民本性」と翻訳しても同じ言葉だと思います。ただ過去には、これを実現するいくつかのメカニズムが不十分で、また上下の秩序が厳格ななか、民本思想といえば民主ではなく、君主や政府が民という羊の群れをよく導くというような体制でした。それを越えたのが東学だと思います。ですから、あえて「プレタルキア」という言葉を使わなくても、私たち東洋にもともと民本原理が徹底していたが、儒教国家は垂直的な民本主義だったが、東学になって初めて水平的な民本主義に変わった、そのように言うだけでも十分ではないかと思います。

金容沃 私も先生の言葉に完全に同感です。ですから最近は「プレタルキア」という言葉をあまりよく使いません(笑)。「民本」という言葉だけでも、「民主」という言葉よりも、より深い意味を伝えることができます。もちろん、民主意識の譲歩を意味するわけではまったくありませんが。

2004年に出された『檮杌(トオル)心得東経大全』(トンナム出版社)で、この用語をまず使用されました。後学の立場でから、あの文章を読んで感じたのは、用語の正確性を越えて、「民本性」という観点から東学の中核をつかもうということだけは独自のものだということです。今回は民本の根を孟子の思想から、私たち朝鮮では鄭道伝(チョン・ドジョン、1342-98)の『朝鮮経国典』に見い出されました。これが東学に続いてきたと見たとき、先生が書かれたように、東学は「大地的なもの」です。少し勉強してみるとすぐに実感が湧くのですが、やはり東学の本質を明らかにするためには、「民本性」に注目をすべきであり、その点で「プレタルキア」という用語を使って、朝鮮思想史の民本の歴史と伝統が、東学で開花したと見る視点は、いまだに有効であると思います。 

白楽晴 金容沃先生もおっしゃいましたが、檀君神市の「弘益人間」、人間世界を広く利するというのが民本思想です。「プレタルキア」という言葉ですべて包括するためには、東学において、その民本思想が平等思想と結合する転換点がきわめて重要だと思います。それ以前は、上にいる人が下にいる民をよく見たというものであり、実際に茶山・丁若鏞(チョン・ヤギョン、1762-1836)や実学も基本的にはそうでした。ですが、東学にいたって、従来の垂直的なプレタルキアから水平的なプレタルキアへの一大転換を遂げます。最近は、水平主義自体が新たな神になってしまった面がなくはありませんが、東学はそれとは異なる、道力の上下を尊重する水平的な民主主義でした。民主主義の問題もまた、もう1つの意味での民主主義を私たちが開発し、概念を発展させるべきでしょう。

金容沃 私が言おうとしたのは、「プレタルキア」という言葉は放棄してもいいのですが、私たちらしい新たな基準を持って、民主主義を新たに規定していくべきだということです。今日、いくら素晴らしい制度で選ばれた大統領でも、世宗(セジョン、1397-1450, 在位1419-50)ほどの人物はいないとも言えます。世宗には徹底した民本があるということです。世宗のように、さまざまな人材を出身関係なく、適材適所で使った指導者を、世界史で見出すことは困難です。文字まで新たに作ったわけですから。同時代の知識人たちのすべての言語体系、その特権が崩壊する巨大な挑戦を、王が自ら行うということ、今日どの政治家も、彼と同じような発想すらできずにいます。その意味で、私たちの民本の伝統であるというものを見下し、過小評価してはならないと思います。

 

水雲・崔済愚、西洋文明と激しく対決する

 

白楽晴 私は今回、『東経大全』や「朝鮮思想史大観」を読みながら実感したことの1つは、水雲・崔済愚先生(チェ・ジェウ、1824-64)こそが徹底的に西学と対決し、西洋と対決していた方だという点です。西学が最初に入ってきたとき、茶山・丁若鏞(チョン・ヤギョン、1762-1836)の兄である丁若鍾(チョン・ヤクチョン、1760-1801)のような人はそのことに没頭します。一方、丁若鏞は、最初没頭しますが、その後にやめます。その後、常に西学を念頭に置いて作業をしたと思いますが、彼の熾烈さは儒教経典の再解釈に投入され、西学とはさほど熾烈に正面で対峙した感じではありません。他方、惠岡・崔漢綺(チェ・ハンギ、1803-79)になると、西洋についての知識もはるかに多く開放的ですが、熾烈に対決して戦うべき対象だという認識は比較的稀薄だったようです。ですが、水雲先生は本当に激しく対決したということを実感しました。金容沃先生の指摘に私も共感したのは、このことが、水雲・崔済愚という一個人が求道の過程で、カトリックや西学と格闘しただけでなく、この対決と克服がまさに世界史的な事件であるという点です。その部分を読者のために説明をして下さるでしょうか。

金容沃 過去、朝鮮王朝でも、韓国の知識人の新しい文明に対する反応はきわめて早く、また本質的なものでした。ですから、『天主実義』(1603年冬に刊行されたイタリアの宣教師マテオ・リッチ(Matteo Ricci)の神学論争書)だけでも、刊行された数年後にすぐに韓国に入ってきて、分析の対象になるんです。17世紀初にすでに李睟光(イ・スグァン、1563-1628)や柳夢寅(ユ・モンイン、1559-1623)が『天主実義』を批判的に検討しています。1世紀が過ぎて、星湖・李瀷(イ・イク、1681-1763)は、比較的中立的な視点で紹介します。
 しかし、星湖の弟子のなかで愼後聃(シン・フダム、1702-61)や安鼎福(アン・ジョンボク、1712-91)のような人々は、きわめて熾烈にマテオ・リッチの論理を批判します。西学のこのような論理は根源的に問題がある、マテオ・リッチは、彼らの上帝観は『詩経』や『書経』にみな語られているものと言うが、私たちの儒学はすでに『詩経』や『書経』の時代に、このような問題をすべて克服していたので、冷徹な孔孟思想が出てきたのであって、どうして天国と地獄を語る通俗仏教の亜流にも及ばない、このような幼稚な理論を持って、朝鮮の精神文化を攻略するというのか、愼後聃や安鼎福は自らの周囲の人が西学に陥ることを本当に不憫に考えていました。
 水雲・崔済愚が出会った『乙卯天書』というものも、西学に接することになるルートと関連してさまざまな可能性がありますが、やはり『天主実義』との対決で、キリスト教の神観の問題点を把握した出来事として見るべきだろうと思います。水雲も最初は西学を受け入れて、わが民族を開化させられるのではないかと考えました。とても開放的な人です。ですが、いくら受け入れて、それを私たち民衆の現実に適用しようとしても、これはダメだ、これで私たち民衆を教えることはできないと考えたのです。当時、私たちの緊迫した問題は、両班と常民の区別、嫡庶差別のようなものでした。このような社会構造の問題を根源的に解決するためには、人間平等観が確保されなければなりませんが、天主学はこのような人間平等のための制度的努力はせず、ひたすら帝国主義的な侵略の手先の役割をしていると、水雲ははっきりと看破したのです。
 水平的「プレタルキア」の核心である人間平等観は、ひたすら人間と神の平等が前提とされなければ達成され得ないと、彼は西学の文献を読みながら洞察しました。天主学の垂直構造を看破しました。19世紀中葉にすでにこのような発見がなされたということは、人類の精神史に類例がありません。このことを成し遂げられたのは、わが民族がすでに古朝鮮時代から「弘益人間」の理念を掲げ、新羅時代の花郎精神、崔致遠(チェ・チウォン、857-900)のいう「玄妙之道」、高麗帝国時代の多様な思惟、知訥(チヌル、1158-1210)の「頓悟漸修」と「定慧雙修」、また朝鮮朝の朱子学が内面化され、退渓・李滉(イ・ファン、1502-71)の「理発」思想として発展する過程、嶺南儒学の根底にあった厳密な常識主義が背景になったと見るべきでしょう。水雲は人類5万年の精神史を融合させた象徴体であると私は思います。

白楽晴 さきほど熾烈に対決したとおっしゃった安鼎福のような方たちは、孔孟思想がみな解決しているのに、いまさら何だというような感じでした。熾烈さが足りなかったのです。水雲は問題をきちんと越えるためには、孔孟思想ではダメだということが、きわめて徹底していた方だと思います。

朴孟洙 既存の孔孟の道を越えざるを得ない2つの理由が、水雲・崔済愚の根底にあったのではないかと思います。1つは、歴史的な史料に基づく話ですが、水雲は再婚女性の息子として生まれました。再婚女性の息子は『経国大典』によると文科を受験できません。水雲が養女にしたという朱氏ばあさんの証言によると、寝る前も本を読み続け、朝早く起きてまた本を読み、あのように本をたくさん読む人は初めて見たと言っています。再婚女性の子孫として自分の能力を伸ばせなかったという個人的な苦悩が、既存の儒学を越える1つの動機として作用したのではないかと思います。もう1つは思想的な対決と関連する部分ですが、16歳で父が世を去り、家が火事に遭って、家庭が持ち堪えられないので、妻の実家で生活します。そうして商売の道に進むことになったのが、おそらく1840〜50年代でしょう。このとき朝鮮史にどのようなことが起こっていたかというと、中央政府レベルでは辛酉教獄(1801)から己亥教獄(1839)、丙午教獄(1846)まで、カトリックに対する大規模な弾圧があり、農村社会では婦女子や平民層にカトリックがひそかに拡がって、伝統的な社会の分化が起こりました。また、水雲が全国各地を流浪していた時期は、1811年の洪景来(ホン・ギョンネ)の乱以来、農民蜂起が頻繁に起こったときで、その後も1862年の壬戌民乱を経て、1894年の東学農民革命に至るまで、いわゆる「民乱の時代」と呼ばれるほど、民衆蜂起が頻発するようになります。私は大学院時代、朝鮮朝後期のカトリック教会史を研究する友人と一緒に勉強しましたが、水雲先生の求道行為や商売への道程が、カトリックの秘密信仰村が形成されたところと完全に重なるんです。すでに広く拡がっていた広範な西学の書籍を渉猟していただろうと思います。それが動機になったと思いますし、最終的に金容沃先生がおっしゃった通り、若い頃には西学に少し惹かれたようです。それがどこでさっと変わったかというと、第2次中英戦争の当時(1858〜59年、英仏連合軍の北京侵入)、漢陽(ソウル)の両班たちが聖書や十字架をもって逃げたという表現が出てくるほど、巨大な衝撃を与えた出来事ですが、中国の没落、または中華主義の限界を実感すると同時に、西洋列強に対する問題意識を感じながら、西学との決別も起こったのではないかと思います。

金容沃 アヘン戦争だけでなく、洪秀全の太平天国運動もそうですよね。中国と韓国の本質的な違いを論じるならば、太平天国と東学の差が、これまでもずっと続いていると言えます。太平天国というのは、堕落したキリスト教がシャーマン信仰化した民俗宗教の一形態です。太平天国の内に「天父下凡」や「天兄下凡」という憑依の風俗がありました。「天父下凡」は楊秀清(1821-56)が、「天兄下凡」は蕭朝貴(1820-52)が独占していました。権力内部の闘争がこのようなシャーマニズムの暴力で進行しました。太平天国の集団は凄まじく分裂してしまいました。水雲はこのような通俗宗教の弊害をよく知っていました。わが民族がキリスト教を導入することになると、このような質の低い宗教現象が民衆に拡がり、もう1つの権力構造が人間を抑圧するということを予言しました。彼は神秘体験を最後まで否定しました。「大先生主文集」に神秘的な造化に関する神との対決が生き生きと描写されています。

白楽晴 金容沃先生は、西洋のカトリックだけでなく、唯一神信仰とその哲学的背景となるプラトン以来の二元論的哲学を越えることが、今でも世界史の課題であると主張しますが、その課題を水雲・崔済愚がすでに実行していました。それは単に中英戦争を見て、「西勢」に抵抗すべきという次元の問題ではなかったと思います。西勢の脅威を最も深刻に感じた人は、後に衛正斥邪派に行きます。ですが、水雲は最初から、孔孟であれ、仏教であれ、仙道であれ、寿命が尽きたと考え、まさに新たな「無極大道」を求めようとしました。ですが、唯一神教の信仰の場合にも、命題化された信条(creed)と人々の実際の信仰生活としての信仰(faith)を区別すべきではないかと思います。敬虔な信者は「使徒信経」(Apostles’ Creed)をすべて覚えて信奉すると思いますが、そのように覚える信条と、実際にその人が信仰生活をどのように行うかは、異なることがありますからね。ですから、西洋人たちがでたらめな信条を信じているということだけをもって、簡単に処理できる問題ではないという主旨の問いです。

金容沃 カリフォルニアのクレアモント神学大学のジョン・コッブ(John Cobb)教授という方がいらっしゃいます。ホワイトヘッドの哲学に基づいて過程神学(Process Theology、ホワイトヘッド(A. N. Whitehead)の過程哲学から発展した神学)を作った1人で、ホワイトヘッドを完全に消化して難解な本をたくさん書きました。彼と対談したことがありますが、私がキリスト教の問題点を指摘すると、私に簡潔にこう答えました。キリスト教神学とかホワイトヘッド哲学とかいうのがありますが、結局、究極的なメッセージは「愛」の一言に帰結する、嫉妬し懲罰する神は、神ではない、このような答えでした。

白楽晴 それでも私は率直に言って、愛しなさいの一言で解決できる性質ではないと思います。

金容沃 私がこのように言うときに重要なのは、初期カトリックの布教戦略に関することです。韓国ではパリ外邦宣教会が主軸になって布教が行われましたが、彼らは自体内で作った教義理論書を持っていませんでした。そしてパリ外邦宣教会はきわめて帝国主義的な独断主義が強かったんです。神を信じない文化はすべて低劣で、撲滅されてもいいと考えていました。初期カトリックが入ってくるときの文献は、ほとんどジェスイット(Jesuit、イエズス会)の神父たちが作成したものですが、彼らは比較的、他文化に対して寛容な姿勢を持っていました。ジェスイトが布教の主軸をなしたとすれば、祖先崇拝、つまり祭祀に関連した根拠のない禁令も強要されなかったでしょう。もちろん、イエズス会の理論書もイエスの生を教えませんでした。神、天主の存在証明がその核心テーマでした。イエスという愛のシンボルは消え、万有の創造者であり、支配者である天主への服属のみが主要なテーマになりました。 

白楽晴 ですから、西洋の一神教信仰や主流哲学について批判するのは必要ですが、実生活では彼らが実際にどう生きていたかということを見ることが必要ではないかというのが1つの考えです。もう1つは、ニーチェ(F. Nietzsche)が、プラトンやホメロスが対蹠点にあると言ったように、プラトン以降の哲学ができないことをホメロスはやっているというのに、西洋の文学や芸術、音楽全般を見ると、哲学の限界を補完する作業が絶えず行われていました。ですから、ローレンス(D. H. Lawrence)のような人は、プラトン以来の文学と哲学の分離をめぐって、「哲学は枯渇してしまい、小説は軟弱になった」と語りますが、本当に偉大な作家たちは、思惟と感情を結合する作業をずっと行ってきました。ローレンスは、そのことがただ作品だけをきちんと書いていればいいのではなく、いわば再び「開闢」するべきだというところにまで行くことになります。英文学でローレンス以外にも「開闢思想家」という名称に合った人はウィリアム・ブレイク(William Blake)だと思います。このような流れも、私たちが同時に考慮すべきであって、西洋をあまりお手軽に定義してはならないと思います。

金容沃 私も今、西洋をかなり批判的に検討して話してはいますが、おっしゃられた通り、韓国の20世紀は西洋に学ぼうとする熱気の中で進んできた歴史でした。そのエネルギーは哲学的な思惟の幅だけでは生じなかったと思います。西洋の文学、ドラマ、映画などを通じて、かなり質の高いヒューマニズムが韓国に流入したために、私たちはいまだ西洋に高い評価を与えるんです。ですから、特に英文学を学ばれた立場でおっしゃられるような、文明の多面的な性質は、私たちがとても深く心に刻むべき問題でしょう。

朴孟洙 白楽晴先生はご自身の著書の話はなさらないようです。金容沃先生は、東洋の開闢思想家を世界的に見た『東経大全』の力作を出されましたし、私が見たとき、白楽晴先生は、西洋の開闢思想家ローレンスに言及されました。私たちの無知を打ち破る意味で、どのようにローレンスに注目し、開闢思想家として見られるようになったのか、少しお話し下されば、今日の議論に役立つと思います。

金容沃 開闢思想を深く勉強する人が見たとき、開闢思想家と規定するほどのラディカルな世界観がローレンスに果たしてあるのだろうか、白楽晴先生が少し過度に評価されているのはないか、そのような思いも排除するのは難しいということでしょうか。

白楽晴 西洋にも主流の哲学や唯一神教、ないしはその弊害に巻き込まれた文学や芸術の伝統があります。そうして資本主義の時代になり、産業革命を経て、ブレイクは産業革命とフランス革命の時代の詩人ですが、開闢に準じた変革がなければならないと考えました。ローレンスはその後、第1次大戦を経験して、西洋文明では到底解決できないと考えて全世界を巡ったのです。ローレンスについては、私が『西洋の開闢思想家D・H・ローレンス」(創批社、2020)でかなり丁寧に書いたので、それを読んで頂ければいいでしょう(笑)。「開闢思想」という概念自体に同意されないならまだしも、ローレンスをそのように呼ぶことができるだろうという考えは、十分に可能だろうと思います。歳月が流れれば、理解して下さる読者が増えるだろうと信じています。

 

天地はわかるが鬼神を知らない西洋哲学

 

白楽晴 金容沃先生が西洋の主流の流れに対抗する思想家たちに4人ほど言及されたものと記憶します。スピノザ(B. Spinoza)に対して、彼は超越的な唯一信仰のような変なことは言わないが、デカルトの二元論もスピノザの一元論も表裏をなしていると批判されました(1巻261ページ)。ニーチェについては1巻280ページ以下に長く出てきますが、ニーチェがまさに西洋の価値観を完全にひっくり返そうと登場した人です。「すべての価値の転倒」のような表現も使ってです。しかしながら、ローレンスが見たところ、私も同意しますが、ニーチェはキリスト教の枠組みからきちんと抜け出せない人です。その枠組みの中で価値を転倒させたということです。ホワイトヘッドについては、金容沃先生が老子講義の最後の方で(「老子101:老子と水雲とホワイトヘッドは1つである」、YouTube金容沃TV、2021.4.21)、老子と水雲とホワイトヘッドを同じクラスとして語っていますが、果たしてそうか、少し疑問に思いました。

金容沃 ホワイトヘッドが『過程と実在』(Process and Reality、1929)の最終章「神と世界」で神について語っていますが、ホワイトヘッド専攻者の間でも、あえて「神」という概念を設定して、神自体の体制について説明する必要があるのかという批判がかなりあります。私もそれにある程度同意します。つまりホワイトヘッドの思惟は、過程という現象それ自体に対する一元論的な思惟であるにもかかわらず、常に二元論的な説明の方式をとるということです。現実的な契機と永遠的な客体の二元性、そして世界と神の対立的な性質の中に、巧妙に変形したプラトニズムが含まれているという批判も不可能ではありません。 

白楽晴 私は「神」という概念を導入するかしないかという問題よりも、崔済愚の「東経大全」を見ながら、どのような部分がホワイトヘッドにも適用できるかというと、上帝が西洋人のことを語りながら「知天地而無知鬼神」といいます。天地は分かるが、鬼神を知らない。常識的に考えれば納得できない言葉です。西洋こそが「ヤハウェ」という最高の鬼神を奉じており、また幽霊や悪霊も多いですから。ですが、この言葉の中の「鬼神」は、金容沃先生も強調するように、何かの実体ではないでしょう。ホワイトヘッドは、私もとても尊敬して多くのことを学びましたが、やはり天地は知っていても鬼神は知らない方ではないかという気がしました。ホワイトヘッドは『理性の機能』(The Function of Reason、1929)という本の中で、宇宙に2つの相反する力があるといいますが、物理的な宇宙は衰退していく一方で、生物学的な進化を進める上向きの流れがあるといいました。しかし、それはあくまでも存在する天地、有の世界にとどまる分析でしょう。語りうる道はつねにそのような道ではない(道可道非常道)という老子的な概念はないのだと思います。ハイデガーの場合、私は金容沃先生の論文や講義で言及したのをかなり見ましたが少し混乱しました。あるときはハイデガーが「存在者」(Seiendes、複:Seiende)と「das Sein」自体を区別したことをかなり重視するかと思えば、またあるときはハイデガーもやはり「幼稚きわまりない」西洋哲学の一部であるとも言っていますが、そのことについてお聞きしてみたいです。

金容沃  私はホワイトヘッドの名前を若いときに聞いて、崇拝するあまり『過程と実在』を買ってこれまでずっと読んできましたが、まだ全容が把握できません。頑固な事実(stubborn fact)のことを語るといいながら、本当に難解な言語を連ねていきます。一体どうしてあれほど難しく文章を書くのかよくわかりません。ですが、ホワイトヘッドはいつも読むたびに啓発性があります。なにか1つを拾うことになります。ですから、私はホワイトヘッドのことを、西洋思想家として聖人に列せられるとても珍しい人だと思っています。
 ホワイトヘッドは、伝統的な意味での「超越」を語りません。なので、心性の深さがものすごいです。存在の問題を存在の外で追求します。だから聖人であると言えます。人柄も素晴らしかったようです。ホワイトヘッドの著述の中では、『観念の冒険』(Adventures of Ideas、1933年)こそ最も啓発性の高い作品ではないかと思います。西洋人たちの中には、私が見るような方法でホワイトヘッドのことを見られない人も多いと思います。ホワイトヘッド本人は東洋思想に対する深い理解がありませんでした。彼の著書のあちこちに東洋思想を見下すような言及が多く出てきます。しかし、彼の思想の核心は、東方の思惟の伝統の中で眺望するとき、より大きな価値が出てくると言えます。なので、これからも解釈の余地が多い素晴らしい思想家として、私は認識しています。

白楽晴  20世紀最大の哲学者の1人です。ですが、基本的に有もなく無もない、そのような境地に対する思索というよりも、やはり西洋の哲学者らしく、有の世界を深く探求した方だと思います。さきほどスピノザの話が出ましたが、最近、スピノザがまた流行するのも、西洋哲学では問題を突破できないからだと思います。有の世界を徹底的に掘り下げるのが西洋哲学の美徳であり、そこから科学が出てくるわけですが、スピノザこそは有の世界に執着し、それだけを持って格闘していて、老子や東学の探求した境地を完全に排除しているようです。

金容沃  先生のお話しは心に深く刻むべき名言だと思います。西洋思想がいくら一元論的な現象の過程を強調し、ある種の実体的な世界や超越的な世界を拒否するとしても、あくまで現象的な有の世界に対する論理的な省察だということです。論理というのはあくまで観念性の枠を出ません。老子や韓国の東学で示される総合的な思惟、つまり和解論的な思惟を欠いているということです。
 水雲の知的成長の過程に影響を与えた朱子学にしても、単に「主理」や「主気」のような一面的な規定性で接近することはできません。朱子は形而上学的な世界と形而下学的な世界を同一の和解論的な場の中で見ています。気の中に理があり、理の中に気があるのです。『朱子語類』に存在する無数の論理的な矛盾が、このような和解論から出た命題であることを、人々はあまりにも知りません。インド・ヨーロッパの主部・述部的な思惟と、主語が徹底的に無化する、東方人の述部中心の世界観が結合した、高度の哲学体系であるということを、人々はあまりにも認識できません。
 水雲は「有無相生」の老子的世界観と、朱子のいう理気論的な世界観の双方の可能性を完全に具現した思想家であると私は考えています。今後、私たちは、私たちの思想を構成するならば、西洋の思想家たちの論理に依存する必要はありません。また彼らの軛の中に陥ってしまうからです。

白楽晴  ですが、私は、西洋思想家の中でハイデガーは少し違うと思います。

朴孟洙  私が少し話に入りましょうか。読者の立場から見れば、今なぜ2人がホワイトヘッドとハイデガーで激論を交わしているか気になると思います。私は、結論として見れば、東学が彼らを越えているという話をするためだという気がしますが、ならば、東学でそれを越える論理が何であるかというとき、「不然其然」(「そうでない」と「そうだ」を連続・相互開放的に思惟する東学の認識論理)として見ておられるのではないか、ということが1つ気になります。東学や円仏教が越えた部分について、もう少し説明を頂ければと思います。

白楽晴  ハイデガーの話をすれば、少し解決する部分があるでしょう。ハイデガーが、存在するものである存在者を「ザイエンデ」(Seiende)として、「ザインそれ自体」(das Sein selbst)と区別しますが、これを私たちは「存在」と翻訳すると「存在」や「存在者」など、みな存在するもののように聞こえます。私は、この点でハイデガーが、他の哲学者と決定的に区別されると思います。既存の西洋哲学を批判するニーチェも、「存在」(Sein)という概念はすべてのものに適用できる概念なので、何の内容もない空虚なものであると言います。ですが、ハイデガーは、この「Sein」こそが、存在する実体ではないながらも、すべてのものにわたるといいます。この言葉を、西洋人が到底、理解できないようです。神を否定しながら、最終的に「Sein」という名で、より神秘的な最高の存在者をまた作り出すのではないかと疑ったりもします。ですが、老子や東アジア思想で解けば、はるかに分かりやすいんです。「ザインそれ自体」というのは、老子が「道法自然」、つまり道が自然に基づくというときの自然、ですから、「自らそうである」の意味です。金容沃先生が何度も強調するように、このとき、自然は実体でなく、「自らそうである」を名詞化した表現にすぎないのに、「自らそうである」が、すべての存在者に該当しながら、それ自体は実体ではないという、その点を西洋人は理解するのが難しいようです。 

金容沃  「道法自然」という老子的な思惟の究極を理解できなければ、ハイデガーの「ザイン」(Sein)も理解できないでしょう。結局、これまでのいかなる西洋の思想家も、それを理解する次元に及びませんでした。すべての存在者の「有」は、とても平凡な形而下者である同時に。最も深遠な形而上者であるという事実、その事実は「自らそうである」というもの、「自らそうである」は、「無称之言」であり「窮極之辞」であるということ、このような包括的理解に達していません。
 結局、観念の暴力にプラトンからホワイトヘッドまでみな苦しんでいるのです。東学、すなわち私たちの思想の奥深さを把握する必要があります。最も大きな原因は、キリスト教が、西洋人と、西洋を欽慕するすべての韓国人たちに、あまりに骨髄の奥まで、構造的に二元的な思惟を入れ込んだために、いくらそこから出ようとしてもうまくいかないのです。現在、私たちの韓国語自体が西洋言語化して、土着的な思惟を喪失させているのです。

白楽晴  理解を助ける次元で、私が他のやり方で説明してみます。金容沃先生の本からヒントを得たのですが、インド・ヨーロッパ語族の言語は主部と述部が明確です。そう考えるならば、真理とは何であり何でないのか、合っているのか間違っているのかという、命題上の真偽の問題に限定されて、実在する神に対する信仰、また二元論的な哲学なども関連します。仏教ももとはインドから出てきたインド・ヨーロッパ言語を使用しましたが、金容沃先生が仏教では主部というものを完全に解体してしまったと主張されました(1巻291ページ)。主部が縁起作用による虚像であって、独自の具体性がないのではないでしょうか。インド・ヨーロッパ語族の言語が持つ哲学的な問題点を、主部を解体する方法で処理したのです。ですが、ハイデガーはまたやり方が違います。ハイデガーは、あらゆる種類の述部の中で、be動詞という述語のユニーク性に注目します。私たちにはない動詞ですが、実際には英語のbe動詞、ドイツ語のsein動詞は「〜である」という意味と「ある」という意味が混ざっていて、補語がなければ「〜である」は何の内容もないのです。ですが、ハイデガーは、be動詞が持つその特異性を、存在者や実体ではなく、だからといって、ニーチェが言うように空虚な概念でもない、「自らそうである」のような意味として解釈したといえます。その点は老子と通じます。ただ、仏教とも異なるし老子とも区別されるハイデガーの特異さは、「自らそうである」も歴史性を帯びると考えたことです。beという述部の実際の意味は、歴史的に変わるということが、円仏教や水雲先生のいう「時運」に対する認識と通じる面であるようです。 

 

近代主義と近代性

 

白楽晴 「朝鮮思想史大観」の冒頭に、重大なテーマとして示されたのが「近代と近代性」の問題です。それは西洋の近代主義とも関連がありますが、韓国でもそのような近代主義が主流をなしています。以前、東学がそれとは異なる道を提示し、同時に衛正斥邪のような頑固な立場ではない道を提示しました。ですが、その道が一度消えたのが東学農民革命の敗北です。その結果として、開化派と斥邪派の両者の構図だけが残り、斥邪派に優れた方が多数いましたが、それこそ時運からしてゲームになりませんでした。国が滅びると斥邪派はほとんど根拠を失い、その後は開化派も大半が近代主義一辺倒になったと思います。韓国社会が、ただ、私の考えでは、近代という概念自体が必要ないと言われるのは、少し言い過ぎではないかと思います。いわゆる5段階の歴史発展論であるとか、「近代性」をめぐる観念的な議論とは別に、近代という歴史的な実体は、西洋で最初に資本主義が発達し、現在、世界中を席巻している現実となりました。今、私たちが直面しているような近代の存在は認めるとして、これに私たちがどのように対応し克服すべきかに、焦点を当てる必要はありませんか。

金容沃 仏教式に言えば、1つの言語的手段としての「近代」というのは、どのように設定しても構いません。ですが、近代的人間がいかなるものであり、近代的に私たちが生きるというのがどういうことか、という問題になると、必然的にそれは西洋の理想主義と関連します。理性主義の「理性」というのは、デカルト以来、現在にまでいたる科学理性であり、量化された理性であり、道具化された理性です。そしてその現実態は、私たちの生を支配する資本主義の構造であるということです。 
 ですから、近代性をいくら他の方法で語るとしても、それを語ると同時に西洋的な論理が優位を占めてしまいます。そうなると私たちは、近代性の議論においてつねに防御しなければならず、西欧的近代の基準によって私たちの歴史の反省を促すことになり、そのために「前近代」などという、私たちの自生的な歴史に対する卑下も出てきます。「近代」という言葉は、事実振り返れば、あまりにも低劣で、私たちにとっては恨めしい言語です。この近代というものを爆破させてしまわないかぎり、私たち朝鮮大陸の古朝鮮からはじまる、私たち固有の思惟が存続できないというのが、私が20代のときからとても痛切に闘争してきた問題です。白楽晴先生のお話しが、まず西洋の近代を方便的に認めて、それを克服できる道を模索してみようということを意味するなら、私は断固として拒否します。

朴孟洙 ある意味では、韓国史のこの百年間の弊害を、金容沃先生が『読気学説』(トンナム、1990)で撃破されました。解放後、韓国史学の課題は、植民史学の克服でした。その核心は、私たちに資本主義の萌芽があったのかという問題でした。その萌芽が実学派から出ているとみて、開化派と実学派の関連性を追求する研究が数多くありましたが、結局、それは西欧的な枠組みでした。西欧的な枠組みも、きちんと受け入れたわけではなく、日本を通して屈折し誤った近代主義を受け入れたのであり、これによって私たちは、60年代に民族主義史学を研究しながら、不要な実学論争も起こりました。これからは外在基準で私たちの国学や韓国学を研究する時代は終わり、内在的で自生的で主体的な尺度を通じて、ある意味では撃破された新しい近代を追求すべきとでも言いましょうか。

白楽晴 ですが、私たちが近代主義を正しく撃破できない重要な理由は、近代を語るとき、韓国語の「近代」を中心に考えず、西洋の「モダニティ」(modernity)という用語を標準にして語ります。西洋の言語が、私たちの言語より優れた点もあればそうでない点もありますが、この地点ではかなり低開発の言語です。韓国語には近代があり近代性があり、近代と現代が異なります。ですが、欧米ではモダニティという言葉の中に、近代、現代、近代性、現代性がみな含まれます。なので、その概念をもって話をするとよく混乱します。資本主義が作ったこの世界を近代であると規定すれば、この近代をどうするかは、まさに私たちの死活問題ですが、西洋のモダニティという概念をもって、ある場合には現代を語り、またある場合には近代を語り、またある場合には、近代性を語るなど、核心に迫ることができず、消耗的な議論だけをすることになります。さらに、私たちが模範とすべき「近代性」とは何かという話になると、金容沃先生のお話しの通り、西洋についていく道しかないということです。一方、モダニティを「現代性」と理解すると、今日を生きる人間が、今日に忠実だという意味で「現代的」でなければならないというのは当然でもあります。ですが、西洋に追随しないのはいいが、西洋で発生した資本主義が、現在、全地球を支配しており、これがほとんど抜き差しならない私たちの現実であるというところから出発せず、体裁のいい話だけをしていてはいけないのではないか。近代というのは、今、全地球をほぼ全面的に支配する資本主義体制であると思います。しかし、前近代には国によって事情が異なります。東アジアの前近代が異なり、西欧の前近代が異なり、アメリカの前近代があるとすれば、それは先住民の社会です。ですから、各国の前近代を画一化することを拒否すべきですが、資本主義によってすでに相当部分画一化されている近代という現実から、議論が出発すべきではないかということです。

金容沃 私たちの生の中に、すでに「近代」という概念が入っているので、「近代」という用語をめぐって精密にその外延と内包を議論しようということには首肯できます。しかし、白楽晴先生が言われたハイデガーの存在論的に例をあげれば、ハイデガーが存在者としての世界認識を批判する最も源泉的な側面が、彼のテクノロジーの議論に集中しています。いわゆる科学理性、そして科学技術がもたらした人類の文明の変化と構造の中で、「ザイエンデ」のすべてが道具化・個別化・実体化されて議論になりますが、それは根源的に存在の歪曲だということです。ですから、「存在」という視点では、実際には近代という概念自体が消えるんです。
 何のために私たちがあえて「近代」とか「前近代」とか「ポストモダン」というような消耗的な概念の論争をしているのか、ということです。私たちの生の様式の通時的変化があるだけで、それをどのような概念の中に入れる必要があるのかということです。「近代」という概念自体が価値論な強圧性を持っており、正しさをめぐる議論ができません。民主の理性はあり得ますが、近代という理性はあり得ません。すでに近代は邪悪なものであることがわかりました。近代はあまりにも操作的です。存在それ自体に戻るべきです。私たちは時間に対する概念的暴力を拒否するべきです。

白楽晴 ハイデガーを懸命に読んで思惟するとか、東学の勉強だけを懸命にするからといって、資本主義という現実は消えません。ですから私は、近代に一方では適応しながら、近代を克服していく二重課題、2つの同時的な課題であるというアプローチを主張してきました。とにかく、ハイデガーの「技術時代」論についても、私は解釈が少し違います。ハイデガーが近代技術の暴力についてはかなり辛辣ですが、技術も真理を表わし、存在を表わす1つの方便だと思います。ですが、まさにその点を忘却させるのが近代技術特有の威力であり、暴力というものです。ですから、そのような思惟の能力を回復することが重要なのです。なので、近代世界が排除する思惟と知恵を、はるか先に、より鮮明に語った老子から学び、私たちの伝統では、水雲に学ぶべきです。そして円仏教の開闢思想にも学びながら、克服していくべきです。いくらデタラメな世界でも、ここで生き残り、それを克服する作業をするべきです。実際に金容沃先生のおっしゃる通り、人はみな適応して克服する生を生きていますが、そのような意識を明確に持っている人は本当に稀です。

 

水雲・崔済愚と円仏教の創始者・朴重彬

 

白楽晴 これまで私たちは東学の話をずいぶんしてきて、これからもするのですが、東学を継承する宗教があります。天道教は直接、宗統を受け継いだ教団であり、円仏教は直接の継承関係はありませんが、少太山・朴重彬(パク・ジュンビン、1891-1943)大宗師の言行録である「大宗経」を見ると、水雲先生の後を継いだという意識が明らかにあります。ここで円仏教の話をしてみたいと思います。これは朴孟洙先生に対する配慮でもあります。朴孟洙先生は円光大の総長であるうえに円仏教の教務ですが、外に出て東学の話ばかりして戻ってきたとしたら、教団内で政治生命が少し危うくなるかもしれません(笑)。ですから、私が課題を1つ出したいのですが、円仏教と東学の類似点と相違点をいくつか簡単にまとめて頂ければと思います。

朴孟洙 東学と円仏教の違いは、教祖である水雲先生と少太山先生を中心に比較する必要があります。水雲先生は父親である近庵公・崔鋈(チェ・オク、1762-1840)を通じて家学・退渓学的な伝統がとても卓越しています。その退渓学的な系譜には、金容沃先生が『檮杌心読東経大全』(本書の内容はすべて新刊『東経大全』第1巻に所収――編集者)でとても明快に整理されました。ある意味では学問的な基盤が、少太山に比べるとかなりしっかりされています。ですが、第2代教祖である海月・崔時亨(チェ・シヒョン、1827-98)先生は、もう少し平民に近く、大きな学問的基盤はない方です。一方、円仏教の場合、少太山先生は農民の息子です。父が貧農で、悟りを得る前の学問的な基盤は書堂に2,3年通った程度です。それを補強するとでもいいましょうか、第2代の鼎山・宋奎(ソン・ギュ、1900-62)宗法師が、興味深いことに退渓学を継承しました。このように見ると、退渓学が東学でも円仏教でもつながるというのはとても興味深いことで、とにかくこのように教祖の学問的な基盤では違いが見られます。そして東学は、東から西に、慶州で発祥して湖南地方で革命につながりました。円仏教は逆に、湖南から始まって広がっていくという、地域的な基盤の違いもあります。もう1つ時代状況をめぐって見ると、水雲先生はいまだ朝鮮王朝が命脈を維持しており、希望のある時代に生きましたが、少太山はわが民族史で最も大きな絶望の時代を生きました。私の表現では、太極旗が自由にたなびく日を1度も見ないで世を去ったという、そのような違いがあります。
 共通点は、私が使っている言葉で「開闢派」だということです。東学から甑山教・大倧教・円仏教など、大地的なもの、民衆的なものから新しい世界を開こうとしていた開闢派であるという伝統を見ることができます。共通して開闢思想を強調しています。また興味深いのは、女性平等思想です。すでに東学で水雲先生が2人の奴婢の1人は養女に、1人は嫁にした伝統があります。また第2代教祖の海月先生が、1889年に「內則」と「內修道文」を宣布して、女性の中から悟りを得る修道者が数多く出るだろう言いました。円仏教も正式に発足する前に、男女の権利が同じであることを宣言し、初期から最高議決機関に男女同数を参加させました。このように、韓国的な男女平等思想が共通して一貫していたと思われます。第3は、私が一番好きな側面ですが、東学と円仏教はすべて下からの思想です。下からの運動、金容沃先生が言われた、あの民的なもの、大地的なものです。おそらくこのことが、朝鮮朝後期、日本の植民地時代に、私たち朝鮮半島の歴史のターニングポイントではないかと思います。歴史の中で客体として扱われてきた民衆が、歴史の主体として自覚しながら目覚めて始まったのが、東学から円仏教に一貫しているものです。そして思想的基盤をめぐっていえば、普通、儒・仏・仙の三教合一思想が根底にあるとも言えるでしょう。宗教的・哲学的なアプローチで伝統の継承と克服のもとに儒・仏・仙の三教合一思想があるといいます。ここで1つ加えるならば、西洋文明に対する受容と理解が東学と円仏教で共通に示されます。最後に、私があげる共通点としては、開闢の起点と出発を朝鮮の地、朝鮮半島から始めて、それを強調することです。歴史学では東学を初期のナショナリズムの原型ともいいますが、水雲先生が「龍潭諭詞」(これまで「龍潭遺詞」として知られたこの文献の漢字表記については、金容沃『東経大全』1巻424〜425ページ参照――編集者)で「我が国の運命を先とする」という言葉を明確に明らかにしています。少太山先生の場合は、日本の植民地時代の厳しい時代に「金剛現世界、朝鮮更朝鮮」(金剛が世界に現れるとき、朝鮮も新たな朝鮮になる)としました。たとえ植民地支配下にあっても、朝鮮が「魚変成龍」、つまり龍になっていくという表現、このことを通じて、朝鮮半島の地を土台として開闢を追求しようとしていた共通点があるのではないかと思います。

金容沃 やはり、水雲と少太山の最も大きな違いは、この2人が生きた時代が課した問題意識の違いと通じると思います。水雲の悟りは1860年の事件であり、朴重彬の悟りは1916年の事件だったので、56年の時差があります。水雲は王朝体制の崩壊をリアルに感知し、普遍的な輔国安民のテーゼを構想しなければならなかったのですが、朴重彬はそのような緊迫した政治史の課題よりは、すでに崩壊した国家の廃墟の中でどう生きるべきか、窮極的に生の真理とは何かという問題に深い関心がありました。なので水雲が、民族全体の運命を対象にした革命的思想家であったとすれば、少太山は小さな規模から出発するローカルな共同体活動家でした。思想的に見れば、創造的な思惟においては、水雲がより熾烈であると見ることができます。水雲には西学との対決がありますが、少太山にはそのような対決がありません。少太山には万有を1つの体性とし、万法を1つの根源として見る包容性が顕著です。
 しかし、少太山の偉大さは、水雲が、理論定立の生涯3年の激烈な体験を、わが民族に残して殉道したのとは違って、小さな悟りですが、それを実際に共同体運動として具現し、人間の世を改革する具体的なモデルとして提示したということです。両者は目指すところが違っていました。少太山の「貞観坪」(霊光郡ペクス邑キルリョン里にある干潟を開墾した土地。1918年に第1次防堰工事)の工事だけでも、当時としては類例を見ないきわめて画期的な事業でした。「一円相の真理」〔少太山の悟りとされる最高の宗旨を意味する円仏教の教理〕を具体的に地上にひろげたのです。
 女性の問題も、少太山は水雲のビジョンを、よりラディカルに、より具体的に具現しました。水雲は悟りの後に女性の奴婢2人を解放し、1人は養女として1人は嫁にしました。少太山は教役者として、女性の地位を完全な人間に高めました。円仏教の歴史は、実際には貞女様〔円仏教の女性教務〕の献身的な努力で実現したのです。元老の貞女様のお話しを聞いてみると、あれほど女性が虐げられた時代に、制服を着て、教育を受け、きれいに節度ある生活ができたのは、すべてが感激だったといいます。
 結論として、円仏教のいいところは土着的な素朴美にありますが、現在、円仏教はその素朴な美しさを失ってしまう方向にあり、観念的な壮大さや権威主義的な虚勢を示す側面があまりにも強いです。

白楽晴 反論権を保障します(笑)。 

朴孟洙 少太山は1891年に生まれ、1943年に53歳で世を去りましたが、28年間、公的な生涯を生きます。悟りを得た1916年が公的な生涯の起点ですが、それ以前の生については、金容沃先生の見解に完全に共感します。悟りを得る以前は、社会的経験や学問的経験のような基盤がほとんどありませんでした。ですが、とても興味深いのは、悟りを得て以降の思想的な摂取や社会活動、時局観や法説などを分析してみると、それは水雲もついてこれないだろうと、私たちはそのように考えます。それは「大宗経」という法説として出ていますので、悟りを得て以降の生をあらためて見る必要があるということを申し上げます。

白楽晴 私は、朴孟洙先生のお話しのいくつかには同意し、一部は同意しません。悟りの前にも彼の経験はそのように素朴なだけではなく、ある意味では水雲ととても似ています。水雲が「周遊八路」で10年間、行商として全国を回ったよりも期間は短いかもしれませんが、少太山もまた求道のために回りました。正確な行き先は知られていませんが、当時はそれこそ植民地時代であり、また甲午農民革命が失敗し、特に全羅道の地で無数の人が死にました。その地を中心に数年回っていたとすれば、水雲が商売をしながら底辺者の生を把握したのと似た面があると思います。ですから、朴孟洙先生は、悟りの前の素朴な生を生きたとおっしゃいましたが、私はそうではないだろう、数年間ではあるが、見るべきものはみな見て、経験すべきことはみな経験しただろうと考えています。作家の金炯洙(キム・ヒョンス)が書いた『少太山評伝』(文学トンネ、2016)に、その時代の一部がとてもリアルに描かれています。悟り以降の法説がいかに優れていたかというのは、私たちが別途、検討する問題です。「東経大全」を見ると、水雲に学びたいと集まってきた弟子たちを教えましたが、文字は王羲之のように書き、詩を一度作ればとても優れていた、という話が出てきます。人が道を悟れば、たとえ学問が足りない人でも変わることがあると思います。少太山もいきなり変わったのではなく、悟りを得ることによって、一を聞けば十を知ることとなり、「金剛経」「東経大全」など、いくつかの宗教の経典を勉強しつづけました。飲み屋に座っていて、士たちがかわす争論を自然と聞いて理解したという話も出てきます。解脱した人を、私たちは少し違った方法で見るべきではないかと思います。

 

物質の開闢と精神の開闢

 

白楽晴 事実、円仏教の中で、今、ここにいらっしゃる朴孟洙先生や少数を除けば、東学の勉強もしませんし東学のことを知りません。『円仏教全書』(円仏教の教書集)には、「仏祖要経」といって円仏教の経典に次ぐものとして見る仏経や、祖師の文章を集めたものがあります。私は「東経大全」も『全書』に入れるべきだと思います。円仏教の開教の標語は「物質が開闢されるので、精神を開闢しよう」というものです。私はこれが水雲の再開闢とつながると思います。もちろん、少太山は悟りを得て、自分が悟った内容と過程を見ると、釈迦牟尼が歩まれた道を行ったようだ、仏法を主体として新たな教団を作るとしましたが、その後に出した開教の標語は、仏教的な標語ではないんです。物質が開闢するから精神を開闢しようというのは、再開闢の思想を受け継いだものであり、「正典」の最初の単語が「現下」です。それは過去の仏教と異なる点です。水雲が時局を眺めながら勉強して悟りを得たように、少太山も時局に対する反応として開教したのです。 

金容沃 私は円仏教の人に向かって開教標語の問題点を指摘してきました。開教標語でまず物質と精神の二元論的分裂が前提とされるならば、これは円仏教の一円相の真理に反するということです。なぜなら、物質が開闢したから精神も開闢しようというのは、物質世界、つまり汽車や自動車や工場が入り、私たちの物質的環境が変わっているが、このような変化に歩調を合わせて精神も開闢するべきだという意味として解釈されざるを得ないんです。結局は、物質の開闢を当然の先進として、精神がこれについていこうという話になりますが、このようになると、開教の動機を語る議論自体が、不均衡の偏狭な議論になってしまいます。
 事実、少太山の悟りの時期、つまり日帝強占の初期の状況から現在に至るまで、物質は開闢されていません。つまり望ましい方向で物質の環境の変化が起きていません。世人の言う物質開闢は人間を抑圧する病理学的な変化です。20世紀から私たちが本当に開闢すべきなのは物質でした。物質と分離された精神の開闢ではありません。
 このような開闢は、一種の幼稚な開化期のコンプレックスに過ぎないのです。開化期に押し寄せる物質の変化に対して、私たちも早く精神の開闢を遂げて、先進国家になろうというような追いつけ追い越せの標語になったのです。そうして円仏教は最終的に、物質の開闢は科学や社会システムの方に任せてしまって、自分たちは黙って心の勉強だけをするというような、孤立した自己合理化を事とするようなりました。ですから、円仏教は物質の開闢を先頭で叫ぶ社会参加が不十分となり、また歴史に遅れた宗教になりました。キリスト教はかなり幼稚な精神的教義を持っているにもかかわらず、物質の開闢の先頭に立ったので、人類の先進宗教になったのです。

白楽晴 円仏教の教団の現在の問題について、多くの部分を正確に指摘して下さったようですが、標語自体は、私は少し違うように解釈するんです。第1に、精神の開闢というのは釈迦牟尼の時からずっと行ってきた悟りの勉強ですが、少太山は物質の開闢がなされるから、それに付いて行こうと言ったのではなく、物質が開闢されて、間違ったら私たちはみな滅びることになるから、それに相応する精神の開闢をしようと言ったわけです。そのような点で、水雲先生の再開闢と通じると言うことです。ですが、おそらく円仏教の中でも、物質と精神の二分法と解釈する方が多いでしょう。そのことがまさしく金容沃先生が嘆いた、20世紀の近代的な概念に汚染された用法ですが、少太山はそうはありません。精神というものは物質の反対としての「精神的」実体ではありません。精神を定義した内容が、「正典」の教義編・三学1節に出てきますが、「精神とは、心が明るく静かで、分別性と住着心のない境地」です。このとき、精神は実体でない、ある種の「境地」です。そのような精神は西洋にない概念です。精神と物質という西欧式の二分法で言えば、西洋の資本主義社会や科学文明もまた、巨大な精神的な作業を伴う文明であって、それは何も、暮らし向きがよく楽に生きるためのものではないでしょう。話が出てついでに、私が『文明の大転換と後天開闢』(祀る人々、2016)でも書いた表現ですが、再開闢を後天開闢というのは、金容沃先生が何度も叱咤されました。私は金容沃先生が先天・後天の図式化を批判するのが重要であって、図式化をしないならば、言葉は後天開闢でも再開闢でも問題にはならないでしょう。水雲の開闢思想には先天・後天の概念がすでに入っています。上帝(神)が水雲に会って「開闢後5万年に、私もまた功がなかったが、おまえに会ったから……」というふうにおっしゃいます(「龍潭諭詞」龍潭歌)。それ以前の時代は何でもないという意味ではありませんが、今の時点で上帝が見たとき、私はまだきちんと行ったものがなく、おまえに会って初めて行うことになったという意味でしょう。すでにここで先天・後天が分かれるのです。もちろん先天・後天がはっきり区分できて、どの時点が経過すると先天が自然と後天になると考えるのは避けるべきですが、水雲がそう考えなかったことはもちろんで、海月の法説を見ると、先天・後天、ひいては先天開闢・後天開闢の話が出てきます。

金容沃 図式的・段階的な画一主義に基づいて、歴史変化の決定論を主張しないかぎり、言語的な方便はみな容認できます。しかし、後代の先天・後天の議論によって、そのような概念装置がなかった水雲・崔済愚や海月・崔時亨の思想まで、そのような図式の中に引き込むことは間違っています。海月の説法に出てくる先天・後天は、脈絡が少し違う形で使われました。そして、ほとんどの20世紀の宗教的な議論によって脚色されました。海月の偉大さは、その生の実践にあります。彼は「内則」や「内修道文」など、いくつかの韓国語の文章以外はほとんど直接文章を残していません。
 とにかく、白楽晴先生のお話しを詳しく聞いていると、すべての方面に深く考え、多角的な視点の広さをもって積極的に受け入れるので、私はあえてそれに異議を提起する考えはありません。しかし、この一点は明白です。水雲は天地開闢以来、三皇五帝の出現を経て、今日に至るまでの歴史の変転をすべて肯定します。孔子も出て数多くの君子が天道と天徳を明らかにし、人間が誰でもこのうえない聖人の境地に至るように道を築いたのです。このような水雲の歴史観には、先天・後天の対比が入る余地はありません。革命は「再開闢」ですが、再開闢はひたすら今日、ここの明瞭な時代認識から出ると主張しました。至聖の道を開いたにもかかわらず、今日の現実はみな「各自為心」(それぞれ別のことを考え)で「不順天理」(天の理にしたがわず)で「不顧天命」(天命をかえりみない)の危機の状況が演出されており、つまり、共同体倫理の喪失、「脣亡歯寒」(一部が欠けると全体に影響する)の危機状況が、再開闢の要求を呼び起こしているということです。したがって水雲の「再開闢」は宗教的な標語ではなく、歴史的な現実の分析をもとにした輔国安民のテーゼです。
 しかし、先天・後天の概念が悪いわけではなく、それを水雲や海月とつなげて考える間違いを指摘するだけです。先天・後天は古典にない言葉ですが、宋代の邵康節が象数学的な易学観を新たに確立しつつ導入し、韓国では水雲より一世代遅れて活躍した、一夫・金恒(キム・ハン、1826-98)が『周易』「説卦伝」を創造的に再解釈し、正易八卦図を新たに描きながら、既存の『周易』的な世界観を覆す「正易」を創造します。
 韓国の先天・後天という言葉は、すべて金一夫というきわめて独創的な易学思想家によって始まり、これを大衆宗教の中心概念として作ったのが、姜甑山(カン・ジュンサン、1871-1909)というとても霊験の深い宗教家でした。姜甑山は金一夫と1897年に出会い、1909年に全羅道・金堤のクリコルで目を閉じるまで、天地公事を続けました。
 円仏教で先天・後天という言葉を使うならば、それは金一夫の思想が姜甑山を通じて円仏教に影響を与えたものです。それは水雲とは無関係なのです。円仏教は悟りの宗教であり、神秘的なものを教理に入れません。後に陰世界・陽世界という言葉を作りましたが、そのようにすると、先天開闢の世は全体が陰世界になって真っ暗な夜になり、後天開闢の世は全体が陽世界になって明るい昼間のように光明の世界になるだろうから、それはあまりにも幼稚で独断的な世界認識ではないでしょうか。東方思想もこのように決定論的に図式化されると、ヨハネの黙示録の終末論を叫ぶ、携挙派キリスト教と異なるところがなくなります。

白楽晴 そのお話しには同感ですが、水雲先生も5万年の間さまざまな聖賢が出てきたことは認めますが、再開闢をして展開するその後の世界に比べると比較にもならないと考えました。「海月神師法説」は、先天開闢は物質開闢であり、後天開闢は人心開闢であるとしました。ここでいう物質開闢とは、物質の世界が開かれた元来の天地開闢で、後天開闢は人の心が変わることです。ですが、円仏教の開教標語に出てくる物質開闢はそれとは異なります。昔、天地開闢をした物質開闢ではなく、今、起こっている世界の変化のことを言うのです。私はその変化の原動力は資本主義だと思いますし、そこで、ある意味では少太山があの山奥で、全世界の時運を読んだと思います。今は資本主義世界であり、物質が開闢される世の中なので、それに相応する精神開闢、または海月の言葉で人心開闢ができなければ、私たちはみな滅びるという意味なので、私はその開教標語こそが仏教よりも東学から受け継いだものだと思います。ただし東学とは2点ほど大きな違いがあります。1つは仏教を主体としました。仏教を主体とすることで付いてくる輪廻説、因果法則などいろいろありますが、それが果たして思想的な進展なのかどうかは点検すべきでしょう。水雲は儒・仏・仙を結合するとしましたが、根は儒教にあります。活動中の僧侶たちの助けをかなり受けましたが、仏法がその思想で重要な要素ではなかったと思います。ですが、少太山は儒・仏・仙を統合しながらも、仏法を中心に立てると言ったので、それに伴ういくつかの論理的・哲学的または実践的な問題があります。もう1つは、金容沃先生の本を見ると、水雲について「宗教を創始した人として宗教を拒否した、この地球の歴史で唯一の新人間」とおっしゃっていて(1巻26ページ)、また「宗教でない宗教を開創」したという点をとても強調します(34ページ)。円仏教もある意味では既存のものとはまったく異なる宗教として出発したが、ただ、宗教でない宗教を作るとしながらも教団組織を作ったのです。もちろん水雲も組織を作りましたが、それは一種の社会運動の組織でしょう。少太山は教団組織を作り出家制度も作りました。この出家制度というのは、教団の持続性と効率性のためにはとても有用ですが、他の宗教と同様の方向に流れていく危険性が大きくなります。私はこのことを今、円仏教教団が解決できていないと考えます。少太山の教えから多く後退したのです。ここに教団教務の朴孟洙先生がいらっしゃいますが、教務が一種の特権階級、少しひどく言えばカースト化されてきました。少太山だけでなく、鼎山・宋奎宗師の「三同倫理」は、すべての宗教が根源において同じだとするだけでなく、ひいてはすべての宗教と非宗教活動家たちが同じ職場で同じ働き手であるとしました。なので、円仏教の中で出家の特権を認めないのはもちろんのこと、さらには非宗教人も同じ職場で同じ働き手であるとしました。その言葉の通りにすれば、教務の立場では大変なことになります。教団で低賃金で奉仕して、女性たちは結婚もせずに貞女として生きながら献身するものの何の特権もなく、出家と在家が同等で、ただ法位の違いのみを認めるとしたからです。唯一の補償は、人生の四つ要道のうち、「公道者崇拝」という条項ですが、これも公道者を出家者に限定することはしません。

朴孟洙 ものすごいジレンマですが、私たちが円仏教学科で学ぶとき、法師先生から円仏教の教え、少太山の教えを90パーセント以上きちんと実践するには、「見性」しなければならないという話を何度も聞きました。悟りを得るということです。出家道人でなければならないということです。違う表現で言えば、「自己相」を打ち捨てられる境地にまで行くべきだということを無数に聞いたと思います。おそらく、円仏教の専門教役者たちが「初発心」、また生涯、これを持って生きていく永遠のテーマを越えられないので、このような現象が起きたのではないかという気がします。

金容沃 キリスト教の 家で育った私は、若い頃に円仏教を知る機会がありませんでした。大学時代にはすでに東学に先に接していました。東学に魅了され愛着を感じた人間で、後に円仏教を知ることになったので、円仏教を純粋に理解するために邪魔になったかもしれません。しかし、私は円光大に行くことになって、円仏教を理解しなければと思い、関連書をたくさん読みました。事実、私は円光大の学部に6年間通ったので、円仏教の教学概論も1科目受講しました。ですが、韓医学部の学生である私に、教学大学(教務志望者が通うところ)の学生が自主講義をしてくれと依頼してきました。昼間は韓医学部の学生で、夜は教学大学の1~4年生の学生全員に講義をしました。当時は、おそらく教学大学の最盛期と言えるでしょう。学ぼうとする熱意がものすごかったです。宗教と哲学全般についてとても啓発的な講義をしました。この体験は、私の人生の永遠のロマンとして残っています。総長先生の要請で、本館で数百人の学生・教職員を対象に特別講演をしましたが、その講演のタイトルは「円仏教は常識の宗教」というものでした。「常識」とは恒常的な「識」(vijñāna)のことをいいます。常識よりも普遍的で偉大な意識はありません。宗教は常識を破るもののように思われていますが、円仏教は常識を最終的な価値の根源として考えています。人類にとってこのような宗教はありません。
 私は韓医学部に入ろうと、7つの大学についてすべて調べてみました。どの学校も私の入学を負担に思ったようですが、円光大だけは「あなたのようなワーキングディクショナリーが私たちの学校に入ってくるというのに、それを拒む理由がどこにあるか」といって、大歓迎の意思を表明してくれました。もちろん、編入試験を受けて正式に入ったのですが、円仏教の全幅的な理解と支援があったからこそ、私は無事に6年の試練を終えて、韓医師国家試験まで合格することができたのです。ですが、円仏教は私に何も要求したことがありません。ただ私を自由にしてくれました。円仏教の人々は概して人となりがみな開放的で謙虚です。東学が持つかなり徹底した常識の基礎を継承した宗教です。
 私は、甑山道も優れた、わが民族の宗教だと思います。姜甑山の悟りも30万のわが民衆が、日帝の銃口の前に倒れる、血生臭い東学革命の現場で得られたものです。なぜ甑山道が「解怨」とか「相生」というものを強調するのでしょうか。結局、民衆の怨を解くために、天地公事を新たにせざるを得ませんでした。ただ、姜甑山という現実的な人間を上帝として把握しますが、その人間に降世した上帝の象徴的な意味を普遍的に解釈しなければ、つねに歪曲された巫俗に陥ってしまう危険があります。上帝(神)は、擬人化されて存在者化されると、常識の普遍的地平から離脱します。
 とにかく、韓国の20世紀の思想的流れは、西洋的言語、宗教、文学、哲学に歩調を合わせたかのように見えますが、そのような高等文明らしいものはみな虚像に過ぎず、実際の民衆と苦痛を分かち合ったのは、まさにこのような開闢宗教だったのです。韓国のアカデミズムは、20世紀の実像を見ずに虚像ばかりを追いかけてきました。

白楽晴 朴孟洙先生もよくご存知でしょうが、『大宗経』「弁疑品」で、開闢の順序を水雲、甑山、少太山であるとしています(「弁疑品」32章)。他の弟子たちは甑山については問題があるように言われているようだと言っていました。姜甑山の特徴は組織をまったく作らなかったことです。なので、彼が世を去ったあと、弟子たちは四分五裂して争うという弊害がありました。ですが、ここで少太山が何と言ったかというと、「眼目ある人びとこそが互いに理解し合う。将来、人々がもっと悟りを得て、円仏教がより出てくれば、甑山を高く評価することになるだろう」と語りました(31章)。ですから、開闢の扉を開いたのは水雲であり、東学戦争を経て、血を流し惨憺たる状況だったとき、気運を返したのが甑山であり、少太山は自らがそれを引き継いで、より完全な境地に導いたという自負心を持っているのです。 

朴孟洙 そうならざるを得なかったと思います。何よりも時代状況のことを考えますと。物質開闢に対する理解も、少太山の時代になってより正確になりました。

白楽晴 ですから、物質開闢というものを私なりに理解するならば、少太山のとき、その認識がより深まるのは当然です。円仏教学者や円仏教の教務一般に対して、私が不満に思うのは、物質開闢のための研磨をしません。一種の主題を設定して、物質開闢が何なのか思いめぐらし、それに対応できる精神開闢をすべきというのでなく、物質開闢は体裁のいい言葉として切り離し、精神開闢だけをしようと言うので、さきほど金容沃先生が批判された通り、ただ修養の勉強だけをすることになります。 

朴孟洙 一種の二元論のようになったり、「東道西器論」のように物質開闢と精神開闢を分けることについては、金容沃先生も80年代からかなり痛烈に批判されました。実際に私が円仏教学を点検してみると、90パーセント以上の研究者がこのような二分法的な図式に陥っているようです。今の円仏教学の研究者はその問題を飛ばしているようです。今後、克服されるのではないかと思います。 

金容沃 私が冒頭から話してきたのは、円仏教は出発から共同体的な生の再建を主軸にしたということです。悟りを理論的に発展させたというよりは、社会運動として実践して、悟りの効験を実証的に表現したということでしょう。そこには本当に「プレタルキア」がありました。民衆が参加して実践的な場を作って行きましたから。結局は、今後、円仏教が韓国社会の変化や目指すべきビジョンのようなものについて深刻に悩み、影響力ある社会的メッセージを熱心に出すべきです。宗教がこの地に存在している理由は、この地に暮らす人々がより良い生を生きることができように、相互扶助しようという現実的な目標にあります。 
 このような「済生医世」(自らを救い病んだ世を救う)のために、円仏教は果敢に社会運動を展開するべきです。今は昔と違って、宗教が高次元の社会運動を精密に展開していける、様々なメカニズムを確保しているにもかかわらず、身体だけを生かして心の勉強にばかり没頭するならば、円仏教は堕落した仏教の亜流にもなりません。円仏教は実際に仏教ではありません。仏教は何といっても般若思想がその核であり、般若の核は「無我」であり「空」です。
 しかし、円仏教の核心は、「四恩」(天地恩・父母恩・同胞恩・法律恩)にあります。四恩とは何か。人間存在を「恩」として規定するということです。恩とは何か。それは「関係」を意味します。すなわち、人間はどのような場合にも、独立した実体ではありえず、関係網の中の一項目です。存在は生成であり、生成は関係なくしてはあり得ません。四恩のうち天地、父母、同胞は1つの項目です。
 中国北宋時代の儒学者・張橫渠(チャン・フェンゴ、1020-77)の「西銘」に、「乾」を父と称し、「坤」を母と称するとありますが、その「乾」と「坤」の間に生まれる万物は、自分と大地のへその緒を共有するので同胞と称するという言葉があります。天地と父母と同胞は、最終的に「相即相入」の一体です。草の葉1つも自分の同胞であり、畏敬の対象であるという自覚がなければ、一円相の真理は具現されません。ましてや、同じ民族同胞の痛みを無視することができるでしょうか。
 法律恩は文明の秩序に関するものです。なので、円仏教は古朝鮮以来のわが民族の思惟を継承した、土着的な世界観に根ざしています。四恩は素朴な思想なので、偉大でユニークな真理です。円仏教の魅力は、絢爛たるレトリックにあるのではなく、実践的な素朴美にあります。

白楽晴 四恩思想がすごいという言葉まで出ましたので、朴孟洙先生は安心して帰宅できるでしょう(笑)。ただ、円仏教が「四恩思想」を提唱するのと同時に「空」の思想を受け入れているという点は、さらに吟味すべき部分かと思います。

 

東学とキャンドル革命

 

白楽晴 金容沃先生がご著書『東経大全』で、あまりにも多くのお話しをされたので、話題が多くなってしまいましたが、普通、1919年の三・一運動の背景に東学があるというのは、だいたい認められています。そして、キャンドル革命が、百年前の三・一運動にまでつながるという議論もだいたい首肯します。ですが、東学からキャンドル革命まで連続性があると言うと、それはあまりに距離があるのではないか、東学をあまりに過大評価したのではないかと思う人もときにいるようです。そのことを金容沃先生が予見されたのか、ご著書『東経大全』の序文「開経之祝」を見ると、「東学革命は今でも進行中である」と出てきます。このような問題を、私たちがここで、いくつか具体的に検証してみたらいいと思います。

金容沃 検証という言葉には語弊があります。それは検証の対象ではなく、韓国の20世紀の歴史教育のずさんさが指摘されるべきでしょう。韓国の歴史のうち、20世紀の歴史こそ最も歪曲がひどい理念の騒擾だからです。東学以降のわが民族のすべての思想的な動きや社会的運動で、東学と関連していないものはありません。30万人の民衆が血を流して命を失ったその歴史は断絶されようとしても断絶されることはありません。
 その精神は沈黙の中でさらに活性化されます。三・一独立万歳革命やそれ以降の即刻的な臨時政府の成立、共和制宣言、独立運動家たちの活躍、建国準備委員会の成立、その後の人民委員会の活躍など、すべてが、東学という巨大な民族体験を離れては考えられません。韓国憲法の前文は絶対に東学の根に言及すべきでした。
 キャンドル革命は、それ以前の民主化運動と様相の違いがあります。70〜80年代の反軍事独裁の民主化闘争はかならず指導者グループがありましたが、グループが民衆を意識化させてリードしていきました。今日の政治家のほとんどが、この意識化の運動から生まれた人たちです。しかし、キャンドル革命にはそのような指導者グループがありません。民衆が主体となって正義のエネルギーが噴出した出来事です。それは、東学革命が全羅道・古阜から広がったということととても似たような様態の出来事です。

白楽晴 水平的な「プレタルキア」運動です。

金容沃 白楽晴先生はキャンドル革命のことを、私の本『二十歳、般若心経に酔う』(トンナム、2019)で言及した「般若革命」とも比較できるのではと指摘して下さったことがありますが、両者には類似性があると思います。それだけ私たち民衆の「プレタルキア」意識が深まっているのでしょう。般若仏教、すなわち大乗仏教は、シッダールタの宗教ではなく菩薩の宗教です。自らシッダールタになろうと渇望する菩薩の宗教です。光化門広場に集まった人々はみなこのような菩薩たちでした。キャンドル革命の様相は、民衆の総体的な憤怒の爆発でした。崔順実〔チェ・スンシル/朴槿恵大統領の政治スキャンダルの中心人物で、彼女と関連した不正が大統領弾劾政局につながった〕のような逆行菩薩の役割もありましたが、東学革命と同様の可能性が、つねに私たちの歴史に内在することを誇示した出来事だと見るべきでしょう。

朴孟洙 歴史教育、現代史教育が間違っているというお話しに、私はものすごく共感します。実際に東学農民革命を30年間研究し、韓国全体と日本までかけめぐって史料を発掘していますが、最近になって重要な学説が1つ変わりました。当時、日本軍の後備歩兵19大隊、約800人がやってきて朝鮮を蹂躙しました。忠清南道・牛禁峙(ウグムチ)で全面戦争をします。ですが、新たに明らかになったのは、本隊が牛禁峙に来れなくなりました。後方でゲリラ戦を行う東学農民軍のためです。ですから、これは過去のように失敗した戦争と考えるべきでないということです。その日本軍の大隊長は、昇進どころか左遷されました。日本の故郷まで行って記録を見ると、自分は功を立てたが、昇進もなく左遷されて除隊したと、死ぬまで揉め事を起こして生きたといいます。南小四郞(みなみ・こしろう)という人物です。ですから、私たちが知っていた東学農民革命は実状とも異なり、今の教育も間違っているということです。
 私は、東学農民革命からキャンドル革命まで続く、一貫性ある基盤が2つあると思います。1つは非暴力平和の精神です。私たちの東学軍は剣に血をつけずに勝ったことを一番とし、仕方なく戦うとしても、人命は損なわれないことを尊く考え、行進しながら通過するとき、迷惑を絶対にかけず、孝子・忠臣・烈女・尊敬する学者が住んでいる町の10里〔日本の1里〕以内に駐留せず(「対敵時約束4項」)。病気は治療し、降伏した者は受け入れ、飢えた者には食べさせ、逃げた者は追わない(「12条戒軍号令」)。その当時の特派員たちも、このような農民軍の規律を賞賛しています。東学農民軍を最も批判した梅泉・黃玹(ファン・ヒョン、1856-1910)さえ「梧下紀聞」で東学農民軍側の処罰は人間的であると評しています。東学の非暴力が三・一運動、そして2002年の米軍装甲車事件が発端となったキャンドル集会、2016年のキャンドル集会へとつながります。世界の人々が最も驚いたのが非暴力平和です。私はその根が東学農民軍の12か条規律などにあると思います。そして、東学革命も三・一運動も徹底して民が主体となって起きたものです。三・一運動時、最後まで独立を叫んだのは民族代表33人ではなく、労働者、農民、学生たちです。平民、平凡な大衆たちでした。キャンドル革命も同じです。ですが、明確に違うことがあります。東学革命は王朝体制そのものを否定しません。補完しようとして失敗に終わりました。三・一運動は韓国内外に数か所あった、6、7つの臨時政府を1つに統合して、上海臨時政府を誕生させます。左右が1つになってです。私は、三・一運動は、その結実として、民主共和制である上海臨時政府を誕生させた点で半分の成功と考え、2016年は、私たちが完全に成功したので、本質的な違いがありますが、土台に流れる精神は東学革命に見出すべきと考えています。

白楽晴 私はキャンドル革命が今も進行中なので、完全な成功を語るにはまだ早いと思います。ですが、東学農民戦争以前に水雲・崔済愚や海月・崔時亨の東学があり、そこから連続性があるというのは、私も絶対的に同感です。私たちの歴史を見ると、そのような東学精神を実現できる条件が、キャンドル革命になっていよいよ備わったと思います。それ以前にももちろん精神は脈々と続きますが、それまでは組織もなく民の大々的な運動も難しく、政権を倒す成功ということで言えば、1960年の4・19革命は完全に成功したものですが、それは持続しませんでした。1987年の6月抗争がその後初めて成功し、持続性を持つ民主化ですが、その時も全体的にある種の規律を持った組織はありませんでしたが、運動圏の組織や、金大中(キム・デジュン、1924-2009)・金泳三(キム・ヨンサム、1927-2015)の2人の組織をもって動きました。最近、いわゆる586世代〔80年代の民主化運動を経験した世代〕が非難される理由は、世界が変わったのに、自分たちが組織を主導して指導した、その夢の中からいまだ覚めていない人々が多いんです。キャンドル革命が東学と近似している面が、私は議題にも表れていると思います。まず、これまで民衆抗争では、男女平等の問題がさほど重要ではありませんでした。ですが今回は、性平等の問題が重要な問題として浮上し、2016〜17年の抗争の余波で#me too運動も広がり、大きな変化が起きていますが、その始まりが実は東学なんです。クリスチャンはしきりにキリスト教が女性の教育も実現し、あれこれやって、男女平等の思想をもたらしたと言います。もちろんそのような貢献はありましたが、聖書や教義自体を見ると平等の宗教ではありません。ですが、東学はそれがはっきりしており、そのことが上海臨時政府の憲章にも明示されています。また、過去の私たちの民主化運動と違っているのは、生態系と気候危機の問題です。その解決策を実際には東学や円仏教に見出すべきですが、まだその運動をしている人々が、西洋の生態理論・生態主義に陥っているので、円満な思想が出てこないのだと思います。もう1つは、キャンドル抗争当時、大きな話題として浮上しませんでしたが、南北朝鮮の問題に大きな転機をもたらしました。現在、南北朝鮮の関係が膠着状態であるといいますが、2018年に起こった大規模な変化は、そのまま残っているんです。今後さらに進展すれば、それこそ私たちが「魚変成龍」をすることになります。1987年の6月抗争でも、運動圏では自主統一をかなり強調しましたが、あくまでも分断体制という枠組みのなかで、韓国だけの変化を起こしたのであって、分断体制を大きく変えたわけではありません。もちろん、そのとき行われた統一運動と自主化運動の気運に乗って、盧泰愚大統領(ノ・テウ、1932-)が北方政策〔共産圏諸国との関係正常化・国交樹立〕を行い、南北基本合意書も作成し、また金大中大統領や盧武鉉大統領(ノ・ムヒョン、1946-2009)の突破があったりしましたが、分断体制という枠組みを打ち破ることはできませんでした。それを打ち破る機会をキャンドル抗争が作ったと思います。ですから、そのような抗争が、般若革命的であると同時に東学革命であるという表現は、本当に適切なものだと思います。

金容沃 韓国の志ある人の中でも、先生ほど同じ民族としての北朝鮮同胞を胸に抱いて考える思想家はいないと思います。先生のような方が活動しておられる間に、完全な南北の和解がなされるべきでしょうが、文在寅(ムン・ジェイン)政権の発足時から、南北朝鮮の問題に本格的に全力投球しただけに、仕上げの時期にも具体的な成果をあげることを渇望します。アメリカの協力なしに不可能なことだとしても、アメリカに対抗しながら説得できる方法もあるでしょう。私たちは対米関係において、あまりにも卑屈な姿勢を維持することを常識のように思っています。 
 私は思想家なので、テーマを少しラディカルに設定します。白楽晴先生のように心が美しくないんです(笑)。近代の問題だけでも、近代という概念を手段として近代を克服するべきなのではなく、近代という概念それ自体を破壊して、新しい原点を作成すべきだと考えています。私の考えでは、原始共産制、封建制、資本制というような概念ではなく、より単純で便利な概念が「王政か、民主か」という設定だということです。檀君以来、旧韓末まで貫通する権力の形態は王政です。これは全世界でみな同じです。王政から民主体制への変化は、すべてこの1、2世紀に起こった出来事です。
 ですから、水雲が「開闢後五万年」という言葉を使うのです。開闢後5万年過ぎて、初めて民主的革命の可能性が生じたということでしょう。なので、今、私たちが民主を語っても、それは50年ほどの体験をもとにしており、保守勢力は5万年の慣性を背負って慌てるのです。フランス革命も、ルイ16世の首を切ったとはいえ、その後200年の試行錯誤を経ても、民主が定着したと見ることはできません。
 このような世界史の流れの中で、東学思想の歴史的意義は、真の民主の民族史的原点をすでに19世紀中葉に、わが民族の自生的な思惟に基づいて創出したというところにあります。東学の人乃天思想は、フランス人権宣言の思想を源泉的に乗り越えるものです。
 私たちのキャンドル革命は、東学革命の連続的な流れがあらためて21世紀的に開花しました。しかしこれは咲く過程の出発です。絶えず挫折が迫ってくるとしても、私たちは必ず勝利するだろうという信念を堅持すべきです。水雲はこのことをこう表現しました。「一日一花開、二日二花開。三百六十日、三百六十開」(一日に花が一輪咲く。二日に花が二輪咲く。三百六十日過ぎれば、花も三百六十輪咲くだろう)。

白楽晴 海月・崔時亨が先天・後天について語り、円仏教で語ったことの共通点の1つは、後天時代が始まると、世の中がかつてより雑然となると言ったことです。私は海月のその部分を見て驚きましたが、当時は甲午年(1894年)以降なのに、今後、万国の兵馬がやって来て争う、大きな試練があるだろうと言いました。

金容沃 海月は後天開闢を語ることはなく、単に「顕道」の時期、つまり東学の顕彰をする時期について、弟子が聞いたことに答えたのです。そのとき海月は3つのことを提示します。「一、山がみな黒く変わり、二、道にみな絹が敷かれ、三、万国の兵馬がわが国に入ってきて、退く時期である!」――山に植樹がなされ、道にはアスファルトが敷かれたから、残ったのは外国の軍隊がこの地から離れる時期でしょう。本当に洞察力ある言葉だと言えるでしょう。

白楽晴 その後、きちんとした開闢世界になるとしましたが、まだ完全に退いてはいません。ですが、少太山大宗師も似たようなことを言っています。そのときも日帝下の困難な時代ですが、今後「戻ってくる乱世」に備えて、あなたに話をするという部分もあり(『大宗経』「人道品」34章)、また今後一度大きな戦争をするだろうが、それが過ぎると、再びそのような戦争はないだろうという話もあります(「実示品」10章)。朝鮮戦争の話でしょう。そういえば、先天・後天でぴたりと分かれるのでなく、後天時代が始まるときのことを、円仏教では「先天・後天交易期」といいますが、これがしばらく続き、人々がより苦労するだろうということでしょう。 

金容沃 それを「末世」といいます。末世です。ですが、甑山道ではそのときすぐに天地公事をあらためてすることになると言います。
 甑山道の優れた点は、わが民族の主体性を強調することです。世界の神々をすべて集めて、再教育して、統一神壇の造化政府を構成するというのです。天地を再び組み直すというこの発想の中に、私たちの開闢思想の主体性が入っています。しかし、甑山道の天地公事も、天地と人間の理想を実現する究極的な主体を人間に設定しているという事実だけは言及しておきます。
 朝鮮民衆が追求する思想的・感情的な渇望を、カント哲学とかウィトゲンシュタインを云々する、象牙の塔の人間が充足させたものではなく、このような宗教的天才が充足させたこの明白な事実を、私たち知性人が反省すべきなのです。私たちは、民間の宗教とか新興宗教とか民族宗教とかいう低劣な概念を振り払い、わが民族自らの宗教をもって、世界の民衆を説得すべきだという信念を持つべきです。宗教にはレベルの高低をはかるものがありません。ただ、人間を食い物にする宗教ペテン師だけがいます。

白楽晴 今、時局に対しては言いたいことは多いですが、大統領選挙候補の競争がどうだとかいう話はもう不要で、大きな流れを肯定的に見て、その核心をつかんで十分に語って頂いたと思います。最後に朴孟洙先生が一言おっしゃって、金容沃先生も追加したいことがあればお聞かせ下さい。

朴孟洙 私はまた献辞でまとめにします。今日この場のことをじっと考えてみると、きわめて興味深いいくつかの要素があります。文・史・哲が出会いましたが、みなさん開闢派のようです。やはり開闢派は自己開闢、隣人・他者開闢、社会開闢、文明の開闢まで成し遂げようとするのが特徴ではないかと思います。伝統的な表現を借りれば「理事並行」です。勉強と理論と実践を並行する。そのような特徴が私たちの対談に滲み出ていなかっただろうかという気がします。そして、白先生は1930年代生まれ、金先生は40年代生まれ、私は50年代生まれですが、何というか、先輩の世代がいらして、隣人や世界や文明について本当に真摯に悩みながら、どのように進むべきか考える内容が、少しでも出ていたかと思います。基本的な義務はすべて果たしたと思いますし、このような対談が何度も行われたらと思います。そのためには必ず三代にわたって功を積むべきでしょう(笑)。 

金容沃 何よりも、今日の私の切実な願いは、私も年齢は若くありませんが、私たちの白楽晴先生が今後もお元気でいらしたらと思います。そして白楽晴先生とぜひ、この場ではなく、たとえば飲み会のようなところで気持ちよくお会いしたいとも思います。大学時代の友人のように気軽に会えば、白楽晴先生のお話し以上の酒の肴はないでしょう。健康が許すなら、一杯飲みながら余裕を持って対話すれば、もう少し面白いだろうと思います。

白楽晴 ありがとうございます。私は、酒はあまり飲めませんが、いい人に会えば飲みます。今日、私たちの座談のタイトルは「東学の再認識、今日の道を問う」ですが、かなりいろいろな問題に応えたかと思います。東学はもともと私たちの教育が間違っていて、人々にあまりよく知られていませんが、今回、金容沃先生が力作を出されたことをきっかけに、はるかに多く知られるところとなり、その意味に対して、私たちがそれなりにもう少し深みある勉強をしたと思います。キャンドル革命は、事実、特別な学校の勉強が必要なわけでない、まさに私たちの時代の出来事ですが、最近はキャンドル革命の話をする人があまりありません。マスコミもキャンドル革命がいつあったかとでも言うように、それぞれの話をしています。さらにキャンドル抗争時に主導者はいませんでしたが、集会の管理をした市民団体がいくつかあります。その人たちもほとんどみな忘れてしまいました。ですが、60代以上の老人が集まって、そのことを一度振り返り、それが東学から続く誇らしい伝統であり、現在進行中の現況であるという点に、少なくとも私たち3人が合意したということだけでも、大きな意味があり、今日の収穫ではないかと思います。ありがとうございました。(2021年7月23日/フーズドットコムスタジオ)

 

(※)この記事は、座談会の内容を参加者が修正・補完したものである。YouTubeの「TV創作と批評」および「トオルTV」で、もとの映像を視聴することができる(2021年9月公開)。

 

〔訳=渡辺直紀〕