「すでに来ている未来」の小説的主体たち

2012年 冬号(通卷158号)

 

黃靜雅(ファン・ジョンア)

文学評論家、翰林大学校翰林科學院HK教授。評論に「災難の叙事、終末の想像」、「異邦人、法、普遍主義に関する問い」などがある。jhwang612@hanmail.net
 
 
 

1. すでに来ているある未来?

 

この間、ある大統領選挙の候補が引用して有名となった「未来はすでに来ている。ただ広く広がっていないだけ」という文句がある。去る10、20年間われわれの想像力を制約してきた「代案はない」(TINA)という頑強な宣言に対抗するものとして、これほど適切な表現もなかろう。代案がないどころか、それはわれわれが生きていく今日に種として、あるいは実として育ちつつあるから、よく見分けて大事に育てていけばよいという意味として解釈しても差し支えなさそうなこの主張は、そういう点で何より希望的な便りである。だが、どんな文章であれ、だいたい一つ以上の解釈に開かれているに決まっている。この文章もまた、少し角度を変えるならば、緊急で厳しい警告として読まれ得る。振り返ると、容易く気付くほど広く広がってはいなかったものの、すでに来ていたもの、それで結局未来を掌握したものが、いつもよいものばかりではなかったからである。否、実は恐ろしいものが少なくなかったといったほうが実感に近い。例えば、リストラや非正規雇用、強制撤去のような事態を思い浮かべてみよう。これらのことは、一時的であったり例外的であったり、せいぜい枝葉的な事件なので、私、あるいは私たちの未来となるとはなかなか思えなかった。全体的に見て、世の中は前へ進んでおり、ある人は少し先に、また他の人は少し後になるかも知れないが、結局皆によりよい未来があるという信念に相変わらずも捕らわれていたせいも大きかっただろう。

イマニュエル・ウォーラーステイン(Immanuel Wallerstein)が主張し続けてきたところによると、現在われわれは正常的な時間ではなく、構造的危機の時間、言わば体制的転換期を生きていっている。構造だの体制だのというものがあまりに重みのある単語だから、それらの危機や転換を検証する物差しさえ漠然とする。しかし、少なくとも世の中がこれまで進んできたようには進んでいけないという感じだけは、この巨大なる診断に直観的に感応する。ウォーラーステインの主張によると、今が体制的転換期だという認識ほど留意すべきことは、この転換を通じて移されていくもう一つの世界が「比較的民主的で、比較的平等な」世界となるという保証はないし、「今のこの体制の特徴である位階と搾取と両極化」を異なる形、おそらくはより悪い形へと再生産することにもなりかねないという点である。こういうくだりはウォーラーステインの著作の至る所で見い出されるが、引用は2012年9月17日~18日に慶熙大学校で開催された学術大会での発表文“The Politics of a Civilizational Transformation”による。事情が実際こうだとすれば、すでに来ている悪い未来の形態はより恐ろしくなる。「われわれの中の最も弱い者に起った出来事」が取りも直さずわれわれに起る可能性が何時になく高いからである。修辞の面もなくはない「われわれは99パーセント」という掛け声の持った威力と含意もここにある。

だが、こういう事態が実際繰り広げられていても、一人の個人が20パーセント、あるいはただの1パーセントにのみすでに来ているよりよい、それで実はより悪い未来にこれ以上捕われないという保障はない。激しい両極化といっても片方の1パーセントにとっては一日一日が途方もなくよりよい時代であり、よいということはどうしても欲望の視線を引き付けるものである。また両極化のもう一方の極近くにいる人々の生は、それはそれで途方もなくつらいので、自分もまた、そちらへ引かれていると認めることは容易くない。そういう点で広く広がっていなくてまだ見られないこととは別に、向こう側のよいものに捕われて見「ない」という、もうひとつの類の「非可視性」に巻き込まれる危険は相変わらず在る。このような二重の非可視性に対抗することは、認識の戦いでありながら、また価値の戦いであるしかない。「すでに来ている未来」から分かれてきた希望と警告のメッセージは、こうして一つへと収斂される。絶対多数のより悪い未来を警告し、すでに来ている極めてつらくて無念な生を見つめながら、そこからやはりすでに来ている絶対多数のよりよい未来という希望を見い出さなければならないからである。

大統領選挙を控えた韓国社会で、経済民主化と福祉のような議題が最も活発に論議されるのと軌を一にして、文学でもつらくて無念な生に対する凝視は「現実の帰還」という表現を用いたいほど、明らかな傾向として存在する。龍山(ヨンサン)惨事への抗議と希望バス運動に積極的に参加した文人たちの動きや、文学と社会現実との関係を新たに苦悶した「文学の政治」論議も、全体的に見てそのような傾向の一部を成していると言えよう。顧みると、多かれ少なかれ文学が抑圧と苦痛を取り上げなかった時期はなかったが、改めて「帰還」という感じを受けるのはどうやら「正面凝視」に当たる作品が一層増えたからであろう。これらの作品は、例えば青年の失業や非正規雇用職の生を逆説的な新鮮さで描いてみせたり、現実の圧迫から一時的ながら逃れるため、溌剌と意味の裏返しを試みた事例とはまた異って、奇抜な発想や差別化した修飾で緩和、あるいは転換されないまさにそのままの抑圧や苦痛を直視する方式で「文学の政治」を敢行する。

本稿ではそういう、つらくて無念な生を根気よく正直に見つめた小説を読みながら、その中ですでに来ているものとして捉えられた警告と希望の面貌を見てみたい。特にそこに描かれた小説的主体たちが如何に自分なりの方式で抑圧と苦痛に立ち向かった戦いを遂行するかに注目する。そのため先に今日のつらさと無念さを強いる、すでに来ている悪い未来の性格を探究した論議を経ることにしよう。

 

2. われらの時代における過剰抑圧

 

今の時代の抑圧が取る特別な暴力性を捉えた論議なら、「疲労社会」という優れた命名で一気に注目を浴びた韓炳哲(ハン・ビョンチョル)の分析が見逃せない。疲労社会あるいは「成果社会」と言える現在は、過去と異る方式で暴力を加えるというのが彼の主な主張である。彼は代表的にアガンベン(G. Agamben)を挙げて、「主権社会から成果社会への移行に沿った暴力の空間構造的な変化が全く捉えられず」、「このような時代錯誤によって(…)専ら排除と禁止に基づいた否定性の暴力に限る」誤謬を批判する。韓炳哲、『疲労社会』、キ厶・テファン訳、文学と知性社、2012、108~109頁。韓炳哲はフーコーの規律社会談論も同じような問題点を持っていると見なす。韓炳哲によると、成果社会で成される搾取は、自由に、そして最大限に自らを実現せよという圧迫の形で行われる「自己搾取」として、成果主体は殺人的な労働時間や学習時間を自己実現の過程として認識し、甚だしくはそれを成し遂げることからある自由の感情を感ずるように導かれる。「自己との戦い」とか「最も大きな敵は自分自身」のような常套語が暗示するように、もう搾取の媒介となる競争もまた、他の個人との競争ではなく、「自己関係的」性格を帯びるし、勝ち負けの決定の瞬間は決して来ないという点で「絶対的競争」となる。上掲書、101頁。

このように自発的に、ひいては恰も価値に献身するかのように積極的に搾取の過程に自らを捧げるように仕向ける肯定の暴力は、ひどい疲労と消尽へと帰結するしかないが、そのような疲労と消尽でさえ、この巨大なる肯定性に常にすでに包摂されている公算が大きい。韓炳哲が描く疲労社会の自虐的主体は、後期資本主義社会の消費主体だとか、限りない資本の蓄積と連動した欲望主体を巡った分析を一定に連想させながらも、搾取の最前線の現場である労働過程までも例外ではあり得ないということを示した点で非常に印象的である。だが、彼の談論は今日の資本主義的搾取のメカニズムが駆使する肯定性過剰の戦術を、相当説得的に生々しく提示した反面、過剰を強調したあまり、ややこれを全一性へと昇格させるという印象も少なからず与える。例えば、彼は肯定性の過剰が敵対と葛藤を完全に葬ってしまうことに成功したかのように描写する場合が多くて、彼の論議そのものが知らず知らず敵対と葛藤の非可視化に役立つと見なせる余地もある。

もう一方で、今の時代の搾取に連累した過剰を、全然違った言葉で診断した論議もある。暴力一般を分析する過程でエティエンヌ・バリバール(Étienne Balibar)は、社会的・歴史的暴力には権力の問題に還元されぬ自己耽溺の要素があると指摘する。彼はこの要素を「暴力の最も「過度であり」、最も「自己破壊的な」部分」、言い換えると「残酷性」(cruelty)として定義する。Étienne Balibar, Politics and the Other Scene, tr. Christine Jones, et al., Verso 2002, 135~36頁.ここで注目すべきくだりは、残酷性が「特別に現在性を持つ問題」だとしたことであるが、その根拠の一つとして提示するものが、今の時代における貧困層が経験する過剰搾取としての「内在的排除」(internal exclusion)である。上掲書、141頁。バリバールはもちろん労働搾取と失業の古典的な形態にも常に残酷性の要素はあったし、資本主義経済とはもともと単なる搾取ではない「搾取の過剰」(excess of exploitation)に基づいていることを正当に指摘する。上掲書、142頁。ただ、現在繰り広げられる労働における排除は、全体の賃金水準を下げるための暫定的状態としての失職という古典的性格を越えるし、この新たな貧困層は排除される渦中においても市場の枠を少しも脱し得ないという点で、一層苦しい状況であることを強調したに思われる。

肯定と残酷という、一見して全く異る概念を駆使しているが、二つの論議は相当な共通点も示している。何より両者とも今日の搾取がある過剰を内包していると指摘する。こういう過剰は搾取の容易性と関わる。過剰としての肯定が当事者の自発的同意を組織することによって搾取をより容易にするならば、過剰としての残酷は同意可否に構わない、あるいは常にすでに同意が前提される状況を作り出す方式で容易さを構築する。「適正水準」という物差しが賦課する限度や制限に捕われない「過剰」なので、途方もなく容易くなった搾取なのである。そのように如何なる限界からも自由であるため、肯定性と残酷性に捕獲された主体は、激しい消尽と破壊の脅威に晒されるし、言わば(非自発的)自発的賦役者と犠牲者の位置から逃れにくい。現実において肯定と残酷の両方が完璧に作動したり、簡単に進められないということをわれわれは知っているが、だからといってこの二つの暴力とそれらの共謀と変奏が威力を発揮しないわけではない。従って、ここから発せられる難題に文学的主体たちが如何に対応するかを見てみることは、現実に帰還した文学の面々を推し量ってみる一つの方法となるだろう。

 

3. 非現実性の現実性:『亡き王女のためのパヴァー

 

かつてこの難題にいとも勇敢に立ち向かった小説として、朴玟奎(バク・ミンギュ)の『亡き王女のためのパヴァーヌ』(イェダム、2009。以下、『パヴァーヌ』)を思い浮かべるならば、一見だしぬけに見えるかも知れない。だが、『パヴァーヌ』が織り成す哀切な恋愛物語が「政治的な恋物語」韓基煜、「文学の新しさと小説の政治性」、『創作と批評』2010年秋号、402頁。に属するならば、そしてそういう意味でアラン・バディウ(Alain Badiou)の言う「自己固有の方式で差異に関する新しい真理の一つを生産」アラン・バディウ、『恋の礼讃』、チョ・ジェリョン訳、図書出版ギル、2010、52頁。した恋ならば、当然現実との張り切った緊張を通じて精錬されたことと期待できる。『パヴァーヌ』の語り手がを得た自分を指して「やはり結局与党と独裁者にその利益が回っていくとしても…その年の秋を生きた人々のなかで誰より大きい利益を得た人は<私>だという気がしたからだ。(…)天(・)文(・)学(・)的(・)利(・)益(・)とはおそらくこういうものを意味するのではなかろうか」(157頁)と考えることや、恋を失った生は「生ではなく生活」であり、「大言を吐く人間も…結局独裁をし…戦争を起こす人間も…実はそうして恋に失敗した人間ども」(300면)というくだりも、この作品における恋が世界との対決意識を孕んでいることを強く暗示する。

事実、朴玟奎は世界の実相を捉える作業を特に持続的に遂行してきたし、その分、この現実がわれわれを如何に動員するか、言い換えると、われわれをどのような主体化過程に連累させるかというもう一つの「巨大談論」的問題を人一倍意識的に詮索してきた作家である。例えば、『三美スーパースターズの最後のファンクラブ』(ハンギョレ出版、2003)で彼は「必要以上に忙しく、必要以上に働き、必要以上に大きく、必要以上に早く、必要以上に儲け、必要以上に追われている世界」(279면)が「肯定性」を通して皆を自己搾取へと追い立てていることを、早くから描破したことがある。誰でも「どうしても野望を持っていないと不安で生きていられないという思い」(31頁)がするように仕向けるということである。

『パヴァーヌ』もまた、そのように「肯定」の力で皆が同じものを指向するように仕向ける事態を鋭く捉えながらも、何回も登場する「羨みと恥」という対句を通じて、肯定(羨み)がそれ自体で暴力(恥)を伴っているということを一層強調する。

「人間は本当に愚かだよ。その光が実は自分から発せられているということがわからないから。一つの電球で精一杯照らすと、世の中が明るくなると思うのよ。実はもれなく無数の電球で照らす時こそ世の中が明るくなるとことがわからない。自分のエネルギーをすべて渡して自分はずっと暗闇のなかに葬られている。暗闇のなかで彼らを羨み…また自分の回りは暗いから…彼らに投票するのよ。」(186頁)

「醜女を恥ずかしがり、攻撃するのはほとんど醜男たちなのよ。実は自分の恥が耐えられないからなの。そうでなくとも皆つまらなく見るのに自分がもっとつまらなくなると思うのよ。実は誰も気にも留めないのに。つまらない女の人ほど貧しい男の人を無視するのも同じような理由からなの。そうでなくとも不安でいられないのに、もっと不安で耐えられないから。」(220頁)

上記引用でも示されているように、『パヴァーヌ』では特に肯定性の暴力は純粋に「自己関係的」性格のみではあり得ないし、「われわれのなかで最も弱い者」あるいは「内在的にもう一度排除された者」に向かった残酷性をそそのかしていることが露となる。この作品の「醜い女」はデパートの女店員として疲れきって生きていくのに加えて、「その場に存在することを認定」(83頁)さえしてもらえない二重三重の苦痛に苛まれる。さらに「醜い女」のやむを得ない可視性は、恥と羨みの残酷性もまた、最も可視的な形で現れるようにする。生きていこうとしても「ほとんど崩れかけている撤去民の一間の部屋を崩し焼くように」、美しくなろうと努めても「世の中は醜い女のあがきを決して許さない」(282頁)。そのように肯定性は決して純粋にそれ自体として作動しないし、そういう意味で全一的でもあり得ない。片隅で残酷が発揮されなければ肯定の過剰は不可能だし、肯定の過剰を組織しなくては残酷が黙認されるはずはないのである。

さらに『パヴァーヌ』はヨハンという人物を通じて、われわれにおける多数がこのような肯定と残酷の回路に閉じ込められた愚かな存在であることを手厳しく冷笑しながらも、究極的にそれは「99%の人々が1%の人々に押さえ付けられて生きて」(174頁)いくことに仕向けるメカニズムであることを明らかにしている。「それをそそのかす者は誰であり、それによって苦しくなる者は誰なのか…またそれによって…利益を得る者は誰なのか」(308頁)を問う。羨みと恥が隠蔽した「敵対」の線を手放さない力は、何より作品の三名の中心人物たちが実際に各自の場で精一杯羨みと恥の論理に抵抗し、差異を導入するところから出てくる。『パヴァーヌ』が描く恋が非現実的、あるいは浪漫的幻想とは掛け離れているということを、特に結末に関する詳しい分析を通じて提示した論議として、白樂晴、「われらの時代における韓国文学の活力と貧困」、『創作と批評』2010年冬号、40~42頁(『文学は何かを問い直すこと』、創批、2011に補完再収録)参照。この作品でそのような差異に当たる恋は、次のように定義されたりもする。

誰かを愛することは
それで実は誰かを想像することなの。つまらないその人間を、すぐつまらなくなる一人の人間を…時間が経ってもつまらなくならないように、前もって想像してあげることなの。そして互いの想像が新しい現実となれ
ように互いが互いを犠牲していくことだよ。(228頁)

このように未来を「すでに来ていさせる」ようにする逆説の実践なので、彼らの物語にある程度の非現実性は避けられない。しかし、それがなければ新しい現実が不可能だという点で、こういう非現実こそ現実の重要な構成要素と見なすべきである。

 

4. 過剰には過剰で:『テロの詩

 

対決意識の強度からすれば、金サグァの作品が世界に向かって発散するエネルギーを超えることは難しいだろう。『ミナ』(創批、2008)と『草が横たわる』(文学ドンネ、2009)を経て、『テロの詩』(民音社、2012)に至る金サグァの小説には、圧力でぴっと押さえられていたエネルギーが一気に噴出される場面が登場するだけでなく、そのような圧力が現在の世界が賦課する抑圧だという事実も明らかである。肯定と残酷から見るならば、彼女の作品は断じて残酷に没入するという印象を与えるが、例えば『ミナ』で「最も破壊的で挑発的な暴力主義者」であるスジョンが体現する残酷は、「世界の暴力」が「その世界に絶対的に順応する個人に移転して機械的に学習され反復的に遂行」されたものだという点で沈眞卿、「恐ろしい小説、恐ろしい子供たち」、『子音と母音』2012年春号、179~80頁。、一種の肯定を含有したものと言える。ただし、どんな種類の肯定なのか、そしてそれが繰り返す世界の残酷はどんな意味なのかが問題となるだろう。

『テロの詩』は残酷の展示場と言ってもいいほど、あらゆる種類の暴力で溢れている。主人公のジェニの生は、作品の最初から最後までいったい一人の人間が耐えうるかと思われるほどの物理的暴力でいっぱいだ。それに事実的状況の描写を相当省略するなかで、暴力という事件に焦点を合わせることによって残酷は極大化する。暴力に曝された者にとっては、そこから流れてくる音楽のジャンルやそこを通りすぎていく人のヘアスタイルなんかが重要であるはずがないし、専ら暴力そのものだけが圧倒的な現実であろうという点で、そのような選択的描写は一定の妥当性を持つ。強姦と人身売買と性売買の犠牲者、不法労働者と不法滞在者を次々と経験するジェニの旅程は、また「内在的な排除」そのものでもある。勝手に処分される危険があるが、犠牲者として数えもされない生、言わば「裸とされた生命」の典型である。

ところで、『テロの詩』で暴力と搾取の残酷性ほど際立った要素は、他ならぬジェニ自身である。括弧で指示される空っぽな存在として出発した彼女が、ジェニという名を得る状況そのものが暴力的な偶然の過程であったに付け加えて、だいたい彼女は自分に加えられる暴力を抵抗は勿論のこと、こうだという感情的・精神的衝撃や葛藤なしにただ受け入れる。そういう態度は如何なる意識的な順応、言い換えると(ひどく自虐的な)肯定の結果だというより、そもそも「何もないし、何物でもな」(33頁)かったので、もっと消尽されることも、もっと破壊されることもできないというところから出てくるという事実こそ問題的である。ジェニの「未主体」あるいはむしろ「非主体」としての性格は、「だから私は何物でもないてば!何物でもないということが何なのかわかる?」(140頁)、「もうジェニの頭のなかには何も残っていない。何も思い出されない。もうこれ以上語ることがない。がらんと空っぽとなってしまった」(180頁)といったふうに小説のなかで何回も反復的に想起される。そのような「主体の死」に一抹のポストモダンな幻影の余地さえ残さないこと、それが徹底的に世界の暴力から発せられた抑圧であるのを示すことがまた、金サグァの政治性だと言えよう。

しかし、果たして「何物でもない」存在が可能で、『テロの詩』のジェニがそういう存在なのか。彼女は「よくない」という明確な感じをもって鄭博士を離れてリに行き、誰も救えないヒューマニズムが気に障って吐気をするし、彼女を追い出そうとするペスカマの他の人々に食って掛かり、「愛するという言葉が何を意味するか知らな」(208頁)かったものの、リを愛すると意識する。何より、幻覚でないという保障はないが、その幻覚の中でながら彼女は暴力に苦しんだ自分が「正確にどんな気持だったかそれについて私が正確に詳しく」(213頁)話したがっており、さらには加害者を処罰したがる。なので究極的には何物でもない存在ではなく、何物でもないことを強いられる存在なのである。このようなジェニの「主体性」の証拠は、どうしても世界の残酷を最も凄絶に証言してくれる彼女の非主体性と衝突するしかないが、『テロの詩』の基本的な焦点が後者に在るので、事実上痕跡としてのみ時たま許される。そもそも「詩」を標榜したこの小説が後半部になるほど、事実的正当性とともに詩的緊張さえ著しく揺れる訳も、このことと無関係ではなかろう。

世界の過剰暴力に認識的、あるいは美学的過剰で対応しようとする金サグァの企画には、常にこのような観念性の危険が伴っていた。『テロの詩』で主体と非主体との亀裂は、他のいかなる解決策が見い出せず、ついに完全なる非存在に頼る存在という形で破壊的合一を図る。

互いの肉を噛み、互いの骨を砕く音が床を揺らす。四つの血まみれの手が砕けた体を手探りする。彼らはもうこれ以上存在しない。もう幻覚のなかにも、現実にも彼らは存在しない。名前がないので、もうこれ以上誰も彼らを呼び出すことはできない。もう彼らは(…)誰も追い付けない時まで、誰の手も届かないところに向かって、より遠く、完全に無くなってしまう時まで、跡形さえ消える時まで互いを押し潰す。完全に何も残らないようになる時まで。それでもう再び帰ってこれないように、再び始められないように、そうしてすべてが本当にがらんと空っぽになってしまう時まで。(219頁、強調は引用者)

ここからシステムの作動に真正なる脅威を加える「「不吉な」受動性」を読み取ることは李京在、「長編小説の新しい可能性」、『創作と批評』2012年秋号、450~51頁参照。、小説の観念性を拡大再生産することであって、そこに込められた政治意識に対する然るべき評価ではないと思う。破壊的自己消尽に頼ってからも「徐々にドアが開き、ふとジェニは自分が相変わらずソウルにいるということに気付く」(219頁)ところで小説は終わるからである。だが、自分を押し潰すとしても「すべてが本当にがらんと空っぽに」ならないということを遅れて発見したように、すべてが健在だとしても自分が「本当にがらんと空っぽに」ならないということも、とっくに認めるべきではなかっただろうか。取りも直さずその分がこれほど非妥協的に見える『テロの詩』が抑圧の非可視性に払った「肯定」の量なのであろう。

 

5. ここに人がいる、いつも:『パシの入門

 

過剰に過剰で立ち向かおうとした金サグァの企画と、妙な対蹠点を成すものが黃貞殷(ファン・ジョンウン)の作品である。例えば、ジェニほどではなくも、それなりに非常につらくて無念な人々の物語を盛り込んだ長編『白の影』について一概に叙情性を指摘したことを思い浮かべてみよう。なおその物語は立ち上がる影という装置で「非存在」の危険さえぎょっとするほど表現したはずである。どんな残酷さであれ、黃貞殷の視線を経ると、過剰の様相が脱却されるこの独特な正体の過程は何を意味するのか、質問しないわけにはいかない。

小説集の『パシの入門』(創批、2012)ではほとんど貧しくて悲しい生を描いており、一つ一つとしては月並みに見える散文的文章の長さと呼吸を調節して、詩的効果を創り出す腕前は相変わらずだ。誰かに話しかけるように口語体のリズムを失わないこれらの文章は、淡々たる叙述のように進められながらも、ある真正性の雰囲気を醸し出す。そうして作られる効果の一つは、到底信じられない状況であっても、偽りではなさそうな感じである。例えば、「落下する」の始まりは次のようである。 

落ちている。
三年は過ぎただろう。黒い空間を止めどもなく落ち続けているばかりなので、時間がどれほど流れたかはわからない。三年は過ぎただろう。そう考えることにした。三十年は過ぎたと考えれば遥かに遠い。三日ほど過ぎたと考えても遥かだ。三年は過ぎただろう。考えに考えを重ねた挙げ句、そう考えることにした。三年目落ち続けている。(61頁)

こう語る以上、ある真実性を信じないわけにはいかないが、限りなく落下するこの不条理な状況を受け入れたら、次は語り手が「地獄なのかも知れない」(69頁)と考えるほどのこの絶望にも全く「パニック」しない点に注目することになる。その代わり、彼女はそのように寂しくて恐ろしい状況に置かれたもう一人の物語、自分がそうであるかも知れない「口をつぐんだ顔、言葉が煮詰まったような顔、もう夢見ないようで実際夢見るに慣れない」「頑固な顔」(73頁)となってしまったもう一人を思い出す。想像できる最も孤独な場で到達する共感と憐憫のおかげで「限りなく落下する」は語り手の非現実的状況は一つの象徴的現実性を獲得する。

この小説集に収められた作品らは、貧困を描きながらも敢えて悲壮であったり高ぶった語調を使わない。「こうもり傘をさすこと」は大学を卒業して職場までありながら、うなぎを食べるか食べまいかで争ってついにはアルバイトに出かける、言わば「ワーキングプア」に属する人物を描く。物語はその半日間の、こうもり傘を売るアルバイトを注意深く追っていきながら進められるが、バザーに集まった人々の面々、売らなければならないこうもり傘の形、途中で雨が降ってきて屋台を閉めなければならなかったことや、区役所のトイレに行ったことなど、別に事件とも言えないエピソードがさりげなく並べられている。だが、取りも直さずそういうさりげなさから、どうしようもない生の疲れが所々滲んでくる。ちょうど繰り広げられた撤去民たちのデモスローガンとバザーにおける客引の呼び掛けが「国産パンツ出てこい、靴下三足、区役所所長、5000ウォン、伝統あり体にもよいわれらの生存権」(147頁)とごちゃ混ぜになる場面も可笑しいというよりは、同じような疲れという連結点を作り出す。「熊のようなものが熊のような表情で頑張って」(138頁)いた語り手が、いつの間にか声がかれるほどこうもり傘を売って帰ってくるバスの外の風景も違わない。

バスが信号で止まった。ボリゲトック(麦の小糠などを練って、丸くて平たい形で蒸した餅のこと─訳者)、ボリゲトックという声が後ろのほうから近づいてきて、エンジンの音がうるさいトラック一台が私の座った席と並んで止まった。トラックに載せられた、おそらくボリゲトックが入っているはずのスチロール箱を見下ろした。ボリゲトック、ボリゲトック、ボリトック、ボリトックと、遊ぶような歌うようなラウドスピーカーの声とは違って、運転席に座った男の人は疲労に潰されたような姿で前を見ていた。他の言葉もなしにボリゲトック、ボリトックと繰り返される声を気だるく聞きながら、涙ぐんだまま家まで運ばれて行った。(152頁)

この飾りのない場面が醸し出す可憐さと無言の共感は、読者の席へもそのまま伝わってくる。そういうふうに涙ぐんだ目に憐憫あるいは自己憐憫が混ざっているかも知れないが、それが憤りより必ずしも政治的ではないと見なしてはならないだろう。それは涙の主体が肯定過剰の主体ではなく、めったにそうなることもないというのを示す目印であり、敢えて残酷ではなくても生きていくことの疲れと悲しみがなぜ常に反人間的な過剰抑圧なのか証言する。たとえ語り手は明日の朝、今日の疲れを再び、ただ続けていくばかりだとしても、「こうもり傘をさすこと」が記録した半日の時間を経ながら、彼の生は全く一人の「人」のそれとして再発見された。こう生きても全き人であるが、全き人なのでこう生きてはよくないということである。そのように黃貞殷の小説は如何なる過剰にも連累されないことによって現実の過剰を暴露し、一人一人の人間的尊厳を持った主体を復元する方式でここにいつも「人がいること」を宣言する。

 

6. すでに持ったものと、今だ持ち得なかったもの 

 

今の時代の文学を現実への帰還と呼ぶなら、二重の非難を自ら招くわけだ。一体何が現実なのかという難解な主題を単純化したという意味でそうであり、現実に関する無数の解釈そのどれからも文学は決して離れたことがないという意味でそうである。なのでただ疲れ切って無念な生への凝視を現実との対面と見なすことは多くの解明が求められようが、そのような「党派的」な判断が現在わが社会の絶対多数が持つ現実感覚に照応することと信じる。つべこべと言っても何が現実なのかという規定は結局政治的案件なのだ。だとしたら、帰還はどうか。この修辞を支える文学的成就が在るかを問うなら、それぞれ異る方式ですでに来ている悪い未来と熾烈に対決した先述の小説で答えに代わるしかない。

朴玟奎、金サグァ、黃貞殷の作品は、小説的主体たちを時には過酷な自己批判と破壊、時には険しい再発見と再構成の過程に出させながら、すでに来ている悪い未来と立ち向かう。ところですでに来ている悪い未来を過剰抑圧の形で規定できるとしても、ある状態や程度を見定め、分類するかのように見える「過剰」という言葉もまた、実は相当な曖昧さを内在した表現であり、「抑圧」と結合する際はよりそうである。抑圧がない状態を基準とするならば、抑圧の存在そのものが取りも直さず過剰である。先述のバリバールが述べたように搾取の古典的定義がつまり過剰搾取であったように、存在する瞬間常に「より多く」を指向するという点でも過剰は抑圧の本来的属性だと言える。それに反して、幅広く広がった未来となってしまった場合なら、いかなる過剰抑圧もすでに過剰として経験され得ない。例えば、成果主体の肯定性過剰も否定と抵抗の跡が残っている限りで過剰として規定され得るのである。そういう点で全一化した過剰とは、そもそも形容矛盾でしかない。

それなら過剰抑圧を鋭敏に感知し、厳重に批判するためにも、過剰そのものに陥没しないことが重要である。『テロの詩』の企画が露呈した一定の自家撞着もそれと関わるものであろうが、この地点ですでに来ているより悪い未来を警告する作業と、すでに来ているよりよい未来を見分ける作業とが離れられない課題であることを再確認することとなる。これは代案の提示のような陳腐な要素ではなく、文学の持つある遂行的(performative)力を指す。朴玟奎の「恋」がそうであり、黃貞殷の「人」がそうであるように、すでに持ったものとして描くことによって、なぜまだ持ち得ないものであるべきか問うこと、そしてまだ持ち得なかったことを示すことですでに持ったものとして復元することが、文学の主体が現実と立ち向かう有力なる遂行的形式なのであろう。

 

翻訳:辛承模

季刊 創作と批評 2012年 冬号(通卷158号)

2012年 12月1日 発行

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