[インタビュー] 全教組、私たちの教育の代案勢力か?

挑戦インタビュー

 


 

河昇秀(ハ・スンス) 済州大学校法学部教授・弁護士。著書に『教師の権利、学生の人権』など。

 

張恵玉(チャン・ヘオク ) 全教組(全国教職員労働組合)委員長。慶尚北道・栄州中学校教員。

かなり以前から個人的に教育問題や学生・児童の人権に関心を持ってきた。中学生や高校生らを相手に人権教育も行い、児童・青少年人権条例を制定しようという動きのために役に立とうと、多くの地域を回ったりもした。娘が通う小学校の学校運営委員長も引き受けて2年ほどになる。

多くの人々が今、私たちの教育に希望があるのかと問う。ますます熾烈になる競争、相変わらずの大学序列化や学閥主義、親の経済的水準による教育機会の不平等などが指摘されている。このところ先鋭な争点である「教員評価制」をめぐっては市民社会の内部でも意見が衝突している。一方では教育の競争力を強調し、他方では教育の公共性を強調する。

しかし実はこのすべての論争と葛藤は徹底的に大人たちの視角によるものである。児童や青少年たちの「現在の幸せ」は真剣に考慮されていない。韓国社会の教育は非人間的で学校は相変わらず閉鎖的な空間である。一体これまでの20数年間の民主化の過程で学校は何が変わったのか?――このような問いを投げかけざるを得ない。学校現場を見るとまだ体罰が加えられている。学生たちの宗教の自由――無宗教の自由を含む――は相変わらず抑圧され、基本的な表現の自由も保障されていない。学生たちの参加権は口外することもはばかられるほどである。学校の意思決定は学生たちを中心になされたりなどしない。官僚的な組職や教育外的な諸判断が教育をめぐる意思決定を左右している。

このような教育の現実の真只中にある主体の一つが「全国教職員労働組合」(以下「全教組」)である。1989年に「民族・民主・人間化教育」を掲げて出帆した当時、多くの人々はこの全教組が私たちの教育問題を解決する主体になるだろうと期待した。しかし17年を経た今、全教組に対して憂慮と失望の声が高いことも事実である。果たして全教組は何を考えているのだろうか? 今回のインタビューを通じて全教組の現実や苦悩を虚心坦懐に聞いて見た。

 

 

 

河昇秀 教育問題に対して真剣に悩む方々、自分の子供だけなく韓国の教育と全体の子供のことを考える方々は、全教組に対してずいぶんと心配しているようです。まず委員長の個人的な履歴、特にどのように全教組活動を始め、委員長まで引き受けるようになったのか、これまでの様々な経歴なども伺いたいと思います。

 

 

 

張恵玉 1977年に慶尚北道の安東で教師生活を始めました。1980年代後半にかなり強圧的な入試教育が始まります。たとえば夜間の自律学習や補充授業が全面化し、学生たちがかなりつらい思いをしました。全国のすべての子供たちが入試地獄に悩まされることになったんです。あの時の学校は夜11時まで明々と電気がついている様子が象徴的でした。そして当時1年に200人近くの学生が、入試の負担にたえられず自殺しました。私自身も10時、11時まで夜間の自律学習を強圧的にさせなければなりませんでした。体罰もなければならないものでした。そのような問題に対して怒りの感情が芽ぐみ始めたんです。そのような問題意識がさまざまな形で表面化して人びとが集まったのが「全国教師協議会」でした。私たちの学校も先生の80%近くが集まって「教師協議会」を作りました。そのうち法的拘束力のある労組に切り替わるや否や、政府の弾圧を受けて脱退を余儀なくされました。結局、私一人だけ残りました(笑)。1989年に解職され、その後これまで全教組とともに一筋で来ました。

 

 

 

河昇秀 その過程で90年代に復職されたんですか?

 

 

 

張恵玉 1994年に復職しました。それまで代議員などもして、支部、支会単位の執行部活動もやり、解職期間中は慶尚北道支部や本部でも働きました。その過程で全教組の委員長まで引き受けることになりました。

 

 

 

河昇秀 全教組の本部に常勤されている方は多いんでしょうか?

 

 

 

張恵玉 専任者、常勤者を含めて60人くらいいます。

 

 

 

河昇秀 現在、全教組の組合員は9万名ほどのようですが……。

 

 

 

張恵玉 2002年に9万2千名まで行きましたが、現在は8万7千名くらいです。

 

 

 

河昇秀 5千名ほど減少したのはいつごろのことでしょうか?

 

 

 

張恵玉 少しずつ減ったんです。2006年3月まで減りつづけましたが、5月からは減っていません(笑)。

 

 

 

河昇秀 私の妻も人文系高校の教師で全教組の組合員ですが、93年に教職生活を始めました。あの時の組合員数は、私の記憶では2万とか3万などという数字ではなかったようですが……。

 

 

 

張恵玉 当時、身分を明らかにした組合員は解職教師〔組合運動が理由で解雇された教員――訳者〕しかいませんでしたし、明らかにしていない組合員まで含めれば7、8千くらいだったと思います。後援会員が2、3万名くらいいました。あまりにも弾圧を受けるので1989年から10数年の間はそれくらいの線だったんです。そうこうするうちに99年に合法化されると組合員が6万名に増えました。そして毎年1万名ずつ増えていきました。このような調子だったので、10年もの間に弾圧を受けながら組職を守ってきた約8千名の人たちと、その後に入って来た8万名の組合員の間に期待の違いがあります。代議員大会をしたり事業を進める時に内部葛藤の声が出るのはそのような事情があるからです。

 

1999年当時、政府が特別法で合法化するといったのには政治的な下心がありました。そのうちの一つは新自由主義政策をはっきり実施するというものでした。合法化以後、政府が第7次教育課程の時から強行するようになって、99年からずっと闘争する案件ができ、そうすると激しい闘争を避けたがる人たちが組職から脱退し、自分の利益にあまり役立たないと判断した方々も脱退して、昇進を気にする人々もやめて行ったんです。だから数百名ずつ続けて減少しました。今は8万7千名くらいまで下がっています。

 

 

 

河昇秀 教育大や教育学部を卒業して新たに教師になった方々は最近たくさん加入するんですか?

 

 

 

張恵玉 今年、必要な新規教員数は5万名ですが、政府が採用するといっている人員は3千名です。うちの組職率は25%に及びませんが、3千名の25%なら数百名程度じゃないでしょうか。全国で数百名ならかなり微々たるものです。新任教員自体が足りません。今、教師の老令化が非常に深刻です。京畿道以外には新任教員がいないも同然です。だいたいの地方では一番若い教師が30代後半です。20代は本当にごくわずかです。

 

 
 

真の教育(チャム・キョーユク)運動か、労働運動か

 

 

 

河昇秀 先ほどおっしゃった通り、99年の合法化以後に主に反対闘争をかなりやってこられたじゃありませんか? NEIS(National Education Information System)や教員評価制のような大きな事案が思い出されますが、合法化後7年の全教組を見て息苦しさを感じている方々も多いようです。全教組はどうしていつも反対ばかりするのかということをおっしゃる方々も多いです。特に市民運動する方々からそのような話をよく聞きます。合法化後、おおよその方向はきちんとうまく行っているとお考えですか?

 

 

 

張恵玉 相変わらず葛藤中です。全教組内部の選挙になると政策論争に火がつきます。一方では闘争を続けるべきだ、他方では政治闘争よりは学校現場の日常活動をしよう――このような衝突が2年に1度ずつ起こります。私たちは2年に1度ずつ選挙して代議員、支会長、支部長、委員長をすべて選びます。これをめぐって既成のマスコミは、PDとかNLとかいう表現を使うんですが、それは本当におかしな話です(笑)〔PD、NLともに1980年代の民主化運動・学生運動の系列。PDは階級矛盾を、NLは民族矛盾をそれぞれ重視したが、互いに反目することもあった――訳注〕。

 

 

 

河昇秀 おおよそどのような立場の違いがあるんですか?

 

 

 

張恵玉 大きく見た時は、新自由主義的な教育政策を阻止するべきだ、そのためには闘争するしかないという立場があります。もう一つは、私たちは教師だから学校活動で最善を尽くそう、そうしていれば少しずつ進展があるのではなかろうかというものです。一時は闘争か「真の教育(チャム・キョーユク)の実践」か、あるいは反・新自由主義か統一運動か、という論争もありました。労働運動か教育運動か、というのもありました。そのうち韓国社会の性格や政府の政策が新自由主義かどうかをめぐって葛藤がかなりひどくなりました。この論争は長く続きましたが現在は整理されていっています。「参与政府」(盧武鉉政権)が始まったくらいの時期でさえかなり対立していました。ですが政府があまりにも強行的なのを見て、もう政府を新自由主義でないなどという人はいません。ですが、だとしても闘争方式に対する方法論では異なる意見があります。特にこの間の大統領選挙や総選挙を経て、教育政策でも民主労働党の政策か与党のウリ党の政策かということに対して、かなり深刻な内部対立がありました。そのような中で政治的な色彩は表に出ないとしても、事業方式でいろいろな違いが表面化するようになったんです。

 

 

 

河昇秀 全教組の根本的な出発は「真の教育(チャム・キョーユク)」ですが、これまで労働運動的な性格がかなり強まってきたのではないかという意見もあります。全教組が自らのアイデンティティを労働運動に見出すという視角に対してはどうお考えですか?

 

 

 

張恵玉 労働運動と教育運動は分けて考えるものではありません。「全国教職員労働組合」という名前でもわかるように、基本的に労組としてのアイデンティティを持つのは当然です。労組運動だからといって社会的イッシューと決別することはできません。製造業の工場でも社会的問題と結びついた労働運動をやるべきですが、ましてや教師の団体が教育という重大な社会的イッシューを労働運動と一緒にして考えるのは当然です。そのような面で教師の社会的地位や権利は、結局、教育の地位や権利と一致せざるを得ません。さらに重要なのは、教育が社会の公共性を守り通せる大きな土台ならば、そのような土台を構築できる運動性を持つべきだということです。
 
 
 
 

教員評価制と成果給制の議論の争点

 
 
 

河昇秀 私も教育運動と労働運動は分離して対立するものではないと思います。しかし現在、議論されている教員評価制に対して全教組が全面的に反対しているのをみると、全教組のアイデンティティにおいて労働運動的な性格があまりにも強くないかと思ってしまいます。教員評価制に対して全教組が必ず反対しなければならないのか、私たちの教育がよくなるためにはある程度必要なことではないのか? 反対ばかりするのではなく代案を探すべきだという話も多いと思います。

 

 

 

張恵玉 一言でいって、よりよい教育をするために教員評価制に反対するのです。私たちは教員評価制が反教育的であると考えます。父兄らはよい教師を作り出したり資質の足りない教師を区別したりできるから教員評価制が必要だといいます。ですがそれは一面だけを見ているのです。この問題は教育的か否かという尺度で見なければなりません。教師らをむち打って問題教師を見つけ出す装置として考える発想自体が反教育的なことです。

 

私たちはこのような競争や効率性中心の観点を新自由主義教育と表現しますが、このような観点の出発は1995年の金泳三政権の時期に作られた「5・31教育改革案」です。実ははじめそれを見て嬉しく思いました。私もちょうど復職したころでしたから、そこに見られる多くの基調を生かしてプログラム化し、現場に適用するためにものすごく努力したんです。ですが、その後に出た第7次教育課程を分析してみると、これはまったく話になりません。子供たちを分けて画一化するものでした。A・B・Cに分けてそれぞれに合った授業をしろ――理論上ではもっともらしいことですが、現場教師らの目にはとても反教育的な発想に見えました。当時でさえすでに親の社会経済的地位が子供の学業成績を決めている段階でした。親の地位がどうであるか、子供たちの私教育にいくら財政投資をするのかなどによって、学生たちの偏差が確然と表われました。このような状況で分けて教えろというのは、金持ちの子供たち同士、別に集めろということです。10万ウォンの私教育を受けた子供と5万ウォンの教育を受けた子供、そして全く受けなかった子供を引き離すものです。「5・31教育政策」の基調はこれまでさらに強化された形で続いています。だから2001年に第7次教育課程に対する拒否闘争を始めました。その後に私学法改正、2003年に入ってNEIS反対、教育開放反対などを行いました。ここで成果給制度が2002年に試みられたんです。その後に成果給制度反対、現在は教員評価制反対、すべて反対しています(笑)。

 

成果給制度ですらそうです。新自由主義政策の基本原理が、競争、効率性、民営化、市場化、人件費節減のための構造調整、整理解雇などじゃないですか。それを教職にも適用するということですが、成果給が初めて出た当時は、学校単位で最高の成果を出した人一人を推薦して成果給を与えるというものでした。ですが、誰が最高の成果を出したのか、誰も分析できません。なぜでしょうか? 教師の仕事はきわめて統合的なんです。

 

 

 

河昇秀 政府で進めている教員評価や成果給の政策が、教育活動を下手に評価しようとする問題があるという点にはある程度共感します。またそれが進められる過程で現場の教師らを無視したことも問題です。しかし教育現場の外部にいる人々や父兄の中には、でも評価は受けられるのではないか、教育の本質に違わない線で教育活動の参考にすることは可能ではないかと考える人々はたくさんいます。

 

 

 

張恵玉 胃癌にかかった人がいるとしましょう。お腹が痛いからといって消化剤だけ飲ませていてはだめでしょう。癌にかかったという事実を本質的に把握できなければ、いくら消化剤を飲んでも直りません。もっと悪くなるだけです。成果給政策がまさにそういうものです。はじめはある学校で年俸の号俸が一番高い人を推薦しました。その人の給料分を余計にくれるというので、お金が一番たくさん出る方法を選択したのです。そしてそれを分けあう意味で会食などをしたようです。そのように2年やってみると、政府もおかしいということが分かったのでしょう。だから2001年にきちんとやってみようと現在のような段階成果給の形を出してきました。私たちはみな立ち上がりました。どのように計量化して等級を付けて評価するという話なのか? はじめて年休闘争をしました。そして90%を均等に10%を段階で成果給を支給すると決めて2005年まで来ました。するとこれではだめだということでその次に打ち出して来たのが教員評価です。実は新自由主義教育政策の基本パターンの一つが、教師の社会的水準を落とすことだともいえます。単純な販売者の役割をするように強要しているのです。教育の需要者である父兄や学生の要求通りに販売しろというんです。教育は需要者に応じる一つのサービス業だというのです。
 
 
 
 
 
 

父兄と連帯しようという努力は?

 
 
 
 
 
河昇秀 そのような一連の脈絡から教員評価制に反対するという話ですよね。政府は90年代以後に新自由主義教育政策を貫徹しようという意図をずっと持って来たということですが、ならばその政策を誰が立案して推進するのですか? 政府ならば教育人的資源部の官僚たちでしょうか?

 

 

 

張恵玉 はい。

 

 

 

河昇秀 私たちは形式的に民主主義を取っていますが、作動メカニズム上、教育官僚集団や一部の教育専門家という人々が政策を作って推進していて、その過程で教師や父兄が疏外されているという点には私も同意します。父兄と教師の間の認識の差を一部のマスコミで助長する側面もあります。そのように見れば全教組の立場でも父兄を説得して健全な方向に、つまり政府の政策の本質を理解して、教師と父兄が協力して何か代案を探す方向に行くべきじゃないかと思うんです。教員評価制だけをとっても親たちが見たところ全教組の主張がよく理解できないといいます。ひたすら評価に反対ばかりしているという考えを持つようになったようです。

 

 

 

張恵玉 ですが父兄たちが教員評価に対して理解し始めたのは政府で発表した後のことです。政府は父兄たちの団体を動かして世論化し、保守的な団体は既成のマスコミに追従するような面があります。そうやって全教組を抑えこもうということなんですから。

 

河昇秀 そのような父兄たちの団体以外に、普通、学校で父兄として会う方々の中には考え方が健全な人も多くありませんか? おっしゃる通り、新自由主義の教育政策が進められて子供たちが競争に巻き込まれることを心配する人々ですら、公教育が何か変わらなければならないと考えています。教員評価制は一つの予告です。ですが全教組があのように反対ばかりしていてはいけない、残念だと考えているんです。

 

 

 

張恵玉 ご両親たちの立場もかなり違います。政府で2005年に懸命に進めている時は、父兄の世論が83%まで賛成だったんです。今年は全教組で積極的に内容を知らせて行ったのでますます減って、5月の67%から7月や8月には50%台に、9月には48%まで落ちました。世論が二分されています。形式的に見れば教師らを評価してうまくいくようにしようというのは善意の態度です。ですがその善意が正しいかどうかは、教師も父兄も深刻に考えて判断するべきでしょう。

 

 

 

河昇秀 事実上、今も教師らに対する評価が行われているじゃありませんか? 上司らによって行われる勤務評定制度(校長が教師の勤務成績を評価する制度――編集者)があって、そのような評価によって教頭への昇進などが行われる権威的な構造が存在します。このような問題まで含めて考えれば、教員評価制に反対ばかりするのではなく代案が必要なのではないでしょうか?
 
 
 
 
 

評価を越え、自治に向かって

 

 

 

 

張恵玉 ただ反対するのではなく、教員評価制がこのように悪いから反対するということです。ならば何をするべきか? 私たちは8年前から「学校自治」を主張してきました。現在の政権になって「校長選出補職制」(校長を昇進ではなく教師らの選出によって選抜する制度――編集者)までは無理としても、学校自治はやろうということで合意しましたし、国会にも発議された状態だったんです。ですが私学法改正のかけひきの余波でうまくいっていません。学校自治というのは学生会―父兄会―教師会が法制化されて基本的な自治枠を持つものです。法的地位を持つんです。学校運営の責任を負う学生、父兄、教師の三角軸を作るのです。そしてその中で常時、相互に批判・牽制・協力しながら問題を提起して解決していく構造を作るべきです。

 

 

 

河昇秀 ですが、その評価というのが、たとえば身分や給与に影響を及ぼさなかったら……。

 

 

 

張恵玉 それはナンセンスです。そういうわけにはいきません。

 

 

 

河昇秀 最近、大学もすべてそのように評価しませんか?

 

 

 

張恵玉 それは違います。大学教員は基本的に50%以上が非正規職じゃないですか。

 

 

 

河昇秀 それと評価は関係がないでしょう?

 

 

 

張恵玉 そうせざるを得ないのは、すでに非正規職があれほどぶあつく構造化されているからです。

 

 

 

河昇秀 ですが公務員社会は評価したことを肩たたきやリストラ目的に使わないでしょう。

 

 

 

張恵玉 これからはその可能性もあるという規定を作りました。また国家公務員も3級までは辞めさせることもあるとすでに法律で明示してあります。高位職の公務員は始まりに過ぎません。そして多くの企業はすでにそのように常時、リストラ構造として活用しています。

 

 

 

河昇秀 今も教師に対する評価をしていないわけではなく、上司らによる評価があって、それを昇進させる時に反映する、ある意味ではかなり悪いシステムがあるわけです。ならば肯定的な方向に代案を提示して、そちらの方へ行った方がいいのではないでしょうか?

 

 

 

張恵玉 その肯定的な代案が学校自治なんです。学校自治をやってその中で相互の信頼を土台にした評価が常に行われるようにするんです。

 

 

 

河昇秀 ならば学校自治の実現とか、かなり悪い評価や昇進制度のようなものを一切廃止しようというスローガンが出ることもあるのではないですか? なのにどうしてそれが核心スローガンとして出てこないんでしょうか?

 

 

 

張恵玉 今、私たちのインタビューで、「評価」という言葉にあまりにとらわれすぎてはいませんか。評価という言葉の持つ社会的桎梏から脱け出そうというのが私たちの主旨です。「(現在の)勤務評定制度廃止」というスローガンを出した瞬間、「ならば勤務評定制の代わりにどのような評価制をするのか?」というようになってしまうんです。ならば政府から今回出された多面評価制がその代案になるのだろうか、もう一つの代案を出すべきかなどといって、その代案も評価方式に対するもので、ことあるごとに問題を狭く思考するようになります。私たちの提案は「評価」という言葉に埋もれた教育を変えようというものです。親が子供たちの学習状況を理解するのも、「クラスで何番だったの? 何点とったの?」というような感じです。進学に関することも、「どの大学に行ったの? 修学能力試験は何点だったの?」というようになります。このような評価中心の教育システムが反教育的であるといっているのです。学生たちをそのように追い詰めることに飽き足らず、今度は教師まで評価という結果物の対象として扱ったら、結局、教育をすべて捨てることになります。

 

そのうえ政府のこのようなすべての政策の核心は、一言でいって財政縮小です。現在、中等公教育財政は27~28兆ウォンですが、それすら1年に6兆ウォンの借金が生じます。個人負担の教育費は1年に35兆ウォン以上です。すでに私教育が公教育をしのいでしまっています。そのうえ韓米FTAに見られるように教育開放圧力もあって、教育は巨大な市場になりました。

 

 

 

河昇秀 政府の新自由主義的な教育政策が意図することの一つが財政縮小であるというお話しですが、逆にこのような質問も可能です。ならば教育財政さえ拡充されれば、本当に私たちの教育がよくなりうるかということです。

 

 

 

張恵玉 どれか一つだけでうまくいくわけではありません。体が行くところに心が行くように、財政拡大をしようとする努力が結局は教育をきちんとすることになるのですが、政府は現状維持でもなく縮小しようとしています。OECD加盟国の教育財政規模は普通、対GDP比7%ほどですが、韓国は歴代の民主政府が6%を掲げたものの4%を超すことができませんでした。3.8%まで下がりました。ですが27~28兆ウォンにのぼる教育財政の75%が教師の人件費です。残りの25%で学校を作って冷暖房を設置しようというのです。どれほど劣悪かご存知でしょう。だから硬直した教師人件費を柔軟なものに変えるという発想が出るんです。私たちはこういいます。教育において基本インフラは人間だ、教師が一番基本だ、だからこれは硬直性経費ではなく基本経費だ。基本経費さえ減らすという発想は公教育を捨てるということです。
 
 
 
 
 

教育委員選挙、全教組の惨敗か?

 
 
 

 

河昇秀 教育財政を増やすべきだという点に対しては大部分が同感のようです。教員評価制の問題については他の視角が存在しますが、一応このくらいにしておきます。少し他の話なんですが、この間あった教育委員の選挙で全教組の支持する候補らがかなり落選しました。もちろん釜山全教組の「統一学校事件」(北朝鮮の歴史書を抜粹して掲載した『統一学校資料集』を刊行した事件――編集者)の影響が大きかったと思いますが、とにかく今回、成果が少しよくないようです。

 

 

 

張恵玉 『朝鮮日報』や『中央日報』、『東亜日報』のような既成のマスコミでは、私たちが今回の教育委員の選挙で惨敗したといっていますが、私は私たちがそれなりに努力したと考えています。今年初めて教育委員が年俸をもらい始めたんです。年俸が教師より高いんです。それとともにそれなりに地位も持つようになりました。以前までは無報酬のボランティアでした。その時は私たち全教組の教師たちもたくさん仕事しました。ですが年俸が決められて社会的地位を持つようになると他の人たちが黙っていません。教育官僚たちがかなり進出したんです。彼らは組織的に準備しました。そのうえ釜山統一学校を事件化したのですから、そうならざるを得ないと思います。

 

 

 

河昇秀 これまでは教育庁や教育委員が中央政府の統制を受けてきたと考えられますが、今後、教育監・教育委員の直選制が大きな変数になるかもしれません。有権者である父兄たちがどのような考えを持っているか、そして全教組の主張や政策に対してどう思うのかが重要に思えます。それによって教育政策もかなり左右されるようです。ですが、当の親たちはよく分かっていないようです。全教組で何に悩んでどのような活動をしているのか……。

 

 

 

張恵玉 労働者である父兄たちは直感的によく分かっています。中産層以上の父兄たちは理解しようともしません。とにかくエリート教育でつっぱしって子供がトップレベルの大学に入って行くことだけを考えているのですが、全教組の教育の志向が成績と序列のための競争になることはあり得ません。

 

 

 

河昇秀 慶尚南道であった副教材の価格引下運動のようなことは、教育志向のことはともかく、健全な試みではありませんか? この間の7月に全教組の代議員大会で「日常的活動の強化」をかかげた決議があってマスコミに報道されましたが、あの時、全教組の論評を見たら「日常的活動はいつもしてきたことなのに、急にどうしてこのような報道をするのか」という主旨でした。全教組は日常活動というものをいつもしてきたとはいいますが、ある意味ではむしろいつも失敗してきたのではないかと思います。

 

 

 

張恵玉 全教組の力量を勘案して判断するならば、3対7くらいと見ることができます。3が政府の政策に対する分析と批判です。政府の政策が私たちの生存と直結しているので多くの衝突があります。そして残りの7が「真の教育(チャム・キョーユク)」の実践活動です。個人単位、地域単位、支部単位でいろいろなやり方でやっています。副教材の価格引下運動は私たちが89年からして来たことです。持続的にやっています。副教材を通じて教師と学習雑誌の会社との間にコミッションが行き来します。学校である本を教材として採択すると販売総額の10%から20%を教師らに与えます。以前は教師個人に与えていましたが、拒否運動が起こったので、学年単位で与えたり学校に与えたりと、あらゆる形で行ったり来たりします。このような副教材採択料の拒否運動や寸志拒否運動は、全教組の草創期からこれまで続けてきた、まさに日常運動のうちの一つです。今回のことは慶尚南道支部がもう少し流通問題にまで接近して社会運動に昇華させた、とてもいいケースです。

 

 

 

 

 

学生への体罰と夜間自律学習は必要悪か?

 

 

 

 

 

河昇秀 しかし、たとえば体罰や強制的な夜間自律学習のような学生の人権問題は相変わらず深刻です。全教組の公式の立場は体罰撤廃や学生人権法案支持といいますが、実際に現場単位でどのような努力が行われているか知りたいと思います。体罰でも半強制の夜間自律学習でも、公式的な方針はそれをやめろというものではありませんか? ですが全教組の教師がいる学校でも実際に体罰は行われているんです。そのようなことに問題提起をする方々もいます。どうして黙っているのかということです。健全な考えを持った親たちの願いは、とにかく教師らが変わって学校の教育活動が変わればいいということです。大きな教育政策の変化も重要ですが、日常的な面でうまくやれなくなってきたというのが事実ではありませんか?

 

 

 

張恵玉 その理由はよくご存知だろうと思います。教育というものは巨大なシステムじゃないですか。私たちが2003年に公式に夜間自律学習の廃止運動をして、交渉を通じて教育庁で協議書まで書きましたが、去年からまた気勢を上げています。今年、ソウル市の教育監が、エリート教育をするべきだ、100万人食わせられるような1人の人材を育てなければならないと強力に迫ってきて、地域単位ですべて模擬試験をやれ、法を直せ、などと指示したせいで、また強化され始めました。入試教育や私教育がすでにシステムとして固定化して、改善が本当に難しいです。

 

体罰もそうです。私たちは人権法を支持する程度でなく、一緒に発議までしました。ですが、まだ1クラスの生徒が35人とか40人です。京畿道の高陽市の場合にはまだ48人です。40名にもなる子供たち、それも千差万別の子供たちを教師1人が教えようとすれば一定の権威が必要です。教師の権威というものは人格だけではないでしょう。体罰があまりにも安易に、空間を制御する手段として活用されているんです。私たちはこれまで体罰禁止に対して非公式的な話ばかりしてきました。ですが今回の人権法案を発議して、体罰は禁止だ、誰もするな、このように公式化しているので、教師らがかなり困り果てているんです。それもだめならどうしろというのか――教師らが大部分そのようにいいます。組合員たちだけではありません。このような構造やシステムも理解するべきです。

 

 

 

河昇秀 私も学生の人権に関心があって各種シンポジウムに参加してみましたが、そこで矛盾をたくさん感じました。公式的な全教組の方針は体罰をしないことになっているのに、現場にある全教組の組合員が「システムがそうなっているのだから仕方ないのだ」といっているのを何度も聞きました。これは矛盾ではないでしょうか。教育であるからこそ教員評価の問題に対して評価の尺度をむやみに乱用すべきでないとするならば、私の考えでは、教育であるからこそ絶対に体罰はしてはいけないし、教育であるからこそ子供たちを夜遅くまで学校にしばりつけていてはいけないと思うんです。そのような点から見れば全教組で活動する方々の方がこのような問題にとても寛大ではないかという気がするんです。

 

 

 

張恵玉 寛大ではなくて力不足なんです。

 

 

 

河昇秀 9万名にもなる全教組の教師のうち、全てではないとしても相当な割合が体罰をせず、また最低限、自分の学校では強制的な夜間自律学習をしないように努力すれば、かなり変わるのではないかと思うのですが、あまりそのような実感がありません。指導部で教員評価制反対や成果給反対にまさるとも劣らないほどの、いや、それよりも大きな努力を持続的に傾ければ、確実に変化があるだろうと期待します。

 

 

 

張恵玉 私たちは自らの存在が表に出る運動をしようと話しています。学校現場では全教組の組合員であると口外するのをはばかります。教師らもはばかりますし、校長たちも学校で全教組の活動が具体的に行われることをとても嫌がります。体罰の問題もそうです。体罰が自分の学校でまだ容認されている状況で「私は体罰しない。全教組では体罰しないことにしたんだ。絶対にするな」といった瞬間、その学校社会は分裂します。する人としない人が生じます。全教組の鮮明さのために再び学校は葛藤と分裂をきたさざるを得ないのでお互いに自制するのです。まさにこのことが学校自治を主張するもう一つの理由です。学校社会が自生的な自治力を持たなければ、すべての問題を自ら解決する能力を備えられないと思うんです。現在の構造と法体制の中では校長だけが自律権と権限を持っています。「学校長の命令によって教育する」という法条項が変わって、まだ何年もたっていません。

 

 

 

河昇秀 学生たちを会ってみれば教室での権力者は教師だといいます。

 

 

 

張恵玉 そうです。教師が権力者に見えます。

 

 

 

河昇秀 体罰でも夜間自律学習でも教師が自分の権限をきちんと行使しようとすれば、それに対して誰かが何かものを言うこともできないのではないですか?

 

 

 

張恵玉 ですが、教師は子供たちの目には権力者ですが、政府から見る時は下級官吏であって、校長が見る時は自分の命令に従う部下の職員です。だから私は教師は境界者であると思います。境界者だから、今おっしゃったように、主体的な意志をかたく持って改革の主体として立ち上がろうと決心した瞬間、かなり大きな抑圧と犠牲が伴います。それを乗り越えて主体として立つことができる人がいる一方で、徹底的に奴隷に転落する人も出てきます。ある教師は学生たちの試験時間にゴルフをしに行きます。また性暴力の教師もどれほど多いかしれません。体罰はそれでも勉強をさせ教室を静かにさせるためのものですが、金銭の不正、成績操作、セクハラのような行動をする教師は根本的に誤った人々です。このような人々が堂々と横行するのも学校です。父兄の立場ではそのような教師が一人いても怒るものです。私たちの学校の構造自体が変わらない限り、その解決は遥か遠くの宿題です。ヨーロッパの学校は学校自治をかなり行っています。私たちはそれを要求して8年目に入りますが、まだ実現していないのが残念でなりません。

 

 
河昇秀 このところ「放課後学校」に対する全教組の立場と関連して、論争というか誤解というか、そのようなものがあります。
 
 
 
 
 

安価な私教育に転落した「放課後学校」

 
 
 
 
 
張恵玉 実は全教組はかねてから各地域で放課後活動をしていました。ですが政府で「放課後学校」というものを出してきて、おかしな感じになってしまったんです。このごろ高校が大学入試の論述対策で病んでいます。そのうえソウル大で論述試験案を発表して以来、各高校で有名な論述講師を招聘すると大騒ぎですが、放課後学校の主要プログラムにもそれを入れたようなのです。

 

放課後学校にもそのような学校講座が開設されて、150万ウォンの講座や40~50万ウォンの講座ができます。それは私たちが始めた放課後活動とはかなり違います。全教組の放課後活動は根本的に疏外された子供たちのために、特に小学校から出発しました。共稼ぎの親を持つ、塾に行く余裕がない子供たちを、学校という空間で教師らが順番に面倒を見ようということで始めたんです。ですがそのような主旨はどこかに消えて、論述プログラムのようなものが入って来るので、素朴な気持ちで始めた先生たちが「そういうことならば私はやらない」と言ってきたりします。そのような先生たちに学校長が「このように運営しろ」「このような子供たちを取れ」「お金をいくらか与えるから、このようなプログラムも入れろ」といって強制するところも出てきたんです。私たちは入試中心の放課後学校ではだめだと考えます。この間の5月に私たち独自の放課後活動を、自生的にやるだけでなく法的根拠を持ってやろうと、民主労働党とともに放課後活動に対する法案を発議しました。そのような渦中で金津経(キム・ジンギョン)氏(全教組の初代政策室長を勤めた前青瓦台教育文化秘書官――編集者)のような方が、「全教組が放課後学校を拒否している、こんなことがあっていいのか」といったせいで、まるで全教組がすべての放課後学校に反対しているかのようになってしまったんです。全般的な脈絡はすべて消えてしまっています。

 

そのうえ政府の放課後学校案を見ると、その真意が学校の外で私教育費があまりにもかかるから、学校の建物を活用して安い費用で私教育をやろうというものです。そのような主旨に子供たちがどのように応じるのかといえば、「私は安っぽい塾には行かない」というものです。外で高額の家庭教師に来てもらっている子供たちはそのままですし、学校で強制的に運営する見せかけの放課後学校だけができることになったんです。だから教師も学生もストレスを受けます。学校の中でやって外は外でまたやらなければならないので、二重になってしまったのです。

 

 

 

河昇秀 お話しを聞いていてずっと考えているのですが、結局、教育政策が決まる過程に根本的な問題があるようです。教育官僚たちが数人の専門家の意見だけ聞いて案を作り、全教組はそこに問題があるから反対せざるを得ない立場になります。そのようにずっと悪循環しているという感じです。しかしこのように全教組の闘争が懸案の対応にとどまっていたら、政府から出してくる問題に付いて行くしかないですね。

 

 

 

張恵玉 だからといって対応しないわけにもいきません。

 

 

 

河昇秀 それが悩みというかジレンマのようです。社会的議題を先行的に獲得してこそ、運動する人たちも力を感じて積極的に引っ張っていけるのに、ずっと懸案への対応に忙殺されれば守勢に甘んじる局面がかなり出てきます。

 

 

 

張恵玉 政府が新自由主義政策を強行し、国家競争力、社会競争力など、いわゆる競争力の言説が全面化しています。そのような状況で私たちがそれを乗り越える社会的イッシューを提出するからといって、それがたやすく受け入れられるでしょうか。そのイッシューとは、資本主義社会で資本の利益極大化に対抗して社会的公共性を守ろうということですが、果たしてこれが全教組だけの力で可能だろうかという問題です。私は「公共性」という表現を使います。この表現を2003年から公式的に使い始めて4年目になりますが、公共性という言説自体が認められていません。50万人の公共労組の組職で、社会的公共性、教育の公共性のために戦おうと、今年ようやく合意を見ました。
 
 
 
 
 

全教組は市民社会の支持を受けているか

 
 
 
 
 
河昇秀 とにかく社会運動が社会的な影響を広げようとすれば外部の支持が必要です。政府や教育官僚たちが受け入れないのとは別の問題で、全教組が支持を得て政策の影響力を広げて行こうとすれば、市民社会の支持も重要ではありませんか?

 

 

 

張恵玉 そうです。一応私たちは労組なので労働界で全幅の支持を得なければなりません。

 

 

 

河昇秀 ですが労働運動でなくても、市民社会と全教組の関係が以前ほどではないと感じるんです。

 

 

 

張恵玉 この間、全教組で市民社会団体の代表を20名以上お招きしたことがあります。あの時、私たちに一番批判的な発言をなさった方が「参与連帯」の所属でした。実際に市民団体の中には現政権を支持する方が多かったでしょう。ですが今は新自由主義の政府と規定されています。ウリ党もハンナラ党と別段違うところのない立場を政策化しているだけなので信頼を失ってしまったんです。政府、与党、野党みな一様に、教育政策に対してはまったく同じで新自由主義を固守しています。競争と序列を通じたエリート政策、エリート性をさらに強化するための平準化解体、そのうえ自律型私立高校、国際中学校、国際幼稚園まで建てようとしています。私たちのいう公共性や民主性とは正反対の方向です。

 

 

 

河昇秀 市民団体も自律型私立高校には反対していませんか? 参与連帯を含めた市民団体も基本的に社会公共性に対して関心を持っています。ただいくつかの事案で意見が違っている点が相互の信頼を損なっているようです。追求する価値や哲学が根本的に違うというより、いくつかの懸案に対する意見の違いが問題を大きくしているのではないでしょうか?

 

 

 

張恵玉 その一つが教員評価制です。私が9月の1か月間、地域を回りながら、記者懇談会や市民団体懇談会などをしたら、ようやく少しずつ理解され始めたんです。「大学もやっているのに」という話をかなりしますが、大学の構成員と小学校・中学校の構成員はかなり違います。大学の構成員は大人である学生と担当専門分野の教授です。ですが小学校・中学校の生徒は、自己意識と人間関係を形成して行く過程にあって、おおよそ200人余りの教師に会います。そして父兄は子供を通じて状況を把握します。子供たちは生まれて親とまず先に運命的に出会って、その次に教師に出会います。教師との出会いも実は運命的です。このように運命的・人格的に出会う教師と学生の関係に、成績中心の評価という尺度を持ち込んだら人格の関係が壊れてしまうのです。

 

 

 

河昇秀 最近、活発に活動しているもう一つの教師団体「良い教師運動」では、評価自体は受け入れるが評価方式を問題視しました。それに対してはどのようにお考えですか?

 

 

 

張恵玉 申し訳ない話ですが、私たちが見たところあれは近視眼的です。父兄たちの意見と似ています。評価するといえば少し緊張してうまくやるのではないかというものですが、そのような点があるとはしても、それよりは否定的な結果がはっきり見えます。それはもう検証されていることです。全教組で国際シンポジウムを開いて、アメリカ、日本、スウェーデンなどから来た現場教師や大学教員、労組活動家らと討論したことがあります。政府が革新のケースとしてスウェーデンモデルをあげていますが、スウェーデンからの参加者に直接聞いて見たら事情がかなり違います。スウェーデンの評価は自律方式ですが、私たちが「真の教育」実践活動でやろうと努力したことのうちの一つです。地域の教科教師が集まって行うやり方です。教科別に集まって順番を決めてお互いの授業に入って行って点検し評価するのです。これを私たちは評価ではなく「自律奨学」といっています。お互いに励ますのです。全教組で「真の教育」実践活動として多く行うのです。スウェーデンでもまったく同じようにやっていますが、これは意味がありそうです。
 
 
 
 
 

中央集中的な運動方式の問題点

 
 

 

 

河昇秀 進歩的な運動組職が中央の方針に従って繰り広げる活動は、外から見れば実は部分的かも知れません。親や市民たちが見るのは、自分の子供たちの学校の教育がどうであれ、全教組が分会や現場でどのように活動しているかということです。年休闘争や成果給返納闘争のような活動に比べて、学校現場で見せる肌で感じる活動は弱くないかという気がします。

 

 

 

張恵玉 弱いですね。これまで政府の政策と戦う過程が長く続いたためだと思います。2000年に始めて5年間、全国的な闘争が続きましたが、私たちは実際のところ阻止するのに忙しかったのです。現場には、つまらない入試中心の教育方式、体罰をはじめ、人権の死角地帯もそのまま残っているのに、上部だけで戦っているというありさまです。そろそろ改善しなければなりません。分会、学校単位で新しい運動、実践的な運動が起こってこそ、さらによい成果を得ることができるでしょう。

 

 

 

河昇秀 運動の中心を下部に下げればできそうですが、今のように全国的に動員する運動方式では実際にそれほどの力量を下部に集中しにくいようです。問題の中心は中央集権的だという点ではないでしょうか?

 

 

 

張恵玉 私たちの教育全体が中央集権的です。

 

 

 

河昇秀  運動組職は現場中心的な活動が基本ではありませんか?

 

 

 

張恵玉 すぐに政府の政策が浸透して、その弊害が日常的に起きているので、それを遮断するためには戦わざるを得ません。構造がそうなっています。

 

 

 

河昇秀 とにかく私は個人的に現場が中心であることが核心ではないかと思います。

 

 

 

張恵玉 そうですね。それができれば大韓民国は変わります。ですが、みながそうならないように努力しているようでもあります(笑)。実際はそれが韓国社会の基本的な盲点の一つです。私たちだけではなく大部分の組職がすべてそうです。参与連帯はそうじゃないですか。私も参与連帯の会員ですが、会員の数パーセントの活動家だけが動いているのであって、みながやっているわけではないでしょう。

 

 

 

河昇秀 だから最近は「運動の危機」という言葉も出ています。

 

 

 

張恵玉 私はそれが「運動の危機」というより私たちの生き方だったと思います。

 

 

 

河昇秀 正しいやり方ではありませんよね。

 

 

 

張恵玉 もちろんです。正しい市民社会を作るやり方ではありません。しかし私はそれが韓国式の過程だと考えます。長い間独裁を経験していました。またこの10数年間は、政府が民主的であるかのようなふりをしながら、資本優位の新自由主義政策を強行したんです。格差が生じて生活にも忙しいのに社会運動をする余力ができるでしょうか? 私たちもどうすれば生き生きした学校を作れるだろうか、分会を活性化しようかなどと、いろいろな努力をしています。たとえば教員評価に反対するという時、全国で集まって反対のスローガンだけを叫ぶのではなく、支会単位で集まって父兄たちに会って討論もし、子供たちの教育問題と結び付けて悩みをリンクしていかなければなりません。そのように全国で同時多発的に立ち上がりながら、それぞれの学校と父兄の間で世論が形成されることが望ましいと思います。ですが現実がそうではないので残念です。私が委員長を長くやればそのようにしますが、1年で変わってしまうので少し難しいですね(笑)。
 
 
 
 
 

全教組は進歩的か

 
 
 
 
 
河昇秀 もう一つ質問します。最近「進歩的」という概念に対して社会的に議論が多いと思います。社会の変化によってその「進歩」を再構成するべきだという話もあります。この時点で全教組は果たして進歩的な組織なのかという問い、また進歩とは何かという問いに対してはどうお考えですか?

 

 

 

張恵玉 進歩という概念は文字通り「一歩進む」という意味です。人類の歴史が作った価値をもっと拡張して高める方向に進むのが進歩ではないでしょうか? 私は韓国の歴史が作ってきた大切な価値の一つが、社会的権利や権力を多くの人々が分かちあうことだと思います。独裁社会へ、市民社会へ、そして民主社会へと移り変わる過程がそうだったと思います。そして多数の享受する権利がもう少し公平になる時、進歩したといえます。たとえばスウェーデンは福祉が充実している国じゃないですか。ですが所得の公平性がほとんど80%に達しています。国民の80%の所得が似たようなものだということです。公正ではないでしょうか。多くの人々が公正に権利を享受できる社会へと進むことが正しいのであって、教育もそれに呼応するべきだと思います。

 

だから私は野原に出る教育を主張します。競争教育は山に追いやってしまうんです。野原には障害者も出ることができますし、貧しい者も金持ちも疏外された者も劣等な者もみな出かけることができます。一緒に集まってその中で自分の匂いと色彩を探せるようにしなければなりません。そうするためには基本的な公共の土台を構築しなければなりません。だから最低限、小学校・中学校の教育は義務教育・普遍教育・無償教育でなければなりません。このような公共性が実現した教育は世界的にたくさんあります。実際にヨーロッパが大部分そうですし大学まで無償教育でした。ですが新自由主義となってヨーロッパも部分的にそれが崩れつつあるあるのが問題です。

 

 

 

河昇秀 教組が考えている「進歩」は、平等に多くの重点を置き、新自由主義から最低限のものを守っていくものと理解されています。ですが私はそれだけでは少し足りないのではないか思います。全教組でいう「人間化教育」、すなわち人間中心の教育であるならば、学生や児童中心の教育になるべきですが、実際に現在、中学や高校などの学生たちに誰が君逹を不幸にしているかと聞いてみると、親や教師だと答えるんです。

 

 

 

張恵玉 そうでしょう。一流大学に行くために機械のように勉強ばかりしなければならないじゃないですか。親も欲を自制し、教師に自律性を保障し、教師の自尊心と教育哲学を認める、教育の自由な実践を保障するように教育政策が展開されてこそ、自由な関係を作ることができます。

 

 

 

河昇秀 現在の先生たちはそうでしょうか? 私にはそれが教員評価制の議論の根底にある問いのように思われます。現在、教育現場にいる教師たちが、果たして今おっしゃられるような教育を志向しているのかという不信があります。

 

 

 

張恵玉 最近、教師の質が悪いということをよくいいます。私も同意します。ですがその責任はどこにあるのかといいたいですね。教師を養成し任用し研修させる総体的な責任は政府にあります。教員免状も政府が与え、任用も政府が行っています。夏や冬に長い休みがどうしてあるのでしょうか? 教師を研修させるためにあるんじゃないでしょうか。そのようなことに対してすべて総括的に責任を取るべき政府の責任問題は棚あげにして、みな教師個々人の問題であると指摘するのは正しいことではありません。そのようなシステムの中で教師の質を高めることができなかった一次的な責任は政府にあるのですから、その責任を認めてこそ改革の方向が定まると思います。

 

 

 

河昇秀 教師が養成され任用される全ての過程、また教育政策や学校運営の非民主性を変えることが教育を生かす道であるという点は同意します。教育政策の決定過程の透明性を高め、教師に昇進の順番待ちをさせる校長資格証制度や昇進制度を改革し、学校自治を実現することもとても重要だと思います。とにかくこのような問題を代案として運動していく方向はどうでしょうか?

 

 

 

張恵玉 7、8年前からそうやって戦って来ました。

 

 

 

河昇秀 多くの方案の中の一つを語るのではなく、核心スローガンとして掲げるという意味です(笑)。

 

 

 

張恵玉 核心スローガンが毎年積もって12になりました。ですが教員評価という懸案があるので、これを解決しなければそちらに移れません。去年、全教組の執行部が途中で退陣しました。教員評価をめぐってあまりにも世論が騒いで、「ならばおまえたちが代案を出せ」といったら、「学校自治」の後に「評価」という語をつけてきました。だから私たちの代案は「学校自治評価」というんです。ですが、そのように後に「評価」という語をつけた瞬間、学校自治の根本の主旨が色あせてしまいました。結局、内容は内容でおかしなものになり、形式は形式で完全なものにはならず、政府と世論が圧迫してくるので受け入れなければならず、このようにめちゃくちゃになっていたところに指導部が辞退する問題まで起こってしまいました。本当に大変でした。しかし政府が教員社会のリストラを現実化するという意図から段階成果給と教員評価を具体化しようというプロジェクトをすでに進めているので、私たちとしても今回は戦わざるを得ません。戦って多少ひびが入るとしても、私たち本来の真正性を見失わなければいつかは認められると思います。だから力強く戦って行くつもりです。

 

 

 

今回のインタビューで多くの問題に対して共感しながらも、認識の違いが存在することを感じた。もちろん全教組も労働組合である以上、不可避な側面があるだろう。また現在、組合員たちの多様な構成を見る時、指導部がかかえる悩みもあるだろう。しかし教員評価制がだめならば、教育現場で教師が行っている各種の非教育的な行為もなくさなければならない。教員評価制がだめならば、体罰もだめだし強制的な夜間自律学習もだめである。学生たちの人権を侵害する学校内の各種の差別(成績成績、差別など)や暴力(言語的・精神的暴力など)が実際になくなるように努力するべきである。学生たちが自らの人格や才能を啓発できる機会を、教師は教育活動を通じて保障しなければならない。教育部―教育庁―学校の官僚的構造が教育活動を阻害する側面があれば、それを変えるために努力するべきである。

 

このような問題において全教組の公式の立場より重要なのは、学校で、教室で、どのような実践をするかである。そのような点で教育現場から変えて行こうとする努力を組職全体で行うべきではなかろうか? これに同意しない教師がいればまず説得し、たとえそれによって葛藤が起こったとしても、むしろそのような葛藤は生産的ではなかろうかと考えるべきである。

 

もちろん教育現場を変化させるのは全教組だけの役割ではない。父兄や市民社会の役割も大きい。そのような点で教育を憂慮するすべての人が、いつもともに考えるならどれほどいいだろうか。その点で次のことを紹介してしめくくりとしたい。韓国も加入している国際条約「国連児童権利協約」の第29条は児童教育の目標を提示する。要約するならば「児童の人格、才能及び精神的・身体的能力の最大限の啓発」、「人権や基本的自由に対する尊重の進展」、「相互理解や平和、寛容、性の平等及び友情の精神に即し、自由社会で責任ある生を営めるようにする準備」などが主な内容である。本当に私たちの教育もこのような方向に進めばいいと思う。そのために各自の立場から真正性のある努力をしていくべきだと思うのである。 

 

 

 

訳‧渡辺直紀

 

 

 

季刊 創作と批評 2006年 冬号(通卷134号)

 

2006年12月1日 発行
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