福祉とコモンズ: ケアの危機と公共性の再構成

 

創作と批評 177号(2017年 秋)目次

 

白英瓊(ベク・ヨンギョン)

韓国放送通信大学の文化教養科教授。文化人類学専攻。論文に「知識の政治と新たな人文学:‘公共’研究の拡張のために」「社会科学的な概念と実践としての‘危機’」などがある。

paix@knou.ac.kr

 

 

  1. ケアの危機が投げかける問題

 

昨年出版され話題を呼んだ小説、『82年生まれのキム・ジヨン』(ジョ・ナンジュ、ミンウム社、2016)は、韓国の同世代の女性ならば誰もが経験しているような平凡な体験について書かれているという点で平凡ではないと言えよう。「ジヨン」という名前は1982年に生まれた女の子に最も多く付けられた名前である。わざと統計的な平均値にこだわったかのような、この小説の中で、主人公のキム・ジヨンは特に不運であるわけでもなく、むしろそれなりに平坦な人生を歩んでいると言える。にもかかわらず、韓国社会で娘として、女子学生として、彼女として、女子社員として、妻として、そして嫁としての役割をこなしていくには辛いことも理不尽なことも避けることはできないと、作家は言いたかったようである。絶えず差別に直面し怒りを覚えながらも、常に主人公は我慢を選択する。それでも、それなりに無難な人生だった彼女の日常は、出産と育児によって揺らぎ始める。

実は、以前の世代とは違った人生を生きていると信じていた主人公と同年代の女性たちが出産して子育てをする過程で挫折し、怒りを感じることは、決して小説の中での話ではないのである。職場を離れ育児をする女性にとって子育てという体験はそれまで築いてきた社会的関係からの断絶を意味し、一人で子供を責任とらなければならないという孤独感と疲労はそれまで一度も体験したことのないものなのである。主人公を挫折させたとどめの一発は、子供を連れて公園で150円のコーヒーを飲んでいる時に、隣から聞こえてくる主人公への「ママ虫(周りに迷惑をかけている子供を放置するような母親のこと)」という非難の声であった。特に育児に助けの手を差し伸べているわけでもないくせに、我々の社会は母親たちの崇高な母性の義務を無視し、いちいち口出しするだけでなく、夫が職場で忙しく働いている間に家で何もせず飲み食いしているような役立たず扱いをしている。

この小説への大衆的な好反応は、韓国で男子の軍隊話をする時の反応と似ている。これは、主人公のキム・ジヨンの人生に対する共感でもあるが、結局は読者自身が女性として、母親として体験した苦労話でもあるのだ。なぜ政府の政策が効果がないのかを理解するためにも出産奨励策の直接的な対象である主人公キム・ジヨンの体験を単なる個人の体験として受け止めてはならないだろう。彼女の人生を借りて、作家が、そして読者が訴えたいことは、韓国社会の中で、誰かのケアをしながら生きていくということがどれほど大変なことであるかという事実だ。誰かのケアをすることがお金を稼ぐことより価値のあることとは決して認めない社会、ケアに力を添えて必要な支援をするよりも、女性である一部の人に「押し付け」て、その上、彼女らを無視し、非難するような社会、生計のための労働とケア労働が両立できないような、そんな余裕のない社会が今の韓国社会だ。一言で言えば、子育て問題に関しては総体的な災難状況であると言えよう。

2000年代に入り、少子化現象は国家の危機と見なされ、出産と子育てに対する社会的な支援は増加している。一般的には、十分とは言えないが、徐々に状況はよくなっていると認識されているだろう。しかし、現実はかなり複雑だ。男性と同様の教育を受けた女性たちが自ら就職を望んでいること以上に、どうしても賃金労働に従事しなければならない現実的な必要性が増加したのである。雇用安定性と労働環境は悪化する一方で、就業者も失業者も誰かのケアをしながら暮らしていけるほどの余裕はなく、さらに、家族構造の変化につれて、家族同士でケアをし合うことも困難になってきた。このようにケアを取り巻く状況は急速に悪化しているが、それに比べて、社会的な支援は追い付けていないように思われる。「仕事と家庭の両立」というスローガンが社会的な関心事となり、政策の議題として取り上げられている自体が、賃金労働とケア労働を同時にこなすことが困難な時代だということの反映でろう。正規職であろうが、非正規職であろうが、生計を保つためには長時間労働が当然のように思われている社会で、母親に子育てを「押し付ける」しかない現実は、配偶者や同伴者との間にも葛藤をもたらしてしまった。しかも、家族内においても、共同体においても、お互いに会話を交わして親密感を抱き、社会的な関係を保つような時間さえ足りないため、社会の解体は益々加速化されつつあるのだ。つまり、家族を含む社会的な関係網が崩壊したことによって、誰かのケアをするということは益々困難になり、その上、構成員に対するケアもまともに行われていないため、社会的関係の解体が一層加速化するという悪循環に陥っているのである。このような社会の存続自体が問題になるような全般的な社会再生産の危機の核心にはケアの危機が存在する。ナンシー・フレイザー(Nancy Fraser)は、現社会の危機について述べながら、まず2008年以降の資本主義における危機は、生態的レベルと社会再生産レベルにかけて現れており、発現の様相は地域ごとに異なっていても、グローバルなレベルにおいてケアの危機が発生していると強調している。彼女はこのようなケアの危機の原因が、これまで社会再生産を体系的に脅かしてきた金融化資本主義(financialized capitalism)であると指摘しており、どのような形の資本主義であれ、社会再生産の危機を避けることはできないが、その中でも特に金融化資本主義においては社会保護が弱化され、市場化が強化される傾向が強く、社会再生産の危機が激化するしかないと述べている。つまり、これまで、無給で再生産労働を行ってきた女性が、男性による生計扶養者モデルが弱化してしまったため、徐々に有給労働へと編入する比率が高くなり、それにつれて、それまで女性が担当してきたケア労働を誰が行うかという問題が政治的にも社会的にも重要な問題として浮上してきたということである[1]。これは、家事労働だけでなく、医療や介護、育児など、ケア労働の全般において起きている現象であり、富裕層は貧困層に、貧困層は、より貧困な国家の移住労働者にケア労働を任せている状態である[2]。この過程で必要なケアをまともに受けられない児童や老人、患者などの増加によって、ケア労働と福祉のサービスを増やし、公共性を拡大することを求める声が高くなっている。実際に社会の存続のためにも公的な介入の必要性が提起されているのだ。

しかし、社会再生産の危機が資本主義体制の下では避けることのできない現象であり、ケアの欠乏もやはり金融化資本主義に伴う結果だというならば、果してケアの危機がより多くの公的支援だけで解決できるのかという疑問を抱かずにはいられない。実際、公共性の問題をケアの問題と関連させて考える際、一般的に公共性を論じる時にはあまり出てこない問題に遭遇する。その中でも最初に思い浮かぶのが主体の問題とジェンダーの問題だ。「公共性」という用語には、お互いに意味の異なる「公」と「共」が含まれている、しかし、一般的に現代社会における公共性は、「公」的なものを中心に論じる傾向があり、その公的なものというのは、国家を中心として理解されてきた。特に福祉は国家に対して国民が要求できる権利であり、税金を財源として国家が提供するサービスと思われていた。しかし、実際にケアを提供する主体は公共機関から、市場、家族、地域コミュニティーに到るまで多様であるため、国家の支援を増やすだけで、直ちにケアの問題が解決できるとは期待しがたく、「共」の問題、即ち、ケアを共にできる共同体が重要であると言えよう。しかし、家族と共同体がケア提供の重要な主体であると認めた議論においてさえ、ケア労働の負担が家族や共同体の構成員の中で公平に配分されず、女性に集中することが多いという事実は見過ごされがちであった。つまり、ケアの問題は、ジェンダー問題と接している問題であるにもかかわらず、これまでの公的、もしくは公共性に関する議論の中でジェンダー問題は疎かに扱われることが多かった。このような傾向は、国家と市場に対抗して共同体を活性化させようとする趣旨の議論が固定化された性役割を問題視せず、暗黙的にケアは女性の役割であると前提したり、家族という名の下で女性が誰にも認めてもらえない労働を強いられたりした伝統的な共同体を思い起こさせる。このような家族と伝統的な共同体に内在するジェンダー問題への無関心は、特に女性をはじめとする若い世代に共同体全般に対する反感を抱かせ、その結果、新たな主体が共同体運動に参加することを妨げるような逆効果をもたらすかもしれない。

本稿では、まず最初に、公共性の概念が、公的なものを中心に理解され、その結果、国家の役割を強調する方向へと向かっているが、実は「公」という概念自体が、元々は国家に含まれない共同体と分離できない性質のものであることを指摘したい。次に、現代社会において共同体と関連した最も重要な運動と言えるコモンズ(commons)論を検討しながら、一般的に「共」的なものと思われているコモンズが、実際には「公」、「共」、「私」の領域全般において作動しているということを証明したいと思う。最後に、コモンズは自然原理の管理方法としての狭い範囲で理解されてはならないものであり、ケアを中心に人と人の間の新たな社会的関係を想像させ、現社会の再生産の危機を解決するための重要な糸口を与えてくれるものだということを明らかにしたい。

 

 

  1. 公共性、共同体、そしてコモンズ

 

「公共」という言葉は日常的によく使われる用語ではあるが、いざ具体的に定義しようとするとなかなか難しい言葉だ。一般的には、英語の「public」に当たる「私的ではないもの」「共同のもの」「開かれたもの」などの意味として受け止められてきた。もう少し現代的な意味では、共同体の構成員の生活に関わる共同の関心事で全ての人に公開して処理すべき問題を公共的な事柄と見なし、手続き上の公平さ、開放性、連帯性を全て備えたものを公共的な価値と見なすことが多い。漢字圏の国々では「公共が「公」と「共」の合成語で、「公」が「共」を圧倒」する傾向があり、特に国家主義的な伝統が強い東アジアでは「「公」=「官」と見なされる考え方」が未だに残っているという指摘がある[3]。ところが、溝口雄三の『公私(一語の辞典)』を見ると、中国でも「公」が単純に「官」や「統治」の意味として使われていたわけではないらしい。溝口によると、「公」には「首長」という意味があるが、統治者や統治がそのまま「公」を表していたわけではなく、それよりは、共同体の頭として収穫物の配分において、公平、且つ均等に分け与える役割をしていたらしい。彼は、特に中国で「公」が「平分」として理解されるほど、倫理的な性質を帯びている理由は、共同体を天の意にに従って公平に治めることが首長の役割であり、首長は民を天とみなす考え方が存在するからだと主張している。従って、「公」には首長性、共同性、倫理性という三つの意味が包含されているという[4]。つまり、「公」には「一緒に」もしくは「皆で」という「共」の意味が既に含まれていると言えよう。実は、このように語源を説かなくても、現代の公共性を論じる際に、国家や官の役割だけでなく、共同体に注目しなければならない理由はたくさんある、まずは、地域コミュニティーや協同組合、社会的な企業など、多様な共同体単位において公共性を直接的に取り上げた試みが行われているという例が挙げられる。さらに、国家を公共性の担い手と見ることはできなく、むしろ市場と同じように公共性を崩す主体として共同体を破壊してきた例も多く挙げられる。

そのような意味で、国家と市場により破壊されてきた共同のものとして、共有地、共有財、共同資源と翻訳されるコモンズが挙げられる[5]。共同資源としてのコモンズは、土地、水、森、空間などと同様に、潜在的な使用者を排除することは社会的に許されず、ある主体の使用量が増加するにつれて、他の使用者の使用量が減少する自然的資源や人口施設であると定義されている。伝統的にコモンズは共同体による持続的で道徳に基づいた利用を強調し、人間と人間の間の関係性、そして人間と自然の間での統合的な関係に基づいていた。それに対し、近代の資本市場経済はコモンズを持続的に破壊し、国家は自然資源に対する排他的な所有を法で定めることにより、この破壊を制度的に支えてきた。近代の私有財産制度は、伝統的なコモンズが生計と生存の必要によって営んできた習慣と実践を否定し、自然を単に人間が利用できる程度の資源と見なし、利益目当ての持続不可能な方法での利用を可能にしてきた。結局、コモンズを守り、回復させるための問題を論じる際に、国家と市場を超えた「共同の物」という主題は避けることができなく、国家と共同体、そして公共性の関係がそう単純な問題ではないという事実に気付くことになる。コモンズの破壊を正当化してきたのが国家ではあるが、コモンズを守るための制度的装置を設けるのもやはり国家の役割であり、現代国家の存在が単に私有財産制度を保護し、利潤を追求する行為を保証するためだけに存在しているわけではない。

特に、福祉国家時代以降、国家が主体となって提供する社会的保護と公共サービスの大部分はコモンズと見なされており[6]、そういった意味で、国家は「公」、コモンズは「共」とする一般的な理解を超え、公共性を福祉的に理解する必要性を生み出していたりもする。市場も「私」的な領域と見なされるのが一般的であるが、純粋な概念的レベルで論じられるものでなければ、現実において市場の役割は遥かに複雑である[7]。特に新自由主義時代において国家が公共サービスの大部分を市場へと移管している様子は、国家と市場をそれぞれ「公」と「私」に区別することを困難とする要因になっている。さらに、最近浮上している共有経済(sharing economy)や社会的な企業の性格に関しても、果たして「公」、「共」と「私」の関係において、どこに当てはまるか論者によって異なる立場を取っている点もやはり忘れてはならない。結局、コモンズが国家と市場のどちらにも当てあまらないことは確かだが、国家を単純に「公」と見なすことはできないだけに、コモンズに対する論議が過去の伝統的な共有地レベルでの意味を超え、現代的な暮らしの中で新たに作り出していくコモンズへと発展すれば、それもやはり単純に「共」と見なすことは不可能になる。特に、既に存在するコモンズを保護するレベルではなく、共同のものを新たに作り出していくための努力は、国家と市場を超え、公共性を拡張する重要な試みであるという点で国家やコモンズのどちらか一方を「公」や「共」として理解するのは不可能になるということを忘れてはならないだろう。

このように、現代的なコモンズを求める運動は多様なレベルで、国家と市場、個人と共同体に対する多様な解釈を包含している。ここで、ケアの福祉が現代的な意味で公共性の名に相応しい役割を果すためには、福祉を取り巻く国家と家族の関係、国家とコモンズの関係と共に、私的なものとコモンズの関係についても考察してみる必要があろう。

まず、福祉とコモンズに関しては、国家の提供する公共サービスを非排除性と非競合性の性格を持つという点で公共財(public goods)と見なしている一方で、その中で医療保険や福祉サービスの場合は、競合性があると見て、市民の共同資源(CPRs)と見なすこともあり、又は全ての人に与えるべきものという面を強調してコモンズと見なすこともある。しかし、実際に国家と福祉、市場、公共性の関係については、しっかりと考えなければならない点が多く、時代によってその関係も異なるしかないという事実を念頭に置いた上で考える必要がある。一般的に、古典的な意味で福祉国家というと、税金を財源として個人が生活の中で直面する危機に対して「揺りかごから墓場まで」の保護を提供する存在として認識されてきた。国家の役割というのは、そういった必要に応じるものであり、国家の提供するサービスは、いわゆる「公」的なものであると思われてきた。しかし、国家によって違いはあるが、新自由主義時代の国家では、競争力の強化を目指し、大抵の場合、福祉の供給自体が市場の論理に基づいて行われることが多かった。以前は、一般的な商品と同様の扱いを受けてはならないという社会的な合意の下、医療や住居、教育、水、エネルギーなどに対しての接近権は全ての人々がある程度のレベルまでは利用できる権利として思われてきたが、新自由主義的な傾向が強化されるにつれて、徐々に市場の領域へと組み込まれ、価格の急騰をもたらすことになってしまったのである。

そういった意味で、国家は単純に公的な領域とは言えず、権力関係が反映された社会の既得権を保護する存在であるという事実が徐々に浮き彫りになったと言えるが、これは、新自由主義時代に限られた現象ではなく、国家と公的なものは常に緊張関係を保ってきたという事実を忘れてはならない。エンクロージャー(enclosure)以前のコモンズは、共同体の構成員に個別的に所有しているものがなくても基本的な生存が保障されるだけの資源を提供していた。それだけでなく、直接集まって自分の意見を主張し、行動できる場も提供した。ということは、結局、共同体の構成員が集まることのできる空間であり、彼らが政治の主体になり得る空間としてのコモンズ自体が公的な空間であると言えよう。また、公的なものの本質も、やはり共同体の構成員自らが政治の主体であるという自覚の下で国家と公的な空間を掌握し、変化させるための努力そのものであるべきだろう。つまり、共同体の構成員がコモンズを通じて資源を得て主体になる過程、そして利用して恩恵を受けることができる資源、即ちコモンズを確保して共同体を能動的に構成、及び再構成する全過程を指してコモニング(commoning)というのである[8]

一方、国家が公的なものと受け止められていた時、私的なものはどう受け止められてきたのだろうか。それは、大きく二つに分けられる。一つは、市場と利潤を私的なものと見なし、もう一つは女性と家族のような市場の利害関係に染まってはいけない存在を私的なものと見なしてきたのである。これと同様に公私の区別においても国家と市場を対比させる見方もあれば、国家と市場などの制度化された領域を全て公的な領域と見なし、家族や個人、ボランティアなどの制度化されていない領域は私的なものとして対比させる見方もある。従って、公的なものを国家と同一視しないことが重要で、コモンズを家族や個人に帰属する私的な領域と見なす見解に対しても明確に線を引く必要がある[9]。コモンズが共同体的な性格を帯びているからといって、生活をする上で必要な全ての資源を自ら確保しなければならないわけではない。内的な努力と同様に共同体は国家から支援を受けたり、良質の公共サービスを受けたりする権利がある。従って、存在するコモンズを守ったり、それを新たに作り出そうとする人々ならば、コモンズの物理的な境界を超え、該当する社会で公共サービスが行われる方法や性格、そしてそのような問題を決定する政治的構造自体を変化させるための政治に参加すべきである。

特に、その過程でケアを巡る女性と家族の役割をいかに設定するかは、公共サービスの割当、及び配分と関連して、非常に重要な公的事柄であると同時に、「共」的な意味でも共同体の中の民主主義の状態を現している核心的な問題といえよう。現代社会において、ケアの問題は個別の家族に任せっきりにするわけにもいかず、だからといって国家の支援だけでは解決できない問題であり、市場を通じて購買するサービスでも決して解決できない問題である。だから、家族や国家ではなく、共に生活を支えていける共同体としてのコモンズを作り出し、広げていくこと、そして、それと同時に共同体の境界を超え、自ら公的な領域の一員であるという自覚を持ち、国家レベルの政治に参加することが重要となってくるのだ。社会再生産の問題は、しばしば特定の共同体の範囲を超える決定事案を扱うことになり、時には政治と経済だけでなく、社会的な価値の問題とも戦わなければならないこともある。ここで言う共同体の境界外への拡張とは、最近の地域コミュニティーを作ろうとする際に、常に持ち出される民官協力モデルとは違うものである。つまり、コモニングとは、国家と市場、又は国家と私的な領域と見なされる市民社会や共同体が、それぞれ「公」と「私」の領域を保ったままお互いに協力することではなく、民と官、公と私の区分を超えてコモナー(commoner)自らが政治の主体となれるように、コモンズ自体の領域を拡大することである。

コモンズとは、そういった意味で「自覚した市民らが自らの暮らしと危機に晒された自分たちの資源を自分の手で責任を負うというビジョン」と言え、共有と協同、互恵性と社会文化的な変化に基づいた新たな社会的実践と可能性の空間と言えよう[10]。だからと言って、コモンズが完全に新しく作り出されたり、発明されなければならない空間なわけではないという事実も忘れてはならない。共同体組織と町内の集まり、先住民たちの慣習や実践、及び宗教共同体の実行課程においてもコモンズの糸口を見い出すことができ、大掛かりで画期的な何かよりは、国家と市場の領域でない日常の暮らしの中で生計の維持を可能とさせた小さな実践においてコモニングの手がかりを見つけることができるかもしれない。保育施設が足りない状況で、相互扶助組織を作って共同育児を行い、市場の圧力の中で社会的な企業や協同組合を作り、町内でケア共同体を作り上げるなど、全ての努力がコモンズを拡大するコモニングに当てはまると言えよう。ここで重要な点は、ケアと社会再生産の問題を私的なものとして見なしてしまい、共同体の重要な政治的問題として受け止めないならば、真のコモニングとは言えないということである。

これまでコモンズは、社会の持続可能性と、関係性とケアの問題に対して重要な問題提起をしてきたにもかかわらず、ケアにおける家族の役割や社会関係におけるジェンダー問題にはほとんど触れることがなかった。しかし、生態や環境、共同体の回復と社会正義などのようなコモンズ運動が提起してきた多くの問題を国家と市場に任せっきりしていては解決できないように、福祉の問題もやはり個別の家族に任せっきりにしたり、共同体の中で自然に解決するだろうと思ったりしてはいけない。現在の社会再生産の危機をもたらした原因自体が個別の家族の力だけでは、現代社会の福祉の需要を満たすことは不可能であり、特に少子化、高齢化現象により加速化しているケアの危機は決して私的な問題ではないからである。

 

 

  1. 福祉コモンズ: 福祉のための闘いとコモンズへの要求をどう結びつけるか。

 

21世紀に入って行われている多くの運動の中で、重要な特徴といえば、コモンズ、又は共同資源と呼べるものへの要求が増加しているという事実である。土地、水、空間、時間、創意性、公共サービス、ケアなど、生活を営む中で必須的なものでありながらも、新自由主義時代以降の私有化、商品化の影響下で自由に使用でなかった資源を要求する闘いが増加しているということだ。コモンズを要求する闘いが重要な理由は、それが先述したような多様な社会運動を概念的に結びつけてくれる可能性を表わしているからである[11]。例えば、ケア労働の負担を負わなければならない女性たちの闘い、共有しながら共に使用できる空間を確保するための都市民たちの闘い、自然資源に対する絶対的な所有権を弱化させようとする闘い、金融資本の略奪を制御するための闘い、さらには、よりきれいな空気を吸うための権利を主張する闘い、原発の中断を要求する闘い、多様な家族形態とジェンダーアイデンティティを認めることを要求する闘いなど、全て我々が生きていくためには必ず必要なものであるが、現在の社会で奪われてしまった資源の共有を要求するコモンズ運動過程において遭遇できるものでもある[12]。例えば、台湾の原住民の土地返還要求運動をよく覗いてみると、思ったより多層的な要求が包含されていることが分かる。原住民共同体と国家の葛藤を触発させる原因の殆どが、開発問題か自然資源の管理方法の違いという点で、原住民の土地返還要求はアイデンティティと関連した政治的な事柄、又は環境や生態運動の争点として理解されてきた[13]。 しかし、彼らにとって、土地の返還は原住民の劣悪な健康、低い教育水準、高い失業率、貧困問題などを解決できる資源を確保するという意味も大きい。つまり、彼らにとって、土地の共同体的な管理の問題と生活の福祉問題は明確に区別できる問題ではないのだ。カナダの先住民運動の場合も土地を取り戻したり、国家から賠償として財源を配分されるということは、20世紀初めから進められた白人同化政策の被害者として依然として精神健康の問題を抱えて生きていかなければならない構成員を、白人の生医学でなく先住民のやり方で癒すことのできる資源を確保する問題なのである。さらに、その上で、白人の医学の恩恵を受けることからも疎外されず暮らしていけるような医学に対する接近権を確保する問題でもあり、自分たちの文化が排除されない方法で教育を受けられる問題でもあるのだ。何よりも先住民の権利を行使できる森や海、そしてそこから得られる水産物は先住民が自らの生活方法を守りながら儀礼を行い、幼い世代を教育し、老人世代を死ぬまでケアできる基盤となる。共同体が主体となり、自然資源を管理するということは、結局、その共同体の構成員の生活をケアする問題と切り離しては語れないのである。

韓国でも共同資源をうまく活用し成功的に地域コミュニティーを作り出していると評価されている済州(ジェジュ)市の朝天邑(ジョチョンウプ)善屹里(ソンフルリ)村の例がある。村の森林地帯である冬柏(ドンベク)山を整備し、生態観光を活性化させると同時に、村のお年寄りと子供たちのケアをコミュニティー活動の中心としていて、今後の重要計画としても取り上げていることは決して偶然ではないのだ。この地域では、お年寄りの誕生日を村のカレンダーに全て記入し、数年間欠かさずお祝いすることにより、他の地域に住んでいる彼らの子供世代が地域の事業に関心を持って参加できるように誘導している。また、地域の人々が、「我々の村」が何をする所であり、なぜ必要なのかを考えるきっかけにもなった。さらには、地域のお年寄りの話を記録し、過去に行われていた共同体的な資源管理に対する知識と地域の歴史を伝えたりもしているが、このような記録自体がこの村の重要な財産でもあり、村の森林を保存するための方法を見つけるための重要な道標でもあろう。これは、自然に関する知識の伝授だけではなく、その過程自体が世代間の交流であり、社会的関係を新たに構築するものであり、そして、お年寄りの生活を守るケアの形でもあるという事実も重要である。この過程で生徒数がどんどん減少していた村の学校が復活した。学校は世代の継承が行われる中心的な空間として、コミュニティーの持続が確保できる基盤を作ったのである。西歸浦(ソギポ)市の表善面(ピョソンミョン)加時里(カシリ)村の場合は、共同牧場を風力発電事業に賃貸して得た収益を地域の福祉事業のための財源として使っている。その結果、活性化した地域コミュニティーは、無分別な開発に対抗し、それによって地域の共同資源を保存する動力を提供することになった。勿論、その過程は決して容易なものではなく、葛藤と調整の連続であったが、ここで重要な点は、一見、分離されているように見える生態的な要求と社会福祉的な要求が現実ではお互いにつながっているということである。

コモンズへの要求に含まれたこのような複合的なレベルを表面化させるために、フィオナ・ウイリアムズ(Fiona Williams)をはじめ、主に欧州の社会政策の研究者や活動家の中で、社会福祉の問題を強調する立場の人は「福祉コモンズ」(welfare commons)という概念を提案している[14]。彼らが主張していることは、正当で持続可能な世の中のための闘いにおいて、ケアこそが核心的な争点であり、このケアの問題を解決する過程で、結局は生態環境、及び自然管理の問題にもぶつかることになるが、流れを異にしながらも実は相通じているこの二つの領域を結びつけることができるものが、まさに福祉コモンズの概念だということである。コモンズというものが自然資源の管理方法でもあるが、常に特定の生活の形式でありながらも同時に社会的な関係を指すものでもあったということを考えると、福祉コモンズは、我々が見逃しがちなコモンズのある特徴を強調しているわけで、全く新しい現実を指すわけではないのだ。にもかかわらず、このような枠組みが重要な理由の一つは、お互いに異なった抵抗と批判の支点をつなげて考える必要性が益々大きくなっているからである。さらに、ケアと福祉の危機を単に財源不足や金融危機によるしわ寄せなどと、経済的な観点でだけ見つめる立場から抜け出し、統合的な視点で社会再生産の危機として見つめられるようにするいう事実も非常に重要である。このような概念的な連帯に基づいた時、コモンズはそれ自体が非資本主義的なものを想像する闘争の拠点となり、今と違った暮らしを想像し、実践するための場となるのである。

これまで、土地、水、空間、時間、公共サービスとケア、教育と医療、健康などが持続的に商品化される過程で、共同体の構成員は生存を脅かされ、資源を所有していない人々は市民としての生活を奪われてきたという事実を思い浮かべると、福祉コモンズという概念は、まさにこのような現実に対する抵抗にほかならない。しかし、新自由主義的な個人化、及び商品化に対する抵抗が、単に生存に必須的な資源を提供する責任が国家にあることを確認するにとどまったり、或いはケアの責任を一次的に家族や親族が受け持つという古い方法への回帰となってしまっては意味がない。福祉コモンズにおける核心は、市民たちが直接参加し、管理できるように、公的な資源を共同体の下に確保しようとする努力であり、このような資源を基盤として構成員の福祉の必要性に応じることのできるケアを提供することである。そして、何よりもこのような過程が非常に政治的であることを認識し、公的な場で行われる活動に積極的に参加する必要がある。

 

  1. ケアの可能な共同体のために

 

共同体が資源を保有し、直接参加してケアの必要性に応じて提供する努力をしなければならないもう一つの理由は、ケアというもの自体が単純なサービスの形では与えられないという特徴があるからである。

国家と市場は、それぞれ違った方法で福祉の需要を量的に測定して管理のできる技術的な問題として把握しようとする。しかし、日常生活の中で人々が直面する問題は何であり、ケアが必要な領域はどこなのか探そうとはせず、書類に依存する官僚的な態度や効率性を優先する立場から、費用と需要を削減することにばかり気を取られているように思われる。現在、韓国社会でも福祉を受けられる資格が定められ、その用件に当てはまるかどうか確認と監視をしながら管理する体制の下で起きている悲劇的な例を多く目撃することができる。逆に規定を悪用して公的資源を搾取する例もやはり多く見受けられる。保育や介護サービスの場合には、公的な支援の増加により支援金が誘引され、却って市場の領域が拡大されたり、福祉を管理する行政の領域に投入される費用が実際に福祉を必要とする人々に支給される費用よりも多くなっている例が珍しくない。結局、国家主導の官僚的な福祉体制の下ではサービスを受ける人々が脱人格化されることは避けられないことで、市場主導の体制の下では福祉サービスを受ける人々が利益を作り出すための道具となってしまうしかないのである。

しかし、ケアはその性格自体が個人の置かれた状況や時空間への関心と切り離して考えることは不可能で、標準化されたシステムや市場の仕組みに任せて生産し分配すればいいものではない。ケアとは、本質的に他人の必要性をキャッチし、それに反応できる能力に基づくもので、ゆえに個人と個人、個人と共同体、又は個人と自然を含む周囲の環境との関係まで、あらゆる関係性と切り離して考えることはできないのだ。慣習法に近い定められた運営原理がないわけではないが、コモンズは各機関が運営すべき法案を詳細に規定している正式な法律体系とは違い、それぞれのコモンズごとに、与えられた自然環境や文化的環境によって異なる作動が可能な余地を残しており、市場の交換論理に従わなくても、中央集中化されない方法での参加を引き出すことによって運営されるという強みを持った体系である[15]。従って、現在の市場と官僚制の影響から抜け出せないでいるケアと福祉の問題を解決するためには、共同資源だけでなく、公的な支援を活用しながらも共同体自らが構成員の必要によって組織し活用できるような福祉コモンズを目指さなければならないだろう。福祉システムが今の体制のまま持続すれば、その問題点は単純なケアの危機や費用の急騰などに止まらず、福祉システム自体が作動しなくなるような危険な状況を避けられなくなってしまうのである。

共同体をなす構成員が暮らしの中で直面するあらゆる問題を共に解決し、共にケアし合うことは、コモンズがコモンズとして機能するための基本である。国家や市場、家族を超えた共同体としてのコモンズが存在しなければ、ケアの要求は決して満たされない。ケアとは、その性格上、先天的に定義が困難であり、個人の置かれた生活の状況と特性を考慮し、関心と配慮が伴わなければ与えることのできないものだからである。このようなケアは利益を求める市場も、官僚化された国家も提供することはできず、一部の通念とは違い、家族内で提供できるものでもない。そういった意味で、ケアの危機を克服する公共性の拡大の問題を国家や市場の手に任せっきりにすることはできず、その殆んどが女性の労働により持続された既存の家族や共同体もやはり公共性を担うには物足りない。

最後に、本稿の冒頭で紹介した『82年生まれのキム・ジヨン』の話に戻りたいと思う。出産と子育ての過程で彼女の体験した苦境は、韓国社会に蔓延している性差別、仕事と家庭の両立を許さない労働環境、ケアが家族へのノルマとして与えられる公的福祉の不在などが複合的に作用して作り出したものと言える。現在の政府の出産支援政策に対する非難は、その殆どがより多くの国家支援が必要であることを強調するものである。これまで、少子化対策を推し進め、国家を信じて出産すれば国家が責任を取ると公言していたことを思うと、大衆のこのような反応は当然のことであろう。 しかし、主人公キム・ジヨンが直面した危機をよく観察してみると、ケアが割り込むことのできない余裕のない生活が、単に福祉サービスを拡充し養育費の支援を増やすからといって、 解決される問題ではないように思われる。現在の再生産危機がこれ程鮮明に表面化したのは、新自由主義以降、自然資源、土地、公的な空間や公共サービスなど、これまでコモンズと見なされてきた領域が持続的に私有化され商品化されたせいであることは、既に強調したところである。従って、たとえ主人公が一人で子育てをしなければならない「押し付け」育児の危機から抜け出せたとしても、彼女を待ち受けているのは、住居空間から、医療、教育、ケア、そして余暇を満喫できる自然や空間に到るまで、生活に必要な全ての資源が急速に私有化され、より多くの費用を支払わないと手に入らない商品になっていくという現実だ。これは、到底、自分と自分の家族の力だけでは克服できないことであり、国家の支援でも解決困難な問題である。

ということは、主人公をはじめ、出産と子育ての過程で苦痛を感じている多くの女性たちの挫折は、既に固定化された社会構造の外側、つまり、国家、市場、そして家族の境界の外側を想像しなければ、解決できない問題でもある。彼女らの周りには問題を共に解決するためのお隣さんが見当たらない。彼女らは「ママ虫」呼ばわりされ、たとえ悔しくて怒りがこみ上げてきても、既存の社会的関係から断絶され臆病になってしまったため、理不尽な非難に堂々と反抗することすらできない。主人公のキム・ジヨンが自分に必要な生活条件を作り出そうとする意志を持ち、自分の問題を解決していく過程で他人に対する共感を拡大し、彼らと連帯する可能性を見い出していくという、もう一つの可能性を想像してみる。共同生活に対する可能性を積極的に探り、ケアの可能な生活条件を作り出す現実が可能であることを、そして国家や官だけに公共性が存在するという考えから離れ、コモンズを拡大することがまさに公共性を拡大する過程であることを認識する必要がある。韓国社会の直面しているケアの危機が持続可能な社会への転換を成し遂げることができるかどうかは、結局、危機を通じて共有と協同、互恵性に基づいた新たな社会的実践と可能性の空間としてのコモンズをどれだけ拡大できるかにかかっているのだ。

 

翻訳 申銀児(シン・ウナ)

 


[1] ナンシー・フレイザー「資本と世話の矛盾」 『創作と批評』 2017年、春号。

 

[2] グローバル的なレベルで自分よりも貧しい誰かに、家族と共同体がすべきことを任せないと生活できないケア押し付けの連鎖をラシェル・パレナス(Rhacel Salazar Parrenas)は「グローバルなケアの連鎖」(global chain of care)と呼んでいる。ラシェル・パレナス『世界化の奴隷たち(原題:Servants of Globalization)』、ムン・ヒョナ訳、ヨイヨン、2009。

 

[3] ベク・ヨンソ「社会人文学の地平を開きながら」、キム・ソンボ他『社会人文学とは何か?』、ハンキル社、2011、36頁。

[4] 溝口雄三の『公私(一語の辞典)』、コ・ヒタク訳、プルンヨッサ、2013、56~63頁。

[5] 元々イギリスで共有地を意味する概念である「commons」は、共有地、共有財、共同資源など、多様に翻訳されている。チェ・ヒョンは「commons」研究でノーベル経済賞を受賞したエリノア・オストロム(E. Ostrom)が研究対象としている「common pool resources」(CPRs)を所有権とは別に多数が共同に使用している資源という意味で、共有資源(common property resources)とは区別すべきだと主張しており、それを「共同資源」と翻訳すべきだと述べている。一方で彼は、オストロムが「commons」と「common pool resources」を区別してないとも主張している(チェ・ヒョン「共同資源の概念と済州島の共同牧場: 共同資源としての特徴」『経済と社会』 98号、2013)。ところが、「commons」と「common pool resources」を区別しないで、どちらも共同資源と翻訳するのは、学術的な概念が定立する以前から存在してきた歴史的な現象としての「commons」を忘却させる傾向があるという問題が生じる。「commons」は、資源の問題への還元が困難な歴史的で文化的なレベルを含んでおり、共同資源と翻訳するには適当でない場合も多い。従って、本稿では一般的な意味での「commons」に関して論じる時、その発音のままの「コモンズ」と表記する。これは、適当な翻訳が見つからないという理由もあるが、実際、国内の多くの研究者や活動家が「コモンズ」という用語を使用しており、日本の学界でも「commons」をそのまま発音し、「コモンズ」と表記している点を考慮した。

[6] Francine Mestrum, “Human Rights and the Common Good: why social protection is a social commons?,” Other News (www.other-news.info) 2013.10.24.

[7] David Bollier and Silke Helfrich (eds.). The Wealth of the Commons: A World Beyond Market and State, Levellers Press 2012.

 

[8] ピーター・ラインボー 『マグナカルタ宣言』、ジョン・ナムヨン訳、カルムリ、2012。

[9] Bollier and Helfrich、前掲書。

 

[10] Thomas Allan, “Beyond Efficiency: Care and the Commons,” Centre for Welfare Reform (www.centreforwelfarereform.org) 2016.10.6.

 

[11]  デヴィッド・ハーヴェイ 『反乱する都市』、ハン・サンヨン訳、エイトス、2014。

[12] 最近、都市を中心にコモンズ運動が活発に行われており、これに対する社会的・学術的な関心も高くなっている。特に、現在、都市空間で起きているジェントリフィケーションと関連して、コモンズ論議が示唆する点については、本誌『創作と批評』の2017年秋号に掲載されたジョン・ウンホの論文を参照してほしい。しかし、自然の共同体的な管理を基本をするコモンズの基本特徴を考慮した場合、新たな現象であり、都市民たちの身の回りで起きているからと言って、都市地域を基盤としたコモンズ運動にだけ関心が注がれるのは適切でないと思われる。非都市地域のコモンズもまた、自然との新たな関係を模索し、これを基盤に新たな社会的関係を目指しているという点で注目する必要がある。

[13] ジョン・ヨンシン、ベク・ヨンギョン「台湾の原住民の土地返還運動と共同体-共同資源の関係変動」『環境社会学研究ECO』第19巻2号、2015。

 

[14] Fiona Williams, “Towards the Welfare Commons: Contestation, Critique and Criticality in Social Policy,” in Social policy review 27: Analysis and Debate in Social Policy, Policy Press 2015.

 

[15] David Bollier and Burns H. Weston, Green Governance: Ecological Survival, Human Rights and the Law of the Commons, Cambridge University Press 2013.