[卷頭言] 国の主人になるということ / 李南周

 

創作と批評 195号(2022年 春)目次

 

国の主人になるということ

 

 

李南周(イ・ナムジュ)

『創作と批評』主幹、聖公会大学教授

 

 

 5年前のキャンドル抗争の最も重要な意義は、平凡な人々が国の主人だという真実をあらためて確認したことにある。当時、広場の市民たちは言葉と現実の一致が与える解放感を感じることができた。刹那の感興に留まることもあった事件は弾劾と新政府の誕生へと続き、その瞬間に現れた真実を現実に具現するための路程、つまりキャンドル革命が始まった。これはすでに達成したことよりは、今後達成すべきことに傍点をつける現在進行形の革命であり、他の誰かではなく国の主人たちが率いていくものである。

 それならば、今回の大統領選挙の過程で表れている言葉の“饗宴”で、キャンドルの不在は深刻な問題である。キャンドルを掲げたあの多くの人々はどこに行ったのか、という問いを投げかけざるを得ない。彼らはどこか遠いところに行ったか、消えたわけではない。広場を離れた後、再びそれぞれの場で自らの生活を持続している。国のことを決定するのにいつも参与するわけではないが、キャンドル抗争を経た市民が以前と異なる主体になったという事実は、キャンドル革命の持続を語りうる最も重要な根拠になる。こうした主体の登場を前提とせずに、今進行している私たちの社会の変化を説明することは難しい。

 まず、第一野党の大統領候補が自ら属す政党に関連していかなる経歴もないだけでなく、その政党の前身を破壊するのに決定的役割を果たした人物だという事実は、波乱万丈な韓国政党史でも初めてのことである。これは持続中のキャンドル革命に抵抗する勢力が、自らの目標を達成するためにどんな手段であれ、すべて動員できるという決意の表出ともいえる。それほど、キャンドル革命が既得権を窮地に追い込んだという意味で、既得権勢力こそキャンドル革命がもたらした変化を誰よりも敏感に受けいれているわけである。

 現政府に対する否定的評価も似たような脈絡で理解する必要がある。同時期の他の国に比べて、いま韓国政府が特に否定的な評価を受ける理由はない。朝鮮半島の軍事的緊張や米朝対立、新型コロナのパンデミックなどの危機も安定して管理してきただけでなく、国際社会における韓国の位相も多方面で高まった。それでも、政治的な反対者だけでなくキャンドル抗争に参加した人々の中でも批判的な視線が少なくない。自ら「キャンドル政府」と自任していた政権に対する期待が高くて、それに照らして不足した点や批判される点がなくはないからである。それにしても、キャンドル革命の成果を全否定するとか、現在進行中の選挙を冷笑的に眺める一部の人の態度は大きな問題である。

 国の主人というなら、キャンドルの限界も自らが担うべき責任と考え、これを克服しようとする態度をとるべきだろう。現在の公論の場ではキャンドルが見えないが、キャンドルを掲げた国の主人が消えたわけではなく、依然として主人としての役割を果たそうとする意志は強い。歴代大統領の中で最も高い任期末の支持率も、大統領個人に対する好感度のためだけではない。キャンドル革命という概念を使おうと使うまいと、現政権に多少足りない面があると思うにせよ、キャンドル抗争を経て始まったこの変化を止めてはならないという意志の間接的な表現と見るべきである。こうした意志は、キャンドル抗争時まで前面に登場しなかった議題、特に性平等や気候危機への対応、不平等の克服などを私たちの社会が解決すべき核心課題とすることで現れた。

 現在の大統領選挙の局面で、こうした意志が表出されうる活発な通路がつくられていないのは事実である。特定候補を露骨に支持するような言論の大々的な攻勢も公論の場の作動を委縮させている。与党候補もキャンドル精神に照らして私たちが進むべき方向を提示しようとする努力が足りない。だが、より大きな問題は、現在の選択はわが国が今後進むべき道とは無縁であるという調子の視線、「どれもこれもダメだ」に安住する態度である。こうした態度は主人の姿勢ではなく、好みに合う商品を選択する“消費者”に近い(白楽晴『近代の二重課題と韓半島式の国づくり』、16頁)。こうした形では現実を変化させる動力を生みだしにくい。

 国の主人なら主人の役割をまともに果たす環境をつくることもすべきである。既得権構造の改革と朝鮮半島の平和定着が必要かつ重要な理由もここにある。選挙という制限された選択は不可避なものだが、いかなる選択がこうした道に進むのによりいいのかを判断することだけは私たちにかかっている。多少の常識さえ動員しても、その判断はそう難しくはない。もちろん、私たちの選択を受けた者が私たちの期待を満足させることはできないかもしれない。主観的な意志の問題ともいえるが、社会的力量が大転換に値する変化を生みだせるレベルに達していないせいでもありうる。だが、私たちの選択が国の主人が完全に自らの役割を果たす側に近づけば近づくほど、期待と現実の差を縮めることができるだろう。キャンドル革命を経た私たちは、その道にいつの時よりも近づいてきている。「百尺竿頭の一歩前進」の態度で、この大転換の時期を切り抜けて進むべき時である。

 

 国の主人になるというのは誰かを操りうる力をもつことではなく、世界を変化させる主体になるということである。政治勢力にのみ任せられないとか、選挙という手続の中では排除されやすい切迫した課題がすでに私たちの前に存在している。今回の特集は、生き方の根本的な転換を要求する最近の動きを点検し、新たな主体形成の道を探索する文章で構成された。白英瓊は、ケア社会への転換という観点に立つ場合、脱成長論がフェミニズム、脱植民地主義とより積極的に連係できるし、同時に新たな社会体制の構成が具体化されうると主張する。そしてこれを具現するために、現体制と気候危機では最大の被害者であると同時に、体制の克服に積極的に立ち上がれる主体である「最前線共同体」の可能性に注目すべきことを要請する。李賢貞は、気候正義の実現で人類に与えられた課題と個別主体の実践が発揮しうる効果との間の間隙、そこから発生する「心の浪費」を克服することを重要な課題として提示し、このための実践戦略を多様なレベルで探索する。韓永仁は、世界的な注目を集めたドラマ「イカゲーム」と「地獄」を文明批判のテキストとして読む。新たな主体と実践方向の提示という側面で、これらのコンテンツがもつ限界と可能性を考察し、韓国社会で協同的・集合的な創造の蓄積と実現を基に、また別の文明的な可能性を切り開く道を探求する。

 対話「国防改革と韓国社会の大転換」は、連続企画“2022年大統領選、大転換の課題”の最終回である。前号まで地域の均衡発展、キャンドル革命、不平等問題を取りあげたのに次ぎ、李南周の司会で申祥喆、李泰鎬、秋智賢が参加し、国防と安保という聖域化された領域が韓国社会の民主主義の進展といかに関連するのかを点検する。安保概念と国防モデルの変化、天安艦事件の真相などをめぐる論議は、国防問題が社会の大転換と深く関連することをよく示している。

 論壇の文章も大転換の時期、抜本的な思惟の必要性を喚起させる。安世明の文は、2021年秋号の特別座談「再び東学を訪ね、今日の道を問う」を引き継ぐ。特別座談で、白楽晴と金容沃は水雲(崔済愚)と少太山(朴重彬)が韓国思想史で占める位置について異なる見解を披歴したが、安世明はこの問題から出発して少太山の思想的な成果を奥深く論じる。久しぶりに本誌の誌面に登場したスラボエ・チジェックの文章は気候危機の対応において、人類が自由と歴史的・自然的傾向を遡りうる強力な国際協力の間で、バランスを見つけるべきだと提案する。こうした探索により社会主義的な思惟と有効性を強調する本稿は、今号の特集の文章とともに読むに値する。

 現場欄では、高誠晩が最近改定された「済州4・3事件真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法」の意義と限界を論じる。なぜ同法が他の過去事(歴史)問題解決の「模範」「モデル」あるいは「基準」として簡単に見過ごしてはならないかに関する説明が、歴史問題に対する私たちの認識を拡張させる。

 作家照明は、文学評論家の金壽伊が詩人の金勝煕に会って行われた。萬海文学賞の受賞作である『沢庵とベーコンの真実な人』で出発して登壇し、50余年に至る金承煕の詩歴全般を共にする豊かな対話が展開される。女性、自我、真実などに対する思惟と討論が、金勝煕の詩世界をより深く理解する道を提供する。

 二編の文学評論は、それぞれ最近の文学の主要な関心事を扱う。鄭弘樹は個人と他者性、差異と連帯、私的領域と公的領域間の緊張または相互寛容の中に文学を位置づける方式で論議を展開し、前号の特集テーマである「文学と政治」に対する思惟をより豊かにする。田承珉は“近頃”の若者の生活を扱った短編小説に、彼らの仕事と愛に対する態度に世代論的な構造として置換できない多様な分岐があることを読みとり、各自の固有の生活の中で現実をあるがまま肯定しようとする生の姿勢と力が存在することを注意深く示してくれる。

 創作欄は、読者に読む楽しみがより大きいだろう。奇俊英、金メラ、鄭智我、黄玄進の小説と詩人12人の作品が読者の期待を満たしてくれると信ずる。今年一年続く李柱恵の長編連載にも格別の関心をお願いする。

 文学焦点は、小説家の全成太の司会で文学評論家の金周仙、国語教師の曺京仙が全羅南道・順天の路地裏の本屋で“うろついて”行なった。ソウルを離れた地域で韓国文学を語る場所をつくろうとしたが、今季に注目すべき詩と小説に関する論評と対話が読者にどういう新鮮な感覚を伝えうるのか期待される。

 “地域感受性”を高め、これを通じて私たちを再発見しようとする試みは散文欄にも続く。今号から「私が住む場」というテーマで散文を連続して掲載する計画であり、農村社会学者の鄭銀貞の文章で初回を始める。源進レーヨン工場の有毒ガス排出事件(1980~90年代)で記憶される地域社会の変化と自らの生の旅程を率直に聞かせてくれる。古典人文学者の朴錫武は、少し前に亡くなった小説家の宋基淑の義人としての生き方を「我らの教育指標」宣言事件を通じて示してくれる。わが民主主義の現在の成果がどういう人々、どういう決断によってつくられたものかが確認できる。

 寸評欄は、紹介される本の成果だけを論ずるのにとどまらず、社会と世界の流れを示す窓として近づけるように期待して編集した。短い文章の中でも、新たな思惟に接しうるだろう。第20回大山大学文学賞の受賞者は李知恩(詩)、朴東賢(小説)、朴ハンソム(戯曲)、河赫進(評論)の作品も紹介する。春号が多少分厚くなるのには理由があり、覇気のある新鋭の技量に出会う楽しみはその十分な補償となる。

 今号から編集陣には変化がある。2016年から主幹としてご苦労なさった韓基煜が編集顧問に席を移し、筆者(李南周)が新たに主幹を引き受ける。そして、黄貞娥、白智延の二人が副主幹を務めることになった。編集委員には英文学者の朴麗仙、韓国思想史学者の白敏禎、文学評論家の呉姸鏡が新たに合流し、活力を与えてくれるだろう。韓基煜前主幹のこの間のご苦労に感謝申し上げ、今後新たな編集陣が「一つのようだが日々新たに」〔法古創新〕というチャンビの精神に沿って進むことを約束申し上げる。    

 

 

 

訳:青柳純一