창작과 비평

[インタビュー] 韓国文学の価値について ②

 

 

 

民族共同体と多元性の問題を論じる

 

白樂晴 分断体制を克服した統一社会を韓半島に建設することと、全世界的な多国籍韓民族共同体の設計とは別個の概念であると言いましたが、いかなる場合であれ、多元性または多様性の概念が入ります。まず統一韓半島の国家形態があえて単一型の国民国家である必要がないという考えであり、それは多民族社会であるしかないと思います。いずれにせよ南側はそのようになっていっているじゃないですか? 統一をしようとして一切がだめになるのならともかく、私たちが経済的によくなるならば移住労働者たちがもっと入ってくる社会になるのではないでしょうか? 彼らに対してより寛容な社会にならなければならないのですが、ならば多民族社会となって、長い間分かれていた南北が大きな無理なく合わさって多民族的な複合国家形態に……

 

黄鍾淵 多元主義という言葉はお使いにならないんですね(笑)。

 

白樂晴 それについては別途お話ししましょう。とにかく韓半島社会はそのように多民族化するでしょうし、その次に汎世界的なマルチナショナルないしトランスナショナルな韓民族共同体の存在を語るのは、人類社会の多様性ないしは多元性のために、このような種類のエスニックコミュニティ(ethnic community)、民族共同体も必要だという認識です。そのような意味で多元性、多様性を私は絶対的に支持します。ですが、多元主義という言葉をあまりにも安易に使うことに対して私が若干警戒心を持つのは、これもイデオロギー的な概念だからです。今、この世界の画一化の傾向というのは多元主義を巧みに受け入れる画一化です。昔のように植民地を作って、たとえばフランスがフランスの理想をそのまま住民たちに教えてフランス語教育を強制して……というような支配ではなく、今は文化的な多元性を最大限に受け入れるけれど、ただ絶えず資本蓄積に見合う限りにおいてそれを受け入れ、そうでなければ脱落する体制です。だから私はよく多元主義を掲げてこのような意味の資本の画一化や全一的支配に迎合する似非多元化ではなく、真の多元化を主張する立場から、多元主義という言葉をさほど好んで使いません。

黄鍾淵 民族共同体という観念は、私たちが直面している現実を定義し実践を模索させる効果がありますが、同時に私たちの現実を見誤らせる逆効果もあるのではないかとも思います。このように申し上げればどうでしょうか。現在、韓国は分断された南側の不安定な国民国家でもありますが、サブエンパイア(sub‐empire)とでも言いましょうか、下位帝国とでも申しましょうか、そのような性格も持っています。おおよそ1988年のソウルオリンピック以降、韓国は、過去に外勢に収奪された不幸な経験を掲げて自らの権利を主張したりすることが困難な国家になりました。資本蓄積に成功した富裕な東アジア諸国の1つとなり、海外投資が活発な国となり、続いてアジア移住労働者たちの終着地になりました。この韓国の下位帝国的な現実は、最近、小説でも主要な素材になっています。朴範信(パク・ポムシン)の『ナマステ』はトランスナショナルな視角から労働者の苦難や闘争を取り上げた作品であり、チョン・ウニョンの『さらば、サーカス』は国境を越えた労働移民を背景に、中国の朝鮮族の女性の運命を物語ったものです。分断体制論は民族共同体の理念を強調するあまり、下位帝国の現実のような、資本主義体制のもとで変化する韓国の現実をもしかしたら軽視させているのではないでしょうか?

 

 

 

白樂晴 外勢によって分断された弱小民族、このような観念にとらわれていたら大韓民国がこれまでにどれほど大きくなり、悪いことをする能力もどれほど備えるにいたったかに対する認識が稀薄になるのではないかということでしょう。同感です。ですが、分断体制論はそのような弱小民族論ではありません(笑)。ただ亜流帝国主義のような国家に成長した現実も私たちが分断体制論の視角から認識し解明する必要があると思います。分断がどのような面で経済成長に有利に作用したか、それと同時にその経済成長が歪曲され、ついこの間まで他の国の植民地生活をしていた人々が、なんらの意識もなく海外に出かけていって不当な搾取をして、「醜い韓国人」をやってのけるこのような状態は、分断と果たして関係ないのか、そのようなことを検討すべきです。韓国が帝国主義の道に入っても、かなり低級で限られたレベルの下位帝国主義以上のものにはならないだろうと思うのは、国が小さいからばかりでなく、韓国の資本主義が持つ発生論的な限界とも関係があると思います。

 

 それから分断体制論は韓国資本主義の問題を看過したりはしません。なぜならば分断体制論は同じ民族同士共生しようという民族主義的な統一論ではなく、資本主義世界体制の基本的な諸問題が韓半島で作動する様相を考察する時、分断という要素を除いて考えることはできないという議論なんです。分断が基本矛盾であり、資本主義の諸問題は副次的であるということではまったくありません。だから、朴範信やチョン・ウニョン、あるいはキム・ジェヨンのような韓国の作家が、遅まきながら移住労働者の問題に目を向けて作品を書いているということは、韓国文学の活力を反映するもので、分断体制の克服に大きく貢献する道であると思います。
 
 
 

 

北側に対する南側の責任を再考すべき時

 

白樂晴 また、より重要なのは、今は現実的にほとんど不可能ですが、北側の住民の実状を分断体制論的な観点から認識して描く作業であると思います。同胞があのように貧しく暮らしているのが可哀相だとか、あれはみなアメリカのせいだからアメリカを追い出そうとか、このような単純な論理に立脚した文学が分断体制克服に寄与する文学ではないということです。もちろん同胞だから統一しよう、同胞だから助けようという面を排除しようというのではありません。韓半島の住民の大部分が同族であることも事実であり、同族であってみればあれこれの感情や思考が自然発生的に生じるのも事実ですが、基本的には同胞も同胞ですが、同じ分断体制の下で生きているという同類意識と、それにともなう責任意識がより重要だということです。今、北側に暮らす住民たちに対して深い責任感を感じる人たちは、主として同胞愛でなければ、はるかに抽象水準の高い人類愛の次元で接近しています。もちろん同胞愛も重要ですし普遍的な人類愛も重要ですが、南と北というかなり異なる社会体制の中に生きているものの、実は同一の分断体制の中で生きており、そうであるがために同一の体制の下に生きているだけの連帯責任があるという観点から接近する場合はさほど多くないと思います。私はそのことが韓国の作家たちや一般市民らが果たすべき重要な認識の前進だと思います。2005年7月に南側の作家たちが大規模で北側に行って北側の作家たちに会いましたが、このように往来していれば自然とそう認識をする作家が多く出てくるだろうと思います。まずは行ってきて同胞であるということを実感するんです。感激したり悲しむ人がいるかと思えば、またある人々は北側の社会の問題点に対してかなり冷静に批判したりもしました。同胞意識もいいですし冷静な批判もいいですが、批判すべきことを批判しても、自分とは関係ない、まったく違う人たちを見るように対したりせずに、自分も連累していて、自分もその中に生きる同一の分断体制の他の一角、自分が生きているところとは明らかに異なるが、大きく見て同じ場面の他の一角をなす社会がさまざまな問題を抱えているのだという認識が前提になるべきです。そのような場合、自分たちが暮らすこちら側にそのような問題がないからと言って、それが他人事だろうか、あちら側のそのような現実は、南側で起きている南側独自の問題と一体のものではないだろうか、自分がこの分断体制の中で暮らしながらいつの間にか馴らされて、南側の社会がすべてだと考え、分断体制克服という課題を無視したままグローバリゼーションの流れに便乗していい暮らしをしようという惰性と、現在、私たちが北に対して嘆いている現実が、はたして無関係のものなのか、という具合に、もう少し悩んでみようということなんです。

 

  同一の分断体制の下に暮らしているだけの連帯責任が南側の人々にあるという言葉は、彼から初めて聞く発言ではなく、また事前に準備された雄弁でもなかったが、実に感動的だった。2005年7月に南側の民族文学作家団の一員として北朝鮮を訪問する幸運に恵まれた私は、彼が言った「感激派」と「批判派」双方の間を主体性なく行き来していて、自分の生が彼らの生と「連累」していると考えることはなかなかできなかった。南側の人々が連帯責任を感じるべきだという彼の発言は、アフリカの子供たちが飢えて死んでいくのがフランス人の責任であると力説した生前のサルトルを想起させる。白樂晴が要求した「悩み」は知性的な分別の問題であるというよりは道徳的な勇気の問題である。それは狭い生の地平の中に個人自身を囲い込むことで享受できる気楽さや確実さ、穏やかさの幻想を捨てて、個人の自己否定と自己犠牲の苦痛がともなう倫理の世界へと進む問題である。彼が「至共無私」という言葉で指したことのひとつも、もしかしたらこのことなのかもしれない。一個人が日常的経験の範囲を越える「連累」意識、「連帯」感情を持つことは並大抵のことではない。しかし、文学の古今東西が示すのは、そのような道徳的勇気なくして偉大な文学的業績は残されなかったということである。

 

 偉大な業績といえば、白樂晴が緻密な作品の読みを強調し、厳正な作品評価を強調する批評家であるという事実があらためて思い起こされる。今回の評論集のうち「批評と批評家に対する断想」をはじめとするいくつかの論文で彼が言っている批評、そして黄晳暎(ファン・ソギョン)の『客人』論をはじめとする作品論で白樂晴が行っている批評は、彼の下の世代の評論家たちが同じ名で行っていることとはかなり異なる。彼の批評は創作の次の地位を謙虚に受け入れ、哲学的思惟と批評的思惟の混同を警戒し、作品の優劣を分ける眼目を何よりも重視する。これは考えてみれば、ジャーナリズムの要求と合致した、大学中心の文学研究では忘れられて久しい批評の主要要件である。ジャーナリズム批評家は普通、読者たちと疎通可能な言語で作品に対して論評し、普通の読者たちに公正に見える基準で作品を評価する義務がある。だが韓国社会は、白樂晴も指摘するように、そのような意味におけるすぐれた批評家を生み出すにはさほど有利ではない。貧しい文学遺産、虚弱な文学ジャーナリズム、貧しい普通文化(common culture)、またその他のいくつかの理由から、普通の読者の文学教養を代表すると誰もが共感し同意するだけの批評の大家が出現しにくい。よい作品とよくない作品を分ける批評家個人の基準は、むしろ独断的なものに見えがちである。
 
 
 
 

批評家とは何者であり、何をするべきか

 
 
白樂晴「独断的」という言葉をこれからますますよく聞くことになるでしょうが、そうなればなるほど最大限に公正な評価をしようという努力は必要ではないでしょうか。下の世代の批評家とは違うとおっしゃいましたが、若い世代の中でもたとえば黄先生のような人は、それでも私と批評観がかなり通じる人のようですが……(笑)。数年前に『卑陋なもののカーニバル』(文学トンネ)という評論集を出されたでしょう? そのまえがきでも「文学作品自体、文学自体」を強調して、「文学批評の本分は文学作品によってなされた発見を調べて命名すること」といいましたが、私の考えと似ていると共感しました。ただそこに少し注釈をつけるならば、私は文学行為の2つの軸を、作家-批評家と設定するより、作家-読者、つまり文学作品を作り出す人と作品を読み受容する人、これが基本軸だと考える立場です。「断想」にも書きましたが、批評家は基本的に読者の一人として発言しますが、それを表現する言語を見つけながら書いていく限りにおいては、広い意味の創作者になるんです。ある意味ではふた股をかけた存在ですが、基本的には読者側ですね。一般読者が知らない、ある種の「客観的な尺度」を持ったり、特別な理論を適当に適用する専門家ではないということです。私のことを理論批評家であると言う人も多いですが、実は私は一般読者の作品の読みと無関係の理論を持ち出して、作品に対して「屁理屈をこねる」ような最近流行の批評は本当に嫌です。私が今、文学の2つの大きな軸の1つが批評家であるより読者であるという点を強調するのは、批評家の評価行為というものが平凡な読者も作品を読めば自然と行うようになる価値判断と本質的に変わらないという点を言いたいからです。今、私が読んでいるこの作品がいいとか悪いとか、どれよりもよいとか、そうではないとか、また同じ作品でもこの部分がいいというような判断を本能的にしながら読むのが読書経験です。人間の自然な心理現象です。誰もがせざるを得ない価値判断ですが、これを他の人たちよりも多くの訓練、もちろん読書訓練ですが、読書だけではなくいろいろな個人的修練、心の勉強と知識の勉強を兼ねた修練を経た読者、そのときそのときの判断が誰よりも妥当していて、同僚の読者に説得力をもって批評するべく努力し、一定の水準に到達した読者が批評家なんです。だから批評家のいう客観的基準というのは自然科学のそれと同じ外部的な基準ではないでしょう。ある固定した尺度があるのではなく、誰もが心の中にイメージする内在的な価値判断を、個人の修練と他の読者たちと疎通する訓練を通して純化して説得力を拡げていく、そのような意味での客観性です。この部分で「文学主義者」としての私の本性が出るのかもしれませんが(笑)、私は、批評家が追求するそのような曖昧な客観性こそが本当に高い次元の客観性であり、科学でいう客観性というものは、実はある一面を抽象して、そのような修練のない人もどこでも適用できるようにした人為的な尺度だと考えています。

 

―― 文学に関する白樂晴の文章を読んでみると、「文学の成就」「最良の作品」「最高の境地」のような言葉や、まさにその作品、その成就、その境地を感知するための心の修練を強調する言葉に時々出会う。最高の作品を感知する訓練された心というその批評家像を考えれば、私が彼の専攻を過度に意識しているせいかもしれないが、英文学批評の一伝統、アーノルド(Matthew Arnold)からリーヴィス(F. R. Leavis)に至る批評伝統を想起する。白樂晴が「非専門的な専門性」という、吟味すべき逆説を選んで指称する批評の特性、それを典型的に示すのも、私の見るところではその批評伝統である。この伝統の中にいる批評家たちは古代や現代の際立った作品の核心を、いわゆる「正典」を確認することを何より重要に考え、その正典を基準に厳格に評価的な批評を追求する。厳正な評価の義務を強調する白樂晴の考えは、そのような正典中心主義に通じる面があるかもしれない。

 

 白樂晴 英文学で見れば、アーノルド、エリオット(T. S. Eliot)、リーヴィスなどはみな詩を詩として見るべきあって他のものとして見るべきではないという点で一致していて、それが1つの伝統をなしています。最近はずいぶん弱くなった伝統です。英文学徒として、そして1人の文学徒として、私がこの古い伝統に執着する人間であることは明らかです。ですが、正典を規範化して固定する傾向とは明らかに区別しなければなりません。アーノルドも、エリオットも、リーヴィスも、その時代の新たな感受性を持って従来の文学地図を塗り替えた人たちですからね。既存の正典の体系を破壊した人々です。このうちアーノルドは、ロマン主義の世代が果たした転換を継承して整理したという点で革新性はさほどない方ですが……。最近よくいわれる「正典破壊」はそのまま議論が進めば、古典的で偉大な作品とそうでない作品に最初から違いがないという論理にまで発展すると思います。ですが、そうではなく、これまで古典として知られてきたいろいろな作品に対して承服せず、むしろ他のいろいろな作品がいい作品だと言って古典の範疇に入れようと努力した人々が、アーノルドであり、リーヴィスでしょう。これは批評家の基本任務だと思います。自分がいいと信じる作品、すばらしいと考える作品が認められて、それもできるだけ多くの人々から長い間、認められることを望んで、官権や金力を動員してではなく自らの批評活動を通してそのように認められようとするのは、批評家ならば当然の態度です。すでに古典として一定のいくつかの作品だけを評価する窮屈な正統主義といいますか、正典主義と混同する必要はないと思います。
 
 
 
 
 

白樂晴が読んだキム・エランとパク・ミンギュ

 
 
インタビューが既成の正典体系にこだわらない批評活動であるという問題にまで及んだだけに、同時代の文学作品に関する話、特に民族文学やリアリズムの伝統的基準で見ると議論が多いかもしれない作家、しかし興味深いことにそれでも『創作と批評』誌と縁が深い新人作家らの作品に関する話を聞くことで質問を終えたい。その新人作家とは、彼が最近、文学の現場に対する関心を持つべきだと痛感して刺激を受けたという作家のうちの2人、キム・エランとパク・ミンギュである。

 

白樂晴 小説集『走れ、父さん』から受けた印象を要約するならば、キム・エランの感受性が斬新で想像力豊かで、あるときは奇抜なところもあり、話法が多様なので、みなさんいろいろと言われるんですが、実際に彼女の作品の物語文法はむしろ古典的と言い得るというものです。俗にいう写実主義的な規律という面でも、それが必ず必要なのではなく、パク・ミンギュのような作家はそれを果敢に破壊しますが、キム・エランの場合はその点でも特別に離脱的であるとは言えません。作中の話者や主人公が奇抜な想像をするからといって、その小説自体がファイタジー小説や脱写実主義になるわけではないでしょう? 表題作「走れ、父さん」で、話者が母親の腹の中でいろいろな経験をしたと語るのは1つの話法であり、むしろ写実主義の規律に明らかに反する作品としては、デビュー作「ノックしない家」の方だと思います。最後の方になると主人公がいろんな人の部屋に忍び込むのですが、部屋に対する描写が一字の違いもなく同じようになされています。その家での生活がどれほど画一化した匿名性の世界であるかを強調する手法でしょう。ですが、にもかかわらず、しばし入った部屋に対する描写としては似つかわしくない表現が出てきます。引き出しの1つは「いつも」どうこうであるとか、携帯電話の充電器が「つねに」充電されている、などというようにです。自分の部屋と全く同じ部屋だという点をこのような様式化された表現で提示するのですが、私が見るところ、これは最初の作品の未熟さと言うべきでしょうか、とにかく作為的な臭いのする部分です。その他の作品はみな奇抜な想像と表現であふれていますが、私たちが評論を行うとき、キム・エランの物語文法が多分に伝統的であるにもかかわらず、彼女の作品の持つ新しさがどこから来るもので、それがどのように達成されているかを検討し、そうでない同時代または同年配の作家たちと区別する方が重要ではないかと思います。

 

 私の見るところ、キム・エランの小説から受ける溌剌とした印象はユーモア感覚と無関係ではなさそうだ。ユーモア感覚はもちろんキム・エランだけの資質ではないが、キム・エランの場合、それは非凡な水準である。父親を取り上げた作品を見ると特にそうである。いわゆる「大きな物語」というものが退場して以降、韓国の小説はオイディプスシナリオ、あるいは家族ロマンスをモデルにして多くの物語を産出し、そこから出てきた父親の物語は、およそ権力あるいは権威との戦いをめぐる厳粛さや悲壮さのようなものを持っていた。息子の立場からする物語であれ、娘の立場からする物語であれ、そうである。一方、キム・エランの小説はオイディプスシナリオの誘惑に見向きもせず父親を喜劇的に物語る。たとえば「彼女が間違って挙げる理由がある」に登場する父親は、娘が一人暮らしをする部屋に寝泊りする無能な父親だという点で、シン・ギョンスクの初期作「ある失踪」に出てくる父親と似ているが、シン・ギョンスクの作品から感じられるような、何というか凄然たるエレジーのような雰囲気をまったくかもし出していない。むしろ童話の中の人物のように純真で矮小に描かれている。そのような童話的な明朗さの1つの極致が、走る父親にサングラスをかけてやる感覚や、娘の出生をもたらした肉体的結合を海辺の花火に置き換える感覚に盛り込まれている。白樂晴の正しい指摘の通り、キム・エランの小説は多分に古典的な物語文法を持っており、また何かあまり馴染みの薄い道徳的感覚を持っているようだ。

 

 白樂晴 パク・ミンギュの場合は、写実主義的な規律を大々的に、そして意識的に破壊する作家ですが、しかし俗にいう幻想小説とは違うと思います。幻想小説といえば私たちにお馴染みの現実の法則が通じない世界を設定しながらも、その世界独自の法則で動く幻想的な出来事や行動が展開しますが、パク・ミンギュの小説はそうじゃないですよね。そのときそのとき思いのままにさまざまな荒唐無稽な話をして自分勝手なんです。それは幻想世界を救出するための努力というよりは、現実に足を下ろして現実に対して発言する1つのレトリックだと思います。たとえば「コリアン・スタンダーズ」のような作品には外界人が登場しますが、アレゴリー的な手法を使ったリアリズム小説、甚だしくは「農村文学」とさえ言えるほどの小説です。「甲乙考試院滞留記」は比喩がたくさん出てきてそう思われるかもしれませんが、写実主義から離脱したと見る必要さえない作品です。もちろん、カステラ、たぬき、キリン、大王イカなどがいわばみな「幻想」に当たりますが、その幻想的要因がそれぞれ活用される方式が異なり、作中の昨日が異なる点を少し詳しく究明する必要があると思います。そのような要素以外にもパク・ミンギュの語法や文章に対して検討してみる余地が多いと思います。私の経験では、パク・ミンギュの小説を何となく読んでいると楽しくて負担なくページを繰っていけますが、一度、内容に関心が生じて完全に吸収しながら読もうとすると本当に大変です。高度の集中力を要する作品なんです。そうなる理由のひとつは、彼が使う比喩が単なるひとつの奇抜な比喩に終わるのではなく、ある比喩がひとつ登場するとそれを続けて変形させながら最後まで絞り上げるように使うんです。発展しつづける比喩が数珠のようにつながって作品のつなぎ目を確保しています。実はこれは詩人が使う技法です。詩というものは、やはり紙面の分量に比べて労働強度が高い読書行為を要求するじゃないですか。だからパク・ミンギュの場合も、そのような言語的表現の連鎖を通して、作品がつなぎ目を持つようになるんですが、そのようなものに付いていこうとすれば労働強度がかなり高くなります(笑)。

 

 パク・ミンギュの小説のように、写実主義の規律を故意に打ち捨てた作品を興味と愛情を持って読み、またそこで詩的技法を発見している白樂晴の読み方が、私には少し不思議ですらあった。批評家としての彼の感覚が、平素考えていた以上に柔軟で闊達であるということを認めざるを得なかった。パク・ミンギュの小説について彼は私よりもはるかに好感を持っているようだ。パク・ミンギュの小説は、特に短篇は様式として見れば一言で「寓話」ではないだろうか? ある現実のそれらしい仮想を作らねばならないという圧力から自由な、それでいて面白さと教訓を与えようと機転を発揮する物語が、彼の短篇の特徴ではないだろうか? ある場合、パク・ミンギュの短篇は、私にとって大衆消費社会のイソップ童話のように見える。だが、白樂晴にとってパク・ミンギュの小説は、それ以上の何物かである。

 

 白樂晴 面白さというものはとても漠然としたもののようですね。このような面白さを達成するいろいろな技法があるでしょうが、そのうちのひとつが今、言ったような言語の詩的な使用による面白さでしょうし、その次に教訓という言葉を使われましたが……パク・ミンギュが聞けば、「この野郎、何いってんだ」と言うかもしれませんね(笑)(パク・ミンギュ「この野郎、何いってんだ」『大山文化』2004年夏号 ―― 編集者)。何か整理された教訓があるのではなく、あらゆる不恰好な教訓が乱舞する世界に対する反感、特にカステラと言えば、「店で売っているものじゃない?」、大王イカと言えば、「実はあれは15メートルもので、150メートルというのは間違いだった」などと言いながら、当事者のイカが見ても情けないことをやっている人間たち、このような部分に対する拒否感とそれを拒否することで、地球が発するマンボウの産卵のような光を発見すること ―― このようなことを教訓と言えるでしょうが、「教訓」という表現が実際にはたして適切かどうかはわかりません。イソップ童話の寓話的な技法とはかなり違うじゃないですか。私はやはり「詩的」という表現の方が適当だと思います。よい詩におけるような、ものすごい言語のエネルギーがあります。そのエネルギーが幻想を生み出しもし、それを通して現実に対する覚醒を与えもし……このような経験自体が教訓であるといえば教訓でしょう。イソップ童話はあらすじを要約すればその教訓が何か抽出できますが、パク・ミンギュの小説は要約がとても難しいです。写実的な物語であれ、または寓話的な物語であれ、物語中心の構成でないからでしょう。実はパク・ミンギュの小説は途中で休んでまた読み始めようとすると本当につらいです。始めからもう一度読み返さなければなりません。これも詩の特性と通じています。彼の長篇『三美スーパースターズの最後のファンクラブ』にもそのような技法が生きているでしょう。今回『カステラ』を読みながら素晴らしい作家であることを再確認しましたし、私なりに「韓国文学の価値」を感じました。

 

 『創作と批評』誌が創刊40周年を迎えた時点に、白樂晴から「韓国文学の価値」という言葉を聞くのは愉快かつ鼓舞的なことだった。彼は『創作と批評』が文芸誌と総合誌を兼ねていることからくる制約を語るが、その兼業は私が見るところでは文芸誌としての『創作と批評』の弱点であるというよりはむしろ長所である。文学はその外部に向かって開かれていなければ、文学らしい文学として存続できない。文学はその外部と関係を結ぼうとする努力を通して古い規範や慣習から脱皮し、生き生きとした人間の現実へと接近していく。彼とインタビューする間、資本主義世界体制下において韓半島の平和と統一を考える知恵ある実践家、争点が存在しそうな対話的脈絡を確実に把握し、整然と主張を繰り広げる老練な論争家、また作品技法に並々ならぬ関心を傾け、作品評価の公正性を追求する「正格」の批評家に出会った。40年という類例のない歴史を達成した『創作と批評』の誌面が、今後も他のすべての文芸誌の鏡になるであろうことを願いたい。

 

訳・渡辺直紀

 

季刊 創作と批評 2006 年 春号(通卷131 号)
2006年3月1日 発行
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