親日問題にアプローチする別の道 : 赦しのために

論壇と現場

 

 

 

文学評論家、仁荷大学校東洋語文学部教授。著書に『文学の帰還』『生産的対話のために』『民族文学の論理』『韓国啓蒙主義文学史論』などがある。

 

 

1.遅延の意味

 

「親日反民族行為真相糾明委員会」(略称・反民糾明委)の出帆(2005年5月31日)を前後して私たちの社会を熱くした親日論争が、いつの間にか鎮まっている。鍋のように煮えたぎったかと思えば、次には水のように冷えてしまったりする韓国式討論(?)の前轍を、今回も忠実に踏んだわけだ。あるところでは親日派摘発に汲々しており、またあるところでは臆面もない弁護に一貫しているこの争論から、私たちは果たして何を得たのか? 小さな問題だとしても立派な討論過程を通過すれば、そこから高貴な人間的真実が伸び上がってくることもあるだろうが、親日論のようにデリケートで複雑な争点というものは、よく扱えばこそ私たちの社会の成熟をもたらす大切な契機になるだろうが、ただ組みに分かれて争うに終始してしまったのは惜しいことに違いない。不作の中でも柳宗鎬の二編の文章、「霧の中の道――親日問題に関する所見」(『文学と社会』2005年冬号)と「親日詩に対する所見」(『詩人世界』2006年春号)が印象的だった。もちろん私は、林鍾国の『親日文学論』(1966)を源流とする清算論が遂に反民糾明委の誕生に具現された最近の流れを「逆マッカーシズム」 柳宗鎬「霧の中の道」『文学と社会』2005年冬号、348頁。 として規定した彼の指摘に留保的だ。アーサー・ミラー(Arthur Miller)の『試練』(The Crucible, 1953)が戦慄的に喚起したように、マッカーシズムは、疑いが想像を通じて無限増殖し、ついには容疑者らの肉体と魂を破壊するに至る恐怖の「共産主義者の一掃(red purge)」だった。過去には親日問題そのものが公共の議題に上ることさえ許容されなかったほど、そして反民糾明委の出帆後には、清算論者たちをともすれば紅衛兵によって追いたてるほどに、未だ韓国社会における親日派は力が強い。もし、清算論が体面も顧みない弁護論に対する反動によって思考の単純化を煽る逆マッカーシズム的誘惑に屈服する気配でも見えようものなら、私たちはそれを厳しく批判すべきだが、依然として弁護論が強固な韓国で、親日清算論が逆マッカーシズムへと転換する可能性はほとんどないと判断できる。にもかかわらずその見解は充分に尊重されねばならない。清算論の歴史的意義は肯定するが、その問題点を指摘することによって、合理的弁護論のひとつの模範を示した彼の討論を糸口としつつ、この重大な争点に対する討論を続けていきたい。

 

まず、不遇を免れえない清算論の歴史を簡単に概観しよう。反民糾明委の正式発足は、清算論史から一線を画すに十分なものである。これにより1949年10月4日、わずか1年にもならないうちに李承晩政権(1948~60)によって解体された「反民族行為特別調査委員会」(略称・反民特委)が、半世紀ぶりに復活したということだからだ。李承晩政権はなぜ反民特委を破壊したのか? 理由は簡単だ。その基盤が親日派だからである。運動方法に対する論難にもかかわらず雩南李承晩は、一生を独立運動に捧げた稀な志士の一人である。いや、「そのうちの一人」ではなく、左右派の双方が仰ぐ「ただ一人」の人物だったといっても過言ではない。このような位相がどこに由来するものなのか不可思議ではあるが、彼は韓国独立運動の象徴として、その経歴にふさわしく執権以後の対日外交でも終始一貫して強硬な立場を貫いていた。ところが国内的には、むしろ親日派を大幅に包容した。彼らを自分の権力構築の中心にすると同時に、大韓民国建国の実質的支柱として立てるといった、恐ろしいリアリズムを選択したのだ。このリアリズムは、ソ連軍の北韓占領および金日成政権の出現と連携している。全国民的熱望にもかかわらず、韓半島には1948年、南の大韓民国と北の朝鮮民主主義人民共和国、二つの国が順に建国された。早々と冷戦の気配に気づいた李承晩は、1946年6月、単政論を果敢に提起し、北との体制競争を宣言した。国内基盤がほとんどない彼にとって、親米へと衣替えし、新たな主人を待つ親日派たちこそが、そのあつらえ向きの基盤だったわけだ。これらは決して日帝の残滓(残りかす)ではない。その上、親日派たちが再び横行する南韓に失望した知識人らが大挙越北した空白まで重なったこともあり、反共に徹底的な親日派たちは、解放(1945)後の現実の中で、内外の左派と対決する物質的力と近代制度の運用力をもつ、ほとんど唯一の集団だったといえる。中国革命の成功は南韓の親日派たちにとって決定的な福音となった。毛沢東が1949年10月1日、天安門広場で中華人民共和国の出帆を30万の群衆の前で告知し、長きにわたる半植民地状態の終焉を世界に向かって宣言した何日か後に南韓で反民特委が解体されたことは、痛烈な歴史の反語に違いない 柳在建はフォーラムの討論で反民特委の解体を中華人民共和国の出現に関連付けることにたいして疑問を呈しつつ、1949年6月6日の警察の襲撃によって、すでに反民特委が機能を喪失していたと指摘した。そうだとしても特委の公式解体には中国革命の成功という外在的要因が加勢したものと思われる。実際に李承晩は毛の勝利に大きな衝撃を受け反共統一戦線を狙った太平洋同盟の結成を再び推進したのだが、この構図の中で1950年2月16日、日本を訪問することで既存の対日強腰を和らげ、韓日間の過去事問題の前向きな解決というオリーブの枝をもってきたのである(これについてはパク・チニ「李承晩の対日認識と太平洋同盟構想」『歴史批評』2006年秋号、102-5頁)。 。ソビエト連邦、中華人民共和国、そして朝鮮民主主義人民共和国という北方三角構図の定立を前に、アメリカは急いで東アジア政策の堡塁を中国国民党から日本の右派に変え、こうして冷戦の進軍が南韓親日派復活の決定的契機になったのである。 反共を掲げた南韓歴代独裁政権がまさにその「共産政権」と相互依存的であるという点は非常に示唆的だ。この敵対的共存は、復活した南韓親日派と北方に出現した社会主義政権の間でも成立する。

 

 

 

このようにして留保された親日清算問題は、朴正煕政権(1961~79)時になって、より強力なタブーの領域に移動する。アメリカは北方三角同盟(北韓・中国・ソ連)に対処する南方三角同盟(韓国・日本・アメリカ) 構築のための布石として、「満洲」で日本の陸軍将校として勤務していた朴正煕を下位パートナーに選んだ。東アジア反共包囲網の定立における日本の役割を強調したアメリカの構図の下、韓日協定(1965)が締結されたことで、朴正煕政権における満洲人脈は中興期を迎える。韓日癒着という言葉から見当がつくように、日本自民党の格別の後援の中に、第二次大戦の敗北で腰砕けになった満洲プロジェクトが、新たな位層において激しい勢いで推進された。その中で、親日問題はまたもや沈黙のカルテルの中に沈み込んでいく。朴正煕政権の後継である新軍部時代はもちろんのこと、南韓の民主化が新たな段階へと進展する金泳三政府(1993~98)と金大中政府(1998~2003)時代にも、この問題に関する限り大きな変化を見せない点が注目される。朴正煕独裁に抵抗した金泳三と金大中のルーツである韓民党〔韓国民主党〕も、親日人脈から自由ではないからだ。韓民党が植民地時代の地主と官僚らを土台として創立されたという点を想起するとき、二人の野党指導者の連続執権は、建国以降引き延ばされてきた韓民党の、遅ればせながらの執権とみることもできるだろう。参与政府〔盧武鉉政府のこと〕に入ってから紆余曲折は終わったとはいえ、反民糾明委が出帆したということは、盧武鉉政府が過去の民主政府と連続しているにもかかわらず、また、それだけに非連続的であることを雄弁している。すなわち、盧武鉉政府は独裁政権であれ民主政府であれ、南韓の歴代政権がその罠に捕らえられた日本コンプレックスから、ある程度自由だということだ。

 

 

 

いかにしてそれが可能になったのだろうか? 第一に、盧武鉉政府の出現が引き起こした世代交代の効果をあげることができる。同政府誕生には、解放前後に生まれた世代のボスたちに対する反乱が底流でうごめいている。鉄のふたが開いたことで、親日派問題という最後のマジノラインにも遂に亀裂が生じたのだ。二番目に、脱冷戦時代の到来の中で、分断体制がいよいよ揺れ動き始めたという点だ。分断を糧に成長した南韓の支配サークルが脱分断の傾向の中でその力強い現実性を徐々に失わせていく道程に入ったのである。いわば天皇制軍国主義とその変種として出現した反共独裁に基づく20世紀型韓半島の発展機制が、いまやその効率性をほとんど消尽し、それによって反民特委の遅延がこれ以上可能ではなくなった時点に、私たちの社会は到逹したとでもいおうか。
 

 

2.苦痛の祝祭

 

反民糾明委の公式出帆を控え、過去事の亡霊たちがあちこちで出沒する。親日論争が再燃し、朝鮮戦争(1950~53)時の「附逆」行為に対する調査も並行させようという勢いがついたかといえば、過去事整理によって波風が起きるのは適切ではないと主張されもする。折しも中国は東北工程によって、日本は靖国と歴史教科書によって韓国にプレッシャーをかけたという外患状態を想起するならば、北核を軸に、そして過去から繰り越された諸争点までもが加勢し、南南葛藤を増幅させてもいる私たち内部の内戦を一日も早く終わらせねばならないという主張に、一理なくもない。ところが過去事整理はむしろ危機の時代を突破せんとする真摯な気持ちから願われる場合が少なくないという点に留意せねばならない。『三国史記』や『三国遺事』は太平の御世の所産ではない。高麗が直面した内外の危機を背景にこれらの歴史書が出現したという点に注目しよう。このような高麗の歴史意識が継承されることで、朝鮮王朝は開国の当初に高麗史整理に取り掛かかり、『高麗史』と『高麗史節要』を編纂したのである。この点で、建国50年が過ぎた現在も正史体制の朝鮮王朝史と植民地時代史をもちえなかったのは、恥ずべきことに違いない。すでに指摘したように、その遅延の主要原因は、解放以後、韓半島が分断されたことにあるだろう。そしてその分断が、解放を自主的になしえなかった内部要因にもよるものであった点に着目しよう。日帝の長期間にわたる残酷な支配の下、民族解放のための辛い闘いにもかかわらず、韓半島は結局、米ソ連合軍によって分断されたまま解放された。であるゆえに、私たちにとって解放は咸錫憲の言葉どおり、泥棒のようにやってきたものなのである。光復軍がまったく参加できないままに聞いた日帝降参の知らせに金九が痛嘆したというエピソードは象徴的である。分割占領の条件を創造的に乗り越えた統一国家建設ではなく、分断政権樹立に帰結したことは、泣き面に蜂の悪材料だ。この分裂の中で南北の体制競争が加速化されたがゆえに、親日問題を核とした植民地時代史の整理がうやむやされてしまったのである。米ソ連合軍による解放という外挿性が、親日問題をきちんと処理することができなくなった根因だという点を沈痛に見つめる時、親日をただ自分たちの外においておこうとする排除の誘惑から自由になりうるだろうが、親日は私たちの中にも厳然としている。実際、朝鮮王朝が近代に移行するのに成功していたなら、親日派の発生も源泉で封鎖されたはずである。親日派の発生において現われた内在性が、その処理においても裏切ることなく複製される。処理どころか親日問題自体を括弧にくくることによって、その整理さえ絶えず横滑りさせてきた韓半島分断の巧妙さは、本当に「歴史の奸智」を感じさせてあまりある。

 

 

 

よく第二次大戦後にナチの賦役者たちを厳格に処理したフランスの例をあげて、親日派をきちんと粛清できなかった韓国と比べることがある。ところがフランスと同じ位層で論議するのは不適切だ。ナチのフランス占領(1940〜44)はわずか4年であり、さらに南部フランスはたとえ傀儡政権だとはいえヴィシー政権(1940〜42)が管轄していた ナチのフランス占領が、ナチ統轄の直接支配地域とヴィシー政権管轄の間接支配地域に分割されていたという点は、レジスタンス運動の可能性をその分増大させた要因である。傀儡内閣だとはいえ土着政権が存在した統監府時代(1905-10)に合法的・非合法的国権回復運動が高まったのとは違い、李完用政権までもが崩壊した総督府時代、特に初期の武断統治時代に国内運動は、いったんそのほとんどが絶滅していったという点を想起してほしい。 。なおかつドゴールの自由フランス軍が、窮地に追い込まれたとはいえ連合軍の一員として、そして国内のレジスタンス運動と連合してパリを解放した点が、決定的な違いである。まさにこの解放諸勢力が戦後にフランス共和国を再建する過程で、ナチ賦役者に対する処理を迅速かつ断固としてなしたがゆえに、36年の長きにわたる過酷な植民地支配のあげくに、泥棒のように来襲した解放を迎えた韓半島とは次元を異にすると考えねばならないのではないだろうか?

 

 

 

ところがフランスの場合もその中身をよく見れば、それほど単純ではない。パリ解放後、ナチ賦役者問題をめぐって繰り広げられたモーリヤック(F. Mauriac)とカミュ(A. Camus)の論争は、この問題を解決する難しさをよく示している。厳格な処罰を主張したモーリヤックは略式処刑と世論裁判が横行する現実の中で「オカルト宗教が勢力を得ている時には全力を尽くしてそれを否定せねばならないだろうが、その敗北が切迫した時ならば、その宗教を信じていた異教徒たちに対する赦しを深刻に考慮せねばならない」というジャン・ポーラン(Jean Paulhan)の助言によって、「死の大禍を回す代わりにキリストの慈悲を施そう」と寛容論に旋回する。「清算作業に失敗した国は、結局、自らの刷新に失敗する準備をしているのだ」とモーリヤックを批判したカミュは、不寛容の清算論を強力に提起した。しかし、強硬派を代弁したカミュも、現実としてあらわれた賦役者裁判に提起された公平性の不均衡の前で、モーリヤックが正しかったと告白することで、論争は竜頭蛇尾に終わる リュ・ジニョン「フランスの過去事清算とモーリヤック-カミュ論争」『本質と現象』2006年春号、158-61頁。 。清算論の現実態に対する失望によって寛容論が多勢になる状態で、フランス政府は1951年、ナチ賦役者に対する大赦兔を急ぎ足で断行する。赦免を通じて実現された和解措置なるものは常に政治的妥協の産物ではあるが、フランスはなぜこのように慌しく幕を閉じようとしたのだろうか? 共産主義の脅威という喫緊な事態を前に、すべての反共闘士を民族共同体の中に結集させねばならないという名分を掲げ、賦役問題を中途半端にしてしまったということである Jacques Derrida, On Cosmopolitanism and Forgiveness, trans. by Mark Dooley and Michael Hughes, Routledge, 2001, p. 40. 。初期の超法規的段階から司法的階段へと、挙句の果てには反共を掲げての大赦兔に帰結したフランスの場合も、ナチ賦役問題に対する成熟した処理を成功させたとはみなし難い。柳在建が討論で提起したように、その処理の不徹底性が植民地問題に対する自家撞着的強硬策として現われたのであり、フランス植民地主義はディエン・ビエン・フーの敗北(1954)に引き続きアルジェリア民族解放戦争(1954~62)でも屈辱的に敗退したのである。真正な清算に失敗したフランスの過去処理方式も他山の石であって、私たちが見本にするに値するものではない。

 

 

 

フランスもこのありさまだが、一歩遅れてこれに着手した韓国で、その作業がさらに至難であろうことは火を見るより明らかだ。36年という時間は恐ろしい。自由な条件でも時間は人間的生の意味を一気に削奪しようとする、陰険で凶悪な陰謀師になりがちなものだが、集団的不自由が日常と化した植民地体制の下で、時間とは、一瞬のうちに人をすりつぶす荒廃した機械であるといえる。このために、解放運動に身を投じた多くの人々が時間の罠にかかり、メフィストフェレス(Mephistopheles)と契約した。時には逆の過程を歩む人々もいないわけではなかった。またある人は両極の間を往復したりもした。私は、まず親日問題に、自らを鞭打つ心情でアプローチせねばならないという点を強調したい。命あるものに対する根源的な憐憫から、近い未来、そのトンネルの出口の光を探そうとする切実な祈求の心構えで親日の亡霊たちを脱領土化し、険しい私たちの歴史の中に再領土化する訓練を始めよう。20世紀、韓半島史の失敗を繰り返さないという私たちの誓いと、21世紀へと向かう出口を創造的に模索しようとする私たちの真摯な思いこそ、その悪夢から湧き出た歴史の亡霊たちを薦度する初めの一歩になるだろう。過去事整理は、過去を切開する過程を経てなされる大統合の力によって、未来へとともに進むための苦痛の祝祭であるからだ。 拙稿「「国民統合」が目的だ」『東亜日報』月曜フォーラム、2004年8月30日。
 
 
 

3.赦しへと向かう道

 

解放直後あるいは建国直後になされるべきであった親日問題の処理を今再び取り上げる有意義な点とは何か? 最小の排除を通じた最大の統合、すなわち社会大統合に目的をおくという認識を私たち皆が確認し共有することがその核心だ。まず強調したいのは、反民特委の形式を繰り返すことは可能でもなく望ましくもないという点である。すでに是々非々の当事者たちがほとんど死亡してしまったがゆえに、彼らを、現実の法廷はもちろん歴史の法廷に立てることも難しい。死者には言葉がない。かといって、その子孫たちを呼び出すのか? あらゆる連座制は悪だという点で、これもまた違う。

 

 

 

だからといって、親日行績に対する調査さえもやめようという話ではない。調査は徹底的になされねばならない。いくら些細なことであれ、精緻にかき集め完璧なリストを作る集合的努力が要求される。問題は、そのリスト作成以後の判定過程だ。民族文学作家会議は2002年8月14日、親日文人42人の名簿を発表した。日中戦争(1937)以後解放まで、「内鮮一体の皇国臣民化論」と「大東亜共栄圏の戦争動員論」を主張した数々の文章を親日文学として規定したこの発表は、選定基準をはっきりと明らかにすることで既存の論議を一歩進展させたものであるが、越北文人も検討対象にした点がまず注目される。これにより、右派文人たちにだけ親日の烙印を押すという一部からの非難を回避できるようになった。「日本語で作品活動をしたとか親日団体参加、創氏改名をしたということなどは、親日如何を判断するにあたって参照するのみにとどめた」という言述も、この発表の信頼度を高めるのに適切に寄与した。たとえ日本語で創作され「国策」メディアに発表されたとしても、その文章の実像に接近して判定しようとする誠実さによって、一部の作品または文人たちが親日のくびきから救われた この作業を主導した金在湧の『協力と抵抗――日帝末の社会と文学』(ソミョン出版、2004)はその代表的業績である。 。

 

 

 

「暗黒期の文学」という曖昧な用語で親日文学の存在自体を隠蔽するとか、そうした企図に対峙しその存在をあらわにすることによって告発するといった過去とは違い、それを一つの分析単位にして実像に迫ろうとする最近の論議は、この間遺棄されてきた親日文学を韓国文学として領土化する苦痛の入社式なのかもしれない。この地点で、親日文学も韓国文学であるという認識を確認したい。親日文学も私たちの文学の暗い顔のひとつであるという点に留意しつつ、鶴見俊輔の言葉を吟味しよう。「もし私たちが1931年から45年に日本で起きた転向現象全体に裏切りという呼び名をつけ、悪だと見なしてしまうのなら、私たちは誤謬の中にある真理を思い浮かべうる機会を失うことになってしまうのです。私が転向研究に価値があると考えるのは、過ちの中に含まれている真実が、真実の中に含まれている真実よりも私たちにとって大切だと思うからなのです」 鶴見俊輔『転向』(ノニョン、2005)、チェ・ヨンホ訳、35頁。 。書き物をすることの厳しさに誰より鋭敏な植民地時代の知識人または文人たちが集団的呪縛状態に入ったその惨憺たる真実の内面を想像してみることで今日の自分を省察することは、親日文学研究の最高のやりがいではないだろうか?

 

 

 

ところが問題は計量的判定である。親日文人であるか否かを3編以上の発表文を基準としているが、すべての計量化がそうであるように皮相的になりがちだ。作家的良心に苛まされながら、それでもそういった類の文章を発表せねばならない困境に対する憐愍から、できるだけ擁護的に読解する姿勢が切実である 柳宗鎬は親日詩として分類された鄭芝溶の「異土」(1942)と李庸岳の「道」(1942)を、困境に留意して擁護的に読解しながら親日文学判定における硬直性の回避を提起している。「親日詩に対する所見」『詩人世界』2006年春号、28-34頁。 。もちろん、内的困境が欠けた文までそのようにしようということではない。特に親日派たちが解放後、自身または先祖を抗日に変造するようなケースは容赦しがたい 拙稿「韓国文学の近代性を再考する」(1994)、『生産的対話のために』(創作と批評社、1997)、29-31頁。 。ところが数々のこのような例のために、親日派または親日文人らのリストを拡張しようとする誘惑に陥ることは、親日問題をモダニティ一般として解消することによって ハン・スヨン『親日文学の再認識』(ソミョン、2005)、7-8頁。 兔罪符を与えることに帰結する脱民族主義的傾向と同様、危険にもなりうる。

 

 

 

要するに、親日文人42人の名簿は、再検討に付した方がよいだろう。親日としての行為や文章の量よりは、信念如何またはその質こそが親日文人であるかの判定においてさらに重要であるはずなのだが、名簿の中では軽くは同意しがたいケースが少なくない。蔡万植〔ちぇ・まんしく〕が代表的だろう。彼は確かに日帝末期に親日行為に文章と講演で加担した。これについて金在湧〔きむ・ちぇよん〕は、中国で汪精衛〔わん・じんうぇい〕親日政権が出帆した1940年以後、蔡万植の思想的転換が発生したと指摘しており 金在湧、前掲 99-114頁。 、ハン・スヨンは「新体制」の進軍を前にマルクス主義との「等価交換」が行われることで、「いかなる躊躇も動揺もなしに一貫した協力と同意の態度を維持する」と分析する ハン、前掲、55-76頁。 。親日現象を内在的に把握し入りこんでいくこの新たなアプローチによって、当時の植民地知識人たちが経験した内的混乱の実像があらわになった点は注目すべきことだ。生活世界の革命的再編の中で知識人たちを圧倒した「新体制」の現前に無感覚だったなら、それもまた一種の職務遺棄という点で動揺そのものを批判する必要はない。実際、獄中で最後まで転向を拒否した共産主義者たちよりもファシズムと妥協しながら別の道を模索した近代超克論者たちのほうが、今日よりいっそう有効でありうるという点を想起してほしい。ところが、果たして蔡万植に内面的転向が起きただろうか? 彼がマルクス主義を絶対的真理の位相に置いたというハン・スヨンの指摘を、私は疑っている。『太平天下』(1938)の結末が見せてくれているように、マルクス主義者のチョンハクはただ風聞によってのみ存在する。彼はいわば幽霊だ。ようやく「痴叔」(1938)のなかで生きている肉体として現われた共産主義者は、どれだけ世間知らずだったことか? マルクス主義であれ「新体制」であれ小説家的疑心を過度に生まれもった彼に宗教はない。このようであるから、前者から後者に改宗することもない。彼が残した親日文章などを読んでみると、「新体制」に対する全面的受容という指摘に一見納得することになる。ところが、まさにこの点が転向の無発生を反証するものなのかもしれない。彼の文章において「新体制」は、あくまでも外在的だ。私たちは彼が「新体制」と対決する内的苦闘にまで至りえなかったと批判することはできても、彼にたいして全身で投降したと責めたてることはできないだろう。その上彼は、解放直後、唯一自らの親日を告白することによって親日問題を公論に付した。「歴路」(1946)と「民族の罪人」(1948)で何度も提起したが、左翼も右翼も中道派も皆黙殺した。後者はこの問題に関するもっとも重要なテキストだが、私たちが見逃しがちな問題、すなわち「いわゆる群小級の罪人たち」 『蔡万植全集 8』(創作と批評社、1989)、275頁。 という命題が提出された前者にも劣らない。まな板に載せられた「怪獣」たちの救命行動も喜劇的ではあるが、昨日の「協力」をわざとらしく忘却したまま建国運動にさらなる邁進をする群小級人士の変身をうやむやと不問に付す社会心理の形成を、彼は心から憂慮する。「怪獣」たちに擦りつけようとする政治的無意識が立ちこめる霧の中で彼は「一定の形式を通じて公然と罪を犯した経緯を明らかにし、罪に相当する量刑を受け、そうしてこそ正当で腹の中もすっきりするものだ」(277頁)、言い換えれば清算の手続きが自己救援でもある点をいみじくも指摘したのである。この観点に立つなら、反民特委の解体を李承晩政権のせいだけに帰すことはできないことを悟ることになる。かさぶたを引っ掻きたくはない広範な群小級の暗黙が、解体を音もなく支えていたのだ。

 

 

 

解放直後の失敗を繰り返さないために、何よりもまず、私たちがあの残酷な時代には存在していなかったという自覚を厳格に据えなおす必要がある。試験も受けていない身で植民地時代を通過したぼろまといの身を判断するのだという実存的感覚を絶えず実感することによって、自らを通過した真実につくりかえる真正性が要諦である。この心構えに立つのなら親日派の不必要な拡張は発生しないはずだが、私は特に「穏健親日派」の存在をあらわにしたい。植民地支配体制とある程度妥協しながら植民地民衆または市民の利益を、その限界の中で確保しようと苦労した「夢潮」(1907)の作家、槃阿・石鎭衡〔ぱな、そく・ちにょん〕は代表的だ 拙稿「槃阿石鎭衡の夢兆」(1997)、『韓国啓蒙主義文学史論』(ソミョン、2002)、295頁。 。槃阿よりもっと積極的で、したがってより論争的な例としては古友・崔麟〔こう、ちぇ・りん〕だろう。3・1運動(1919)後、天道教新派の首領として日帝との非妥協を堅持しとおした旧派とは違い、総督府との妥協の下で国内運動を発展させた彼は、結局、反民特委に呼び出されるくらいに親日派としての烙印を押された。日帝に対する非妥協を貫徹した旧派の首領、葦滄呉世昌〔うぃちゃん、お・せちゃん〕はものすごい。ところが天道教新派がマルクス主義とともにもっともしっかりした運動組職を整えたその土台が、その首領である古友の親日行為という盾だったという点に留意せねばならない。葦滄は節を守ったが運動を喪失し、古友は毀節の汚名を被ったが運動を生きながらえさせた。難問である。

 

 

 

この点でも、親日問題を個人別の摘発に重点をおくようにするよりは、構造的にアプローチするのが合理的であろう。この問題を個人的次元のみに還元しようとする欲望から、いったん自由になる必要が切実に求められる。私たちの近代性が直面した困境という大きな文脈の中で、「民族」の重さを減量する訓練を通じて親日問題を把握しなおすことで、個別的アプローチとともに諸機関の懺悔運動を起こすことが代案としてありうる。各宗教教団、言論機関、文人団体をはじめとした各界各層で親日を告白することによって、赦しへと向かう道を用意しようということだ。白樂晴が討論で提起したように、機関懺悔が一種の修辞に陥る危険性はある。それでも親日を頑として否認したり、あるいはその問題を肇から括弧にくくってしまう機関がこの問題に対して公開的な謝罪を表明することは、その真正性如何を別にしても、いったんは大きな進展だといえる。このためには、追究する側も姿勢を整える必要が緊切だ。一部をもって一人の人間またはその機関全体を親日だと没規定しようとする誘惑から離れ、白紙半帳の違いをも見分けようとする微視的姿勢が要求される。私たちがこの問題に対して愼重に愼重を重ねざるをえない理由は、実際にはより根本的なところにある。「もし誰かに赦す権限があるならば、それは被害者であり、第3の機関ではない」 J. Derrida、前掲、44頁。 。ところがその被害者は、十中八九、現世にはいないだろう。赦しの真正な主体が不在だという不条理な状況においては、代理の危機が発生する。純粋な赦しの基本的不可能性と政治的妥協の産物として与えられる和解の現実態とのあいだの、その凄まじい間隙を黙想する、倫理的躊躇なき清算論と弁護論の対立とは、もしかしたら絵空事なのかもしれない。

 

 

 

悪霊のようにとりつく親日のお化けから身をほどく根本的な道は、赦しと和解を土台に東アジアと共に21世紀を開く、その華々しい作業に韓国が参加することにあるはずだが、判定や解決を急がずに、真実の別の側面を思考することによって、人間と文学に対するより深い理解へと導く煉獄の討論が、しばらくは必要なのかもしれない。その討論過程のある瞬間に、結実の時はやって来るだろう。果てしない猶予の中に親日の枷から解き放たれえない苦痛の無限持続を限界づけるという点でも、実が結ばれる赦しのもうひとつの名でありうるだろうが、うんざりする遅延を、むしろ私たちの社会を新たに更新する成熟した結実の契機とするのであれば、この上なくよいことだ。

 

 
 

 


* 本稿は中国・延辺大で「満州国時期朝鮮人作家研究」というテーマのもと開かれた会議(2006年8月28-29日)で基調講演として発表した文章を、細橋フォーラム(2006年10月20日)を経て再修正したものである。指定討論者の柳在建教授をはじめとした細橋研究所会員の皆さんの論評に厚く感謝する。


 


訳‧金友子

 

 

 

季刊 創作と批評 2006年 冬号(通卷134号)
2006年12月1日 発行
発行 株式会社 創批
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