我々皆の喊声が指し示すところ

2016年 冬号(通卷174号)

 

 

セウォル号惨事の真相究明を求める月例304朗読会が2年以上続いている。光化門広場をはじめとする数多くの場所を渡りながら、毎回参加者が異なり、内容も変わったものの、最後のプログラムだけは変わらない。朗読者と聴衆が司会のリードにしたがって同じ声をあげる「一緒に読み上げる文章」コーナーがそれである。「今日は4月16日です」と始め、「終わるまで終わらせません」と終わるこの短い文章には徹底した真相究明を要求するメッセージとともに「皆の名で命令します」という文章が入っている。しかし、過去約2年間、私は一度もこの文章を最後まで読み上げることができなかった。この文章にいたる瞬間のその崩れ落ちそうな感情を押さえることができなかったからである。

喪失感と日常の厳重さをそれぞれ見守りながら、長い時間を耐えきり、立ち向かってきた私たちは、再び「皆の名」で新たな「命令」を下さないといけない事態に直面した。それは、他でもなく、「朴槿恵―崔順実ゲート」と呼ばれる初の国政壟断事態なのである。そしてついに街へ溢れ出してきた巨大なキャンドルの波の中でふっと気づいたことがある。それは、国政院の選挙介入捜査とセウォル号惨事の真相究明の要求を組織的に防ぎ、歴史教科書の国定化や開城工業団地の閉鎖、サード配置まで頑として強行できたのは、「命令」する民衆の喊声が小さかったからではなく、その「命令」が行き届くべき最終の受信先が最初から空っぽだったからであるという事実なのである。「まさか」という最終の阻止線が無惨に踏みにじられるまで、それを幇助し、しいては助長までしたセヌリ党と守旧言論がその裏切り者だったことはもちろんであるが、危機がある度にその喊声の正確な伝達者になるべき野党側はそれまでどこで何をしていたのだろうか。

統計的意味がほとんどない1桁の支持率が見せてくれるように、そして広場に集まった百万個のキャンドルが声を合わせて叫んでいるように、国民の心の中で大統領は弾劾されたのである。あとはすでに決定された「国民的弾劾」の政治的・法理的手続きが残っているだけである。したがって、このような過程を一糸乱れず整然ととりまとめることが、政治圏に至急の責務として与えられたわけである。しかし、彼らの動きは失望極まりない。内治と外治を分離する責任総理論を掲げて国政主導権を維持しようとする大統領府(青瓦台)と与党側の主張は理屈に合わない。トランプの米大統領当選によって国際情勢の不確実性がいっそう高まってしまった状況下で、いったい誰に外治を任せるというのか。しかも、このようになれば、内閣に含まれてもない国政院と監査院等の有力情報・査定機関は現職大統領のもとにそのまま残るようになる。大統領の2線への後退という曖昧な前提の裏であっちこっち様子を窺いながら、国民がつくってあげた絶好のチャンスに無賃乗車しようとする「共に民主党」式政治工学も同様である。政治的逆風、国政の空白、国政混乱を防がないといけないという名分であるが、国民はいつもより秩序整然とし、一貫性のある姿を見せている。むしろ右往左往と混乱に陥っているのは、政権奪還を当然のことのようにとらえ、政治的利害得失の計算に慌ただしい第1野党かもしれない。

国民の命令はすでに下された。早期大統領選挙を含めて現行憲法の手続きに従って問題を解決し、国民の意思を尊重する政権を誕生させなければならない。一角の改憲主張もその次の番にならざるを得ない。大統領直接選挙制の実現という国民的合意をもとに行われた87年改憲と、如何なる合意も準備されてない現在の改憲論が置かれている状況とは根本的に違うからである。大統領4年再任制か内閣制か、それともその折衷型なのかに埋没された権力構造の改編案が改憲内容の全部にもなりえない。どうすれば、「民の自治」という理想を高いレベルに熟成させることができるのかをめぐって、よりいっそう大きなレベルの転換のための青写真が討論されなければならない。改憲も手段の一つであるだけで、それ自体が目的にはなれないからである。たとえ政権が交代されるとしても、そのような過程がスムーズに推進されるという保障もない。それだけで国政壟断事態を招いた守旧勢力が完全に消滅されるわけではなく、分断体制が存続する限り、民主的ガバナンス体制を逆に巻き戻そうとする彼らのロールバック(roll back)の試みが簡単に終息されるはずがないからである。依然として彼らの手に握られている社会的・政治的資源があまりにも多いのではないだろうか。

単純な政権交代や改憲論議を超え、韓国社会を根本的に変えなければならないという声が社会各所から噴出している理由である。ソウル市の江南駅10番出口で起った女性嫌悪殺害事件以後、飛躍的に広がり始めたジェンダー的覚醒の波だけを見ても、単なる弱者保護や差別撤廃、男女平等論のレベルを超える方向へと進化している。SNSを中心に起きた「○○内性暴力」ハッシュタグ運動もその兆候の一つであろう。蔓延している構造的暴力の中で傷ついた存在が自ら立ち上がって、社会に向けて声を上げ始めたのは、キャンドルの喊声と同じくらい意味のあることである。この流れを巻き戻そうとするいかなる試みもいまや古い反動にすぎない。

このような時に、あらゆる種類の拘束と抑圧に立ち向かって戦うべき文人たちがむしろ位階による性暴力の加害者として名指されたという事実に惨憺たる気持ちを隠せない。この問題が、有志の文人、読者または団体等のいくつかの措置や制度改善の努力だけで完全に解消され得るレベルではないという点も多くの人々が共感する点である。まずは、すでに始まった変化に寄与しながら、ともに進化していく方向を熟考することが切実である。その第一のカギが「傾聴」であることは言うまでもない。去る11月11日、高陽芸術高校文芸創作科の卒業生連帯「脱線」の声明発表会は、その意味で文学と文学者がいるべきところがどこなのかを改めて振り返られる貴重な契機であった。「私たちは文学であると同時に、同時代の証人として私たち自身を証明する」という彼らの厳粛とした宣言を前にして、文学界は必ず答えなければならない。

創刊50周年の冬号の巻頭言を新たな覚悟の代わりに国政壟断事態と文壇内性暴力に対する論評で書かざるを得ない現実ではあるものの、残念なことばかりではない。街や広場に雲集したキャンドルの波から、傷を乗り越えて位階を覆しながら、連帯の威厳を見せてくれた女性たちの声からより大きな希望が見出せるからである。そういえば、あらゆる根本的な変化はいつも下から始まる。性急な楽観や無策の挫折が空しいものにならざるを得ない理由は、それが概ね「下から」に基づかず、「上から」の意識にとらわれているからであろう。

その延長線でパニックという言葉がちまたで言われるほど予想外の結果を生んだアメリカ大統領選は他山の石とされる。選挙期間中大勢論を占めたヒラリー・クリントンは、なぜ資質不足論難の絶えなかったトランプに敗北したのだろうか。トランプが代弁する女性嫌悪や白人中心主義の勢力強化でこれを説明することもできるが、核心を外れた診断になりかねない。今回の選挙はトランプの勝利というより、腐敗既得権層の典型のヒラリーの敗北である。大勢論に酔い、あらゆる不平等に苦しむ「下からの」声を代弁できなかったことが決定的敗因であろう。トランプの統治過程は順調でないだろうと予想されるが、このような混乱を生んだ責任からアメリカ民主党と候補のヒラリーはどれくらい離れているのだろうか。「朴槿恵以後」を準備する野党側の走者たちが痛烈に考えなければならない点である。保障された未来はあり得ない。これから何をするかが毎瞬間の意味を決定付けるであろう。

 

今号の特輯は、去る夏に引き続き、現実の重さに素直に耐えながらも未来に向けた投企(Entwurf)を止まない詩人・作家の作品を「リアリティ探求の文学的形式」というテーマで集中検討する。何がより「リアル」なのかを問うて答える文学的苦闘の中で自然と浮かび上がったそれぞれの文学的形式は、その多様さと深さで慣行化された悲観主義を色褪せさせる。

ソン・ゾンウォンはファン・インチャンの最近の詩集を繊細に検討し、各々が構築した詩的リアリティの性格を論じる。ファン・インチャン詩の分裂する感覚の豊かな詩的潜在性にもかかわらず、異質性の統合努力が欠如されたことと対照的に、キム・ジョンファンの詩が時空間的地平の拡張を通じて歴史との接続を試みる点を注目する。チョン・ジュアは若い世代の二人の小説家を扱いながら、彼ら各自が感知するリアリティをどのような形式をもって探求し、具現するかについて綿密に考察する。動物的生活を探求するキム・オムジと共同体的価値に注目するチェ・ウニョンの小説それぞれの特性を思惟しながら、それなりの「総体性の形式」を提示する部分も注目に値する。

ユ・ヒソクは、キム・スムとイ・インフィの最近の小説を87年体制に対する文学的哀悼として解釈する。キム・スムの近作から時代の悲劇を復元しようとする小説的試みの成果と限界を鋭く指摘し、「詩人、カン・イサン」をはじめとするイ・インフィの小説を丁寧に分析・評価するが、争点に近い鋭さが別格の関心を引く。崔元植は、ハン・ガンの小説世界の変化を「小市民性」に対する本能的抵抗から少数者の匿名性に基づいた非総体性の特異な成就へと進んだ過程として把握する一方、クォン・ヨソンの近作を資本の包摂が強化される時代の黙示録的風景を卓越と描いた事例として評価する。作品の内側へ入り込む分析の綿密さが興味深い。

「文学評論」には『菜食主義者』の翻訳者として知られるデボラ・スミスの論文を紹介する。翻訳する過程で起こったテキストとの内密な対話体験を珍しい実感として伝える中で作品の真面目に到達した独特の平文である。最近逝去した小説家のイ・ホチョルの作品世界を概観したイム・ギュチャンの論文も注目していただきたい。一つのバランスの取れた作家論であると同時に、故人に献呈する美しい追悼の辞としても遜色ない。

「創作」欄はいつもより豊富である。新作詩選特集の最終回には詩壇の未来を握る25名の若い詩人が参加した。輝かしい個性で武装した作品を通じて、韓国詩の未来を展望する特別な楽しみを味わえる。中編小説企画の大尾は黄貞殷とパク・ミンギュが飾り、クミと李章旭の新作短編に出会えるのも嬉しい。

「文学フォーカス」は、チャン・イジ詩人をパネリストとして招待して活発な討論を行う。殷熙耕、チョン・イヒョン、ぺク・スリンの小説と、ホ・スギョン、パク・ギヨン、アン・ミリンの詩集のもつ深さと広さが3人の複眼を通じて完全に明らかになる。1年間この紙面を率いてくださった白智延、金素延のお二方に感謝申し上げる。「作家スポットライト」は最近小説集『灰色文献』を出版した中堅作家のカン・ヨンスクが主人公である。隠喩とアレゴリーに精通しており、なおかつ時代的真実に独特に根を下ろしたカン・ヨンスクの作品世界を文学評論家のパク・インソンが細心に分析する。

「対話」は連続企画「韓国の『保守勢力』を診断する」の最終回として財閥問題を取り扱う。財閥中心の経済構造がどのように韓国の政治地形の中で保守化傾向を生み出したのか、ソン・ウォングン、シン・ハクリム、イ・ウォンゼ、イ・イリョン等の専門家が討論する。最近政局を強打した国政壟断事態とも深く関係するテーマであるため、財閥の現在とその作動メカニズムを点検し、新たなシステムを模索する。

「論壇」には2本の注目できる論文が掲載される。イ・スンファンは、アメリカのアジア回帰、北朝鮮の統一大戦論、韓国のサード配置がともに戦争脅威を高める政策であることを説得力をもって主張しながら、壊れてしまった平和交渉テーブルを復元する道を提示する。スヴェン・ルティケン(Sven Lutticken)の論文は「所有権」という範疇と芸術作品の間の相関関係について歴史的解明を試みた重要な論文である。剽窃論議の進展に有益な参照点を提供するであろう。「現場」では連続企画「少数者の目で韓国社会をみる」の最終回としてイ・ヒャンギュの論文を掲載する。いわゆる「脱北者」と呼ばわる北朝鮮移住民の少数者的生活をその実状に即して強烈な響きを伝える。柯思仁の論文は、「中国崛起」という巨大な挑戦の前にして「文化主体性」の危機を迎えたシンガポールが東アジア論議の主要なカギの一つであることを浮き彫りにしている。

「散文」としては、釜山に住む小説家のキム・ゴムチの生々しい地震体験談と、『ドン・キホーテ』の作家・セルバンテスの400周忌を祝うアリエル・ドルフマンの論文を載せた。今季にも注目できる新刊を紹介する「寸評」欄は多くの討論題材を提供する。各分野の専門家の識見が遺憾なく発揮され、去る1年間固定筆者として活躍してくださったチン・テウォンとチョン・チヒョンお二方のご苦労にも心よりお礼申し上げる。

第31回萬海文学賞は既存の労働小説の硬直性から脱し、独特の文学的成就を成したイ・インフィノ小説集『廃墟を見る』に与えられた。なお、新しく施行される萬海文学賞特別賞部門は416セウォル号惨事作家記録談の『また春が来るでしょう』とキム・ヒョンスの『少太山評伝』が共同受賞された。第18回白石文学賞は中堅詩人のチャン・チョルムンの詩集『比喩の外』に与えられた。受賞者の方々にお祝いの拍手をお贈りする。

もはや冬である。この冬がどれくらい過酷なものになるか誰も断言できない。セウォル号惨事で大事な家族を亡くした人々は依然として街に残って3回目の冬を迎える準備をしている。真実は明らかにされておらず、誰も責任を取らなかった。昨年11月の民衆総決起現場で警察が撃った水鉄砲に撃たれて倒れた後、病床で残念ながら亡くなった故白南基氏の葬儀は遺族と市民が見守る中、死亡41日後にやっと厳かに執り行われた。我々皆の喊声があの世の故人にも聞こえただろうか。『創作と批評』ももう一度奮発を誓う。

 

姜敬錫

(翻訳: 李正連)