思惟・情動・リアリズム / 韓基煜

 

創作と批評 186号(2019年 冬)目次

 

韓基煜(ハン・ギウク)

文学評論家、仁済大英文科教授。『創作と批評』編集主幹。著書に『文学の新しさはどこからくるのか』など。kiwookh@gmail.com

 

 

1、思惟と情動

 

数か月間全国を騒がせた「チョグク事態」(法務部長官指名と辞任)でしばしば思い出させたのは思惟と情動の問題だった。韓国社会のように躍動的で複合的な現実において、物事をきちんと考え感じることがどれほど難しいか、あらためて実感したのである。思惟と情動の要素が、2014年のセウォル号惨事から、2016~17年のキャンドル抗争を経て、現在に至るまで、文学で重要視されてきたのは決して偶然でない。

ファン・ジョンウンは中篇「何も話す必要がない」(『ティディの雨傘』創作と批評社、2019)で、ある特定の意見と論理を、何も考えず反復する時の害悪を取り上げて論じる。小説の話者はハンナ・アレントの『エルサレムのアイヒマン』に登場する「悪の平凡性」(banality of evil)の概念について、「「平凡性」と翻訳されたbanalityは(…)「平凡性」よりは「常套性」に近い言葉」と評する。話者は、保守新聞の語彙と論調をまねて、何かと言うと「北朝鮮支持とアカ」を口走る父親の言葉に、「アレントが描写したアイヒマン式の常套性」を目撃し、それが「語ること、考えること、共感することの無能性」であると指摘する(219~221頁)。チョグク事態をめぐる政局で、このような「無思惟」を特徴とする常套性は、話者の父親のような保守・保守側に著しく見られるが、進歩側の「陣営論理」もこれと無関係とはいえない。

だが、常套性から逸脱した思惟とはどのようなものか。この問いの前で、思惟の辞書的な定義――たとえば「概念、構成、判断、推理などを行う人間の理性作用」――はさほど役に立たない。概念、構成、判断、推理などは世界と人間の認識において必須の頭脳活動だが、それ自体では思惟の常套性や機械的な操作を免れることはできない。思惟の本質が、人工知能(AI)で代替可能な知的な頭脳能力にあるのではなく、世界や人間、科学技術に対する根源的な問いを伴う、哲学的で詩的なものであるべき理由がここにある。「第4次産業革命」と呼ばれる最先端の科学技術の時代は、人間の自然に対する支配力と物質的な力が途方もなく肥大化するために、それ以前の時代よりもこのような思惟がより切実に要求される1

チョグク事態を通じて見られるマスコミの恣意性や混濁した言語環境も、思惟の重要性を振り返らせる。マスコミ改革は必要だが、それだけで問題が解決されそうでないのは、新聞や公営放送だけでなく、保守系ケーブルテレビ(「総篇」)、SNS、ユーチューブをはじめとするソーシャルメディアにおいて、報道の真偽と適切性をいちいち点検することは不可能だからである。事実と偽りを分けずに「誰でも物申す大祭典」を事とするポピュリズム的なマスコミの形態は、トランプ時代のアメリカをはじめとして、全地球的に蔓延した文明的な弊害になっている。個別の主体が思惟と真理に目覚めていることが、何よりも重要な世の中になったのである2

チョグク事態において顕著なのは、情動の要素が強く作用しながら、市民の多数が「情動的な主体」になりつつあるという事実である。たとえば「私たちがチョグクだ」というスローガンは政治的選択の次元を越える。「チョグク支持」や「チョグク守護」は検察の過剰捜査に直面して掲げることが可能なスローガンだが、「私たちがチョグクだ」は、そのような合理的な次元以前の、「身体」が介入するスローガンである。このような情動的なスローガンに対しては、即刻応答して参加したり、あるいは「私はチョグクでない」という身体の反応が表明される。チョグク前長官が辞退したのは他の理由もあるだろうが、後者の反応を示した人々がより多かったためのように思える。特に青年世代の抵抗が激烈だったが、それは彼の公言とは異なり、彼と家族の実際の人生が、キャンドル革命で成立した政権が掲げた平等・公正の指標からはずれるだけでなく、青年世代の大多数の現実とも異なっていたからである3

この点で世代の新旧を問わず、資産・所得の不平等とともに極端に疾走する資本の収奪の方式が、大多数の市民を情動的にする根本的な原因ではないかと思う。俗に私たちの時代の資本主義の特徴として、新自由主義の無慈悲な搾取と無限競争、各自の生き残りを指摘するが、その非情な現実の核心要因は、労働を支配する資本の方式が変わったことから始まる。以前は資本家が剰余価値を絞り取るために労働者の再生産を保障して、有り余った労働者を産業予備軍として管理する方式だったとすれば、現在は「再生産なき蓄積」、すなわち労働者らを封鎖/廃棄処分する方に順次変わってきている。剰余価値の搾取よりも地代(賃貸料)を選ぶような「奪取による蓄積」と、巨大企業が都市の不動産を買い入れることによって、労働者らを都市の外に「追放」する形態もこれと類似したケースである4。このような極端な蓄積方式が長く持続するはずはないが、少なくともしばらくは大多数の市民らが封鎖・廃棄・追放に耐えなければならない状況である5

本稿は、キャンドル革命期の作家たちがこのような困難な現実にどう対応したかを、いくつかの注目すべき小説を通じて見てみたい。文学が思惟の住処であるとすれば、常套性を越えようとする奮闘は不可避になる。特にリアリズム小説は、現実の認識と再現を重視する分、常套化の危険がより大きい。したがって常套性との対決はより一層重要だが、その奮闘の過程で情動的要素に目を転じることは避けられない。まずこの時代の文学の特徴と、新たに提起されたリアリズムの議論を概観し、ファン・ジョンウンやキム・セヒのいくつかの小説を中心に、思惟と情動の要素がどのような方式で作動するのかに焦点を合わせてみたい。

 

2、リアリズム文学の再登場

 

キャンドル革命期の韓国文学において、女性作家らの猛活躍とフェミニズムはすでに大勢となった。「大勢」といったのは、2016年にハン・ガンの『菜食主義者』(創作と批評社、2007)がブッカー賞国際賞を受賞したことや、最近映画化されたチョ・ナムジュのミリオンセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』(民音社、2016)だけを念頭に置いた話ではない。フェミニズムを前面に出すことはなくても、以前の世代とは異なり、最近の女性作家らの作品では、女性が自分の人生の主体であったり、主体になろうとする過程が基本値として与えられる。このような現象は、この時期に同じく浮上したクィア文学にも確認できる。たとえば以前の時期にはパク・サンヨンの「ジェヒ」のような堂々とした女性人物の出現は困難だっただろう。最近注目されるSFなども例外でない。キム・チョヨプやパク・ムニョンなどの女性作家の小説は別にしても、現段階でSFを内実豊かに論じるのは難しい。このように、女性の「主体になること」という基本値を共有するものの、素材や接近方法、感受性において多様な試みがなされており、それが現在の韓国文学に新たな活力を吹き込む主な源泉である。このことが可能になったのは、20代から40代にかけた堅実な女性読者層が堅く支えているからである。

韓国文学の主力がいつの間にか女性作家・読者に変わったのは、2016年の江南駅殺人事件と「文壇内性暴行」事件を契機に触発された新しいフェミニズムの波が一役買ったことは明らかである。だが、それ以前の他の要因も作用した。相当数の作家らが2008年の龍山惨事と2014年のセウォル号惨事哀悼(63回目を迎えた「304朗読会」を含む)に参加しながら、社会的弱者・少数者らと連帯する経験を持った。そのような連帯の経験がフェミニズム運動と結びついて、作家個人の倫理だけでなく、作品的な性格自体を変化させた。その結果、ハン・ガン、クォン・ヨソン、チョン・イヒョン、ファン・ジョンウン、チョ・ナムジュ、チョ・ヘジン、キム・エラン、キム・クミ、チェ・ウンミ、チェ・ウンギョン、キム・ヘジン、イム・ソラ、キム・セヒ、ペク・スリン、チェ・ジニョンらの注目すべき短篇・中篇・(軽)長篇が相次いで登場した。

龍山惨事からキャンドル革命/フェミニズムに達する間、女性作家の作品は徐々に社会現実を重視し、フェミニズム美学と政治をつなげるリアリズムに進んだものと思われる。そしてこのような女性作家のリアリズム文学が、2000年代以降盛んに行われた多様な反再現的なポストモダンの物語――最近の「後期写実主義」まで含めて――を押し出し、韓国文学の流れを主導することになったのも明らかである。文学史的に見るならば、男性作家中心の1970~80年代のリアリズム文学に続いて、女性作家主導のリアリズム文学が到来したのである。先行のリアリズムが四月革命(1960)・光州抗争(1980)・六月抗争(1987)の変革的な熱望の中で育ったように、龍山惨事・セウォル号惨事の痛みを越えて、キャンドル革命/フェミニズムを出現させた反転の歴史の中にリアリズムが再登場したのは、もしかしたら当然のことである。この時提起される問いは、2つのリアリズムがどう関連してどう違うのか、そして現在のリアリズムが以前の時代のリアリズムに比べてどの程度の水準なのかという問題である。関連する2つの問いに対して自信をもって答を出す能力はない。代わりに深刻な不平等時代の写実主義文学一般が陥りやすい自然主義的傾向、すなわち不公平な現実の暴露や迫真に迫った再現が、世の中の変化に尽くすどころか、世の中の既存秩序を強化する逆説を克服した水準なのかを見てみたい6

不平等や階級の問題と関連して最初に思い出される小説はファン・ジョンウンの「羊の未来」 「誰が」「上流には猛禽類」(『誰でもない』)である。これらの小説は先に言及した資本の新たな蓄積方式にともなう労働者封鎖・廃棄・追放の様相と、それが労働者個人に及ぼす影響――羞恥と怒り、罪悪感――を如実に示すが、特に「不平等の再現が、不平等の「現実主義」に抱き込まれない方式」なのかを論じるには、作品「上流には猛禽類」を見るのが最もふさわしいだろう。

小説の一人称話者は、かなり前にボーイフレンド「ジェヒ」と結婚するつもりだったが、ある事件を契機に関係がこじれて別れてしまったいきさつを語る。話者はジェヒが両親同伴の樹木園へのハイキングに同行することになるが、炎天下で昼の弁当を食べる場所を探し、窮余の策で坂の下の渓谷の水辺に降りて行くことになった。「直観的にその場所がいや」(83頁)だったという話者は、渓谷の水で体を洗うジェヒの両親に対するおぞましさ、ないし嫌悪感を隠せなかった。お昼の後で坂道の上を示す矢印とともに、「猛禽類畜舎」と書かれた案内板を発見した話者は、ジェヒの家族に「汚水です。/あの水はみな、獣たちの汚水ですよ」(86頁)とあたかも報復するように話す。話者はジェヒとすぐに別れることはなかったが、この出来事が2人の関係にとって致命打になったことを感知する。

この小説は階級/階層の要素を組み込んでいるが、ある解決策や展望を提示する代わりに、おおよそ2つの質問を投げかける。最初の質問の脈絡はこうである。華やかに生きたジェヒの家族――4人の姉と両親まで含めて計7人――が、ジェヒの母親と親しい知人の詐欺行為で巨額の借金をかぶることになった時である。ジェヒの両親は心中や夜逃げまで含めてかなり悩んだあげく、苦労しても一緒に暮らしながら借金を返すことにしたというのである。それがジェヒの家が貧困を抜け出せない経緯である。このような経緯を聞いた話者は、そのような決定が「不道徳だと考える」。「ジェヒの両親はなぜ夜逃げしなかったのだろうか。(…)自分たちの良心と道徳に従ったが、娘たちの人生を考えた時、不道徳な選択でないか」と考える(69~70頁)。夜逃げをして新たに出発するのと、苦労しながら借金を返すことのうち、どちらが正しいかも一つの問いだが、興味深いのは、話者の「不道徳」という判断である。ジェヒの両親が自分たちの良心と道徳に従って選択した決定に対して、「不道徳」と感じるのは、道徳というものも相対的であるという意味なのか、あるいは話者自身の階級的な偏見がそのような印象を誘発したのか。2つ目の問いはさらに微妙である。

この小説は階級/階層の要素を組み込んでいるが、ある解決策や展望を提示する代わりに、おおよそ2つの質問を投げかける。最初の質問の脈絡はこうである。華やかに生きたジェヒの家族――4人の姉と両親まで含めて計7人――が、ジェヒの母親と親しい知人の詐欺行為で巨額の借金をかぶることになった時である。ジェヒの両親は心中や夜逃げまで含めてかなり悩んだあげく、苦労しても一緒に暮らしながら借金を返すことにしたというのである。それがジェヒの家が貧困を抜け出せない経緯である。このような経緯を聞いた話者は、そのような決定が「不道徳だと考える」。「ジェヒの両親はなぜ夜逃げしなかったのだろうか。(…)自分たちの良心と道徳に従ったが、娘たちの人生を考えた時、不道徳な選択でないか」と考える(69~70頁)。夜逃げをして新たに出発するのと、苦労しながら借金を返すことのうち、どちらが正しいかも一つの問いだが、興味深いのは、話者の「不道徳」という判断である。ジェヒの両親が自分たちの良心と道徳に従って選択した決定に対して、「不道徳」と感じるのは、道徳というものも相対的であるという意味なのか、あるいは話者自身の階級的な偏見がそのような印象を誘発したのか。2つ目の問いはさらに微妙である。 

問題はこのような「現実主義」が不平等に関して感じ、考える方式に影響を及ぼすだけでなく、不平等にイデオロギー的に抵抗する方式を再び苦悶するよう要求するという点である。将来不平等が改善されるといった自由主義的約束の欺瞞性を指摘することは、差し当たりの改善に対する急進的要求へと繋がることもありうるが、不平等は決して改善されないという考えへと帰結されることもありうる。常識から外れた酷い不平等を暴露することは、それを正そうという訴えにもなりうるが、それをほとんど超越的で存在論的な秩序のように見えさせることもできる。不平等の「現実主義」は不平等な現実を「不平等が決して解決されない現実」として感じさせようとする。バウマンは「永久器官」という言葉で不平等に対する慨嘆と警戒を意図したが、もしかしたら不平等を「永久器官」に見えさせることが、不平等を擁護する人々が最も望むところであるかも知れない。問題の解決を試みる人々はよく問題を目に見えさせることがその第一歩だと語る。しかし、不平等が可視化を通じて自らを強化することもできるならばどうなるか。不平等の可視化、または不平等の再現が不平等の「現実主義」に包摂されない方式を苦悶すべき必要がここにある。 

 

ときおり考えてみる時がある。
いっそ私がジェヒの両親に積極的に同調して、快くその坂道から降り立って渓谷の底に楽しそうにゴザを敷いたとしたらどうだったろうか。その方がみなによくはなかっただろうか。そうするのが正しくなかったのだろうか。(87頁)

 

話者がこのように自問することになったのは、今の夫よりジェヒの方に未練があるからである。夫と一緒にいながら「どうしてジェヒじゃないのか。/そう思う時は捨てられたという気持ちで寂しくなる。ジェヒとジェヒの家族、無愛想に見えて多少疲れたが、やさしい人々に」(87頁)と思うほどである。引用した話者の自問を、作品の最後の発言――「私はその日の外出に関しては言いたいことがたくさんあると思ってきた。/みなを当惑させ悲しませたのは私ではないということだ」(88頁)とつなげて読めば、話者は初めは自身の行動が誤りでないと考えたが、今はそのような考えが動揺している状態である。だとすればこの自問には隠し絵のようにもう1つの問いが底辺にある。問題の場所を話者が「直観的に」嫌だと思うのは、その場所が実際にそれだけおぞましいものだったからなのか、あるいは、そのような情動に陥らせたのは、話者の階級的な感受性――たとえば下層階級とその環境に対する嫌悪感――や階級を越えた傍観者的な態度のためか?

このような問いに最後までついて行くと、この小説の真ん中に様々な層の曖昧さがあるということを発見する。たとえば借金問題をめぐってジェヒの両親と話者のうちどちらが正しいのかもそうだが、話者がジェヒと結婚した場合、今よりもましな生活を送っただろうかという問いに対しても確答しにくい。曖昧な層位を経由するように誘導しながら問いを投げる時、作家がすでに結論に到達した後に問いかける場合もあるが、そのような最終的な結論もなく問う場合もある。前者の方式は啓蒙的な悟りを与えたり真実がわかる時の反転効果を上げるが、思惟を触発することで常套性を突破するには後者の方がさらに強力である。この作品の曖昧さは最終的には後者に属すると思われ、したがって読者は共感できるものの、とても信じられない話者に比べて、自身はどれほど階級的偏見から自由なのか、階級が人間関係にいかなる作用をするのかなどを問うことになる。要するにこの作品は、私たちの生の基本的な諸要素――愛と家族と階級――を常套性に縛られずに考えることを要求することで、不公平な現実を迫真感をもって再現するほど、既存の不公平な秩序が強化される、自然主義的な逆説を突破する一例を示している。

 

3、情動、「生動感」、リアリズム

 

最近のリアリズム論で情動(affect)の要素を積極的に評価するのにはそれ相応の理由がある。斬新な現実の再現も繰り返されれば躍動感が落ちるので、新たな感興、すなわち既存の再現体系で名を与えることができない情緒や感情に注目することになるのである。フレデリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)が『リアリズムの矛盾』でリアリズムの対立的な2つの源泉として「物語的衝動」(narrative impulse)と「情動」を挙げ、後者に傍点をつける新しいリアリズム概念を提示したのも、このような傾向を反映する7。西欧リアリズムの歴史を冷徹な科学者のように観察してきたジェイムソンは、すでにフローベールやゾラの時代から始まった情動、あるいは「(視覚的)生動感の衝動」(scenic impulse)が小説の物語の原則を倒して、リアリズムは結局、破片化され解体されてしまうという予測を提出する。

ジェイムソンが情動の潜在力をこのように高く評価するのは、彼の構図において「物語」はすでに起きた過去に属するのに比べて、「情動」は過去・現在・未来の線形的な時間帯と次元を異にする「永続的な現在」(perpetual present)だからである。そして私たちの同時代のポストモダンな「永続的な現在」は、「身体への還元」(reduction to the body)という特徴を持っているというのである(27~28頁参照)。要するに情動は、身体の次元で感じられる強度(intensity)を通じて、「永続的な現在」あるいは「生動感ある現在」(scenic present)を実現する。おそらくドゥルーズ(G. Deleuze)の情動概念にもとづいたジェイムソンの「新しい」リアリズム論――一種のリアリズム解体論――は、現在のポストモダニズム/ポスト構造主義文学論の傾向性を代弁する面があるだけに綿密な論駁が必要だが、ひとまず彼が語る「現在」や「身体」が、生きた存在の「本当の」身体や時間なのか疑わしいということをまず指摘したい。

文学というコモンズ(共有領域)は、作家と読者を含む同時代の人々の「協同的創造」を通じて生成され持続する世界だが、ジェイムソンが想定する文学には、そのような「協同的創造」の場が不在である。1編の詩は黒い文字に対する個別読者の(再)創造的な反応によってのみそこに存在するが――そのような過程がなければ詩は詩でなく、単なる黒い字に過ぎないのである――ジェイムソンが想定する文学は、そのような再創造なくそのまま与えられるようである。換言すれば、ジェイムソンの「情動」「生動感の衝動」「永続的な現在」のような発想は、生きた身体で反応する主体的な読者よりは、身体-機械の感覚資料によって作動する受動的な読者の方に向いている。ジェイムソンは、情動によって触発される「生動感」と、具体的な現在の中の人間の生から出る実感を区分しない。そのような実感のためには、社会現実と一人一人の人生の脈絡を提示する物語が必要だが、そのような物語の必要性がますます減少していると考えるのも同じ理由である。

だからといって、作品に情動を呼び込んではならないというわけではない。むしろその反対である。多数の人々が情動的主体になっていくところで、作家が情動を冷遇するのは賢明でなく、もしかしたら職務怠慢でもあるからである。だが、情動のアナーキズムにどのように対処するかが重要である。ジェイムソンは新しい「生動感の衝動」が行う最後の戦闘は、「情動的な衝動を制御するような観点の支配に対抗すること」(11頁)になるだろうと予測するが、リアリズムの立場では、物語的「観点」(point of view)の守護がそれだけ重要な任務になるわけである。だが、小説の「観点」をどのように決定し、どのような方式で運用するかの問題は相変らず解決されない。この時代の現実に見合った物語的「観点」が何であるか、常にあらためて問う必要があり、この場合にも重要なのは思惟である。情動的な衝動に目覚めている思惟をもってこそ、新しい現実に対応する物語的「観点」が何かをきちんと見定めることができるからである。

情動的要素をうまく適切に使えば、状況や人物の生動感を高められるだけでなく、反復的な物語による常套性や政治的正しさなどの物語の図式性を打破するにも効果的である。たとえば短篇「上流には猛禽類」でジェヒがカートにうず高く積まれた荷物の上で、ゴムひもを引いてその先の金属リングに足首を怪我する場面がそうである。「太いゴムひもの先に、ワシの足の爪のような金属の輪がかかっていたが、それがどこかに間違って引っかかってぐっと解けて、ジェヒの左側の、内側のくるぶしに当たった。小さい石が砕けるような音がした」(75頁)。以降、ジェヒがハイキングの間じゅうずっとびっこを引いていた時、読者らにその音とアザとびっこを引くことで生き生きと伝えられた情動は、既存の象徴機能を一部担うものの、そのきめの細かさが異なる。それが当たるということは、ジェヒの家族内の葛藤と下層階級に加えられる社会的圧迫にさらされたジェヒの境遇と関係があるが、確実にそのような状況の象徴ではない。にもかわらず「小さな石が砕けるような」無情な衝突は作品全体に響きを与える。 

情動的要素を自然だが特異な方式で活用した例として、キム・クミの「セシリア」(『あまりにも真昼の恋愛』)で、セシリアがきついタートルネックの中を引っかく場面がある。後でかなり引っかいて「痛い、痛い」といい、その姿を見守った話者ジョンウンは「そうそう、いつも引っかくんだよ、ねえ、血が出てる?」と聞き返すとき(94頁)、かゆみと引っかいた時の痛さが伝えられる。話者ジョンウンは大学同期の忘年会で「あさみクイーン」というニックネームのセシリアが、実は男性の同期たちに性暴行にあっていたことを知り、現在は有名な舞台美術家になったセシリアに10数年ぶりに会うが、この場面がなかったとすれば、作品の性格がかなり変わっていただろう。性暴行幇助者/被害者間の反省と和解という「政治的正しさ」の側の構図に傾いた小説は、この情動的場面のおかげでそのような常套性をふわりとかわしたという印象である。

 

4、いかに生きるべきか?

 

先の議論で推察できるように、思惟は認識論と倫理学の総合であり、生の具体性の中で作動する。ゆえに生きた一個人が現在の自らの生をどう認識し感じるのかという問題だけでなく、今後どう生きるかという悩みまで具体的に示す時、文学の思惟はきちんと作動しうる。『静かな毎日』に収められたキム・セヒの小説作品が、叙述様式や語法において目立った革新と破格がないにもかかわらず、顕在的な生の真中に入ってくる印象を与えるのはそのためである。もちろん短篇小説の形式では十分に示すことも問うこともできないものが少なくない。だが、キム・セヒは、形式の限界の中にあっても、職場と家という2つの空間を軸に、職場の同僚と上司、友人と恋人との関係、家族と世代と老年の問題まで視野に入れながら、いかに生きるべきかという問いを静かだが緻密な方式で問うている。

「静かな毎日」「ドリームチーム」「感情練習」に登場する職場は、うまく行っている大企業とはほど遠い、劣悪な中小企業のようだが、そのような職場における生が実感できるのは、単に迫真性のある写実主義的な描写のせいだけではない。何よりも話者が観察者の視点でない、当事者の立場に立っているからである8。たとえば「感情練習」で、2人のインターンのうち「3か月のインターン期間を経て1人を採用する」という会社の条件の下で、焦点話者のサンミは、最初は「互いに戦う理由も嫌う理由もなかった」と考えたが、「ある瞬間、自身が彼を負かせたいという気持ちに気付いた。(…)いつからかサンミは実際に彼を嫌っていた」(233~?34頁)。この程度で終われば激しい競争構図でそういうこともあるというだろうが、勝負が自分の方に傾いたと言われた後も、サンミは「一日中パーテーションを間に置いて、向き合ったまま過ごす人を、烈に憎悪したあげく、午後になると頭がズキズキしてきた」(235頁)。このように人間をおかしな情動で染まった「感情練習」をさせたのが、新自由主義の競争体制であるならば、そのような異常状態から抜け出すためには、もう一つの「感情練習」が必要だというのがこの作品の要点である。

「静かな毎日」は、「感情練習」と、激しい競争関係を誘導する体制的な「感情練習」メカニズムは似ているが、その結果が深刻な社会的問題につながりうる場合を示している。ブログ後記のマーケティングが主力の広告代理店に初めての出勤する話者キョンジンは、一緒に入社した3人の新入の中で最も熱情的である。ここでも実感を高めるのは、話者が職場生活で体験した様々な感情――満足感、恐れ、嫌悪感、罪悪感、恥――を自分の内部から語る当事者性である。

 

彼よりも熱心に働くことはできなかった。それも完全に自発的に。20代半ばまでは金を払って何かを学んで受け入れるだけだった。だが今は、金を出すのでなくもらい、自分の頭と指先を使って何かを生産した。その感覚がとてもよかった。役に立つ存在という感覚。もう少し時間を割いて誠意を傾ければ、結果がよりよくなるのが目に見えた。(108頁)

 

これくらいであれば体制側の「感情練習」はほとんど完璧に成功したわけで、いっそ「感情教育」と呼ぶ方がふさわしい。ここで注目すべきは、成功自体よりもそれを導いた主な動因、すなわち「役に立つ存在という感覚」である。労働者が「廃棄処分」なる私たちの時代の状況を振り返る時、この吐露には「使い道のない存在」(ゴミのような存在)をかろうじて免れた人間の成就感と幸福感が濃厚ににじんでいる。しかしこのような満足感は何の保障にもならない。ブログ後記マーケティング業界が収益を出せない状況になると、すぐに職員らが一時に職場を離れざるを得なくなる。また「使い道のない存在」になったのである。

誇張と虚偽が幅を効かすオンライン言語の生態系の問題点を慄然と示したのも目を引く。話者はブログの隣人のメッセージを通じて、毒性物質を含有した殺菌剤「ポソンイ」を自身(「チャタレイ夫人」)のブログでレビューしたことを一歩遅れて知ることになる。ここで「リビングのセウォル号」と呼ばれる「加湿器殺菌剤事件」を連想させる「ポソンイ」事件を扱う方式に焦点を合わせる必要がある。先に言及した自然主義の逆説を勘案するならば、途方もない災難を再現する時、災難の「現実主義」に包摂されない方式に悩むべきだが、この作品は一見、災難が起こらざるを得ない必然性を捕らえているようである。たとえば話者はブログ後記にレビューを書きながら、「こうしても大丈夫なのかと思う時もあった。病院が示した文句を入れて、四角のあごを切除したという後記を作成している時だった。(…)これでもいいのか。しかしまもなくその感覚も消えた」(106~107頁)と告白する。

事実、一人称話者と作家(作品)の「観点」を同一視する限り、この作品は「使い道のない存在」を量産してセウォル号惨事のようなことが起きる、私たちの社会の現実を避けられないものと既定事実化する憂慮がないわけではない。だが、この作品の「観点」と話者の「観点」は微妙に異なる。もしかしたら「上流には猛禽類」の話者がそうであるように、この話者は自身の否定的な面を率直に告白したり隠したりするが、読者は他者に対するこの話者の自己中心的な反応を通じて二重性を目撃することになる。たとえば、入社同期のイェリンが職場に適応できずに退社する頃、イェリンとかわした対話を思い出す場面がそうである。

 

彼女は元気のない姿で、自分はこの仕事が適性に合わないみたいだと言っていた。この仕事が好きになれません。その時、私は口元に浮び上がる優越感を最大限抑制して、心の底から皮肉った。そうでなくて仕事ができないのだろう。だから追い出されるんじゃない。
そしてその時、私は彼女に言った。
「本当? 私はこの仕事が本当に適性によく合っているみたいなんだけど」
彼女は心から同調してくれた。
「はい、ギョンジンさんは本当にそうみたいですね」
彼女はその話を記憶しているだろうか? 私は彼女を追いかけて行って訂正したい差し迫った欲望にかられた。その時はわからなかったが、私もそのように適性に合っているようではない、そう言わなければならなかった。(130頁)

 

「ポソンイ」事件を体験して、話者は自身の誤りを知ることになったが、それでも心から反省するよりも、有利な立場に思われようとする欲望に縛られている。たとえば「感情教育」で完全に越えられなかったにしろ、まさにそのような当事者だけが与えられる実感が感じられる。

作品「それは本当に悲しいことだよ」は、様々な主題に触れる豊かなテキストだが、その中心には極に達した資本主義体制でいかに生きるかという問いがある。結婚を考えているジナとヨンスンのカップルは、ヨンスンの先輩であり独立系ドキュメンタリー監督のソ・ジュンハンのランチの招待を受けて、ソウル郊外にあるジュンハンのマンションを訪れ、環境団体で仕事をする彼の妻とともに4人で1日を過ごす。彼らが交わす会話の主題は多様だが、「さらに遅くなる前に希望する仕事がしたい」(12頁)というヨンスンの将来に焦点を合わせている。この訪問の主な目的も、その前に流通業の職場を辞めたヨンスンが、学生時代に心酔したドキュメンタリー作業をしてみようと、まずその仕事をしている先輩ジュンハンに実際的な助言を求めようというのであった。だが、ジュンハンはヨンスンが期待した助言はせずに、「様々な理由でこの道を選んだが、だんだん自らの選択を、世の中に怨みを抱くアリバイにするようになった人々について」(47頁)語る。ジナは帰り道にヨンスンの暗い顔色を見て、「あなたが世の中に怨みを抱かないことはあるだろうか」と心配して、「あなたが歪んでいく姿を見るようになるならば、それは本当に悲しいこと」(52頁)と考える。

この小説には、現在の資本主義体制を生きていく2つの方式がある。1つは「現実的で身の回りのことが上手な」(11~12頁)ジナのように、体制の要求に自らを合わせて生きる方式があり、もう1つはソ・ジュンハンやその妻のように、「同じシステムの中にいる」(48頁)ものの、体制の論理や要求に一方的に合わせることはしない方式である。ヨンスンはジナのような方式で生きてきたが、今は他の方式の人生――たとえば金はたくさん儲けられなくても、自分が希望する人生――を生きようという期待を持って、以前の職場を辞めたのである。

この作品がソ・ジュンハン夫婦の人生を1つの望ましい代案として掲げているわけではない。体制の要求に順応せず、修行者のように生きようと考えるソ・ジュンハンは、あまりにも「神聖」で、そのような方式に何らの不満もないが、予測不可能の言動をする夫人はかなり「身のほど知らず」のように見える。そのうえ情動的要素を活用して、このような二者択一の生き方が陥りやすい弱点をただちに喚起したりもする。たとえばソ・ジュンハンが妻の誘いに勝てずに、「分娩しようと横になっていると、通りすがりの医師がいきなりあそこに手を入れて見る」(33頁)産婦人科医の行動に言及したり、妻が竹塩の摂取で「生理の血がきれいになった」(35頁)という話を繰り返す場面で、ソ・ジュンハン夫婦の人生が何か異常だという印象を拭うことができない。要するに作品がソ・ジュンハン夫婦の人生に対して一定の距離をおいているというのは明らかである。

作品はヨンスンとジナの人生に対しても一定の距離をおくが、2人の違いは分別を要する。ジナは小説の人物のうち体制の「感情教育」が最もうまくいっている人間であることは明らかである。たとえば彼女は、ソ・ジュンハンの生き方よりも、ソ・ジュンハンの家がソウル郊外にあることや、狭く古くて水漏れの方に敏感に反応するが、そのような反応が実は「感情教育」の効果でもあるという思いは毛頭ない。これに比べてヨンスンは、「数理領域を除いて修能試験の成績がみな1等級だった」(39頁)と自慢するほどエリート意識が強いが、他方でそのような特権意識をすべて捨ててこそ可能な、二者択一の人生を夢見ていたりもする。自身の分裂した両面を直視するほど、自己客観化ができなくなっているのである。

この小説に登場する4人の人物のうち、誰にも作家は全的な共感を示さないが、そのために読者は自分から誰の人生がよりよいのかを考えなければならない。私たちは4人の顕在的な人生をめぐって、どちらが相対的によりよいのか比べることもできるが、必ずしもその中から1つを選択する必要はない。さほど神聖でもないソ・ジュンハンと、さほど身のほど知らずでもない彼の夫人、もう少し客観化したヨンスン、「感情教育」を少しでも脱皮したジナが、うまくいく道がどのようなものなのか考える時だけが、「世の中に怨みを抱かない」確率は高まる。そしてこのような思惟の訓練を通じてこそ、末期に至った資本主義体制に対する「適応と克服の二重課題」を正しく遂行できるだろう。世の中と自我を含めてすべてを疑うことができるほど抜本的だが、具体的な現実においてどのような人生がよりよいのかを批評的に見分けることが文学的思惟ならば、キム・セヒのこの作品は短篇形式としては驚くほど豊かにそのような思惟の可能性を示していると言える。

これまで思惟と情動を話題にしてキャンドル革命期の小説文学を見てみた。本稿の最後に、補完の意味で思惟と情動の関係についてのみ一言付け加えたい。チョグク事態を通して見られたように、私たちは個人的な生を含めて、社会のほとんどすべての局面で情動の作用が非常に活発になる現実を迎えた。このような新しい現実において、情動のアナーキズムにきちんと対処するためには、思惟と情動がどのような関係かを問うことがきわめて重要になる。思惟と情動が本質的に対立的で二律背反的なものならば、思惟が情動の作用を遮断したり、最大限に抑制するのが最善であろう。しかし、そのような方式では思惟が情動の作用を制御できず、たとえそれが可能であっても、それが望ましいのかも疑問である。反面、情動までを統合する思惟があるならば、そのような思惟でこそ、ある種の常套性に縛られずに情動のアナーキズムに十分耐えられるはずである。考えてみれば、キム・スヨンが詩作について、「全身で、まさに全身を押し進めること」という時の思惟は、すでに情動が内在した思惟であるという気がする。

 

(訳=渡辺直紀)

 

 

  1. ハイデッガーは『思惟とは何か』という講義録の冒頭で、「憂慮せざるを得ない私たちの時代において、最も憂慮される点は、私たちがまだ考えていないという事実である」と、近代人の「無思惟」傾向を指摘したことがある。この発言には、西欧形而上学的な思想体系一般に対する批判が底辺にある。Martin Heidegger, What Is Called Thinking?, tr. J. Glenn Gray, Harper Perennial 1976, p.4. この発言を含めて、ハイデッガーの技術時代論と思惟の重要性については、白楽晴「文明の大転換と宗教の役割」、白楽晴ほか編『文明の大転換と後天開闢』モシヌンサラムドゥル、361~?62頁参照。
  2. グーグル(ユーチューブ)、フェイスブック、アマゾン、アップルのような巨大IT企業とソーシャルメディアが「思索の可能性」を破壊する現象については、フランクリン・フォア『思考を奪われた世界――巨大IT企業はいかに私たちの思考を操縦するのか』(イ・スンヨン・パク・サンヒョン訳、パンビ、2019)参照。真実が失踪しているトランプ時代の言語環境については、ミチコ・カクタニ『真実などは重要ではない――偽りと嫌悪はいかに日常になったか』(キム・ヨンソン訳、トルペゲ、2019)参照。本書の解題でチョン・ヒジンは「ポストモダニズムを「真実の失踪」という理由で批判」する著者の観点に同意しないことを明らかにしながら、「真実はもとから存在しなかった。真実と見なされるものがあっただけである。(…)すべての言説において重要なのは内容の「正しさ」でなく「効果」である」(197頁)と主張する。だが、このような立場は、混濁した言語環境の改善に一助しないばかりか、有無を越えた境地の「真理」と、解体可能な「真実」の違いを弁別しないまま、解体論的な真理/真実観を繰り返すという問題がある。
  3. だからといって、「386世代」を不平等の原因提供者として、青年世代をその「犠牲者」として強調するイ・チョルスンの「不平等世代論」に同意するわけではない。興味深い部分が少なくないが、不平等の複合的原因を最後まで糾明するよりは、世代論的な通念を強化するという印象である(イ・チョルスン『不平等の世代――誰が韓国社会を不公平にしたのか』文学と知性社、2019、14~21頁参照)。このような加害者-被害者モデルとは異なり、チャン・ソクチュンの「世代政治」は説得力がある。気候変化や成長主義の危機の前で「旧世代が受け継いできた盲目の疾走に、新たな世代も参加させてくれという」のではなく、「旧世代の「転向」を要求する」ことが真の「世代政治」だというのである。チャン・ソクチュン「新の世代政治」『ハンギョレ新聞』2019.10.18。
  4. 「再生産なき蓄積」(accumulation without reproduction)については、Lorenzo Veracini, ”Containment, Elimination, En-dogeneity: Settler Colonialism in the Global Present,” Rethinking Marxism (2019.4), 「奪取による蓄積」(accumulation by dispossession)については、David Harvey, New Imperialism, Oxford: Oxford University Press 2003, 「追放」(expulsion)については、Saskia Sassen, “The City: A Collective Good?,” Brown Journal of World Affairs 23: 2 (Spring/Summer 2017)をそれぞれ参照。
  5. このような状況では、伝統的な「福祉強化」とは次元が異なる新たな発想が必要だが、「普遍的な基本所得」がそれに値する。この概念については、今号に収録されたジョン・ランチェスター「「普遍的基本所得」という新しくていいアイディア」参照。現在、京畿道が推進する年100万ウォンの普遍的基本所得案は、初歩段階に過ぎないが有意味な試みと思われる。
  6. たとえば、ファン・ジョンウンが描写した次のような傾向である。「常識を逸脱した深刻な不平等を暴露することは、それを正そうという呼び掛けになりうるが、それをほとんど超越的で存在論的な秩序のように見せることもある。(…)不平等が可視化を通じて自らを強化することもあるならば、どうなるのか。不平等の可視化、または不平等の再現が、不平等の「現実主義」に抱き込まれない方式に悩まなければならない必要がここにある」。「不平等の再現と「リアリズム」」『創作と批評』2019年秋号、23~24頁。
  7. ジェイムソンのこのような立場は、ルカーチが「物語か、描写か?」(Describe or Narrate?)でゾラやフローベールの描写中心の小説を、トルストイやバルザックの物語中心の小説と対応させて批判したリアリズム論をひっくり返したものである。Fredric Jameson, The Antinomies of Realism, London: Verso 2013, 1~44頁参照(今後、本書の引用は本文に頁数だけを示す)。ジェイムソンは「リアリズム」と「写実主義」を区分しない西洋学界の慣行に従っているようである。両者を区分するならば、本書のタイトルも「写実主義の矛盾」の方が正確だろう。ルカーチの論文は、Georg Lukacs, Writer and Critic: and Other Essays (New York: Grosset & Dunlap 1971)に収録されている。
  8. チャン・リュジンの『仕事の喜びと悲しみ』(創作と批評社、2019)で感じられる、はねるような躍動感も、リアルに描写された職場という環境的要因や作家特有の明るい感性だけでなく、当事者性に始まる実感が大きく作用したためのように思われる。