パンデミック時代の民主主義と「韓国モデル」 / 黄静雅

 

創作と批評 189号(2020年 秋)目次

 

黄静雅

文学評論家、翰林大学翰林科学院HK教授。著書『概念批評の人文学』、訳書『単一の近代性』『ファニーとアニー』(共訳)、編著『小説理論を読み直す』などがある。
jhwang612@hanmail.net

 

 

1. 代案がないはずのない世界

 

   「どのようなコロナ叙事を書くのか」という問いを通じてパンデミックが投げかけた課題を検討した論文において、「ウィルスの依然とした勢いにもかかわらず、コロナ叙事の中心プロットは失敗ではなく、そのジャンルが災難ではないということだけは明確になりつつある」と述べたことがある1 。その叙事の背景は韓国社会であり、それゆえ数ヶ月経った今も(まだ完結していないという但書を付けたまま)有効だと見ているが、毎日アップデートされる全世界のCOVID19現況は残酷な災難叙事にほかならない。そこに書かれている数字は、災難が災難として厳重に感じ取ってもらえず、失敗が失敗として痛烈に認めてもらえない時、どのようなことが起こるのかを知らせるメッセージである。覇権国家であることを誇示するかのように、上位を占めているアメリカをはじめとし、次々と並んでいる国々の目録の間に、いわゆる資本主義的諸国体制(interstate system)に隠された無数のアイロニーが伝わるようである。とはいえ、全世界を背景としたコロナ叙事も完結しておらず、まだ決まった結末を言う時ではない。

   パンデミック以来の事実をもって貸借対照表を作ると、今日の世界は圧倒的に「赤字」にならざるを得ない。パンデミック自体が巨大なマイナスであり、ワクチンは未だに開発されておらず、一部の生態環境の回復の兆候はあるものの、そのすべての死と苦痛を相殺する確実なプラスは登場していない。しかし、起こったことを見せるだけの貸借対照表と違って、パンデミックをめぐって湧き出た言説には将来起きること、またはほぼ起きてしまったことに対する期待と憂いがいつよりも沸き立っている。期待と憂いは実現されない状態ですでに作動するある種の力量であるため、記録された事実に負けないほどの存在感を持つ。それらの密度こそパンデミック叙事を前へ押し進め、可能性を開いてくれる主な力である。ここで明確にしておくべき点は、期待や憂いのいずれももはや以前の生活を回復することは想定しないという事実である。それらは、何より以前に戻れないという判断から希望または絶望の源泉を発見する。

   パンデミックはこれまでの生き方がもたらした結果であり、そのような点からみれば、今回が最後であるはずがないという認識は、いまや平凡な人々の間でも一つの常識として定着している。「以前の日常がすでに災難だった」2 ことを露わにしたり、気候危機といういっそう深刻な「次の危機のリハーサル」3 であるという洞察も広く共感を得ている。何より「最も巨大なことが常に、いつでも変わり得るという事実」4 を露わにする深刻な衝撃であるため、実感の領域において生活はすでに取り戻すことのできないほど変わってしまったのである。このような実感を黙殺したまま、以前の生活に戻ろうとする動きがないという話ではない。事態がまったく鎮静されない状況の中、職場に戻れ、あるいは日常に戻ろうという無責任な慫慂があり、一方では対策なしに封鎖措置を解除する場合も少なくない。このような「日常の回復」はそれ自体が悪化した日常である。やむを得ず日常を維持してきた人々、社会の必須分野を支えてきた労働者にとって持続された日常とは、以前よりもっと大きな負担に感染の危険までが加わったことであることが立証されたことがある。

   戻ることがもっと悪化することと同意語になり、一方、未来はいっそう早められ、過去数十年間強烈に否定され、嘲笑されてきた「代案」の存在がいつの間にか現実となった。要するに代案がないはずのない世界になったのである。いまや「どのような」代案なのかという問題が前面に出る。スピーディーに変わる世界における何らかの実行は代案の実践ともいえる。何を思惟してもほぼ不可避に巨大言説へつながり、思惟の実験と生活の実践の間の距離も遥かに近くなる。それゆえ、どのように考えるべきかがいつよりも重要になり、「価値」をめぐる判断が最前線となった。

 

 

2.何を恐れるべきか

 

   思惟の情動的側面に当たる期待と憂いこそ価値の前線を構成する主な要素かもしれない。何を期待し、成就しようとするのかが核心の事案ではあるが、何を恐れるべきかという問いも省くことができない。一次的に恐れるべきことは、当然感染病そのものであるが、一部のパンデミック言説は比較的成功した防疫事例において憂いの対象を発見する。周知のように「K-防疫」は(防疫責任者らも重ねて強調しているように成功の可否を予断するにはまだ早いが)一つの模範として世界の関心を集めたが、韓国が防疫統計のみにおいて断然優れているからではなかった。例えば、台湾の場合、早くからロックダウンし初期に抑えたが、それを適用するには適切ではなく、数値上悪くない中国はウィルスの震源地であるという非難に加え、拡散を防ぐことができたのではないかという追及までされている。一種の体制競争が始まり、K-防疫はより透明でかつ開放的でありながら、より創造的で技術的な方法でウィルスを統制したという評価を受けた。ところが、そのような評判が静まる前に、中国・台湾等とともに「アジア的」事例として分類されたまま、「西欧的」解釈による憂いの視線を受けたりもする。

   ヨーロッパとアジア、または西洋と東洋に分かれる古い構図の出処はいつもそうであるようにヨーロッパである。タガート・マーフィー(R. Taggart Murphy)は、パンデミック状況が露わにしたアジアの「成功した政治」の共通点を問うてから、「儒教的政治遺産(Confucian political heritage)」と自答する。彼は、この地域に再出現した儒教的考え方の二つの特徴として、一つは専門家に対する信頼を、いま一つは統治の正当性が秩序の保存において確保されるという意識を上げる5 。そのお陰で専門家の見解をもとにパンデミックという自然的秩序の攪乱に迅速に対応することができたという話である。マーフィーの論議は「成功」に関する説明として提示されたので、表面的にその価値を下げるような気配はない。しかし、彼の説明において成功の要因はあくまでも古いものの残存や再出現であり、新しいものの開拓ではない。それゆえ、いくらでも消えることができ、さらにそれらが過去になかったところからモデルとする性格のものではない。識者層を尊敬し、秩序を重視するという言及にも、より「発展した」政治的感受性に照らして非民主的で順応的だという意味を遮断する意志はないようにみえる。

   本格的な批判と憂いは、ハン・ビョンチョルの論文が端的に見せてくれる。ヨーロッパの失敗に対する指摘から始まる彼の論文が実際強調するのは、中国や韓国等のアジアがコロナウィルスは上手に防いだかもしれないが、「デジタルウィルス」つまり、デジタル技術を活用した監視や統制には極めて脆弱だという点である。権威主義的意識と順応性、そして個人主義の不足とデジタル監視に対する批判意識の不在が結合しており、ヨーロッパ人の視点から見れば、すでに実現しているディストピアのような「デジタル生命政治」を許すということなのである6 。「中国的なデジタル治安体制が西欧にまで到来すること」を何より憂慮するハン・ビョンチョルの論議は、アジアに対する古い観念の違うバージョンであるだけではなく、「冷戦的政治遺産」の再出現である素地もうかがえる7 。防疫措置の条件や脈絡を具体的に検討せず、文化的習性によって烙印を押した点や各国の相違点を無視し一括りにした点において、このような説明はこれまでの欧州中心主義批判の歴史を傷つける。しかし、これを欧州中心主義として再び批判するのは、より重要な他の地点を逃すおそれがある。

   ハン・ビョンチョルの論文が憂慮した「生命政治(biopolitics)」は、アジア圏だけを狙って登場するわけではない。生命政治言説の代表論者であるアガンベンは、イタリアの状況について類似した批判をし、論難を引き起こしたことがある。彼は、イタリアが防疫のために取った諸制限措置を「物凄い過剰反応(such a disproportionate response)」と規定し、例外状態を日常的統治パラダイムにしようとする権力がテロを前にしてそうだったように、パンデミックを「発明」して例外措置を正当化していると説明した8 。イタリアの実際状況に対比され、アガンベンの主張は多くの反発を買ったが、彼は「解明(Clarifications)」という題目で出された後続の論文でも「我が社会は裸の生命(naked life)以外は何も信じない」が、「裸の生命、そしてそれを失う危険は、人々を一つにまとめてくれるのではなく、視野を隠し分裂させる」と慨嘆し、「永続的な非常事態を生きていく社会は自由な社会になれない。我々は事実上いわゆる『安全という言い訳』に自由を犠牲させており、それゆえ持続的な恐れと不安定の状態に陥った社会に生きている」と重ねて強調した9

   パンデミックで被ったイタリアの被害があまりにも大きかったので、アガンベンの憂いには、事実レベルの判断ミスが目立つものの、常識に反する判断そのものよりはそのような判断をほぼ自動的に触発した生命政治と例外状態に関する言説のフレームがもっと問題である。「感染病によって不可避となった措置をフーコーのような思想家が説破した監視や統制という通常のパラダイムに直ちに還元してはいけない」というジジェク(S. Žižek)の指摘がその点を看破している。ジジェクは、例外的措置よりもっと恐ろしいのは「これらの措置を、感染病を扱い、封鎖するところに取らないこと、政府当局が真のデータを捏造し隠蔽すること」だと指摘する10 。エスポジトも生命政治の重要性は認めるものの、イタリアの状況では民主主義を脅かす劇的な全体主義的統治ではなく、公的権力機関の崩壊が問題だととらえている11 。隔離は、生命政治的統制というより、現在「ソーシャルな」人々の適合した行動様式であり、人々を救うために経済麻痺を覚悟することが、彼らの「生命政治的」選択だというセルジョ・ベンヴェヌート(Sergio Benvenuto)の指摘も常識に付合する12 。要するに、今憂慮すべき点は生命政治の作動ではなく、その不能だということであるが、それをもう少し押し進めていくと、事実上不能こそが生命政治のより根本的な作動方式ではないかという合理的疑いに至るようになる。なお、哲学者たちは防疫措置において統制の強化を憂い、支配階級は統制弛緩を憂う現状のアイロニーを指摘しながら、例外状態言説が常に存在していた搾取と強奪の支配方式を看過するというデラモ(Marco D’Eramo)の批判も有効である13 。これらの指摘は全部監視や統制パラダイムに陥りやすい政治的一面性を説得力よく表す。

   実際このフレームが露呈した限界は、個別的な特性というより批判的言説の相当数が持つ典型性を見せたものとして把握されなければならない。上記の論議にみられるように、そのような典型性のうち、一つは国家に関する偏向的態度である。例外状態言説をはじめとする諸理論は、国家を基本的に抵抗し、批判する対象として把握するという点において事実上脱国家言説である。国家とは個人の直接的な反対側か、個人を包摂と排除の論理によって分裂させる力として規定される。民主主義国家や民主主義権力は形容矛盾までではなくとも、副次的弁別に過ぎず、主権権力の論理から抜け出せないという認識において、民主主義と全体主義の間に根本的な政治的差異はないと捉えられたりもする。そのような観点では、防疫のための国家の措置が直ちに主権権力の本質的傾向である監視や統制の(例外的)強化に分類されざるを得ない。それゆえ、多くの国家が極端な不能を見せるパンデミックの状況において、アガンベンのように実状と不条理に食い違う批判をしたり、国家の作動不能に対する慨嘆と国家主義の強化に対する慨嘆という両立不可能な立場の間を非常に便宜的に行き来しながら、とにかく国家批判という習慣的位置を固守する場合が多い。ヨーロッパに対しては国家の失敗を、アジアに対しては国家の強化を批判したハン・ビョンチョルの論文が代表的である14 。ここから始まる国家批判の常套性と粗雑さも問題だが、そのような批判で政治性を代替しながら、実際どのような統治の作動によって危機を打開することができるかという問いが関心事になれない点がより深刻である。

   パンデミックが露出した言説の盲点は、「右派が行うことに対してすべて『#抵抗』することにますます強迫され、真の体制的代案を欠けてしまった左派の混乱」と相通じる15 。とはいえ、国家が行うことに順応したり、国家的事務は国家に任せておこうとする態度も正解ではない。今日任せておけば安心できる力量を見せる国家も稀であるが、ある程度そのような力量を見せながら順応することを要求する、例えば中国の場合が「真の体制的代案」ではないことは言うまでもない。たとえ中国当局が防疫任務を果たし、統制措置まで適切だったと判明されたとしても、その決定や施行の一方性から生じる脱政治的面貌は相殺されず(それゆえ防疫措置が今後恒久的に強化された監視メカニズムへと転換されるだろうという疑惑を払拭できず)、国家が責任を果たすからといって、国家に責任を問うことができない構造が民主主義になるわけではないからである。「中国モデル」はいわゆるアジアの成功がむしろ憂いを招き、如何なる国家措置が陰謀論的疑惑を招く事態を解消することができず、そのような解釈に意図しない燃料を普及することになる。そうであれば、残るのは国家の介入を促すと同時に、そのような介入自体に政治的に介入すること、つまり国家の民主化ほかにはないが、「これが国なのか」というろうそく市民のスローガンほど、この課題を上手に要約してくれるものがあるだろうか。

 

 

3.K-防疫と民主主義

 

   しかし、「ヨーロッパの直面した課題は、中国の行ったことがいっそう透明で民主的な方式で行われることができるという事実を証明すること」16 だと述べたジジェクさえ、そのようなことが韓国で行われている可能性は考慮しない。K-防疫に注がれた関心に比べてそれをより広い政治的脈絡とつなげる意味化はとても制限的であり、(わざわざ言わなくても脈絡で伝わるので)前近代的遺産の作用やその反対に危険な技術ディストピアの前兆として解釈されがちだったことは先述の通りである。ところが、国家介入の不可避さや責任ある介入の重要性を言う論者たちもそのようなことが実際起こった事例から本格的な解釈を導き出さないことをみると、韓国をなぜより積極的に評価しないのかという「愛国ポルノ的」な不満やヨーロッパ中心の視点という一般的批判レベルを超え、言説の常套性と関連のある新しい症状ではないか疑うようになる。

   ジョーンズの例が示唆的である。彼は、右派が国家介入を語る状況の中で、左派を左派らしくするのは「唯一その介入に対する民主的で大衆的な統制に対する要求」と強調する。そう言いながらも、東北アジアにおいて防疫と関連して国家介入が実際に効率的に行われた理由は、「社会的紐帯が強く残っており、国家が依然として経済的・社会的結果に対してより直接的に責任を負う」からだと説明するのみで、そこに「民主的で大衆的な統制」が一緒に作動した余地は勘案しない17 。まるでそこに「依然として残っている」社会的紐帯や国家の責任性とは、間もなく消える運命であるかのように、さらに言えば、そのような紐帯や責任は国家に対する民主的な統制と無関係か、あるいは国家に対する民主的な統制は紐帯や責任を求めないかように勘案しない。ジョーンズの論議に表れた奇妙な内的亀裂は、「民主的で大衆的な統制」ないしは「透明で民主的な方式の介入」をめぐる想像力にある慢性的欠落が内在していることを暗示する。韓国の事例は、そのような欠落が欠落として明確に露わになる契機になる。

   防疫の成功が監視や統制の強化であるのか、それとも責任ある介入措置なのか、またはさらに進んで介入に対する民主的な統制なのかを判別するためには、措置の効率性の可否だけではなく、それに快く従う人々がなぜそのように行動するのかを検討しなければならない。成功した措置の施行はそもそも人々の協力なしでは不可能だからである。国家(及び集団)と個人、統制と自由の間の対立構図によれば、国家の統制に協力する途端、自動的に自由を諦めたまま順応する集団へ転落する。他の可能性、つまり国家の介入を集団的に受け入れながらも、同時にそのような国家の介入を要求し、それに対する「民主的で大衆的な統制」を実践する集団の主体はどのように命名されるべきか。民主主義の土台となる「人民主権」の主体であるまさにその「人民」と即答できる。中国の場合に対して「人民を愛し、保護し、ケアし、統制しなければならないが・・・信じてはいけない」という前提の上で作動すると批判18 するのであれば、そのような「人民に対する信頼不在」は西欧の論者たちにも同じく適用されるべきであり、国家を信頼していないように見える態度に実際「人民」を信頼しない態度が潜んでいることを指摘しなければならない。民主主義を言いながらも民主主義的集団主体性が積極的に描写されないのには「依然として残っている」古い構図の作用がうかがえる。統治を受けながら、同時に統治する集団主体が、自由で自律的な個人という範疇と完全に合致することができないという感覚なのである。

   『時事IN』の「COVID19が露わにした『韓国人の世界』」という記事シリーズは、このようなテーマを本格的に扱っており、有益な参照点を提供する。その中で「意外な応答篇」19 は、韓国の防疫成功が集団主義や順応性、言い換えれば、個人や自由に対する感覚の不足で説明されるのかという問いから始まった大規模な社会調査の結果を分析する。調査者たちが当惑するほど鮮明に出た結果によれば、「韓国の防疫を成功させた力」は「権威主義、順応性向、集団主義」ではなく、「民主的市民性の高い人々、水平的個人主義者たち」こそが「防疫成功の主役」である。アンケートをもとに書いた記事では「民主的市民性」を「個人は自由を望むが、良い共同体内でのみ真に自由な個人が可能だと信じ」ており、「それゆえ良い共同体づくりに時間と努力を注ぐ」のだと定義する。このような分析は、韓国事例をめぐる偏向的理解を矯正するだけではなく、集団と個人、とりわけ個人の自由を分ける区分がある種のアポリアではなく、実際の人々の実践や動機によっていくらでも解消できるということを具体的に立証する20

   ただ、ここで「良い共同体づくり」の努力が他でもなく民主的で大衆的な統制、すなわち人民主権の行使であることが十分に浮き彫りにはなっていない。つまり、「民主的市民性」という命名における「民主的」という側面、すなわち自らを統治する市民という側面なのである。この点は、記事の題目が「COVID19が露わにした」であるが、実際の分析ではCOVID19自体が変化の起点になってしまう、言い換えれば「COVID19がつくった」に変わる問題点と関連がある。そもそもアンケートが感染病前後の変化を問う方式で作成されたので、それはやむを得ない帰結である。記事は、感染病が変化の決定的起点になる理由を、「共同の目標を前にして一緒に戦っていく経験、共同体にとって重要なことに参加する経験は人々の心を高揚させる。極端な事例は戦争である。戦時に人々が興奮し、所属感と共同体意識を感じる力は広く知られている。COVID19防疫戦で市民たちは戦時の高揚感を低強度に経験するようである」と説明する21 。このような解釈は、COVID19と防疫戦を展開した他のところではなぜ同様の方式で「高揚感」が発生しなかったのか、どうして韓国でこれほどの高揚感が発生することができたのか解明してくれない。国家に対する信頼と他の個人に対する信頼とがあいまって発生した「低強度」の高揚感は、敵対感と恐怖が主な情動である戦争よりは、わずか数年前に集団的に国家を改革したろうそく革命の「高強度」の高揚感とつなげた方がはるかに自然である。「これが国なのか」と問いながら発動した主権者としての自己統治が、今回は責任ある国家措置を駆り立て、その措置を遵守する形として発現したのである。

   韓国の事例は、単純に「古い」連帯と責任が何らかの理由で残っていて防疫が効率的に実行されたのではなく、高揚し、凝縮された民主主義の経験が防疫に必要な紐帯と責任を生み出したことを見せてくれる。その点において、反政治的順応や脱政治的協力ではない、それ自体が政治的行為の結果であった。それにもかかわらず、まだ多くの問いと課題が残っているという記事の結論は適切である。パンデミックが「国家の介入を表現する目新しくてより微妙な用語が必要である」22 という自覚を生んだというならば、国家の介入に介入する民主主義的集団主体性のメカニズムを表現する「目新しくてより微妙な用語」の必要性も気付かせる。そのような用語を考案すること、またはそのような価値を想像することも、残された問いや課題に属する。

 

 

4.コモンズの理念としての友愛

 

   パンデミックの危機が実証した民主主義的集団主体性の要求は、パンデミックがその「リハーサル」に過ぎない気候変化の危機の前でより切実になり、また国家単位に限定された事案ではないという事実も明らかになる。ところが、集団的主体または共同体に関する大胆な想像を躊躇させる要因は、集団と個人が相容れず、集団の要求とは個人の自由を抑圧するという観点だけではない。普遍的人間としての個人と特定の共同体としての集団を対立させるもう一つのバージョンもある。そこにおける共同体とは何より包摂と排除の論理に基づく構成体として把握され、それゆえ所属している個人の自由をたとえ増進しても、所属していない他者は敵対視したり、放置した罪過を尋問される。個人の自由がどれくらい普遍的に保証されるかを問うこの構図においては、共同体が平等という価値と対立するのか否かが焦点である。今日国家やその他の共同体に行われる批判は、包摂されている構成員に対する抑圧ほど、構成員として包摂しないことによって行った抑圧を巡って頻繁に提起される23

   しかし、排除を前提とするので上手く「作動する」共同体はそもそもないと批判するのは、「#抵抗」強迫の新しい事例であるだけであり、排除をやめるためには共同体自体を「作動しないように」しようという提案も当面した危機に応答する代案になれない。むしろ絶えない包摂の運動によって共同体を再構成することが適切な方向であり、ここには包摂の性格を再規定する作業が必須である。そのように全面的に共同体を革新しようとする言説的実践として「コモンズ(commons, 共同領域)」論議がある。この言説におけるコモンズとは単に共有地や共有資源のようなものではなく、「共同体の構成員が自ら政治の主体という自覚の中で国家や公的な空間を掌握し、変化させようとする努力そのもの」24 を核心とする。このような共同体の構成員とは「所属」している人たちではなく、主体であることを自覚し、変化の努力を行うことによって、つまり「コモニング(commoning)」作業を行うことによって、共同体を初めて生成する人々を指す。ここでも排除が生じるだろうか。あり得る。しかし、この時の排除は抑圧ではなく、「包摂」の対立物でもない、実現を待つ待機状態の潜在性なのである。

   これは、何よりコモニングが何らかの私的権利を行使したり、有形・無形の財産を所有することではないからである。コモンズ言説は所有観念を狙って出発しており、とりわけ私有財産権から始まった共同領域の荒廃化を問題としており、例えば、文学をはじめ人間的意味や価値の世界を指す人間文明そのものがコモンズであることを思い浮かべば、その時何かを持つということは、「私たちに属しているもの、すなわち私たちの財産に対する堂々とした所有権」ではなく、むしろ「私たちがそれに属している(…)ものに向けての根本的でリアルな敬意」を意味するという事実に気付くようになる25 。その時「包摂」されるということも「協働的創造を通じて生成されるだけではなく、それを通じて持続される世界」26 としての人間文明を、正にその協働的創造を実践することによって生きるようにすることを指す。それゆえコモンズとしての共同体における排除とは必然的に内在されている論理どころか、共同体の中止を意味するだけである。

   このような意味においてコモンズの主体は自己統治する民主主義の集団主体とつながりながらも、「自己統治」の意味を「人民主権」概念が連想させる権力または権利の地平の彼方へ連れて行く。権力、権利、財産またはその他の不当な所有を批判するものの、究極的には所有の本性を変えるこのコモニングの過程は民主主義のレベルでどのような用語に翻訳できるのか。またはどのような民主主義的価値がその過程を充実に再現することができるのか。自由と平等が私たちに馴染みのある用語であり、コモニングが主体の自由で平等な関係を伴うのはもちろんである。ところが、自由と平等が(その実現が究極的に求めることであっても)必ずしも共同体の(再)構成に向けた協働的創造そのものを意味しない。この地点で代案とユートピアを明確にするためには、フランス革命の3大スローガン、つまり自由・平等・友愛を読み直さないといけないというウォーラーステインの発言を反芻するようになる。

   彼は、フランス革命が自由も平等も成就できなかったのは、単一の課題であるそれらが分離された目標として追求されたからであり、それゆえ、革命が調和と同質化に対する期待をつくりあげたにもかかわらず、実際現実においては分裂と差異に対する意識が大きくなったと語る。続く彼の説明において目を引く部分は、3つのスローガンの中で概ね「まるで敬虔な付加物」としてのみ取り扱われてきた「友愛(fraternity)、または1968年以後の方式で名付け直すなら、同志愛(comradeship)は、非常に維持されにくい構成物であるが、この軟弱な可能性(prospect)が事実上自由・平等成就の基盤」であったという言及である27 。バリバールも「平等自由(equaliberty)」という用語を通じて「平等=自由」という命題を強調しながらも、現実の権力関係と実践的条件においては「第3項を導入してその優先性によって保証されたり、土台を得ることができなければ」、この命題が「自由と平等に分かれたり、相互区分される原則や価値として見えるように」なると指摘したことがある。それゆえ媒介が必要だが、歴史的にその媒介の一つが「友愛」だったということである28 。2人の論議において依然として中心は、自由と平等(の単一性)である。ところが、自由−平等の実現を可能にしてくれた土台であり、媒介というこの友愛こそがコモニングの協働的創造に対する「目新しくてより微妙な」政治的表現にとくに符合する。これと関連して「過去世界の歴史ににおいて平等のための革命と自由のための革命はあったが、友愛のための革命は存在したことがなかった。しかし、民主政治の完成のためには何よりもこの友愛革命が必要だ」という鳩山一郎の発言も記憶すべきである29

   ところが、民主主義的価値として友愛を承認するのには著しい障碍物がある。友愛に当たる「fraternity」が「兄弟(brother)」を中心に置く明らかに男性中心的表現だからである。ウォーラーステインがそうだったように、「同志愛」のような中立的な用語に代替することはできるが、重要なのは「政治的に正しい」用語の採択ではなく、実際完全に正しい用語があるのかも疑問である。例えば、友情(friendship)概念を通じてこの問題にアプローチしたデリダの論議を参考にすることができる30 。「おお友よ、一人も友が居ない(O my friends, there is no friend)」というアリストテレスの矛盾な発言をモチーフにし、西欧言説において「友情の政治学」の系譜を追跡したデリダの興味深い分析をここで詳しく紹介することは難しい。ただ、アリストテレス式に「別の自我」をモデルにせよ、ニーチェ式に「自我」と「別の自我」の深淵から助けてくれる「第三者」をモデルにせよ、友情の場合も「兄弟」の形状が特権を持っており、女性に対する二重の排除(つまり女性間の友情と女性との友情に対する排除)があったという彼の指摘を見れば、「同志愛」に代替するとしてもその問題を迂回するとは断言し難い。

   一方、友情の系譜における鮮明な偏向と排除を指摘しながらも、デリダはその系譜の自己解体的面貌、すなわち「期待、約束ないし介入の経験」としての友情と、「祈りの言説」としての友情言説の遂行性に依然として注目する。そうして「兄弟愛(fraternity)を処方するこのすべての友情の形状を根絶する民主主義」、「同性−兄弟的であり、陰茎中心的な図式を超え、私たちが思惟しようとする友情にとってこれ以上侮辱にならない民主主義」を要請することで論議を終える31 。そのようにみると、「兄弟愛」にも「友情」にもまたがっている「友愛」という訳語は、到来する友情を通じて兄弟愛を問題化し、兄弟愛を超える努力で友情の到来を先取りするにはより容易な言葉かもしれない。

 

 

5.友愛の実現と「韓国モデル」

 

   パンデミック時代は、国家をはじめとする共同体を思惟し直し、協働的創造、つまり政治的友愛を通じて集団主体性を積極的に再構成することを民主主義の課題として提示する。その点を確認しながら、韓国の事例に戻れば「ろうそく集会」こそが友愛に対する要求であり、一時的ではあるものの、驚異的な友愛の実現だったことを想起するようになる。自ら主権者であることを自覚していったその過程は、互いを主権者として呼び合う過程であり、それによって不断に更新される共同体としてコモンズを体感する過程であった。一つの目標が数多くの意見を導き出し、一つの主張が様々な要求へと共鳴していったその時、憤怒と抵抗で広場に出てきた人々がより強烈で胸いっぱいに感じたそれが友愛でなければ、いったい何だっただろうか。まだ何も解決されてない時点でさえまるで解決できないものが何もないかのように、さらにはすべてがすでに解決されたかのように感じられたその気分も、友愛が贈ってくれた「到来する民主主義」の力量であっただろう。その「高強度」の友愛が相互に対する配慮と責任、そしてケアというより柔らかい形式で実現されたのがK-防疫であり、それゆえそれも民主主義的友愛の実践として解釈されるべきである。

   本稿を書く時点の韓国状況は、一見パンデミックとも無関係で、民主主義ともずれているように見える多様な問題的事案によって騒がしい。そのすべてが長年の不平等や差別の残存を実感させるが、同時にそのような問題がこれほど可視化され、我々皆を政治的で、かつ情動的に揺さぶるという事実、それもパンデミックという深刻な危機の渦中にそうだという事実自体が、韓国社会が猛烈に作動する民主主義的共同体であると同時に、友愛の実現のための闘争の場であることを表してくれる。不動産問題であれ、性暴力問題であれ、それとも公共医療問題であれ、検察問題であれ、それらに対する望ましい解決策を図る瞬間、その一つひとつが巨大言説の次元とつながっていることを実感するようになる。日韓関係と米中対立、さらに進んでパンデミックと気候変化にいたるあらゆるローカルであると同時にグローバルな課題は言うまでもないだろう。その中でもとくに南北関係は韓国特有の課題であるだけではなく、友愛の実現が課題解決のカギであるという事実を何よりも明確に見せてくれる。南北住民の間に長らく猶予され、抑圧されてきた友愛を達成するということは、世界に向けて友愛のある種の模範を立てることでもある。

   あらゆるイッシュが「代案」に近い解決を求めるこの非常事態において、解決をすぐ代案にしていく協働的創造が何より切実である。その着実な友愛の結果が積み重なる時に初めて「韓国モデル」は遡及的に存在するようになる。その過程でどのような代案を提出して実行するのかと同じくらい、どのように代案に到達するのかに留意しなければならない。実際その2つが別の過程であり得ないというのが、コモンズの政治的理念として友愛が強調する点である。私たちの前に置かれている問題に対して、誰かは熱烈に批判することで十分な対応になったと思うかもしれないし、また誰かはすでに提示された答えをただ選択することだけが残ったと思うかもしれない。まさにその地点において、生きて作動する自己統治は単純な政治的正しさに縮小され、協働的創造としての友愛は権利の行使によって押し出される。究極的に民主主義もコモンズであり、主体のコモニングとしてのみ存在し、維持されるからである。イヴァン・イリイチ(Ivan Illich)の言葉のように、社会が「友情の政治的結果分だけ良くなれるだけ」32 なら、民主主義も政治的友愛の結果分だけ進展することができ、「韓国モデル」もその点を実証できる分だけ具現することができる。

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)

 

 

  1. 拙稿「どのような『コロナ叙事』を書くのか」『創批週刊論評』2020.3.4。「そのジャンルが災難ではない」と言ったのは(陰謀と美談とが適切に加えられたスペクタクルなものか、あるいは何も解決されないままいきなり終わってしまうなどの)典型的な災難叙事構図へと流れないという意味であり、パンデミックが災難ではないということではもちろんない。
  2. ピーター C.ベーカー(Peter C. Baker)著、イ・ゾノニム訳「『私達は正常へ戻れない』: コロナ・ウイルスが世界をどう変えるのか」『創作と批評』2020年夏号、391頁。
  3. 「ウィルスの闖入はまるで次の危機のリハーサル、すなわち私たち皆に生活の条件を再調整させ、日常的実存のすべての細部を注意深く抽出することを学べという課題を提起する次に来る危機のリハーサルをしているようである。(…)他の多くの人々がそうであるように、私もこの保健危機が私たちに気候変化に対処できるように、準備し、誘導し、促すという仮定を打ち出す」Bruno Latour, “ Is This a Dress Rehearsal?,” In the Moment, 2020. 3. 26.
  4. ピーター C.ベーカー(Peter C. Baker)、前掲書、398頁。
  5. R. Taggart Murphy, “East and West: Geocultures and the Coronavirus,” New Left Review 122 (Mar/Apr 2020), 60~61頁。
  6. Byung- Chul Han, “ The Viral Emergenc(e/y) and the World of Tomorrow,” Pianola Con Libre Albedrío, 2020. 3.29.
  7. 例えば、今年7月23日「自由世界が共産中国を変えなければ、共産中国が我々を変えるだろう」と言ったポンペオ米国務長官の反中談話(The Guardian, 2020.7. 24参照)を連想させる。中国に対する憂いを表明することによって、何かを回避するという点も両方の共通点であるかもしれない。
  8. Giorgio Agamben, “ The Invention of an Epidemic.” (https://www.journal-psychoanalysis.eu/coronavirus-and-philosophers/. 原文は2020年2月26日Quodlibet に発表された。) その他にもこのウェブページにはアガンベンとジャン=リュック・ナンシー、ロベルト・エスポジト等が交わした論争的な論文が載っている。感染病が一種の「フェイクニュース」というアガンベンの主張がトランプ米大統領の持続的な反応と共鳴する点は相当グロテスクである。
  9. Giorgio Agamben, “Clarifications”は、2020年3月17日付の論文であり、前掲のウェブページで確認できる。
  10. スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek)著、カン・ウソン訳『パンデミックパニック:COVID19は世界をどのように振り回したか』ブックハウス、2020年、99頁。
  11. Roberto Esposito, “Cured to the Bitter End.” 原文は2020年2月28日 Antinomieに発表。前掲のウェブページ参照。
  12. Sergio Benvenuto, “ Welcome to Seclusion.” 原文は2020年3月5日 Antinomieに発表。同上のウェブページ参照。
  13. Marco D’eramo, “ The Philosopher’s Epidemic,” New Left Review 122, 23頁26頁。
  14. 一方、国家の作動不能が再び国家を除外する政治へとつながる可能性についても警戒する必要がある。これに関しては、ジジェクの次の意見が参考になる。彼は、防疫失敗が引き起こす国家権力に対する「信頼の解体を民衆が国家機関の外で地域レベルで自己組織化できる機会が開かれたこととして歓迎しようとする誘惑に陥ってはならない。『任務を果たし』信頼できる効率的国家が今日少なくともある程度はいつよりも切実である。地域共同体の組織化は国家機関と科学の組み合わせによってのみ作動することができる。」と述べている。スラヴォイ・ジジェク、前掲書、150頁、強調(ゴシック体)は引用者。
  15. Lee Jones, “Coronavirus Is the End of the End of History,” Tribune, 2020. 3.25. ジョーンズも、アガンベンの場合がそのような左派の混乱を見せる代表的な事例と見ている。
  16. スラヴォイ・ジジェク、前掲書、98頁。
  17. Lee Jones、前掲論文、強調(ゴシック体)は引用者。彼が簡単に中国と韓国とをまとめて「監視と統制体制」という慣習的範疇に入れ込んだのも同じ脈絡であるが、アガンベンを批判しながらも、その点においては同様のフレームに戻ってしまうことなのである。
  18. スラヴォイ・ジジェク、前掲書、24頁。彼はそのような中国の国家運営が「毛沢東の古いスローガン『人民を信じろ』に逆行」すると指摘する。
  19. チョン・グァンユル「COVID19が露わにした『韓国人の世界』:意外な応答篇」『時事IN』663号(2020.6.2)。
  20. 後続記事では「干渉からの自由」というアメリカ式観念と「危険からの自由」という北欧式観念を対比しながら、個人と集団の区分の違う表現でもある自由対干渉・規制という常套型に挑戦する。「危険からの自由」を確保するために「相互義務という蜘蛛の糸で互いを縛」る「連帯」こそ「自由へ向かう道」だということである。その際、国家も強制権力ではなく、「単に連帯の原理を執行する行政サービスの提供者により近くなる。」チョン・グァンユル「COVID19が露わにした『韓国人の世界』:皆のための自由篇」『時事IN』666号(2020.6.23)。
  21. チョン・グァンユル、前掲記事(「意外な応答篇」)。
  22. スラヴォイ・ジジェク、前掲書、98頁。「ベンジャミン・ブラントンとのプライベートな対話から引用した」という脚注の説明が付いた引用の一節である。
  23. この問題は、普遍的人間を指す個人と、人民主権の主体として制度的に保障された市民との間の不一致、つまり人権と市民権の不一致としてあらわれたりもする。人権と市民権をめぐる論議を整理した論文としては、拙稿「人権と市民権の『等式』:〈人間と市民の権利宣言〉を中心に」『英米文学研究』20号、2011年参照。
  24. 白英瓊「福祉とコモンズ:ケアの危機と公共性の再構成」『創作と批評』2017年秋号、28頁。この論文は「コモンズと公共性:共同の生活のために」という特集に掲載された論文である。
  25. F. R. Leavis, Nor Shall My Sword: Discourses on Pluralism, Compassion and Social Hope, Chatto & Windus 1972, 60頁。拙稿「文学性とコモンズ」『創作と批評』2018年夏号、21頁から再引用。この論文は「文学というコモンズ」特集に掲載された論文である。
  26. 「文学性とコモンズ」20頁。「協働的創造(collaborative creation)」もリービスの表現である。
  27. Immanuel Wallerstein, “ The French Revolution as a World-Historical Event,” Social Research 56 (1), 1989, 51~52頁。
  28. Étienne Balibar, Masses, Classes, Ideas: Studies on Politics and Philosophy Before and After Marx, trans. James Swenson, Routledge 1994, 50~51頁。バリバールにとって「友愛」は「共同体」と併記されるが、「平等自由」のもう一つの媒介が友愛とは相反する「財産(property)」だったという言及も意味深長である。バリバールによれば、友愛または共同体という媒介はそれ自体が葛藤の対象となり、実質的に「国家中心の友愛と革命的友愛」または「国家共同体と人民共同体」に分裂される。そのようになると、再び国家をめぐる問題に戻るようになる。それゆえ、彼の論議には一種の循環構造が記入されている。民主主義の抱える問題を解決するために「平等自由」が提示されるが、同時にそれが効果を作り出すためには媒介が必要だが、この媒介は再び民主主義が解決すべき問題を発生させる、ということだからである。
  29. 鳩山一郎 『鳩山一郎回顧錄』文藝春秋社、1957、190頁。戸澤英典「『友愛』政治の思想と実践:鳩山由紀夫政権の外交と内政」『日本批評』2号、2010、351頁から再引用。鳩山一郎は日本の民主党及び自由民主党を立党し、1954−56年に総理職を歴任した政治家であり、彼の孫である鳩山由紀夫も2009-10年総理を歴任したが、「東アジア共同体構想」を提出したところにみられるように、祖父の友愛理念に共感したことと知られる。一方、鳩山一郎の友愛構想はEUの主唱者としてヨーロッパより日本に広く紹介されたオーストリア政治家のクーデンホーフ=カレルギー(R. N. Coudenhove-Kalergi)の思想から影響を受けた。
  30. Jacques Derrida, The Politics of Friendship, trans. George Collins, Verso 1994.
  31. Jacques Derrida、前掲書、236、305頁。ところが、デリダの友情論はいつもそうであるように共同体と社会的紐帯を超え、根本的非対称と異質性に開放された友情という問題に焦点が当てられており、他者に向けた(無条件的)歓待概念につながるという点において、共同体の再構成に傍点を打つコモンズ言説とは距離がある。
  32. 「友情について:イヴァン・イリイチとの対談」『緑色評論』1997年11・12月号。