わが時代の「客地」

黃晳暎と金愛爛の小説における現在性について

 

2013年 夏号(通卷160号)

 
 
 韓基煜(ハン・ギウク) 文学評論家、仁濟大学校英文学科教授。著書に、評論集『文学の新しさはどこから来るのか』などがある。
 
 
 
 
ジョン・テイル(全泰壹)は、焼身自殺した1970年1月に、以下のような言葉を残している。「人々に共通する弱点は、希望する力(こと)が少ないことだ」ジョ・ヨンレ『全泰壹評伝』(改訂版)、ドルベゲ、1995年、211頁。。同時代における大衆から、社会と文学に対する一大革新が要求されている今日、疲れる「生」と情熱的な闘争の中から飛び出されてきた彼のこの言葉は、もう一度考えるべきである。当代の社会現実と政治から絶縁されたまま、自律性の空間に「安全に」縛ろうとする傾向や、その反対に、次代に過酷となる現実の切迫感に囚われ、文学の創造的想像力が信頼できない偏向も、文学にかける希望が少ない結果ではないか。

 
幸い、最近になって文学者の自ら、文学の革新を図ろうとする傾向が明確となった。前回の大統領選がきっかけで、数多くの作家・詩人・批評家が市民社会の変化に対する切実な熱望に賛同するようになり、わが文学の現実と文学の政治性に対しても根本的な問題を提起するようになった。韓国文学の大きな革新が行われることを期待しながら、この原稿を書きたいと思う。まず、「文学と政治」の論議と最近のルポ論争から提起された重要争点を取り上げ、その延長線上にリアリズムの現状を検討する。その後、ファン・ソクヨン(黃晳暎)の「客地」(1971)とキム・エラン(金愛爛)の『飛行雲』(文学と知性社、2012)のいくつかの短編を比較しながら論じておきたい。二人の作家における「小説的成果」を新たに論じようとすることは、両者が気づかない間に共有している文学的性格を考察することで、韓国におけるリアリズム文学の寄与とより豊かな可能性を探るためである。
 

文学における政治性とルポ論争

 
李明博政府時代から、革新の動きはあった。2008年、キャンドル集会以来、若い文人が様々な抗議デモに積極的に参加し、社会批判的な声を出したことだけでなく、創作においても今までの脱政治的な風潮を反省し、文学の政治性をどのように成し遂げるかを模索してきた。「詩(文学)と政治」として終結されたこの論議は、長い間続けられたことで、少なくない副作用と疲労感を呼び起こしてきたが、文学の自律性と他律性における二者択一の対象ではないことを悟らせてくれた、意味深いきっかけであったことは確かである。しかしながら、その意義を一蹴したり疑ったりする側もある。たとえば、ある座談会において、ジョン・グァリは「文学を革命に服務させるという1980年代式の思考における現代的変容のようなもの」であると評し、カン・ゲスク(姜桂淑)は、「文学が文化産業の回路に従属されながら、批評家が(…)「政治」というキーワードを取り出し、自己の存在証明を妥当であることとして作ろうとする欲望が隠れているのではないか」ジョン・グァリ、ウ・チャンゼ、キム・ヒョンジュン、カン・ゲスク、カン・ドンホ座談「挑戦と応戦―世紀転換期における韓国文学」『文学と社会』2012年冬号、359~360頁。すべてを商業主義のせいにするこの座談の流れに対してクォン・ヒチョルは、「酷い現実の前で文学は、何ができて、何をすべきでるかを問う、あの切実な問いさえも、「商業主義」と関連付けて理解するしかない、その自身が逆説的に商業主義にとらわれてしまった批評の不満」だと批判した。クォン・ヒチョル「もっとも弱く微かな能力」『21世紀文学』2013年春号、394頁。以下、この文献からの引用は、頁のみ書く。と疑った。問題は、類似な論議の発想を繰り返している様子を見せており、そのため多くの作家と批評家が幅広く参加する論争として拡散できないでいるということだ。
 
そのような点において、ジン・ウンヨン(陳恩英)の当初の問題意識から、どのような重要な進展があったのかを検討すべきである。クォン・ヒチョル(權熙哲)は、「『文学的なこと』は、(現実政治を反省し、解体し、再構成する)「政治的なこと」ともっとも近い場所に置かれることができるが、その政治的なことがどのように「現実政治」に対する圧力として移行するのだろうか。そのような「移行」は、どのように可能であり、その移行に対し、文学は再びどのように関与するのだろうか(383頁)と論評し、「政治的なこと」から「現実政治」―ランシエール(J. Rancière)の用語としては、「政治」(politics)から「治安」(police)―への「移行」過程が鮮明ではない問題点を指摘する。彼は、この「移行」の問題を解明する「決定的な何か」(383頁)を取り出せないため、疲労の中においても、繰り返して論議が行われていると推測する。文学において「政治的なこと」と「現実政治」間における移行方式と経路を問うクォン・ヒチョルの趣旨は、高く評価できる。しかし、論議が反復されることが、「移行」の問題と関連している「決定的な何か」を取り出せなかったためではないようだ。むしろ「決定的な何か」は、彼が考える「文学的なこと」と関係があるかもしれない。
 
クォン・ヒチョルにとって「文学的なこと」は、小説におけるルポに転向したキム・ゴムチの文章に対する論評においても明らかだ。キム・ゴムチは、1970年代の国内小説とドストエフスキーの小説を読み、「あ、文学読書とは、(若干の)「キリングタイム」だ!」と感想を述べている。そして、彼とは対照的に、チェルノブイリを経験した人々の生と死、愛を記録した『チェルノブイリの声』(スベトラーナ・アレクシエーヴィチ、セイプ2011)に表れた切実さから、深い感動を受ける。キム・ゴムチにおける最終的な結論は、「それこそ今は、全人類の非常事態であり、この世に恥ずかしくないように、今こそ価値のある文学は、そのような「切実さ」でなければならないという判断」であったキム・ゴムチ「キリングタイムか、切実さか」『実践文学』2012年冬号、56~57頁。。彼が文学を「キリングタイム」に、ルポを「切実さ」に単純化させたことに対して、クォン・ヒチョルは以下のように論評している。
 

ところが、「文学的なこと」は、むしろ何が「キリングタイム」であり、何が「切実さ」であるかについて確定しようとする意志自体に対し、反省しようとする意志ではないか。「文学的なこと」は、数多い会社が競合するある流れの中において、たった一つの解釈だけが「現実」であると確定しようとするその力をねじってしまう力ではないか。文学はあの逆説な意志と力を表現する限り、文学として残り、またそのために、現実的な威力に対するあきらめを我慢せざるを得ないことではないか(385~386頁)

 
ここで特徴的なことは、「確定させようとする意志自体に対し、反省しようとする意志」であったり、「確定させようとするその力をねじってしまう力」であったりするような表現である。このような文学観を何と呼ぶかわからないが―競合主義もしくは多元主義の文学観?―、現実をある一つの解釈に強いる独善を防止するという利点がある反面、現実の革新的な面が何なのかをしつこく探求する文学の知的・感覚的な作業を虚しくさせる可能性が高い。クォン・ヒチョルにとって、文学における「逆説的な意思と力」は、現実的な威力に対する諦めを甘受しなければ発揮されないため、彼が「移行」の問題を悩む理由は見当がつく。
 
だからといって、キム・ゴムチの立場が正しいということではない。まず、文学の「キリングタイム」とルポの「切実さ」という二分法的な設定が、どれほど説得力があるのか。そのような構図が彼の読書体験から生まれたものだとしても、他人の体験は違うこともある。しかも、切実さにも様々な次元があるため、何が「切実さ」であるかだけでなく、どのような種類の「切実さ」であるかも考えるべきである。『チェルノブイリの声』の切実さは、主に生存次元から提起される切実さであるといえよう。こうした次元の切実さを無視できないことは自明である。しかしながら、それとは異なる次元、たとえば、生存というよりも生の次元もしくは魂の次元から提起される切実さもある。彼が「キリングタイム」側に分類したドストエフスキーの『白痴』や『悪霊』は、魂たちの内面から始まる「切実さ」がある。生存次元の切実さだけに執着し、他の種類や次元の切実さを甘くみることではない。
 
コン・ジヨン(孔枝永)のルポ『椅子遊び(의자놀이)』(ヒューマニスト、2012)を綿密に検討しようとするソ・ヨンイン(徐栄裀)の態度にも、キム・ゴムチにおける誇張された単純化とは異なるが、生存次元の切実さにとらわれ、異なる次元の切実さに気づかないという盲点がある。もちろん、「『椅子遊び』は、切迫した現実に対する共感と実感を失っていく韓国文学の限界と困惑を、その自体として表象している」ソ・ヨンイン「防塁とクレイン、そして不得要領の資本主義」『実践文学』2012年冬号、19頁。以下、この文献からの引用は、ページのみ書く。という彼の判断は一理がある。韓国文学の作家たちが、「切迫した現実」の脈絡から離れて、あり得ない仮想世界を彷徨いながら、「事実」自体を甘く見なす風潮があるという点を指摘したことであれば、かなり同意できる。しかし、『椅子遊び』のルポを金愛爛の「水の中のゴリアテ」、ファン・ジョンウン(黃貞殷)の「オンギ伝(옹기전)」、キム・ヨンス(金衍洙)の『波が海の仕事であれば(파도가 바다의 일이라면)』(子音と母音、2012)のファンタジーと比較検討した後、「メービウスのおびのように、互いのしっぽにつながっているファンタジーのジレンマがなかなか解決できていないある地点を、『椅子遊び』は、ルポの方法として取り扱っているのではないか。事実自体を探求し記録する方法として、それが持っている無限の真実に接近するため、とりあえず事実に注目しなければならないという問題提起として」と論評するのには首がかしげられる。
 
ソ・ヨンインの論旨をキム・ゴムチ式で表現すれば、ルポの「事実」と小説の「ファンタジー」を対立構図において、両者の弱点をすべて指摘した後、前者に手を上げてあげるかたちである。すぐに浮かぶ疑問は、ルポの「事実」をそのように評価してあげながら、事実的な作品が多いキム・エランの『飛行雲』では、よりによって事実主義の規律を越える「水の中のゴリアテ」を選択したかという問題である。ファン・ジョンウンの場合も、程度は低いが、似たような疑問を提起することができる。おそらく『椅子遊び』のように、クレインと望楼のような象徴が登場する小説を選んだ結果であろうが、このような便宜的な比較は、事態を歪曲する可能性もある。しかも、「現在の韓国文学市場において、発現されているファンタジーとルポは、同一な状況における異なる表現とみなすこともできる。現実の威力がもっとも圧倒的であり、それを突破できる文学的方法が曖昧であること、これがファンタジーとルポがともに突き当たった壁ではないか。否定的な現実があまりにも圧倒的かつ威力的であって、ファンタジーとルポは、すべてその現実を入り込む動力を得ることができない」(28~29頁)と論評したら、事実主義系列の小説をよく検討すべきだったのではないか。ソ・ヨンインのルポとファンタジーの間に、数多くのリアリズム文学が―最近の実りのある成果がまさに『飛行雲』と『パシの入門(파씨의 입문)』(チャンビ、2012)であるが―、存在していることが見られないことに驚くばかりである。
 

文学の政治性とリアリズム

 
いつからかリアリズム論は、芸術的にこれ以上有効ではない文学論として扱われ、美学的保守主義の代名詞程度として扱われることが現実であろう。もちろん、文学と政治における議論と関連して、リアリズム論を再検討したり再構成したりする作業がなくはなかったが、しかしその結果は、決して希望的ではなかった。たとえば、「「残骸」としての「リアリズム」という発想を提示したコ・ボンジュン(高捧準)は、「「詩」と政治」に関する論壇における論議は、「リアリズム」に対する負債意識がなくても、文学が政治を思惟できることを見せてくれた。少なくとも、最近の若い人々が見せてくれる「政治的なこと」に対する感覚が、リアリズム概念と無関係であることには、異見がないようだ」ゴ・ボンジュン「リアリズム、「抑圧的なこと」に関する文学的反応」『リアリスト』2号、2010年6月、341~342頁。としながら、両者が無関係であることを既定化しようとする。リアリズムの急進的な再構成を試みたジャン・ソンギュの場合は、「総体性と反映論、党派性の枠に閉じられた私物化したリアリズム」ジャン・ソンギュ『砂漠でリアリズム』実践文学社、2011年、5~6頁。を強力に批判しているだけで、新しい美学的代案を提供できていない。しかし、小説家のクォン・ヨソン(権汝宣)による異なる趣旨の発言は、目を引く。
 

文学の政治性と関連して考えてみると、そのような関心が詩や小説、評論にそのまま表われないが、その問題に関するより根本的で理論的な悩みがスタートしていると考えられます。…私たちは文学、政治、歴史、革命などの巨大なテーマを、長い間経験してきたじゃないですか。リアリズムや民族文学が、情熱的に主張されてきたり、また廃棄されたりして。しかし、最近、何人かの文芸理論家や評論家たちが、その範疇を再検討する作業をしているように思います。総体性とは何か、典型性とは何か、以前私たちが規定したその概念が、果たしてそれに合っている概念であったか、たとえばそういう根本的な次元から、もう一度考えてみようということですグォン・ヨソン、シム・ボソン、ジョン・ホンス、シン・ヨンムク座談「韓国の文学現実と文芸誌の役割」『21世紀文学』2013年春号、277頁。。

 
クォン・ヨソンは、今までの論者とは異なり、文学と政治論議によって触発された「根本的かつ理論的な悩み」が、ある時期、「廃棄」されたこともあるリアリズムを再検討する作業へ進んでいることを指摘する。とりわけ、リアリズムの核心的な範疇である総体性と典型性の再検討を要請する態度は、その概念を再検討しないまま、「残骸」もしくは「私物化」のレッテルを貼る態度とは異なる。クォン・ヨソンの発言は、確かに鼓舞的ではあるが、リアリズム論を主張し、それなりの刷新作業を試みてきた評論家の努力まで反映したものではない。たとえば、リアリズムと民族文学の情熱的な主張者とも言えるペク・ナクチョン(白楽晴)は、リアリズムを廃棄したことがないだけでなく、マルクス主義のリアリズムにおける「総体性」、「典型性」、「党派性」、「現実反映」のような革新範疇を「再び覗き込む作業」を最初から試みたあと、その結果として重要な立場の違いも表明できた「総体性」と「典型性」については、「詩とリアリズムに関する断想」『統一時代における韓国文学の生きがい』チャンビ、2006年、及び、「ローレンス小説の典型性再論」『創作と批評』1992年夏号。「党派性」と「客観性」については、「民族文学論とリアリズム論」5節「レーニンのトルストイ論」と「社会主義現実主義の論議について」『統一時代における韓国文学の生きがい』396~426頁、「現実反映」については、「モダニズムに加えて」の中の「リアリズム論における『現実反映』の問題」『民族文学と世界文学2』創作と批評社、1985年、443~446頁、及び「ローレンス及び再現及び(仮想)現実問題」『中と外』1996年、下半期号参照。この中で「詩とリアリズムに関する断想」に関する論議としては、拙稿「文学の新しさとリアリズムの問題」『創作と批評』2009年夏号参照。ペク・ナクチョンがリアリズムを廃棄したことがないことを指摘したが、「知恵が一層普遍化された世の中における芸術は、おそらく「リアリズム」という面倒な言葉をこれ以上使う理由がないことが容易い」(『統一時代における韓国文学の生きがい』412頁)と、その解消を展望している。。
 
ペク・ナクチョンは、文学と政治における論議の基礎を提供したランシエールの芸術体制論についても批判的検討を試みたが、これからの論議において重要な論点だけ考察しておきたい。まず、ランシエールの事実主義(realism)概念を検討する部分である。知られているように、ランシエールの芸術体制論は、プラトンが代弁する「倫理的体制」(ethical regime)、アリストテレスが主導した「詩学的―再現的体制」(poetic-representative regime)、そして近代/現代特有の「美学的体制」(aesthetic regime)に分かれる。「詩学的―再現的体制」において「美学的―感傷的体制」に跳躍する始発点に位置するランシエールの事実主義は、決して再現の拒否を意味していることではないが、「類似(似ていること)の重視」(valorization of resemblance)よりは、「再現的体制」の位階秩序を転覆するのに焦点を合わせている。「位階秩序の転覆」を実感するのは、フローベールの『ボヴァリー婦人』(Madame Bovary, 1856)に関するランシエールの次のような論評が役に立つかもしれない。
 

高貴なる主題も卑しい主題もないことが、フローベールが表明した反アリストテレス的な陳述である。詩的な素材と散文的な素材を分ける境界も、高貴な行為の詩的領域に属することと散文的な生の領域に属することの間の境界もないという意味である。この陳述は、個人的な信念ではない。これは、文学のそれ自体を構成する原則である。フローベールは、これを芸術の原則として強調する。純粋な芸術とは、素材にいかなる威厳も付与しない芸術ということであり、これは、芸術に属していることと非芸術的な生に属することの間の境界がないという意味だ。…したがって、以前の純粋文学の守護者たちが、作家と人物間における共謀を猛非難したことである。彼女(エマ)が刺激の源泉と快楽の形式を区別しない「民主主義」を具現する。彼にはすべてが平等である。彼は人物たちに対して同じ感情を抱き、彼らのいかなる行為に対しても個人的な意見はない。人物の民主主義的な刺激と作家の民主主義的な無関心は、コインの両面であるか、もしくは同じ病の二つの変種であるかもしれないJacques Rancière, “Why Emma Bovary Had to Be Killed,” Critical Inquiry 34 (2008年冬)、237頁。強調(太字)は原文のままであり、韓国語への翻訳は筆者が行った。。

 
ランシエールにとって事実主義とは、事実的再現というより、感覚体験からの自律性、すなわち、既存のどんな境界にも縛られない徹底した「民主主義」を意味する。作家と人物の関係においても作家は、自分が創造した人物に対して、選り好みなどの感情なく、同じ「無感」で接する「民主主義」を遂行することである。これに対してペク・ナクチョンが提起する論点は、大きく二つである。すなわち、ランシエールの事実主義は、「「再現的体制」の位階秩序を転覆した点が強調され、近代の到来とともに芸術に事実的再現が他の意味を持つようになった点に関する認識は不十分に見える」ペク・ナクチョン「現代詩と近代性、そして大衆の生」『創作と批評』2009年冬号、29頁。ということだ。そして、リアリズム文学の到来が意味することを、アリストテレスの詩学の命題を借りて解明している自身の文章を引用する。
 

すなわち、文学は、実際に起こったということより、起こりそうなことを話してくれるという大原則だけは、そのまま残るとしても、「起こりそうなこと」の定律において、実際に起こったこと、起こるしかなかったこと、もしくは起こるべきことなどに対する事実的認識―アリストテレスの表現を借りるのであれば、「歴史家」の認識―が全く新しい比重を占めるようになる。事実主義の写実性が持つ本質的な意義は、まさにこのような歴史認識・世界認識の転換から探すべきである(77頁)ペク・ナクチョン「リアリズムに関して」『民族文学と世界文学Ⅱ』創作と批評社、1985年、372頁から再引用。。

 
ランシエールとペク・ナクチョンは、各々の方式で、アリストテレスの「詩学的―再現的体制」の原則を変革したり修正したりする。ランシエールの事実主義が、詩学的―再現的体制の位階秩序を崩し、「民主主義」的な芸術体制へ転換するのであれば、ペク・ナクチョンのリアリズムは、詩学的―再現的体制の文学論における「歴史家」の認識―すなわち、歴史と世界に対する科学的・事実的認識―の意義が新しくなった芸術として進んでいったことである。
 
ペク・ナクチョンのもう一つの論点は、ランシエールが3段階の芸術体制を厳格に区分することで生じる副作用である。たとえば、ミメシス(mimesis)を厳格な位階秩序の詩学という意味の「再現的体制」として規定することで、「一般的意味のミメシス(mimesis)ないしは再現が、すべての芸術体系に共存しているという事実が見えなくなる」ということだ。「倫理的体制」の区分においても、似たような問題点があることを指摘した後、「芸術作品はおそらく有史以前から倫理的かつ再現的でありながら、美的(感覚体験的)であったかもしれないという点が、ランシエール的分類法の図式的適用として看過されないように」と結論付けている。
 
ランシエールの事実主義における「民主主義」とペク・ナクチョンのリアリズムにおける「事実的認識」の重視は、近代芸術論の両軸であると言えるし、総合補完的な面がある。しかし、ランシエールの事実主義における感覚体験的な民主主義は、先ほど、『ボヴァリー婦人』に関する論評からもわかるように、フローベールの作品のように、「無政府主義的」な面がある。それは、生と芸術において、すべての境界、すべての禁忌を崩した開放的な側面とともに、使い道のないすべての身体における感覚を酷使する消耗的な側面がともに存在する。また、作家が人物に対して「同じ感情」を抱き、人物の行為に対して、個人的な意見がないということが、芸術的に必ず正しいかという疑問も残る。だから、前の引用文にあった「人物の民主主義的な刺激と作家の民主主義的な無感」を「同じ病の二つの変種」に例えた表現に、大いに共感できるかもしれない。
 

「客地」の卓越性

 
ファン・ソクヨンの「客地」は、1970年代以来長い間、リアリズム文学の見本として挙げられてきた。しかし、発表されてから40年が過ぎた現在の時点において「客地」は、「芸術的」にどのくらい評価できる作品であるか。繰り返されている解釈を避けるためには、伝統的(マルクス主義的)なリアリズムの観点とは違う接近の仕方が必要である。たとえば、ランシエールが、「客地」を読んで、どのような反応を見せるかを仮定してみることも、一つの方法である。
 
先ほど取り上げたランシエールの「美学的―感性的体制」と『ボヴァリー夫人』に関する論評に基づいて考えてみると、ランシエールは「客地」を非常に印象的に読み、高く評価する可能性はあるが、『ボヴァリー夫人』のように徹底的に「美学的」な作品としては考えないかもしれない。もしかしたら、ファン・ソクヨンの初期作品である「ソムソムオクス(섬섬옥수)」(1973)をもっと注目するかもしれない。この小説こそ、韓国版『ボヴァリー夫人』と呼べるからである。長編と短編という差異はあるが、二つの作品ともに、主人公の女性が三人の男性との関係を通して経験する/楽しむ感覚体験に焦点が合わせられている。たとえば、「ソムソムオクス(섬섬옥수)」の主人公である女子大生のパク・ミリは、お金持ちのお坊ちゃんであるジャン・マンオと田舎出身の「苦学生」のキム・ジャンファン、アパート管理室のサンスとの関係を経て、「刺激の源泉と快楽の形式を構わな」い。人物に対する作家の態度からも、ファン・ソクヨンの作品の割には珍しく、すべての人物について―フローベールの「民主主義的な無感さ」までではなくても―公平に距離を維持する冷静さが目立っている。
 
「客地」ももちろん、相当高い点数を受けると考えられる。なぜならば、この小説は、労働者が資本主義社会における位階秩序に闘う叙事的な次元における「民主主義」だけでなく、「再現的体制」の位階秩序を転覆する美学的次元における「民主主義」も明確であるからだ。言い換えれば、高貴な主題と卑しい主題、詩的な素材と散文的な素材、芸術的なものと非芸術的な生を区分し、両者の優劣を秩序化した再現的位階秩序の境界を横切る。ところが、この横切りの方式は、『ボヴァリー夫人』や「ソムソムオクス(섬섬옥수)」のそれとは異なる。二つの小説の場合、横切りは、女性主人公に対立項の両側が、優劣のない同じ感覚体験の対象となるという意味であるが、「客地」の場合、ストライキという中心事件が進行され、主要人物が変化することによって作品が対立項のどの側に属しているのか曖昧となり、しかも対立の発想自体を崩したりもしている。たとえば、労働者の貧しい生活を扱っている点において、卑しい主題、散文的な主題、非芸術的な生の側に属するが、彼らが人生らしい人生を堪能しようと、ともに政治闘争を繰り広げることで、主体として変貌し、同僚のために自己犠牲も退けないようにしている。その中、小説は、いつの間にか、高貴な主題、詩的な主題、芸術的なものとは区分できないほど、重なるようになる。
 
「客地」は、そうした特異で抜本的な方式の横切りを内蔵しているため、普通の事実主義(自然主義)小説、ルポとは異なる深さを持つようになった。当代差配の暗くて悲惨なる一面を赤裸々に記録しようとする自然主義叙事とルポの間には、高貴さと卑しさ、詩的なことと散文的なこと、芸術と非芸術の境界を乗り越えない場合が多い。ソ・ヨンインの『椅子遊び』のルポ的な美徳を高く評価しながらも、「本当に主体になるべく労働者の声が、作家により代行された叙述の中で、聞こえなくなっているのではないかという疑問」を提起し、「彼らが憐憫と関心の対象として他者化されること」を心配する時(28頁)、それは自然主義の叙事一般の脆弱性と通じる地点を指摘したことである。「客地」が与える楽しさは、これとはまったく異なる。もし、ソ・ヨンインの発言を裏返せば、それがまさに「客地」の美徳を指摘する論評となる。
 
しかし、「客地」の人物が感覚体験の次元において『ボヴァリー夫人』のエマのように、「民主主義的刺激」を具現していないことも明らかである。西海岸の「ウンジ干拓工事現場」に集まった日雇い労働者の場合、まるで孤立された収容所で辛い労働を繰り返しながら、労働力を維持できるほどの食べ物と休みを取るだけで、楽しみとはお酒と歌が全部である。彼らの感覚に「刺激」を与えるのは、一言でいうと、過酷な労働、監督者・搾取者からの不当な圧迫であり、ストライキ過程において芽生える同僚間の連帯感が臨界点へ走るその「非民主的な」刺激と神経圧迫を辛うじて耐えさせる。要するに、彼らの感覚体験は、過酷かつ「非民主的」である。しかし、一つの「変数」がある。ストライキに参加する主体、いやストライキを妨害しようとする人々まで、興味津々の政治ドラマのような力動的な現実を相当の期間、「全身」で体感できる可能性のことである。これを考慮すれば、「客地」は感覚体験の次元においても、決して緩んだりはしない。むしろ、多様な人物の知的・感性的な感覚がより「指摘」され、伯仲した緊張感を維持する。この点については、中国の批評家である孫歌が「本当に優れている部分」と指摘したことと密接な関係がある。
 

小説においてもっとも優れているところは、まさに政治闘争、とりわけ感情に頼り組織を作り上げて群衆運動における変化無双な過程とその過程において、毎回下さなければならない判断の重要性を漏れなくよく叙述していることである。ドンヒョクという人物が持っている優れた政治的判断力は、彼が現実政治ということは抽象的な普遍の「その何か」や抽象的な正義の概念として実行し解釈できる情態的で力動的である関係ということを理解している点によく表れている。「客地」は、まさにこうした瞬間における内在的な張力として構成されており、毎回決定的な瞬間においても、いつも不確定性として充満されており、またそれによる不安と懐疑として充満されている孫歌「極限状況における政治感覚」、チェ・ウォンシク、イム・ホンベ編『ファン・ソクヨン文学の世界』チャンビ、2003年、220頁。。

 
孫歌は、このように「客地」の卓越性が「政治闘争の力動的過程」を確実に表れたことにあることを強調する。孫歌の主張は、伝統的なリアリズム論とランシエールの事実主義、そのどちらとも完全に符合されないが、両者と重なるところもある。たとえば、リアリズム論者であるハ・ジョンイル(河晸一)は、「「客地」におけるストライキが持つ二つの意味、すなわち資本主義の虚構性がすべて明らかになる場であり、資本に対する最後の抵抗手段であるという意味が明らかとなっていくが、ストライキを媒介としたこの二つの軸を結合させるのに成功した点だけでも、「客地」は70年代における韓国文学の最高峰に上るのに遜色がない」ハ・ジョンイル「抵抗の叙事と代案的近代の模索」、民族文学史研究所現代文学分科編『1970年代の文学研究』ソミョン出版、2000年、28頁。と称賛する。しかし、文学の本領は、「現実政治」ではなくあくまでも「政治的なこと」―感覚的なことの配分を変えること―であることを強調するランシエールが、ハ・ジョンイルの主張に同意するのか疑問である。ストライキという「現実政治」の進行過程を事実的に再現し、ストライキの本質的性格を深く理解することだけでは、未だに「政治的なこと」ではならないためである。
 
しかし、引用した孫歌の最後の文章は、「現実政治」の事実的再現に関する話だけではない。すなわち、決定的な瞬間ごとに、主体の選択と決断が要求される政治闘争の力動的関係の中で、「感覚的なことの配分」にも影響を及ぼす意味深い変化が起こりうることが暗示されることである。充満されている「不確定性」と「懐疑と不安」は、そのような変化の可能性が示してくれる表示であろう。孫歌の解釈は、マルクス主義リアリズムとランシエール的事実主義の概念の両者が、すべて見逃しやすい「客地」における芸術的卓越性―すなわち、「現実政治」(=「治安」)がどのように「政治的なこと」と結合されるかを実感させる部分―をキャッチしたように見える。しかし、ここで孫歌が、卓越性として指摘した「政治闘争の力動的過程」というものが、当代韓国の現実と労働者たちの日常に関する「事実的認識」なしでは、当初から再現することは不可能である点を考慮する必要がある。
 
二つの文学論が、もっとも不一致しているところは、おそらく人物(とりわけ主人公)形状化の問題、そして彼と連動されている作家と主人公の関係問題であろう。マルクス主義リアリズムの「典型性」概念は、長編小説を前提としていることであるが、「客地」のような中編においてもよく準用されてきた。ところが、「客地」の主人公、ドンヒョクの形状化(そして、彼と不可避に連動される結末の意味)については、リアリズム論者たちの間でも意見が分かれる。まず、ドンヒョクが死を決断するような、結末の部分を引用しておこう。
 
彼は、自分の決議が無駄にならないことを信じていたし、空っぽになりそうな心に対して、自ら驚いた。わからない強烈な希望が、どこからか湧いてきて、彼をすべて埋め尽くすようであった。ドンヒョクは、相手側の人々と同僚の労働者のみんなに知らせてあげたかった。
「必ずしも明日ではなくても良い」
彼は、一人で誓ったファン・ソクヨン『客地』創作と批評社、1974年、103頁。作家は、発表当時には抜いていた焼身部分を『ファン・ソクヨン中短編全集』(創作と批評社、2000年)を出す際に、復活させた。追加された部分では、ドンヒョクが、ランプの芯に火をつけると、「小さい火の粉をあげながら、燃え上がり始めた」という言葉で終わっている。このように、焼身自殺の情況が明らかになり、1970年に焼身したジョン・テイルとの関係性がより明確となった。これに対して作家は、チェ・ウォンシクとの対談の中で、「発表本のように、必ずしも明日ではなくても良い、というところで切っても悪くなかったかもしれない」といい、チェ・ウォンシクもその意見に同意している。ファン・ソクヨン、チェ・ウォンシク対談「ファン・ソクヨンの人生と文学」『ファン・ソクヨン文学の世界』43頁。。
 
これに対して、ソン・ミンヨプ(成民燁)は、「感動的であるにもかかわらず、ロマンチックな虚位の色彩から自由になれない」ソン・ミンヨプ「作家的信念と現実」『韓国文学の現段階』創作と批評社、1984年、139頁。とし、ハ・ジョンイルも「ドンヒョクに対するこうした英雄主義的形状化は、現実性を多く害する結果を生み、それはリアリズム的成果を制約するもっとも大きい要因」ハ・ジョンイル「民衆の発見と民族文学の新しい跳躍」、民族文学史研究所編『民族文学史講座』下、創作と批評社、1995年、264頁。だと結論付ける。このような否定的な見解に対し、イム・ギュチャン(林奎燦)は「「ドンヒョク」の形状化は、まだ到来していない未来を向けての叫びであり、未来への展望を達成しようとする当代現実の傾向に新しい生命を吹き込む作業であった。そのため、これを容易く、ロマンチック化もしくは英雄主義化と命名し、批判的に考えること自体が間違い」とし、「典型的な人物の全人的な創造よりは、「典型的状況と典型的性格」の創造に主眼を置いた」ことと結論づけるイム・ギュチャン「「客地」とリアリズム」『ファン・ソクヨン文学の世界』チャンビ、2003年、165~167頁。。
 
この論議は、簡単に終わらないかもしれない。ドンヒョクの最後の決断は、同じ年頃の血気盛りの青年が正義感に導かれ犯してしまった過ぎた行動に見えるかもしれないし、ジョン・テイルのように、同僚労働者のために、自分の身体を焼かせてしまった「焼身供養」にも見えるかもしれないからだ。作家は、後者のほうを意図したかもしれないが、作品では、このように曖昧に具現されたのである。ところが、この曖昧な形状化が、両側のどっちかに確定された時の形状化よりも、むしろ優っているし、その理由で焼身が暗示されるだけで確定されていない発表本が、修正本より良いと考えられている。
 
こうして考えると、孫歌が賞賛したドンヒョクの「優れた政治的判断力」に対して作家が、「長い間、労働現場で紛争などを経験し、選択の感覚が敏感になった」おかげではなく、「単純に彼の生活であるだけ」(37頁)と叙述したところに注目する必要がある。この説明は、まるで説得力が落ちているように聞こえる。しかし、ドンヒョクが生まれ持った政治的感覚と結末の曖昧さが、マルクス主義リアリズムにおいて、常套化された「典型性」―いわゆる『鋼鉄は、どのようにして鍛錬されたのか』(1934)以後に固まった労働者像―には合わないとしても、たびたび本人も解明できず生きている一個人の決定的な行動としては、より実感できる面がある。中編でありながら、相当数の人物が登場しているが、作家はその各々に対し小説叙事に必要なくらいの形状化作業をしながら、共感と批判のニュアンスを適切に調節する。フローベールの長編や自身の「ソムソムオクス(섬섬옥수)」とは全く異なる人物形状化方式である。その効果は、大尉とジャンさんのような主要人物が持っている個人として実感できると同時に、干拓工事現場における日雇い労働者の多数が、集団的存在感と動きも感知されることである。
 
「必ずしも明日ではなくてもよい」という誓いで終わる結末に対しても、否定的な見解が多かった。たとえば、ファン・グァンス(黄光穂)は、「争議自体の意味から見ると、「開かれた終わり」というよりは、むしろこれ以上の可能性がない「閉じられた終わり」としてしか考えられない。これは、もちろん作家自身における個人的力量の限界でもあるが、60年代式の労働闘争の限界…何よりも日雇い労働者として構成された工事現場その自体が持つ素材的限界でもあった」と批判する。ファン・グァンスが、このように「客地」の色んな限界を猛批判したことには、小説の結末が組織的に対応すべき問題を「個人的な決断」として処理しただけでなく、ドンヒョクの最後の決心が、「根拠のない楽観」を伝染させることで、現実の労働運動を難しくさせるという判断が働いたと考えられる。しかし、今日の時点で明らかになることは、むしろこのような批判を推動した硬直しているマルクス主義リアリズム論における限界である。その後、韓国社会は産業化期を経て、世界的な規模の大企業と数多くの工場ができたことで、相当数の作家たちが、産業労働者の人生を小説化しようと試みたが、動労している人々を取り上げた小説として、「客地」のような確実たる小説的成果を作り上げることができなかった。シン・ギョンスク(申京淑)の『離れ部屋』(文学ドンネ、1999年)と2000年代以後、非正規職労働者の人生を深く入り込んだ小説家のいくつの作品だけが、「客地」と比べることができると考えられている。
 

キム・エラン小説の実験性と大衆性

 
ファン・ソクヨンの「客地」を読み直しているうちに、「我々の時代における「客地」として、どのような小説をあげられるか」ということをずっと考えた。読書で実感した「客地」における現在性、もしくは変わらない生命力に対する悩みが深くなったところで、ようやくキム・エランの小説集『飛行雲』を思う出すことができた。もちろん、このことは、他の小説が私たちの時代における「客地」になれないという意味ではない。また、「客地」とは性格が異なる、たとえば2000年代以来、各種の実験的な小説とジャンル小説が、韓国文学の多様性と言語的な革新に寄与したことを否認するという意味でもない。『飛行雲』が特別であることは、「水の中のゴリアテ」を除いた大半の短編が、我々の時代の労働と人生を「事実的」に取り上げたことだけではない「水の中のゴリアテ」を論議に入れないことは、事実主義的な規律を脱していないためであり、リアリズム小説ではないという意味ではない。この小説の非凡さに関する論議は、今後の課題にしておきたい。。本当に注目すべき部分は、多数の批評家たちが前提しているように、小説の実験性と創造性が、反事実主義もしくは反再現主義だけから出てくるものではないこと、むしろ我々の時代における文学の創造的活力は、事実主義に内在された実験性と創造性をいかに取り出せるか、に大きく左右されることを見せてくれた点である。
 
中編である「客地」を『飛行雲』の一編と比較することは無理かもしれないが、何編をともに考えるなら、可能かもしれない。「一日の軸」、「君の夏はどうなの」、「三十路」を、事実主義の実験性に焦点を合わせて論じることにする。肉体労働の現場を取り扱っている点において、「客地」と近い作品は、仁川空港女子トイレの「清掃婦」の一日を追跡した「一日の軸」である。この作品の新しい点は、ある批評者が言ったように、「今までのキム・エランの小説の中心人物が、「知っていながらも知らないふりをする人物」であった反面、この小説の中心人物は、「本当に知らない人物」ジョン・シルビ「帰ってくる文章、失敗する読書」『文学ドンネ』2012年夏号、583頁。以下、この文献からの引用は、ページのみ書く。であること」だ。実は、小説は、自身の人生と世界に対して、制限された認識しか持つことができなかったことを随時に気づかせてくれる。この小説は、いわゆる制限された認識の主人公を通じて、読者にとって彼がおかれた現実を読ませるという一種の「実験」である。
 
まず、キム・エランの小説においては、生活と人生が密接に関係しているが、等値されることではないことを知っておく必要がある。これが、彼の小説だけの特徴ではないが、彼の小説文法の基礎であり、事実主義実験の基礎となるからだ。「一日の軸」のギオクさんにも、「君の夏はどうなの」のソ・ミヨンにも、「三十路」のスインにも日常的に営為される「生活」の次元と「本当に生きているその感覚」パク・ミンギュ『死んだ王女のためのパバンーヌ』イェダム、2009年、300頁。パク・ミンギュ小説でも、生活/生の区分が重要である。の充満している「人生」という別の次元がある。しかし、非正規労働者には、「生活」を維持すること自体が簡単ではなく、「生活」が崩れればただちに「生存の次元」に追い出される。「客地」のドンヒョクとデウィにも、「生活」と「人生」の差異が重要に作動している。労働の現場において、一日、一日を耐えながら生きる「生活」が大切ではあるが、それが、彼らが除く「人生」ではないため、闘争に向かう。
 
ギオクさんは、賢くはないが「生活」と「人生」の差異を「感覚」で区分することができる。彼女にとって「人生(生きる)」ことを可能にすることは、刑務所にいる息子・ヨンウンが変わらなければならない。息子が不幸な状態で、彼女が「人生」を楽しむことは不可能である。実に、息子が刑務所に入った時からできた、ギオクさんのストレス性円形脱毛は、「いつの間にかスイカのように大きくなった」(191頁)。しかし、ギオクさんは、まともな「人生」ではないが、ただの「生活」の次元にはとどまらないように頑張る。そのため、お盆前日、自身のために食事を用意する。「ギオクさんは、食べ物で、自分の体にお辞儀をしたかった。…時間に、自然に、人生に「私が君の名前を知っているから、君も私と仲良くしてみよう」と提案しているように。ギオクさんは、それを、「言葉」ではなく「感覚」でわかった」(178頁)。すなわち、小説は、ギオクさんが認識は制限されているが、「本当にわかっていない人物」というより、「「言葉」ではなく「感覚」で」重要なことを多く知っており、基本的には健康的な人物であることを見せている。
 
この小説の事件は、こうだ。ギオクさんは、一日の労働が終わった後に息子の手紙を読むが、期待とは異なり、「ママ、差し入れお願い」(197頁)という言葉しか書いてなかった。彼女は、魂が抜けたように座っていたが、パート長に行って、「フピョンおばさん」が無理やり受け持ったお盆勤務を自ら申し出る。しかし、まめに帽子を被らなかったため、「真ん中の髪がすべて抜けていて、まるで癌患者」(201頁)のような彼女が、懇願する姿がパート長の目には、可哀想に見えた。残った疑問は、ギオクさんが息子の手紙にがっかりした後、なぜ夜勤を頼み入るか、ということである。彼女は、「感」で行動したと思われるため、確答は難しい。「人生」の希望が無くなり、「生活」戦線に戻り、息子の「差し入れ」費用でも稼ごうとしているのか、もしくは、自分はダメだった「人生」を同僚である「ブピョンおばさん」だけでも楽しませようとするのか曖昧であるが、おそらく両方である可能性もある。明白なのは、「まるで好きな男性に告白でもするように」(201頁)お願いするギオクさんの切実さと円形脱毛の恐ろしさが合わせられたその場面がもっともグロテスクであるということだ。
 
ギオクさんの成功的な形象化には、独特な時点運用が重要な役割をしている。読者は、まるでリアリティプログラムのカメラを追いながら、ギオクさんが体験する労働と人生の現場を覗き込むと同時に、そのカメラの制限性を悟らせるより大きい視線を感じる。たとえば、ギオクさんを追う視線とその視線の向こうを照らす視線が同時に作動している。しかし、二つの視線が別に動きながらも一つに合わせられたりするという、予期できなかった小説的効果を作り出している。すなわち、ルポやドキュメンタリーのような自然主義的事実性の効果を得られると同時に、その視線に閉ざされないということである。ギオクさんを追っていく視線が捉えたシーンの中で、たとえば、以下のような場面がある。
 

ギオクさんは、バケツを持って、たったいま誰かが用事を済ませて出てきたトイレに入った。しかし、ドアを開けると、中から血の匂いがしてきた。先ほど、体格の大きい白人の女性が、暗い顔で出ていたところであった。目も合わせないで、慌てて離れていった様子がおかしいと思っていたら。ギオクさんは、経験上、たまには血の匂いが大便の匂いよりも気持ち悪いことを知っていた。もちろん、最悪の場合は、「生理中の女性が、用事を済ませた」場合である。ギオクさんは、眉間のしわを寄せながら、脱臭剤をつけてから便器の前にしゃがんだ。そして、花のように咲いた温いナプキンをみながら、やはりトイレは女性が男性よりも、もっと汚く使うことを確認した。(185頁)

 
ギオクさんの「共感覚的」な体験と、経験上の論評を通じて提示された国際空港の女子トイレの光景は、中年女性の視線と感覚が滲んでいて、より生々しく感じられる。このような労働現場における生々しい描写、ひいてはギオクさんが感知する世界に対する優れた事実的再現は、「客地」においても劣らない。
 
もう一つの視線は、ギオクさんが理解する半径向こうの世界を見せてくれる。「現代の複雑で巨大なシステムが静的で平和的に回っていく時、その虚しさがくれる不思議な圧倒、安心、もしくは美しさのようなものが空港にはあった。…真っ黒のタイヤの跡がある滑走路の間に、フィーと涼しい秋の風が通っていった。停車されている航空機は、すべて前輪に顔杖をついたまま目を閉じて、その風を感じていた。どの国から来て、その世界へ飛んでいくか知らない風であった。いくつかの航空機は、搭乗棟の影に、静かに頭を突っ込んだまま眠ったり試作中だったりしていた」(176頁)と叙述している際、その視線は、ギオクさんを越えて自由に動いている。小説の叙述の大半は、この二つの視線の組み合わせである。そのため、「作家は空港を行き来する世界各国の人々が捨てていったゴミが集まるところに、主人公を位置づけ、世界の不加害性を象徴的に表現している」(582~583頁)と解釈することは、二つの視線の意味を十分に考慮した読み方にはならない。二つの視線、いわゆる作家と人文の視線を分けて読めば、我々は「世界の不加害性」の中においても、自身の労働に充実した一人の中年の女性を実感することができる。
 
ギオクさんは、キム・エラン小説において、作家の「分身」のような感じを完全に振り切った新しいタイプの主人公である。作家が主人公を自己化も常套化もせず、最後まで直視した感じがする。ずっと以前から非正規職の中年女性動労者が増えているにもかかわらず、彼らはきちんと具現されない韓国小説において、ギオクさんの出現は、意味深い成果である。
 
「君の夏はどうなの」は、主に一人称の話者であるソ・ミヨンの視点に合わせているが、ジュンイ先輩がまた異なる視点の役割をしている。ここでも、視線は一つではない二つであるが、「生活」と「人生」の二つの次元をおいて、二つの視線が繰り広げる「対話的」関係が目を引く。この小説の主な関心事は、ある具体的な個人が「他者」と呼ばれる他の人とどのように本物の関係を結んでいけるかに合わせられている。小説は、このような他者性の探求を「人生」と「生活」の二つの次元と関連付けているが、後者との関係を集中的に取り扱っている。ミヨンは、先輩に自分の貧しい「生活」を見せたくないが、先輩は、むしろミヨンから「生活」が見られてよかったという。その瞬間、ミヨンは、「これからこの人を本格的に好きになろうと決心」(24頁)する。人生は、いつも「生」を向っているが、他者から「生活」の次元を認められなければ、すべてのものが崩れる時点がある。「生活」が「生」の堡塁であり、他者性の真正性を試す一時的な指標になる理由がここにある。
 
他者性の探求において、感覚体験に焦点が合わせられたことも注目すべきである。ゲーブルTVの助監督になった先輩は、ミヨンに自身が担当しているプログラムに出演してほしいとお願いする。先輩の誘惑とお願いに、何も考えないで出演したミヨンは、隠したかった自身の身体(太ってきた)を、より赤裸々に強調しなければならなくなった。それが、先輩側の本来の意図であることがわかり、裏切られと感じる。もっと意味深い感覚体験は、PDから悪口を聞きながらも、「生活」戦線で生き残ろうとする先輩の必至さが、ミヨンの腕をつかむ行為を通じて伝わるところである。「先輩が急いで私の腕を掴んだ。手のひらが汗でびっしょりと濡れていた。…先輩は、手に力を入れ続けていた。どれほど強く掴んだのか腕が痛いくらいだった(33頁)。先輩は、拗ねて逃げるように行ってしまったミヨンを宥めるためにもう一度ミヨンの腕を強く掴んだ(37~38頁)。ミヨンは、ビョンマンの葬儀に弔問まで放棄して家に帰り、黒いスーツでそのまま横になり、「8歳、夏休みの時のこと」を思い出す。その思い出のポイントは、ビョンマンが水に溺れたミヨンを救う場面である。
 

生まれて初めて経験する恐怖が襲ってきた。説明のつかない恐怖であった。私は徐々に沈んでいた。これ以上耐えることが難しい。しかし、その時、誰かが私の手を握ることが感じられた。一瞬、力を絞って、その腕を掴んだ。どこからそのような力が出てくるのかわからなかった。私の手を握る人が痛いかもしれないと思っていたが、しかし手から力を抜くことができなかった。いいや、そうすればするほど、その腕をもっと強く掴むようになった。…そしてようやく陸に上がってきたとき、水にびっしょり濡れたまま、真っ白になったビョンマンの顔を見てしまった。誰かの爪あとに沿って深く溝ができてしまった、少し血が滲んだまま青いあざができたその人の腕も……(41~42頁)

 
ビョンマンの腕に刻まれた爪あととあざのせいであるかのように、少しした後、ミヨンは痛みを感じ、先輩が自分の腕に残した「あざ」を発見する。その後、悟りの瞬間が押し寄せてきた。「私、生きている。もしくは生きている間、誰かが本当に痛かっただろうと考えた。私も知らないところで、私が知っている、もしくは知らない誰かが私のせいで、本当に痛かったかもしれないという感じが」(44頁)した。その後、ミヨンが「指の爪で、そんなに押していたら痛かっただろうに……」(44頁)としながら、大きく泣いてしまった。ミヨンは、ビョンマンの死を哀悼したのである。キム・エラン小説で「水」が持つ原初的な生命力を考慮すれば、ビョンマンがミヨンを救う場面は、もっとも事実的で、非常に象徴的である。それは、危ない瞬間の生々しい再現であり、救助者や被救助者ともに「再生」の意味を持つ象徴性を表す。
 
他者を「他者化」させ、排除しないで尊重する方法も色々である。一つは、ジル・ドゥルーズ(G. Deleuze)式の「他者―なること」(becoming)方式であり、もう一つは、ジョルジョ・アガンベン(G. Agamben)式の「あるがままの存在」(whatever being)方式である。前者がマイノリティである他者側に、自己の存在を変貌させることであるなら、後者は、私は私のままで、他者は他者のままで、各々の「固有性」を守る方式である。この小説を通して、キム・エランが見せてくれた方式は、その中間にあるものだ。すなわち、他者のひた向きな要請に応じて、実際的な助けをあげ、「身体」は痛いが、私は私らしさを、他者は他者になることを守る方式である。このような点においてこの小説は、こうした他者性の深い問題を「生活」人の感覚として、事実的かつ象徴的な言語として探求した秀作である。
 
「君の夏はどうなの」の主題を受け継ぎ、「他者性の倫理」を問う作品が「三十路」である。しかし、「三十路」は、一個人の倫理的な問題に限らず、韓国の資本主義という現実の革新を迫る、深くて切ない響きを持っている。この響きは、「三十路」が手紙形式を取っていることと不可分の関係である。「三十路」の非凡さは、何よりも書簡体形式の特徴を、我々の時代の人間関係と労働の性格を深層的に探求するのに相応しく駆使したことにある。一見、小道具のように見える「三十路」は、このような点において大胆な発想の作品である。その響きに注目し、いくつか重要な点だけ取り上げておきたい。
 
「お姉さん、お元気ですか?お姉さんをお姉さんと呼んだのが、どれぶりかわかりません」(289頁)とスタートする手紙は、三十路になったスインが、10年前に読書室の部屋を一緒に使っていたソンファ姉さんに送る手紙である。この平凡な挨拶が、この小説を全部読んでからは、心に響く切ない言語に変貌する。スインには、「姉さんを姉さんと呼ぶことが」まさに「生」であった。スインの言葉に、このような切なさが滲んでいるのは、彼女がネットワークマーケティング会社から逃げ出すために、塾講師時代、自分をしたっていた受講生のヘミを誘った行為に対する罪悪感と切り離せない関係がある。スイン自身も、元カレに騙されて入ってしまったことがあった。しかし、このような直接的な切なさの表現は、手紙だったから可能だったかもしれない。身体的な接触のところか対面してもいないのに、感性的な強度は、先ほど取り上げた二つの作品よりも、むしろより切なく感じることができる。
 
この点は、ヘミがスインに送った最期の携帯のメール、―「先生、ここの雰囲気は、尋常ではないです。もともと、こういうところですか。先生、お腹空きました。ご飯ご馳走してください。先生、なんで私のメールを無視しますか。先生、電話ください。先生、どこですか。先生、電話一回だけでも。先生、私をここから出してください……」(317頁)―も同様である。近頃、新生代のSNSにおけるしゃべり方であるが、まるで幼いミヨンが水に溺れた時に感じた恐怖と切迫感が滲んでいるのだ。読者である我々が、ヘミから直接メールをもらったわけでもないし、ヘミがスインに送り、スインがソンファに手紙で知らせたメールを盗み読みしているだけなのに、その感性的な響きが心に直接に入ってくることである。スインの手紙とヘミのメールは、感覚体験のなく、そのまま読者の心に入ったが、この点が今日の逆説的な現実を彷彿している。なぜならば、直接的感覚体験もその終着地が「心」であるなら、今日の若者の感覚が、仮想性に直接露出されている格好であるからだ。
 
仮想性が高ければ、直接的かつ本質的であることは、今日の労働の性格からもみられる。「客地」の工事現場における労働において「今日の軸」におけるトイレ掃除、「君の夏はどうなの」における放送サービス労働、「三十路」における「電話」を通じた販売に至る変化は、労働の性格が筋力中心から、感情―神経中心に移行したことで、労働における仮想性の比重が次第に高くなる傾向を見せている。しかし、この変化は動労が、資本主義が発達することで変化されることというより、労働の本質がより純粋な形態として現れる側面があるといえる。たとえば、スインは、「ある日、気づいてみたら、私が売っているものがものではなかったんですよ。私が売っているものは、人だったんです」(307頁)と言うが、これは、一次的には、ネットワークマーケティングの特徴性―すなわち、知り合いに、ありえない価額でものを売ることは、「人間関係」を売ること―を示しているが、資本主義体制の根本的な特徴を意味している可能性もある。労働することは、労働力を売ることであるが、ネットワークマーケティングのような労働は、他の人の労働力を売ることと言えるのではないか。ともかく、明確なのは、「客地」において工事現場の労働が、労働に関わるお仕事の中で悪い条件のお仕事であれば、青年実業、高額授業料などの問題を通して、大学生たちを「客地」労働に動員するネットワークマーケティングこそ、我々の時代における動労の最悪条件であることだ。
 
「客地」における「客地」の意味は、産業化初期に農民たちが、都市へお仕事を探し回った離農現象と密接な関係がある。「客地」の労働者たちは、産業課時代を経て、相当数の人が吸収されるが、それは、韓国の国民の相当数が、客地に定着した意味でもある。ところが、1990年代後半から、首都圏集中化が全一化することで、地方の学生が首都圏に集まる現象が増加した。スインが「過去には、大学生が学生運動をし、今はネットワークマーケティングをするようになった」(305頁)と言った時の、今の大学生はスインのように主に地方学生である。その「客地」の労働者の「後裔」がまさに、(地方出身の)大学生である。彼のあとを引き継ぐ「産業予備軍」も、スインが「お姉さん、最近、私は、真っ青な顔で朝方から夜まで、塾を通っている子供たちをみていると、そんなことを考えます。君は大きくなったら、私のような人になるのかな……私のような人なるのかな」(297頁)とした時、その子供たち(高校生、老人性)である。我々の時代における労働現実は、教育現実とも密接に関係しているということだ。
 
ヘミのメールは、「君の夏はどうなの」のヨンミが水に溺れた時、誰かに手を差し出した時の行動、もしくはジュンイ先輩が職場で生き残るために電話で「ダメなの?ダメなの?」(28頁)と切なくお願いすることと同じだ。幸い、ビョンマンがヨンミに手を差し伸べ、ヨンミも先輩のお願いを断らなかった。しかし、スインはヘミの切実な要請を回避する。借金と人間関係の破断で自殺を試みたヘミは、今、植物人間になって病院にいる。スインが深い罪悪を感じているのは、ヘミのメールがスインの腕を掴むことはできなかったが、スインの心にあざの跡を残したことになる。スインが、ヘミが入院した病院に行くかどうかを、「開かれた結末」として処理したことに対して、ジョン・ホンス(鄭弘樹)は、「「私」が生き残るためには、忘却と否認、回避の幻想が不可避である。ヘミのお見舞いをためらうところで、小説を終わらせるしかなかった事情がここにあったかもしれない。しかし、裏返して考えると、これは一つの妥協ではないか」ジョン・ホンス「世相の苦痛と対面する小説の席」『創作と批評』2012年冬号、39頁。と反問する。どっちを選択すれば妥協にならないかが知りたいが、少なくとも芸術的には、この開かれた結末がもっとも「倫理的」なことではないか。スインの孤独な決断は、被害者―加害者の連鎖を切る一つのきっかけになり、小説を読む読者は、スインの倫理的な決断の可否と関係なく、このような悲劇を生み出す社会を直視できるように、心を動かすことができるからである。
 

むすび

 
ファン・ソクヨンの「客地」をもう一度読んだ時の感動は、特別であった。その現在性がどこから来るのかを考えてみたら、小説の中にある興味津々の物語と、それとは対照的なドライな感じの、正確な小説言語が作り出した結果ではないかと思う。ファン・ソクヨンの小説叙事における特有の緊張感と拍動感が、決して副次的・芸術的な資源ではないことは、先ほど取り上げてみた。ところが、これと結合された物語の内容が説得力を失うとしたら、芸術的緊張感は、一瞬消えてしまう。「客地」は、「ハンシヨンデギ(한씨연대기)」とともに、韓国戦争期から産業課時代に至る韓国社会の矛盾と葛藤の革新を鋭利に検討したために、今までも芸術的生命力を保てるのではないか。しかし、一日雇いの労働者のストライキ(政治闘争)に刻まれたその時の矛盾と葛藤が、たとえその時とは異なる顔をしているとしても、現在に続けられているため、「客地」の物語が心から理解できるのではないか。このような意味において、ファン・ソクヨンの「客地」は、「わが時代の「客地」」1号である。
 
キム・エランの「一日の軸」、「君の夏はどうなの」、「三十路」は、われわれの時代の、それぞれ異なる労働現場を巡りながら、「生活」と「生」の次元、もしくは「生活人」と「芸術家」の感覚を行き来しながら、大切な芸術的実験と探求作業を遂行する。各々の短編は、その響きと方向は異なるが、すべて「生活」という試練を経た「人生」こそが、本物の芸術であると暗示している。事実的かつ象徴的である言語、生活感覚的でありながら、「人生」の花に敏感である感受性は、彼の小説が広く読まれていながらも、芸術的な活力と緊張を失わない理由でもある。考えてみれば、彼のこうした小説言語と創意的な物語は、大衆が実際に使う言語と大衆的な「人生」から取り出したものではないかと思う。
 
リアリズム文学の総体性と典型性を問い直おそうという提案が出されているが、短編にこのような概念を適用することは無理かもしれない。しかし、キム・エランの短編は、我々の時代における現実の革新的な面が何なのか、に対する芸術的触覚が敏感であるからこそ可能な話であることを実感する。そうした意味において、3つの小説はすべて、それぞれの典型性をおびえているが、その中でも、「三十路」の実験性と創造性は驚きであり、色んな「客地」の中でももっとも目を引く。ファン・ソクヨンの「客地」でもそうであったように、キム・エラン小説の「開かれた結末」についても議論が多い。彼の小説の中心人物は、希望も絶望も持たないで、過酷な現実を貫こうとする。彼が新しい長編連載を始めてから、「どのようにしたら、絶望の「甘味」に落ちないでいながらも、楽観的な期待に頼ることなく、ここから歩き出せるかを悩んでみたい」(ムンハクドンネ、2013年春号、365頁)と明らかにしたことは、文学に大きな希望をかけた作家だけが見せられる「姿勢」かもしれない。
 
 
翻訳: 朴貞蘭
 
 

季刊 創作と批評 2013年 夏号(通卷160号)

2013年 6月1日 発行


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