亀裂を恐れない共同の生活 / 宋鐘元

 

創作と批評 177号(2017年 秋)目次

 

文在寅政権が今後5年間を「国民の時代」と規定した。この規定には、昨年の冬、街を埋め尽くした「ろうそく」が国民主権の回復の契機をつくったという判断と、新政権がその流れをつないでいくという意志が内包されている。ところが、そのような意志が実行される過程が容易いとは断定できない。政府の言う国民という表現の中に、自身の居場所は無いような印象を受ける人々が登場する余地が少なくないからである。すでに新政権の政策に対して不満や憂慮の声があちこちから聞こえる。

 

共同の生活の中に内在している亀裂に関してなら、今日の芸術作品もそれを見逃さない。ドキュメンタリー映画「共同正犯」(キム・イルラン、イ・ヒョクサン監督、2016)は2009年龍山惨事当時見張り台にいた撤去民5人のインタビューを中心に構成されている。周知のように、火炎に包まれた見張り台からある人は逃げ出し、ある人は逃げ出すことができなかった。生き残った人は仲間を残したまま見張り台から逃げ出したという罪悪感に囚われるだけではなく、法廷では「共同正犯」という名で有罪判決を言い渡される悔しさも経験する。ところが、同じ苦痛に苦しみながら、互いを慰めあうような人たちの間に意外と分裂が生じる。昨日の仲間が今日の敵になってしまった状況。罪悪感と悔しさと憤怒を持ち、各自の生活に戻ると、自分たちを結束させた志や意志よりは、潜めていた疑問や不満がより鋭く表出されたのである。

 

ところが、映画は、これが真実の全部とは言わず、人物間の亀裂を簡単に縫合もしない。その代わりに、人物が内部で起こっている亀裂の表情を実際に対面する過程を追っていくだけで、それによって亀裂という結果を無視しないように導く。亀裂の苦痛は残酷だったが、それを直視する経験の中で理解と共通の感覚が少しずつ回復される。相互の最も弱くて純粋なところを見せ合い、目を合わせながら互いの苦痛に反応し、対話し始めたのである。

 

良い芸術作品はいつも我々が誰なのかを教えてくれるだけではなく、表現の中に生活の空間を新たに開き、さらなる世界へ進んで行く行動の糸口のようなものを与えてくれる。「共同正犯」は、我々を規定するアイデンティティが絶対的でないという事実を教え、獲得したアイデンティティの向こうに共同の場があるとも暗示する。民主主義は差異と多様性に対する認定を根本条件とするが、一方で共同の生活の主体として生まれ変わるためには、差異と多様性だけを論じるところにとどまってはいけない。差異を言うと同時に、共同を論じるのは一見矛盾と飛躍のように見えるが、私たちの考えの外で実際に起こっている事件は、決定的な瞬間、その矛盾を事件の主体が形成される過程の中に溶解させる。

 

昨年の冬、街に溢れた「ろうそく」の中心は特定の個人に帰属されないであろう。またろうそくの現場を経験する中で表出された様々な差異や葛藤から見られるように参加者の間に緊張もあった。ところが、その葛藤や緊張の中でも大きな共同の方向がなかったというのもまた不可能である。多くの人々が共感した「これが国か」という叫びには、私の生活に対する問いだけではなく、私の隣の人たちの生活に対する問いも含まれていた。そのような共通の感覚が政権を変え、集会参加者の内面にも何か新しい気持ちと思いを湧き出させた。念願というべきか。言い換えれば、持続的な考えと強烈な願いが一箇所に集まり、動く中心を作ったのである。

 

ろうそく集会以後、大統領選挙を経て文在寅政権の初期局面を通過する今も、内部の亀裂を避けずに、共同の場をつくることは重要である。例えば、サード配置、増税、新古里原発5・6号機建設の中断などをめぐる内部の葛藤と亀裂は簡単には解決できない。これらの事案はそれぞれ南北関係及び対米・対中外交、分配正義と福祉、自然にやさしいエネルギーへの転換というより大きな政治的・経済的・社会的課題と噛み合っている。これから、ろうそくを持ち上げながら志を共にした人々が、相互の志が少しは異なっていたのではないかと問いかけ、点検する時間が長く展開されるのではないかと慎重に予想してみる。これまでは新しい政権と文在寅大統領の取り組みに歓呼する声がもっと大きい。しかし、この歓呼の声が今の社会にもう不便や不足さはないという錯覚をつくってはいけない。文在寅政権は高い支持率を政府に対する好感として断定しないでほしい。そして、市民の共通の熱望を把握し、実現することに疎かになる瞬間、ろうそく民主主義の実現が難しくなるという点を念頭に置かなければならない。

 

ろうそく市民も民主政権の主権者として画然と変わった主体性を見せる必要がある。新古里原発5・6号機の将来に対して、公論化委員会と市民代表参加団に事実上の決定権を与えることにしたことは、ろうそくの念願を受け継ぐ意義深い対応とみられる。内部の差異と亀裂を下手に縫合せず、共通の感覚と共同の場を確保する時代的課題に市民が直接主体として関わることだからである。このような市民参加型民主主義の実験は多様な差異を配慮し、尊重しながら、共同の生活をつくろうとする試みとしてみられる。

 

これから私たちは各自の差異にいっそう敏感になるが、多様性という価値を絶対化してはいけず、とくに私たちの生活を決定づける現実の事案に対して開放的で主体的な姿勢で臨む必要がある。なお、私と関係を結ぶ人々の差異を理由にして彼らと距離を置く態度からも脱しなければならない。異見の表出と意見の衝突こそ今共通善のための事件の種になり得、また尹東柱の詩句を借りて言えば、私たちは皆「手をつなげば、皆善良な人たち」だからである。

 

 

今号の特輯「コモンズと公共性」では、新自由主義的資本主義による二極化とケアの危機に対応する方法として、共有と公共性に基づいた新しい共同体またはコモンズに注目し、そのようなコモンズをどのように運営していくか言説的争点と具体的な実践の問題を検討したい。白英瓊は、現在韓国社会の深刻な少子高齢化現象の裏面には金融資本主義による社会再生産の危機と「ケアの危機」が作動するが、ケア労働の負担が貧しい人々、とくに女性に転嫁されていることを指摘する。彼は、このような社会再生産とケアの危機を克服する言説的代案としてコモンズ論を検討し、コモンズがケアを中心に新たな社会的関係を想像し、共同の生活を可能にさせることによって、現在の危機と福祉問題を解決するのに緊要な糸口を提供できると主張する。

 

チョン・ウノは、深刻化するジェトリフィケーション現象を穿鑿しながら、問題の核心として、「共に」つくりだした空間の価値が社会的に「共有」されないまま流通されているという点」を指摘する。ジェントリフィケーションに対応する国内外の具体的な事例を検討しながら、財産所有権の力が創出された空間価値を独占する歪曲された所有構造と権力関係を正すためには、共有構造をつくりだす技術と共有を通じた新しい主体性及び共同体の形成が必要であると強調する。デイビッド・ハーヴェイは、ギャレット・ハーディンの『コモンズの悲劇』に内包された私有の問題点を指摘しながら、コモンズをめぐって展開されてきた多様な議論を批評的に検討する。とくに、ロックの財産権論議を論駁したマルクスの見解を現代的観点から読み解く。国家ではなく、労働者集団が所有権を持つのがなぜ正当なのかを明らかにし、資本の地代搾取による悲劇を克服するためには、富の新しい共同性を確立しなければならないという彼の主張はコモンズ論に革新的な論拠を提示する。

 

「対話」は文在寅政権の100日を評価する。仁済大学教授のキム・ヨンチョルが司会を務める中、民弁事務総長のカン・ムンデ、国会議員の李哲熙、Oh my Newsのチャン・ユンソン記者が討論者として参加した。新政権の時代的課題と支持率のうなぎのぼりの意味を一緒に分析し、外交・安保とサード問題、脱原発政策と新古里5・6号機の建設中断の可否、最低賃金の引き上げと増税問題等の新政権が抱えている敏感な事案に対して、討論者各自が率直な見解を示す。彼らが交わす対話を読んでいると、現政権が難題の山積している状況をこれからどのように打開するか非常に知りたくなる。

 

今号の「論壇」は計4本の論文で構成されている。ソ・ドンジンは、技術ユートピアに内包されている意味を鋭く分析し、「4次産業革命」という疑わしい概念を構成するイデオロギー叙事の内面を批評的に検討し、それを基に技術ユートピアから私たちが追求しなければならない有意味な未来像が何かを問う。ウィリアム・デイヴィスは、新自由主義という論争的用語の中に含まれている矛盾と非一貫性を分析するため、新自由主義を3つの時期に分ける必要があると指摘し、その各々を「戦闘的新自由主義」「規範的新自由主義」「懲罰的新自由主義」と命名する。2008年以降の懲罰的新自由主義はそれ以前の局面と違い、自身の反対派をパラノイア的に処罰することに没頭しながら、過去よりもっと甚大な弊害を招くという主張が、説得力を持つように聞こえる。

 

賀照田は、文化大革命以後改革開放の時期を意味する「新時期」が毛沢東時代の経験を深く反省しながら、当時の路線方針に対して十分な「撥乱反正」を経たと評価するのは事実と符合しないと指摘する。さらに、習近平主席の確信に満ちた改革方式と「党の領導」に対する極端な強調も「状況の複雑性に対する非常に慎重でありながらも開かれた態度」の重要性を看過する問題点があると指摘する。林熒澤は、今年の5月に逝去した碧史・李佑成の人生と学問の平凡でない行跡を検討しながら、今日においても依然として意味のあるその志を反芻する。碧史先生の学者としての成就を鮮明に描くと同時に、近代的知識人としての徹底した人生行路も綿密に分析する論文である。学問する主体が歴史の主体として統一されなければならないことを強調する碧史の忠言は、今日の研究者が再検討すべき金言ではないかと思われる。

 

「現場」では、オ・ヒョンチョル教授が代議民主主義の問題点を補完できる市民議会の必要性を論じる。市民の集団的意思決定の重要性とその根拠、それを制度化できる具体的実践方法と外国の事例までを詳論するだけではなく、「市民議会の討論が国会討論よりもっと理性的で合理的な結果をもたらす根拠」を事細かく示すこの論文は、脱原発や4大江の堰の撤去問題など利害当事者や政党間の対立によって合意点が見つけにくい難題を解決していくことにおいても示唆するところが大きい。

 

「作家スポットライト」では、ハ・ソンラン小説家が新作『屏山邑誌 編纂略史』を出版したチョ・カプサン小説家をインタビューした。報道連盟事件という分断韓国の耐え難い歴史的悲劇を持続的に、そして黙々と小説の中の空間に持ち込んできて対決する作家の面貌はもちろんのこと、その時間を経験した人物の人生に対して下手な価値判断をせず、事実的に描き出す作品の力を繊細に分析する。

 

「文学評論」では、姜敬錫がペク・ミンソクの『恐怖の世紀』とチェ・ジニョンの『日が暮れる側へ』を通じて黙示録的叙事の新たな可能性を模索する。「暴民情動」を強烈に描いたペク・ミンソクの作品と、「異なる形で存在する可能性」まで押し進めていく力を持つチェ・ジニョンの作品が、現実の変化不可能性を信仰化する性格の黙示録から脱皮し、現在私たちが生きている場とこれから進むべき場を歴史的感覚の磁場の中で叙事化した成就を上げたという診断が興味深い。キム・ヨンヒは前号(夏号)の特輯の問題意識を受け継ぎ、フェミニズムの観点からみた韓国現代詩について論じる。女性主義的観点から周期的に問題提起を受けた金洙暎の詩に対する妥当な解釈の方法を集中的に点検しながら、最近の詩が固着化したジェンダーフレームを崩し、新しい感性体系を構成する方向へ向かっているかを有意味に診断する。

 

「創作」欄には特別な名前が刻まれている。まず、チェ・ジウン詩人とイム・クギョン小説家が今年の創批新人文学賞の主人公となった。残念ながら、新人評論賞は当選作を出すことができなかった。「詩」欄には、キム・ヒョンス詩人が故ハン・ジヒョン先生の告別式で朗読した弔詩が特別に掲載されている。故人に改めて哀悼の意を表し、良い詩を雑誌に掲載してくださった詩人に感謝の気持ちをお伝えしたい。ソ・ジョンチュン詩人をはじめとした12人の新作詩は、韓国詩の生々しい現場を見せてくれる作品である。「小説」欄はペク・ミンソク、チェ・ミンウ、ハン・ウニョン作家が豊富に飾ってくれた。キム・クミの長編連載が3回目に入った。小説の中の「キョンエ」に魅了された読者が多いという噂があちこちから聞こえてくる。作家の労苦に応援を贈る。

 

今号から「文学フォーカス」は、本誌の編集委員であるハン・ヨンイン評論家とパク・ソラン詩人が率いる。ゲストのハ・ジェヨン詩人まで3人の声が今季の注目すべき作品の意味と限界を多彩な観点から提示する。思慮深い読みをする多くの読者に有用な情報を提供し、知的な刺激になると信じる。

 

「寸評」欄では、国内外の多様な分野の8冊の書籍を取り扱った。いつものように読書の手引きになると同時に、考えさせられる興味深い読み物である。「読者レビュー」では、キム・ニョン評論家とイ・コウン教師が前号の創批を綿密に読み込み、愛情あふれる感想文を載せてくれた。

 

今年の申東曄文学賞は、詩人のイム・ソラと小説家のキム・ジョンアに贈られた。申東曄文学の精神を各自の方式で受け継いだ二人の作家に激励とお祝いのお言葉を贈りたい。なお、萬海文学賞の最終審対象作の目録と審査評を載せた。冬号に受賞作が発表される予定であるが、引き続きご関心いただきたい。

 

最後に、お知らせがある。来年11回目を迎える創批長編小説賞は募集範囲を原稿用紙500枚程度の軽長編まで広げ、賞金を3千万ウォンに調整した。より詳細な内容は公告をご参照いただきたい。

 

 

蒸し暑い日が続いた。その中でも原稿依頼を承諾してくださった筆者の皆様から玉稿をいただき、編集委員会が誠心誠意を尽くしてまた1冊の雑誌を世に送り出す。さらなる世界を夢見る方々に今回の秋号が良い贈り物になっていただきたい。今後も同時代の人々がそれぞれの個別の生活とともに、意義深い共同の生活を図るのに有益な雑誌になれるよう最善の努力を尽くすことを約束する。

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)