気候危機の解決、どこから始めればいいのか / 白英瓊

 

創作と批評 187号(2020年 春)目次

 

白英瓊(ぺク・ヨンギョン)

済州大学社会学科教授。著書に『バトルグランド』 『孤独な私から共に生きる私達へと』『フランケンシュタインの日常』(以上、共著)、訳書『ユートピスティックス』などがある。
paix@jejunu.ac.kr

 

 

我々の知る「この世の終わり」

 

世界各地で前例のない大規模な自然災害が相次いでいる。2018年にはアメリカのカリフォルニアで、2019年にはアマゾンの密林で火災が発生し、オーストラリアでも大規模な森林火災が発生した。年が明けてからもオーストラリアの火災は収まらす、韓国の国土に匹敵する面積を焼失させてから、ようやく鎮火した。シベリアや東南アジアでも森林火災が多発しており、さらに極地方では氷河が溶け出している。直接的な原因はそれぞれ異なると言われているが、気候変動が自然の回復力を低下させているという事実に間違いはないだろう。今回のオーストラリアの火災がコアラやカンガルーなどの有袋類の絶滅に拍車をかけると予想される中、昨年、ついに人類が招いた気候変動によって絶滅したと思われる最初の哺乳類が確認された。オーストラリア北部のサンゴ礁地域の小さな島に生息していた「ブランブル・ケイ・メロミス」という名の齧歯類(げっしるい)の動物である。海岸線沿いに穴を掘って生息していたこの動物は、2009年以降、姿を消しているが、科学者らは海水面の上昇により絶滅したものと見ている。一方、昨年、スイスのアルプス山脈の頂上の氷河が溶けてしまい、その氷河の消失を悼んで「葬送行進」が行われた。90%の氷河が消失し、白く覆われたアルプスはもう見ることができなくなってしまった。世界各地で、いわゆる「我々の知るこの世」が終わりを迎えつつあるのだ。

ある人々にとっては、気候変動自体が災害となる場合もある。都会で事務職に就いている人々とは違い、農業や漁業に携わっている人々には深刻な問題なのである。植えた穀物は一向に育たず、病虫害の被害も多発している。また、水温の変化により水中の生態系が変化してしまって苦境に立たされている人々も多い。一時期、気候変動は温室効果ガスによる地球温暖化として認識されていたが、予測不可能な異常気象の頻発によって、もはや人々も気候変動が単なる気温の上昇を意味するものではないことを知った。中国のゴビ砂漠には雨が頻繁に降り、草が生え始めたというから、悪い事ばかりではないと言えるかもしれないが、「我々の知るこの世の終わり」は、苦しみに耐えることを要求し、最悪の場合には、水没、飢饉、戦争の下で気候難民へと転落せざる得ない状況をもたらすかもしれない。

新型コロナ、つまり中国発の新型コロナウイルス感染症の流行は、一見気候変動とは関係のないように思われるかもしれないが、実際はそうではない。2002年のサーズ(SARS)、2009年の新型インフルエンザ、2012年のマーズ(MERS、中東呼吸器症候群)、そして2019年の新型コロナは、ウイルスが全て野生動物から人に感染したものとみられている。気候変動と開発の嵐の中で野生動物の生息地は破壊され、個体数が激減すると、それまで野生動物の中に潜んでいたウイルスは密集生活をしている人間や家畜を新たな宿主にし始めたのである。PM2.5の場合も、確かに汚染源の増加が最も大きな原因ではあるが、気候変動による北極の海氷面積が減少し、北極と北東アジア地域の気圧配置に異常が発生した結果、緯度間の温度差が少なくなり、季節風が弱くなったことも状況悪化の要因となっていると言えよう。勿論、どの程度の気候変動が人間の活動によって引き起こされたかを推し量ることは容易ではない。しかし、人間によってもたされた変化によって空気、水、土、食物、天気など、人間の日常を支え、それに影響を与える全ての要素が予測不可能な未来へと向かっていることだけは確かであろう。

 

 

気候危機の共通性と限界

 

2018年10月、気候変動に関する政府間協議体(IPCC)は、「地球温暖化1.5℃特別報告書」の中で地球の平均気温の上昇が人間と自然に及ぼす影響を分析し、予想以上に速く地球温暖化が進行していると警告した。さらに、地球の平均気温が2℃上昇した場合と1.5℃上昇した場合には、かなりの違いが予想されるため、パリ協定の「2℃未満」に抑えるという目標よりも厳しい抑制目標を立てるべきであり、そのためには、温室効果ガスの排出量を現在よりもはるかに速いペースで削減しなければならないと強調した。つまり、現在のような気候変動への対応では、人類の未来に致命的な結果をもたらすという内容である1

IPCCの報告書は、全世界的に気候行動を促す結果をもたらした。中立的な印象を与える気候変動という呼び方の代わりに、気候危機、気候災難、又は気候非常事態などと呼ぶべきだと言う声も上がっている。イギリスでは2019年から「絶滅への反逆(extinction rebellion)」と名づけられた抗議運動が行われている。グレタ・トゥーンベリ(Greta Thunberg)をはじめ、世界所々で青少年の気候危機を訴える「学校ストライキ」が行われており、韓国でも「青少年気候行動」が結成され、学校ストライキが持続的に行われている。彼らは、気候変動によって人類も絶滅の危機にさらされており、「絶滅危機の青少年」である自分たちにとって学校は無意味なものと訴え、政治家や既存世代に早急な対応を求めている。彼らにとって、韓国は温室効果ガス排出量世界第7位、一人当たりの排出量は世界第4位の「気候悪党」である。にもかかわらず、政府は依然として石炭火力発電所の輸出に対して財政支援を行っており、温室効果ガスの排出量と吸収量を相殺させて2050年までに「カーボンニュートラル(炭素中立)」状態にするという計画を放棄したため、国内外から批判を浴びている。

政府の消極的な対応とは異なり、緊迫した危機に共感する人々による連帯も登場した。昨年は、環境団体だけではなく、労働組合、科学者、一般市民など、社会の各界から募った「気候危機非常行動」が結成され、9月には初めて恵化(ヘファ)駅から鐘閣(チョンガク)駅までの行進を行った。彼らは、直面した気候危機を克服するための非常行動の必要性を広く知らせて市民の連帯を促す一方で、政府には気候危機事態の宣言を要求している。しかし、いくら非常事態であることを強調しても、具体的にどのような連帯感を形成するかというのは容易な問題ではない。例えば、脱原発はこれまで韓国の環境運動において最も重要な目標の一つであったが、今の状況で脱原発を強調するのは、連帯の妨げになる可能性が高い。気候危機が原発の必要性を正当化する論理に利用されたり、化石燃料の代替となるべき十分な再生可能エネルギーが確保できるまで脱原発の先延ばしを主張する声も上がる中で、気候危機に同意するという理由だけで原発賛成論者と連帯するというのは正しいことなのか、非常行動が苦悩するところである。実際、気候危機は、産業界や保険業界を含む経済界全般にとっても切実な問題として認識されるほど、問題意識を共有する集団の範囲は広い。勿論、彼らの考える危機は、目前に迫った化石エネルギーの規制や異常気候及び不確実性の増大による保険業界の損失と関連しているため、克服しがたい認識の違いが存在することも確かであろう。

例えば、気候危機という問題意識の中で、新たな政治的スローガンであり、成長戦略として浮上する「グリーン・ニューディール(A Green New Deal)」を取り上げてみたい。グリーン・ニューディールは、アメリカの大統領選挙で重要な争点の一つであり、韓国でも第21代国会議員選挙を控えて「正義党」と「緑の党」が気候危機への対応として打ち出したものである2 。しかし、たとえ露骨に気候危機を否定したり、炭素排出量の削減に反対する勢力を除外するとしても、グリーン・ニューディール政策という同一の名の下に非常に多様な系譜と志向が存在するという事実は、協同行動が決して容易ではないということを物語っている。

いくら共通の危機であることを認識し、強調したとしても、対応策において克服不可能な相違点が生じる理由は、気候危機が単なる気候だけの危機ではないという点が看過されていたからだ。現代を生きる人類全てが同様の体験をするわけではないという点で、気候危機は非常に政治的な問題であり、そのため社会経済的な体制を語らずに危機の原因を分析することもできないのだ。従って、漠然とした人類の破滅の危機意識だけでは、行動は勿論、状況意識に対する合意を導くことさえ容易ではない。

気候危機が、我々の知るこの世の終わりとしての気候変動とそれがもたらす複合的な危機状況を意味するものならば、努力と闘争もやはり多様な面から要求せざる得ない。グリーン・ニューディールのように社会構造を変革する政治を通じて政策的な変化を導こうとする姿勢も必要であり、プラスチックのような日常的に使われている物に対して、その起源から廃棄処理にまで関心を持って生活様式を変えていくような実践も必要であり、さらには心身を根本的に変えるレベルまで包括する必要もある。本稿では、その中で気候危機と関連した言説を考察し、生態転換の観点において重要な意味を持つ土着民の闘争に注目し、危機の解決にどのような観点が必要なのか探ってみたいと思う。

 

 

人新世という診断名

 

気候危機は単なる気候だけの問題ではないが、その複雑な面を強調しすぎると、一般の人々が実感する危機とは議論の方向が違ってくるという問題が生じる。目の前で起きている気候変動の問題への危機意識を持たせる気候危機論の長所までも失ってしまう可能性があるのだ。アマゾンの火災の例を見てみよう。火災の延焼には、気候変動による高温で乾燥した天候が最大の原因であったかもしれないが、一次的な原因は森林を伐採し、農地や牧草地を確保するために起こした故意的な放火にある。短期間に広大な牧草地が必要となった理由は、香港などのアジア地域での牛肉の需要が増加したからであり、より多くの農地が必要となった理由は、中国がアメリカとの葛藤によりアメリカの代わりにブラジルから豆を輸入し始めたからである。「南米のトランプ」と言われているブラジルのジャイール・ボルソナーロ( Jair Bolsonaro)大統領は、この状況に合わせ、就任するや否や自然保護区域指定を解除して国立公園を民営化し、アマゾン川に水力発電所と橋を建設したり、地域の原住民の権利を弾圧しながら、あらゆる環境規制を次々と解くなど、開発政策を強行してきた。

気候危機の解決のためには、今回のアマゾンの火災と気候変動の間に潜む関連性を明らかにし、どのような要因が火災を引き起こしているのかを突き止めていく必要がある。しかし、殆どの人々は、その原因を炭素排出量の増加や人間の欲などといった自分の関心のある側面でしか考えない。このような危機解決のためには、産業構造の調整や国際関係などの現実的なレベルで考えなければならない問題であり、構造的な不平等の問題も共に取り扱わなければならないだろう。これもやはり気候危機という用語から期待されるものとは多少距離が感じられるが、実際に気候危機論において最も見過ごされやすい面は、今この瞬間も人間が犯している生態系に対する犯罪行為であろう。水温の変化と海洋汚染による海洋生物の絶滅は気候危機の重要な現象として挙げられているが、一方、安倍内閣の福島原発の汚染水放出は政治的なレベルとしてしか受け止められていない。 

気候変動を含む現在の生態系が直面している災難的な状況において人間の責任の重大性をより直接的に強調する議論にはどのようなものがあるだろうか。最近、韓国でも徐々に波及力を増している人新世(Anthropocene)の言説は、現生人類の活動が地球の生態系に決定的な影響を及ぼしたと主張している3 。地球の歴史を表す地質時代の年代区分によると、我々が現在生きている時代は新生代(Cenozoic era)第4紀に当たる完新世(Holocene)である。恐竜時代であった中生代は、約1億8千万年、それ以前の古生代が約3億3千万年続いたことと比較すると、新生代はまだ6600万年しか経っておらず、その中で第4紀は258万年前に始まったもので、最後の氷河期が終わった1万年前からようやく完新世に突入したのである。

地球の全体の歴史に比べると余りにも短い、その1万年の間に人類は地質層にまで大きな痕跡を残した。大規模な農業と工業、ダムをはじめとする様々な建設などにより、莫大な堆積層が失われてしまったのだが、これは海、風、河川などの自然の持つ侵食力の10倍以上にも上る。大気層には二酸化炭素の濃度の増加問題のほかにも1945年の原爆が投下されて以来、太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁をはじめ、地球の所々で行われた核実験の結果として、10万年経っても消えない放射性同位元素の痕跡を残した。チェルノブイリ発電所の爆発事故は勿論のこと、日本政府が推進する福島の汚染水の放出に至るまで、地球全体において放射能物質の蓄積は現在進行形である。炭素原料を燃焼する際に発生する煤はヒマラヤから南極に至るまで発見されており、地層には腐食しないプラスティックが積み重なり、海洋の酸性化によって海洋の生態系は崩壊する一方で、河水を含む淡水は足りなくなっている。それだけではなく、温室効果ガスによる地球温暖化が招いた気候変動は生態系を乱して「種」の絶滅を加速化させている。現生人類の活動の残した痕跡が地質層にまで大きな変化をもたらしてしまったわけだ。だから、これを完新世と区別する一つの独立した時代と見なすことができるという意味で使用されている言葉が「人新世」である。

人類が地質層に恒久的に残した痕跡の中で肯定的なものはないに等しいため、基本的に人新世の言説は人間によって生じた生態環境の危機を批判する性格を有する。用語自体は現生人類の活動が地球の生態に決定的な影響を与えた時代という意味であるが、実際は終末論的な意味として受け止められているのも同様の理由からだ。勿論、中には、自然へのよりよい管理を主張するに止まり人間中心の体制に対する根本的な転換を求めていない場合もあり、さらには自然に対する人間の支配力が最高に達した時代として人新世を称賛したりする場合もある。しかし、人新世という「診断」は環境生態の危機が人間の活動による結果だという事実が釘刺されているという点で、単純な気候危機論よりは一歩進んだものであり、実践的に意味がある。その上、人新世を前面に打ち出したドキュメンタリーや展示などが持続的に行われており、そのためこの言説の影響力が多方面へと拡大しているだけに、その概念に対する批判的な介入は重要であろう。

 

人新世は全人類の責任なのか

 

人新世の言説は、人類と自然を二分法的に分ける人間中心の文明に対する批判として意義があるが、限界も存在する。スウェーデンの生態学者であるアンドレアス・マルム(Andreas Malm)とアルフ・ホルンボリ(Alf Hornborg)は、人新世の概念を批判しながら、人類が直面した問題をホモサピエンス種全体の問題とするこの用語の代わりに責任を取らなければならない主体を明確にして「資本新世(Capitalocene)」と呼ぶべきだと主張している。人新世の言説は、その用語から思い浮かぶ種類の豊かさを多くの人々が経験したことがないにもかかわらず、問題を人類全体の責任とするのは理不尽であり、生態危機の主犯である資本主義に免罪符を与えることになってしまうという主張だ4 。全ての人々に責任を負わせてしまったら、結局は誰の責任でもないことになる。このような懸念は、2015年の国連の気候変動会議にて採択されたパリ協定を条約の当事国であるアメリカが2017年に離脱することによって現実となった。アメリカの離脱の理由は「全人類が分担し合うべき温室効果ガスの削減の負担をアメリカに過剰に負わせている」というものであった。

フェミニストの理論家ダナ・ハラウェイ(Donna Haraway)も資本新世という用語を使っているが、彼女は既存の資本新世の言説で取り上げていない資本主義体制の男性中心性を指摘している5 。ハラウェイは、現在の生態系の破壊は「種」としての人類と関連した問題というよりは、資本主義的な発展と関連した問題であり、その資本主義は人種主義と性差別主義的な性格を帯びていると主張する。つまり、彼女にとって人新世を象徴する人間像とは化石燃料を手に持って燃焼させる白人男性なのである。ハラウェイは白人男性中心の人新世を越え、人類が辿り着くべき未来は、全ての人々がお互いに調和をなして生きていく時代であるとし、この新たな時代を「クトゥルー新世(Chthulucene)」と名づけようと提案する。人新世の人類と対極をなす存在であるクトゥルー(Chthulu)は、人間の統制から自由であり、意図せぬあらゆる行為を通じて世界を作り上げていく地下の巨大な力のような存在だ。

一方、ハラウェイの資本新世に対する議論とクトゥルー新世の両方に同意しながら、彼女と共に活動を続けているフェミニストの人類学者であるアナ・チン(Anna Tsing)も、人新世の言説の普遍化傾向を批判している。人新世時代を象徴する耕作形態と言えるプランテーション農場の場合も、それぞれのプランテーションが単一の作物を大規模に栽培し、商業的に販売するという基本観念のレベルでだけ同じであり、それ以外の如何なる場合も決して同じではないと指摘する6 。しかし、チンは人新世という概念の出現は人間が自然をライバルとして繰り広げてきた闘争において常に勝利したという男性的な観点が崩壊したことを意味し、自らが招いた破壊行為に恐怖を感じ始めたということを示しているという点で意義があると見ている。

つまり、ハラウェイやチンのようなフェミニストの学者は、今の人新世を作り出した責任は資本主義、その中でも権力を持った白人男性にあると見ている。危機の時代を迎え、人間はこれまで示された世界の様相を根本的に振り返ってみる必要があり、非人間の存在を含め、この世界を構成するその他多くの存在と共に関係を築く方法を搾取的、もしくは破壊的でない方法で新たに学ぶべきであるというのが彼女たちの主張である。このような人新世の言説に対する批判は、同等な責任を負うわけでもなく、ましてや苦痛さえも公平に分配されていない危機の原因を人類全体に負わせることに対する問題点をしっかりと捉えている。しかし、人新世の責任を白人男性に問うという発想は、それ自体を新しい視点とは言いがたく、また解決の糸口を見出すには、かなり単純であるのも事実だ。実際に彼女たちの作業において、資本主義体制からどのように抜け出せばいいのか明確な見通しは示されておらず、多くの洞察を得ることができたにもかかわらず、環境災難や気候救急事態の中で生き抜くために奮闘している人々の貧困な生活とはかなりかけ離れているという印象を受けざる得ない。気候危機の解決のための言説的な模索は変化のための闘争の問題へと自然と繋がり、闘争は、結局主体を必要とする。人新世が実は資本新世であると指摘したり、我々の望む時代はクトゥルー新世であると主張したからと言って、新たな世界へと向かう動力がすぐに作り出せるわけではないのだ。

 

人新世の克服と土着民の視点

 

そのような意味で、ここでは人新世に対する異なった角度からのアプローチとして、土着民(the indigenous)7 の視点に注目してみたいと思う。人新世危機の言説において土着民は重要な役割を果たしているが、その一つが被害者の象徴となっていることである。土着民の居住地の多くは、人新世に引き起こされた海水面の上昇、山火事の多発、森林の縮小、極地方の温度上昇などによって多大な被害を被った。これらの地域では、もはや人々の居住が不可能であったり、これまでの暮らしが維持できないほどの被害が生じている。そのため、土着民は気候難民の代表的な存在となり、危機に直面した自然を象徴するイメージとして活用されてきた8 。 その一方で人新世の言説において土着民と彼らの土着の知識が、人新世という危機から抜け出すための回復力(resilience)の資源として注目を集めている。土着民から人間と非人間が関係を築くための方法を学び、デカルト的な二元論に基づいた科学的な知識ではなく、土着民が蓄積してきた知識を通じて人新世の危機から脱出しようというものだ。このように土着民の苦境に関心を示し、その土着の知識の価値を認めるような動きが広がり始めたという事実は、自然を資源としてしか取り扱かわずに破壊して利用したり、大規模な化石燃料の消費を自慢するような態度と比較すると、大きな前進と言えよう。しかし、土着民を劣等な存在のように見下す態度よりはましだが、人新世の一般的な言説において依然として彼らを被害者として取り扱ったり、過去に生きる存在として取り扱かったりするのは穏当ではないだろう。

それよりは、環境闘争を推進する主体となった土着民の姿に注目するべきである。実際に石油や天然ガス、木材などを利用したり、鉱物を掘り出したりする開発行為に抵抗する世界での主要な闘争の殆どが土着民中心のものであると言っても過言ではないだろう。昨年の7月には、ブラジルで土着民の指導者が金鉱開発業者によって殺害されるという事件も起こっている。2016年には、アメリカのノースダコタ州のスタンディング・ロック(Standing Rock)の土着民保護区域で、土着民を中心として石油パイプライン建設への抗議デモが行われ、結局建設が中止となる結果を導き出した例もある。アメリカ全土の環境運動家や市民の支持の下で闘争を率いたスー(Sioux)族は、自らが「デモ隊ではなく、神聖な水の守護者」であると強調した。カナダでもガスパイプラインの建設に反対する土着民の闘争が行われている。最近、注目を集めている闘争は北西部のブリティッシュコロンビア州のウェツウェテン(Wet’suwet’en)土着民のガスパイプライン建設への抗議運動だ9

時には勝利し、時には失敗するが、いずれにせよ彼らの闘争は人間が中心となって自然を搾取する行為への現在進行形の抵抗であるという点で意義がある。彼らの闘争は、大規模なパイプラインで事故が起こった時の危険に対する懸念による反対でもあり、新たなパイプライン建設によって利益を得るのは大手のエネルギー企業や都市民で、自分たちは地域の原型を失うだけという不正義への抵抗でもある。そして、自分達の神聖な場所に対する破壊行為への戦いでもあり、時には、自分達の意思が反映されないまま工事が強行されてしまう手続き上の問題に対する抵抗でもある。ハワイで「30メートル望遠鏡( Thirty Meter Telescope, TMT)」の建設を巡って行われている闘争は「マウナケア」という神聖な場所を守るための戦いでもあり、手続き上の問題、歴史的に積もり積もった不満、軍事的な利用への可能性などに抗議する闘争でもある。彼らの闘争は科学の発展という目標が、これまでその地域で暮らしてきた土着民の権利よりも優先されるべきなのか、その地域の破壊はどの程度容認されるべきなのかという問題を我々に投げかけている。

このような土着民の闘争は、 殖民植民地主義(settler colonialism)の歴史を知らなければ、その意味をしっかりと理解することはできないだろう。 殖民植民地主義が、一般的な植民地主義と区別されるのは、それが単なる支配自体を目的としたり、労働力を搾取するためのものではなく、土地を奪うための支配だという点である。殖民植民地というと、新大陸で白人によって土着民が追い出され、土地を奪われたことが真っ先に思い浮かぶであろうが、実は、昨今のパレスチナとイスラエルのケースも重要な例として取り上げられる。埋蔵の資源を採掘したり、森林を伐採するために、そして基地や空港を建設するために土着民を彼らの居住地から追い出すケースも殖民植民地主義と見ることができる10 。土着民の闘争を外部から見つめる第三者は土着民の権利をあからさまに否定するわけではないが、個別の事柄の正当性を功利主義的に判断しようとする傾向がある。しかし、土着民にとって正当性の問題とは、彼らが自分達の土地に対する権利を一度も合法的に譲渡したことはないという事実にある。闘争する土着民にとって植民地支配の清算なくして公平な取引きというものは成立しないのだ11

「脱植民地化(decolonialization)」の立場に立って、土着民学(the indigenous studies)を研究する人々の中には、人新世の言説を批判しながらも殖民植民地主義に対する注意を促すために、それを活用する流れも存在する。彼らは、全世界において現在のような自然の搾取、破壊、そして異性愛中心的な男性支配体制が根付いた現実を、植民支配の歴史を忘却したままでは決して理解不可能であり、植民支配体制の清算なくして人新世の問題は解決できないと主張する12 。さらに、人類学者の中で脱植民地化を主張しながらも、その土地に対する権利を訴える土着民の闘争には全く関心を持たない人々を非難したり、白人同士で土着の知識の重要性を話し合う状況に皮肉を言ったりもする13 。人新世がもたらした気候危機の克服のためには、土着民の生活方式と彼らの土着の知識を学ぶべきだと主張するが、ほんの数十年前、土着民への抑圧的な同化政策を繰り広げてきた歴史は未だに生きている。つまり、気候及び生態の危機解決を議論し合う人々は権力の問題、植民地化の問題、そして知識生産の方法の問題に敏感であるべきであり、特にヨーロッパー中心主義的な視点から抜け出すためには殖民植民地主義への批判から目を背けてはならないというのが彼らの主張である。

 

今、ここでの闘争と連帯へ

 

以上のように、主に海外の土着民の闘争の例、それも北米で行われている例について言及したが、資源の採掘や開発を強行しようとする勢力とそれに対する地域民の抵抗は韓国でも所々で見られる。済州(ジェジュ)、密陽(ミリャン)、星州(ソンジュ)、そして四大河川事業によって農業を営んでいた土地から追い出された人々などを見ても、移住者が土着民の土地を収奪したように未開発の地を空き地と見なして住民を追い出す殖民植民地主義の風は依然として強く吹いている。2000年代以降、住民の激しい抵抗を抑えて進められた平沢(ピョンテク)の大秋里(デチュリ)、済州の江汀(ガンジョン)、星州の韶成里(ソソンリ)の土地の強制収用は軍事基地建設のためであった。このような住民達の抗議運動は、暮らしてきた土地を守ろうとする土着民の闘争がもはや他人事ではないことを我々に示している。そして、次々と行われる開発-再開発の連続の中で、生業の場や我が家から追い出されないための都市での闘争も土着民の闘争と同じ観点で行われており、そのような意味でお互いが連帯可能であることを示している。

気候危機のように原因と解決策が複雑な問題であればあるほど、それを巡る言説が重要である。関連した全ての闘争が気候及び生態の危機に抵抗するものであるとは断言できないが、自身の問題がそれとどのように繋がっているかについて認識を新たにする努力が結びついたら、繋がらない闘争はないだろう。例えば、まだ寿命の残っている建物を取り壊して建て直すことを止めれば、PM2.5も温室効果ガスも減少させることができる。それだけでなく、気候危機の原因を深く追求してみると、結局は韓半島(朝鮮半島)の植民地体制の清算、平和と外交、労働問題などに至るまで、お互いに絡み合った関連性を見出すことができるだろう。そのような意味で、韓半島における人新世の問題は、平和体制の建設の問題へと繋がる可能性もある。手間のかかる作業ではあるが、気候危機に対する既存の言説を詳細に考察しながら、新たな連帯の可能性を模索し、実践への方法を見つけ出す作業が必要であろう。

 

翻訳:申銀児(シン・ウナ)

 

 

  1. キム・ヒョンウ「気候変動、原発が代案なのか: IPCC報告書と二つの挑戦」、レディアン、2018.10.10。IPCC「地球温暖化1.5℃特別報告書」の韓国語翻訳文は、気象庁の気候情報ポータルにてダウンロード可能。
  2. グリーン・ニューディール概念の多様な系譜と性向に関しては、本誌の今号に掲載されたキム・サンヒョンの「グリーン・ニューディールの書き直し:緑の成長を越えて」を参照。
  3. 1980年代に初めて登場した「人新世」という用語を大衆的に広めたのは、2000年頃に始まったオランダの大気化学学者でありノーベル化学賞の受賞者でもあるパウル・クルッツェン(Paul Crutzen)の活動によるものであった。彼は2009年に「アントロポセンワーキンググループ(Anthropocene Working Group, AWG)」を発足し、公式的な研究と議論を行ってきた。地質年代区分を公式的に決定する国際層序委員会(International Commission on Stratigraphy, ICS)と国際地質学連合(International Union of Geological Sciences, IUGS)は、未だ「人新世」を公式的に認めていない。地質学が政治化することに対する警戒もあり、層序学において1万年という時期は非常に短いため、完新世を早急に終わらせることに対する懸念もあると思われる。しかし、現在、人類が大気や海洋、地質層において、不可逆的な痕跡を残しているという事実を否定することはできないであろう。
  4. Andreas Malm and Alf Hornborg, “ The geology of mankind? A critique of the Anthropocene narrative,” The Anthropocene Review 2014.1.7, 62~69頁.
  5. Donna Haraway, “Anthropocene, Capitalocene, Plantationocene, Chthulucene: Making Kin,” Environmental humanities vol.6, 2015, 159~65頁.
  6. Anna Tsing, “Earth Stalked by Man,” The Cambridge Journal of Anthropology 34 (1), 2016, 2~16頁.
  7. 移住者(the settler)や侵略者が入ってくる前から特定の地域に住んでいた人々を称する用語としては、原住民(the native又はaborigine)、土着民(the indigenous)、先住民(First Nation)などがあるが、用語の意味が少しずつ異なり、論文でも違った意味で使われる場合もあるので、その違いを明確に区別することは難しい。実際に混用したり、地域によって使い方が異なることもある。土着民は日常的な用語というよりは、比較的に植民地主義の経験から生じた政治的な性格が強く、時には特定の場所との繋がりやその場所を通じた先祖との連続性の意味を強調するために使用される場合もある。土着民が血統によって決定されると見るのは植民地支配者の見方であり、実際の土着民の範疇は持続的に再構成される過程にあるということを強調する必要がある。韓国では原住民という用語が一般的であるが、本稿では、土着性の問題が血統ではなく、土着民という用語を自ら使用している人々が植民地支配の歴史に対する自意識を強く持ち続けているという事実を念頭において、この用語を敢えて使用したいと思う。
  8. 人新世のアレゴリーとして島が活用される方法と土着民が取り扱われる方法については、Elizabeth DeLoughrey, Allegories of the Anthropocene, Duke University Press 2019、参照。
  9. 「我々はタートル・アイランド(北アメリカ大陸)に居住するアジア系の移民者であり、最近カナダ連邦警察(RCMP)がウェツウェテン固有の領土に侵入し、住民を逮捕し、暴力を振るうような行動を強く糾弾する」という声明書が韓国語にも翻訳されている(http://asiansinsupportofwetsuweten.water.blog/kor).
  10. ロレンゾ・ベラチニのような殖民植民地主義の研究者は、最近の資本主義は都市で暮らす人々の労働力や消費によって利益を得るのではなく、彼らを追い出した後、不動産の価値を高める方法で利益を得ようとしており、資本はもはや労働者の再生産などは考慮していないと指摘する。植民地で移住者たちが土着民に対して行った支配方法が今は土着民でない人々にまで適用されているということだ。このような暗鬱な現実の中で、彼は現在の資本主義の作動が殖民植民地主義の属性を持っているという認識の上で土着民と非土着民の間の連帯が可能であると見ている。Lorenzo Veracini, “Containment, elimination, endogeneity: Settler colonialism in the global present,” Rethinking Marxism 31 (1), 2019, 118~40頁。
  11. だからと言って、土着民の闘争を美化し支持するに留まるのは、現実を歪曲する可能性がある。土着民の闘争は一つの単一された立場に整理されておらず、例えば、彼らの間にも開発と補償を巡る葛藤、内部の腐敗や不義、伝統に従おうとする世襲権力と西欧式の民主主義に従おうとする選出権力の間での葛藤などが生じたりしている。重要なのは、このような葛藤さえも植民地支配の遺産と無関係ではないという点であり、依然として続く土着民の貧困が、ある人々にとっては開発が歓迎すべきものになっているのも事実である。
  12. Zoe Todd, “ Indigenizing the anthropocene,” Heather Davis, Etienne Turpin eds., Art in the Anthropocene: Encounters among aesthetics, politics, environments and epistemologies, anexact 2015, 241~54頁; Heather Davis, Zoe Todd, “On the Im-portance of a Date, or Decolonizing the Anthropocene,” ACME: An International E-Journal for Critical Geographies 16 (4), 2017.
  13. Karen Brodkin, Sandra Morgen, Janis Hutchinson, “Anthropology as White Public Space?,” American anthropologist 113 (4), 2011, 545~56頁.