社会の基準はすでに変わった / 黄静雅

 

創作と批評 179号(2018年 春)目次

 

変化が始まる時、「いまのまま」がどういうことなのかがいっそう明確となる。普段当然視されていたことが注目を浴び、内面の反芻すら要らなかった行為が批判を受ける最近の出来事は、ある人たちにとっては納得し難く、またある人たちにとってはずれてしまった時間のように見えるかもしれない。ところが、昨冬のろうそくが革命というならば、韓国社会においてももはや変化こそが正常になり、これまでの「そのまま」が持続不可能になったことは、誰も否定しにくくなった。この変化がバランスを崩すのではないかと懸念ばかりするのではなく、いっそう大胆でありながらより説得力のある新しい正常性について考えた方がよいであろう。革命に符合する正常性であれば、その言葉のもつ通常的意味さえも変化させる力を持つであろう。デーヴィッド・ハーバート・ローレンスは、「真理とは日々生きる方法であるため、昨日の立派なプラトンの話が、今日は概ねでたらめな話」と言った。この話は、一日を超える真理はないので、それに近付こうとする努力も無駄だという意味ではない。今日あらゆるプラトンたちに頼らない真理のみが、明日でたらめな話の運命を突破することができるということを意味する。すでに変わった社会の「ニュー・ノーマル」とは、そのように独立的な探求の勇気を通じて完成される何かであろう。

古いものの温存を確認する瞬間さえ、すでに変わった社会の気運は確然と感知される。現職検事のセクハラ被害の暴露は、歩く権力機関と思われてきた検事すらなんと8年間の苦痛の末、暴露の決心がついたという事実であり、それは私たちを改めて慨嘆させた。にもかかわらず、この暴露を支持する「Me Too」運動は、前例のない反響と波及力を見せながら、文学や映画、演劇等の各界において相次いでいる。何よりもいつも付随してきた被害者への誹謗・中傷があまり効力を発揮しない。古色蒼然とした美人局説や気が強いか、きつい女、もしくは狂女というゴシップが事件とは関係のない文句だという反駁が溢れ出す。性暴力は明らかに構造的な問題であるが、一般化や推定より事件の特定性に焦点を当てた時、その構造の実状が露になるという事実も漸次明らかになりつつある。一見根本的なことのように聞こえる構造に対する言及が度々無差別的慨嘆になることによって、むしろ忘却を許してきたことを想起する必要がある。新たな基準を暗示するもう一つの重要な様相は、性暴力に関するジェンダー意識が個々人の人格の核心と関係のある事案であることを否定できなくなった点である。それ故、ここには積弊清算だけではなく、人間らしさに対する理解を決定的に深める作業が含まれており、この作業は性暴力問題をいっそう厳重でありながらもより幅広い視点からとらえることを求める。

国政壟断の核心の当事者であった李在鎔サムスン電子副会長の2審裁判の結果も、古いものが簡単にはなくならないという事実を再確認させてくれた。歴史の「流れを逆らう」この執行猶予判決に法理的にどのような錯誤と矛盾があるかは、すでに多くの専門家が指摘したが、正義に向けた最も基本的な要請も無視した裁判官の「果敢性」は、サムスンとの癒着可否はともかくいったい公的領域に対する感覚があるのかを問わせる。しかし、いわゆる公人の感覚と認識までも蚕食した「民営化」傾向は、もはや社会の道理として通用されず、社会の裏面として容認されることもできない。この判決に対する市民の怒りは当該の裁判官に対する非難や司法部の財閥優遇という嫌みに収斂される性格のものではない。それは法の存在理由を問う追及であり、かつ司法機関が法の適用にいかなる私有権も持たないという厳重な警告である。

ろうそく革命は、時代錯誤がどのようなものなのかを新たに定義しただけではなく、全方位的時代錯誤が様々な面から頼ってきた突っ支い棒が何かを示してくれた。法体系をはじめ「開明な」世界の常識をとくに黙殺してきた慣行が、分断体制の一効果として、安保論理と従北言説を究極のアリバイとして活用してきたことを明らかにしてくれたのである。その点から考えれば、南北関係と関連する時代錯誤がとくに深刻になるのは当然であり、朝鮮戦争以来二度と繰り返されないだろうと思われていた戦争の可能性も公然となるようになった。然るが故に、南北関係の改善と平和の成就は、韓国社会の新たな正常性がしっかりと根を下ろすための必須条件となる。

幸いにもピョンチャン冬のオリンピックを契機に韓半島の平和のための最小限の飛び石が再び用意されているようである。女子アイスホッケー南北合同チームの構成に次ぐ北朝鮮応援団、芸術団、高官級代表団の訪問、そして特使を通じての新書の伝達と訪北招聘にいたる過程は、状況の反転に対する期待を高めた。南北選手団が合同入場する瞬間、南の大統領と北の代表団が再度握手を交わしながら呼応した際、米副大統領と日本総理は冷淡に座っていた開幕式の一シーンに見られるように、事態は簡単でなく、行き先は遠く見える。これまでの経験から、私たちはようやく得られた今日の成果が安堵することであって、感激することではないということもわかっている。アイスホッケー合同チームの構成をめぐって提起された公正性の問題は(相当の部分は、その過程が十分に知られてなかったことから生じたが)、もしかするとオリンピック期間中の一時的措置が十分ではなかったことを知らせる症状かもしれない。

そのすべての困難な課題にも南北関係を画期的に改善し、平和を成就することは、基本的な生存からより多くの民主主義にいたるまでほぼあらゆることがかかっている定言命法となった。オリンピック開幕式への参加のために訪韓した国連事務総長は、「米朝対話は可能性の問題ではなく、絶対的に必要なこと」であると言ったことがある。アメリカの態度が予測しづらくても米朝対話を導きだす方途を持続的に図ることはそれだけ重要な課題であろう。ところが、米朝対話が遼遠だという理由で南北関係を放置すれば、それこそ最も古い時代錯誤を繰り返す態度と何ら変わらない。韓半島の平和が絶対的に必要な当事者はアメリカではなく、退屈な現状維持が戦略になる時間はすでに過ぎ去ったとみられる。そうであるならば、状況がどうであれ、一歩一歩もしくはつかつかと南北関係を進展させること以外に答えはない。それ故、そのようにすることができ、そのようになるだろうという楽観こそがすでに変わった社会に合う情緒のようにみられる。

 

今号の特輯の趣旨は、「分断体制を再考するとき」という題目に明確に表現されている。対内外的変動と危機が高まり、近い未来も予測できない韓半島の現状を深く理解するため、ろうそく革命を前後にいっそう可視化された分断体制を集中的に検討しようとしたものである。李南周は、分断体制論を韓国社会の諸特異性と関連づけて説明し、一方では国連を経由する分断体制の克服の道を一国的・両国的解決案と照らし合わせながら提示する。とくに、平和の優先性を主張しながら、南北関係の改善に対する模索を事実上放置する傾向をとらえた視点が鋭く、持続的な平和を確保するためにも南北間の統合水準を高める方向を選ばなければならないと強調する。

金聖敬は、他者と関係を結ぶために基本的に必要な相互承認行為の不能がもたらされ、社会構成の障害が生まれる「分断分裂症」を、韓国社会に根付いた分断体制のメカニズムとして考察する。本稿が的確に見せてくれるように、政治と言説の領域だけではなく、主体と日常のレベルまで分断体制の作動を多様で手厚く分析することは、分断体制認識と脱分断的主体に対する想像に緊要な作業であることに違いない。金峻亨は、分断体制下の米韓関係においていかなる実用的アプローチや想像が封鎖されたまま、米韓同盟という硬くて非対称的な枠が神聖不可侵として強要されてきたことを検討する。同盟の一般法則まで違反した同盟絶対主義は、米韓同盟を平和主義と同一視する錯視をつくったが、平和体制を構築するためには米韓同盟をより水平的で柔軟に「世俗化」しなければならないと主張する。金東葉は、北朝鮮の核開発が狂気や悪行というより安保憂慮と生存要求による選択であることを前提しながら、北朝鮮の核の過去、現在、未来を綿密に分析し、各々の脅威を解消する段階的な解決策を提示する。北朝鮮の危機の合理的な解決策を探る過程において、「韓半島運命共同体」という概念に到達した彼の論議には軍事専門家の識見だけではなく、相手の身になって考える分断体制論的な思惟が溶け込んでいる。特輯の論文に対する論議が活発に展開されることを期待する。

「対話」は、ろうそく革命によって表面化されたが、依然として確固たる方向性と動力を得ていない「改憲」をテーマとした。權金炫伶、白承憲、李仁榮、鄭斗彦の4人の参加者は、基本権と直接民主主義要素の強化を通じた国民主権原則のいっそう高度化された実現を求める民意が、改憲論議の核心背景であることを再確認しながら、改憲の必要性と可能性、そして細部内容にいたるまでの多様な意見と展望を交わす。

「創作」欄では、多様で個性的な作品に出会うことができる。「詩」欄では、金尙美から柳眞にいたる詩人13人の新作を紹介する。新しく連載を始めた金呂玲の長編小説は、並々ならぬ素材と特有の活力が目立ち、朴玟奎、李柱惠、林在熹、趙南柱につながる短編小説は多様化した小説の地平の興味深い面々を繰り広げる。3本の「文学評論」は、それぞれ異なるテーマを扱いながらも、文学の現在を新たに再考する機会を提供する。張銀庭は「設計—批評」という用語をキーワードにして、最近登場した文学雑誌の新しい批評行為や文学理解を考察する。金東潤は、4・3抗争70周年を迎えて4・3文学の巨匠である玄基栄と金石範の小説を「ろうそく」革命の視点から再読し、その現在的意味を再解釈する。一方、スーダン出身の作家であるタイエブ・サリフ(Tayeb Salih)の小説が描いた植民性の複合的面貌と歴史的ジレンマを分析した柳熙錫の論文は、この小説の脱植民的・世界文学的成就を韓国文学の参照点として受け取って読み解く。

「作家スポットライト」では、今日の労働現場をリアルに描いた漫画『錐』の作家である崔圭碩と小説家の黄貞殷が会った。この平凡でない組み合わせ自体が独特なオーラを予感させるが、葛藤構造の見慣れたフレームを破ったシーンと人物形状化の細部、そして結末にいたるまで『錐』の面々に書かれた作家の思いを、依然としてリアルな進行形の時制としてうかがうことができる。今号から「文学フォーカス」の進行を担当するシン・セッピョル評論家と崔正礼詩人は鄭容俊小説家を招き、それぞれ個性の強い6冊の詩集と小説について忌憚のない話を交わした。詩人、小説家、評論家の互いに異なる観点が多彩に展開され、またつながりあう様相が興味深い。

「論壇」には、文化研究の興味深い事例になる2本の論文を掲載した。1990年代から始まり、現在まで続いているロシアの「ソビエト・ノスタルジー」現象の出現と変貌を探った李文令の論文は、私たちにとってますます遠い国になっていくロシアの今日を理解する貴重な手がかりを提供する。金泳辰は、最近話題を呼んだ映画「タクシー運転手」と「1987」に盛り込まれた現代史再現の成果及び限界を細心に検討し、不連続と分裂を縫合しないことによって、むしろ参加と介入を発動させたドキュメンタリー「共同正犯」の革新的試みを紹介する。市民参加型民主主義の連続企画を続けてきた「現場」欄において、金永培は模擬市民議会と住民参加予算制をはじめとしたマウル(地域―引用者注)民主主義の実践事例を紹介し、「ろうそく」革命が生活空間にどのようにつながっているのかを考察する。

今号の「散文」は2本とも哀悼文であるため、いつもより心に響く。金東潤の評論と呼応する在日朝鮮人詩人・金時鐘の散文は4・3と切り離すことのできない自分史の懇切丁寧な吐露であると同時に、「行けない道」を予想して4・3抗争自体を理解させる手引きとなる。一時代の苦痛の要求する敬虔さがどのようなものなのかを見せてくれるこの論文は、読者に特別な感動を与えると信じる。この間他界したマルクス主義歴史学者であるアリフ・ダーリック(Arif Dirlik)を悼んだ黄東淵の論文は、脱植民主義的研究とグローバルな資本主義批判、そして中国革命史研究を幅広く行ったダーリックの学問的軌跡を紹介しながら、彼の人生と信念が残した意味を分析する。

昨年、読者からの称賛や苦言を多様に盛り込んだ「読者レビュー」は、参加の垣根を低くし、「読者の声」に改編された。紙の雑誌とウェブサイトを通して『創作と批評』を読んで、虚心坦懐な意見を提供してくださったすべての方々に感謝申し上げ、紙面にそのすべてをご紹介できないことを申し訳なく思う。今年の「寸評」には、金起興(科学)、李貞淑(人文社会)のお二人を固定筆者としてお迎えした。お二方を含めて9人の筆者が多様な分野の深度ある書評を送ってくださった。第16回大山大学文学賞の発表と受賞作も一読をお勧めする。若い受賞者の方々にお祝い申し上げ、彼らのデビュー以降変わる韓国文学の様子も期待したい。

社会の基準がすでに変わったという事実は、雑誌をつくる人々にも日々新しい探求の姿勢を整えることを求める。性の平等と民主主義、そして南北関係の画期的進展と跳躍を予告する今日、『創作と批評』はいっそう熾烈な思惟と実践の姿勢で臨み、読者の皆様の叱責や声援にもより耳を傾けることを誓う。酷寒の冬が完全に過ぎ去ったわけではないが、大気に充満する春の予感で残寒を容易く乗り越えていただきたい。

 

訳:李正連(イ・ジョンヨン)