光州民衆抗争と死の自覚

論壇と現場 | 連続企画 · 韓国史100年の見直し②

 

 

韓洪九 聖公会大学校教授、韓国現代史。著書には、『今、この瞬間の歴史』『特講』『大韓民国史』(全4巻)などがある。

 

 

1.はじめに 

 

5・18光州民衆抗争は、韓国の民主化運動史において、最も重要な位置を示す事件である。光州以前の運動と以後の運動とでは、様々な面で明確が違いがある。1970年代の運動は、少数の知識人・宗教人・大学生エリートを中心に展開されたが、光州の虐殺と抵抗を経験した後の80年代の民主化運動には、それ以前と比較できない程、多くの人々が参加した。参加者の数とその幅のみならず、闘争に参加する人々の態度も大きく変化した。虐殺者の全斗煥が大統領という座についていたこと自体が、若い人々の魂には、耐えられない屈辱であった。光州の殺人魔を処刑するためなら、相手がどのような人であっても手をつなぐことができたし、どんな急進的な理論でも受け入れることができた。

光州が、その後の民族民主運動に与えた影響力は、絶大であった。80年代の民族民主運動の源泉は、他ならぬ光州であった。惨めに敗北した戦いであった光州が、なぜ、韓国の民主化運動史において、独歩的な規範力を持っているのだろうか。その答えは、「死」にある。光州を通して、死が、われわれの周りに来たのである。光州での死が、80年代を生きてきた人々の中に、入ってきたからであった。しかし、光州だけで、人が死んだわけではない。ところが、なせ、光州の死は、特別に思われてきているのか。なぜ、光州の記憶が、韓国の民族民主運動に、広い範囲で、持続的に、また、根本的な影響を与えたのであろうか。何が、光州を特別な事件としたのだろうか。光州の死を記憶した人々の人生は、また、彼らの理念と闘争の態度は、どのように変化したのか。光州以前と光州以後の運動は、どのように異なっていたのか。

 

2.死を殺した韓国現代史

 

昔も今も、身近な人の死は、とても耐えがたい喪失感を与える。しかし、光州以前の韓国現代史は、いくら身近な仲であっても、共産主義というイデオロギーと関わった政治的死に関しては、追悼することも記憶することもできなかった。数多くの人々が、死んだことに関しては、遺族すらも話すことができなかったし、よく見る追悼碑も建てることができなかった。数多くの人の死を言及することすらできなかった韓国現代史は、「死ぬことすら殺してしまった」残酷な歴史であったと言える。

我々はまだ、朝鮮戦争の前後に、民間人虐殺で命を落とした人々がどれほどいたかを知らない。「真実・和解のための過去史整理委員会」で、この時期の民間人虐殺に関する調査を行っているが、その全貌を把握するまでには至っていない。いくつかの地域では、遺骨が発掘されたが、それが誰のものなのか、加害者が誰なのかも把握できない場合が多い。1960年代、忠南のある警察署が配布した「スパイ識別要領」をみると、「過去の悪質反逆者の家族と内密に仲良くしている者」という項目が入っている。民間人虐殺の犠牲者の家族と仲良くするだけでもスパイとされる時代であった。だから、民間人虐殺の遺族の中では、自分の子どもまで、あなたのお父さんは、「赤」(ここでは、北朝鮮軍又は北朝鮮の見方)に殺されたと嘘をついた人もいたという。 イ・リョンギョン「Korean War 戦後左翼関連女性遺族の経験研究」聖公会大NGO大学院修士論文、2003年。 これは、「この国で生きていくため」であった。

最近では、「民間人虐殺」という言葉が広く使われているが、ついこの間までは、「良民虐殺」という言葉が通用していた。「良民虐殺」という言葉は、犠牲者が「赤」でないにも関わらず、加害者側が「赤」と誤認して殺されたという意味も含まれる。この言葉は、罪のない良民を虐殺したことは問題だが、「赤」は殺してもよいという意味も含まれている。

1950年代の政治家の中で、こうした残虐的な民間人虐殺に対して、問題提起をした人は、「被害大衆は、団結しろ」と主張した曺奉岩(ゾ・ボンアム)だけであった。曺奉岩は、報道連盟の犠牲者たちと連携して、「ただ生きるための欲求として、また、無知が恥として、方々の団体に加入してから脱会した人々が、こんな酷い目に遭われた。これこそ、本人たちは、本当に悔しがることであり、また、可哀想である。生きていくために頑張っただけなのに、この庶民たちに罪があるのか」 ソ・ジュンソク『 曺奉岩と1950年代:被害大衆と虐殺の政治学 下』歴史批評社、1999年、531~539頁、702~731頁。   と主張した。しかし、独裁者の李承晩は、「被害大衆」の目覚めと団結を主張した曺奉岩をスパイと見なし、殺してしまった。

民間人虐殺の問題は、李承晩政権が終わってから、ようやく浮上してきた。ゴチャン(居昌)では、1960年5月11日、民間人虐殺遺族の70名余りが、虐殺当時の面長であった朴某氏に石を投げて失神させた後、火をつけて焼き殺すという残虐な事件があった(『朝鮮日報』、1960年5月12日)。当時、警察は、遺族20名余りを、殺人容疑で連行し調査したが、200名余りの遺族が押し掛けてきて、「我々が殺したから、私たちも連行してくれ」と騒動を起こした。そのために、連行された人々を、釈放せざるを得なかった。ゴチャン出身の学生たちも、連日、国会議事堂の前でデモを起こした(朝鮮日報、1960年5月13日、15日、19日)。

こうした雰囲気の中で、第4代国会は、良民虐殺事件調査特別委員会を設置した。しかし、朝鮮戦争の当時の警察出身が、委員長として選出されたことを始め、色んな制約のために、調査特委の活動は不振であった。 キム・ギジン『国民報道連盟』歴史批評社、2002年、247~279頁。   ゴチャン虐殺の遺族たちは、1960年12月、犠牲者たちのための慰霊碑を建てたが、1961年の軍事政権は、遺族会を反国家団体と見なし、幹部17名を拘束し、苦労して建てた慰霊碑は、ブルドーザーで土に埋められ、「合同墓域」も滅茶苦茶にされた。 当時、遺族会の活動と彼らが受けた迫害については、ハン・サング「被虐殺者遺族問題」『韓国社会変革運動と4月革命 2』ハンギル社、1990年。   当時の軍事政権は、合同墓域の遺骨を犠牲者の人数分に配分してしまった。虐殺の犠牲者たちは、一度だけ殺されたわけではない。彼等の死は、絶えず殺害され、絶えず侮辱させられ、絶えず埋葬された。

民間人虐殺がもたらした恐怖と被害意識は、極右反共体制下において、大衆にとって従順的な態度を見せるようにさせた。しかし、虐殺の生々しい記憶を持つ大衆を相手に民間人虐殺の真相を歪曲したり歴史を捏造したりすることは、不可能なことであった。こうした状況の中に於いて、民間人虐殺は言及してはならないタブーとして残っただけであった。ところが、1960年代に入って、朝鮮戦争を直接経験していない世代が教育の主要な対象として登場する。大韓民国の軍警や右翼団体が実行した虐殺を直接見たことも聞いたこともない彼等は、持続的に左翼や人民軍が行った虐殺と残酷な行為に関する教育を受けた。こうした注入式教育の結果、朝鮮戦争前後の民間人虐殺に関することは、すべて左翼と人民軍の仕業として描かれた。極右反共体制のイデオロギーが大衆に内面化されるのには時間が必要であった。長期間の軍事独裁を経て、韓国の初等・中等・高等学校の学生らの反共意識は、1950年代の青少年に比べ、「もっと反理性的で、非人間的な」 ソ・ジュンソク、前掲、726頁。   ものに変わっていく。1960年代と1970年代は、決して平和的ではなかった。その時代には、方々で政治・社会的な死が発生していたが、権力は、このような死が知られることを統制し、メディアは報道しなかったため、当然、社会には知らされていなかった。ベトナム派兵で、約5000名の軍人が死亡したが、メディアは、死亡者が300名を超えていくと、死に関する話を取りやめ、「越南から帰った金上士」と始まる歌だけを楽しく放送した。1960、70年代には、ベトナム戦の死亡者を除いても、韓国軍で、1400~1500名の死亡者が発生する時代であった。戦争を行っていなくても、韓国軍では、2年ごとに1連隊以上の兵力を失っていった。しかし、人々は、ただ軍隊だから仕方がないと無関心であった。

朝鮮戦争以後、死に対する記憶が極端に抑圧された韓国社会においては、死に対する「感受性」は発達しなかった。玄基栄(ヒョン・ギヨン)の『スニおじさん』が象徴しているように、死に対する恨みと悲しみは、他人とは分かち合えないものであったために、内部の方へ染み渡っていった。

 

3. 実感できない死と近づいてくる死の影

 

李承晩と朴正熙など独裁権力の暴圧性は、どんな極右反共の独裁権力にも負けてはいなかった。しかし、朝鮮戦争の狂風が吹かれた後、韓国で政治的な理由で命を失った人々の数は、他の独裁国家における犠牲者の数とは比較できないほど少ない。これは、独裁政権がおかれた歴史的条件の違いのためである。「朴正熙政権は、分断という時代状況や民間人虐殺という行為により、すでに、滅菌室レベルに近い程の反共(意識・運動)が行われた土台の上で出発した。言い換えると、独裁権力が処理すべきと思う人々はすでに処理され、ともかく、多い人々が除去された状況の中、その権力を取ったことである」。 拙稿「死を殺した韓国現代史」疑問死真相糾明委員会2期報告書『真実を向けた険しい旅程』2004年。   韓国の独裁権力がコントロールすべき大衆は、相当、飼い慣らされた人々であった。国家権力は、監視網で、大衆を統制した。武装闘争が日常化された他国と比べた時、韓国の抵抗勢力が動員する暴力とは、空手か、小石と火炎瓶であった。それも、過激行動という批判を受ける状況において、抵抗運動が、銃や爆弾を持つことなど、想像し難いことであった。大衆が一定の線を守り、抵抗暴力をほとんど動員しない状態で民主化運動を展開したのにもかかわらず、朴正熙の執権期間の戒厳令は、すべて3回実施され、総31ヶ月間継続され、「衛戍令」も3回実施され、総5ヶ月間持続された。緊急措置は、すべて9回にわたって発動され、69ヶ月間持続された。朴正熙が執権した220ヶ月中、105ヶ月間は、戒厳令、衛戍令、緊急措置など、非常手段が常時化していたことになる。 ジョ・ヨンヒョン「緊急措置30年と韓国の民主主義」『緊急措置、その悪魔の時代』青年指導者故イ・ボムヨン同士10周忌記念討論会資料集、2004年8月、20頁。

朴正熙は、政権維持のため、軍隊と戦車を動員し、憲法を武力化し、学校の授業に参加しない場合、最高で死刑というあり得ない悪法(「緊急措置4号」)を公布したが、学生や労働者に向けて発砲・集団虐殺は敢行しなかった。これは、この軍事政権では、先に発砲を敢行するほど、状況が緊急に展開しなかったという側面もあるが、朴正熙政権が、大規模の流血事態を避けるために、それなりのコントロール力を発揮したことを意味する。

しかし、1970年代になると、また、死の影が現れる。1970年11月13日、ジョン・テイル(全泰壹)は、「我々は機械ではない」と叫びながら焚身した。1973年10月19日、ソウル大学法大教授の (チェ・ジョンギル)は、中央情報部の中で、変死体で発見された。中央情報部は、 崔鍾吉教授がスパイ行為を自白し、自ら投身したと発表したが、この発表を信じる人はいなかった。このように、死の影が徐々に現れるようになったが、光州以後と比較すると、民主化運動勢力が、まだ死を実感しているとは見られない。

学生たちの抵抗が強くなると、維新政権は、緊急措置4号を通して、学生たちを直接脅かそうとした。維新政権は、学生と知識人数百名を逮捕し、人民革命党事件関連者7名と民青学連事件関連者7名に、死刑を求刑した(『朝鮮日報』、1974年7月9日、11日)。「光栄です」。この言葉は、民青学連事件で拘束されたソウル大学の商学大3年生の金炳坤(キム・ビョンゴン)が、死刑を求刑された後に残した最後の陳述での冒頭にある。

金芝河(キム・ジハ)は、「栄光です」という言葉が、「死に勝ったこと」 金芝河「苦行:1974」『東亜日報』1975年2月26日。 と高く評価した。維新の法廷に響いた「光栄です」という言葉には、そのような側面もある。しかし、22歳のキム・ビョンゴンが、堂々と「光栄です」と言えたのは、ある一方では、死を実感していなかったことを意味する。死刑を宣告された民青学連関係者の皆が控訴を諦めた。1審の死刑判決から10日後の7月20日、非常軍法会の管轄担当であった国防部長官のソ・ジョンチョルは、民青学連と人革党の繋ぎとされたヨ・ジョンナムを除いた6名の刑を死刑から無期懲役に減刑した(『朝鮮日報』、1974年7月21日)。もし、キム・ビョンゴンなどが、朴正熙政権が自分たちを本当に殺すと思っていたら、そして、その死の影が近づいていることを実感していたら、「光栄です」と言えなかったのかもしれない。

ところが、死の影は、予想もしなかったところで近づいてきた。在日同胞の文世光(ムン・セグァン)が、1974年8月15日、光腹節記念式場で、朴正熙を狙撃したが、妻のユク・ヨンス(陸英修)が撃たれ死亡したのである。朴正熙は助けられたが、妻を失い衝撃に堕ちた。朴正熙のみならず、中央情報部、青瓦台の警護室など、政権全体がショックを受けたのである。特に、南ベトナム政権の崩壊とベトナムの共産化統一という最悪の状況は、維新政権を局限に攻めていた。ホーチミン陥落が秒読みに入った1975年4月9日、維新政権は、人革党再建委事件の関連者8名の死刑を電撃的に執行した。 人民革命党の被疑者たちの死刑執行経緯に関する詳細な説明は、「人民革命党及び民青学連事件真実糾明」、国家情報院『過去と対話、未来の省察』第2巻(主要疑惑事件編、上巻)2007年、258~269頁。 最高裁で死刑が確定されてから18時間後の出来事であった。朴正熙経験が、「司法殺人」という非難を受けながらも、死刑を執行したことは、政権に対する恐れを失った学生たちに、何か脅かすものを見せる必要があったからである。

しかし、朴正熙の脅かし戦略は、あまり効果を見せなかった。死刑者の中に、人革党再建委所属ではない慶北大生のヨ・ジョンナム(呂正男)がいたにも関わらず、学生たちは、処刑された人々は、自分たちとは無関係である「赤」という考えた。スパイや「赤」の死は、反共規律社会であった韓国では追悼してはいけない死、殺しても殺したことにはならない非人道的な死であった。統革党事件のような組織事件や工作員事件と関連した死を、わが社会は悲しむことなく、そのまま受け入れていた。1970年代の学生たちは、1980年代の急進的な学生活動家たちとは異なり、自身の実践が理念的な面において「純粋な民主化運動」という線引きをしたことが多かった。ソウル大学生の金相鎭(キム・サンジン)が、人革党事件関連者処刑直後である4月11日に割腹自殺したが、当時の学生たちは、金相鎭の死には、衝撃を受けたが、人革党関係者の処刑には、直接的な反応を見せなかったのである。

朴正熙は、それまでの緊急措置内容を集大成した緊急措置9号を発動し、学校に私服警察と戦闘警察を常駐させるなど、あらゆる手段を動員した。こうした弾圧の中で、学生運動は、一時小康状態におちたように見えたが、これは、嵐の前の静けさに過ぎなかった。維新の最終日が近づいてきても、抵抗勢力も独裁権力も、それなりに維持してきたコントロール規律を守らなくなってしまっていた。1979年8月9日、YH労働組合の女性労働者187名は、会社の偽装閉業に対する抗議として新民党社に入りデモを始めた。政府は、デモ開始2日目の8月11日、大統領の裁可を受けて、電撃的に強制解散を断行するが、この過程において、YH労組大委員の金景淑(キム・ギョンスク)が死亡したまま発見された。警察は、金景淑が、鎮圧作戦開始の30分前に、動脈を切断し自殺をしたと発表したが、「真実・和解のための過去史整理委員会」の調査結果、警察の発表は、すべて捏造されたもので、金景淑は、鎮圧過程で、頭に大きい打撃を受けて死亡したことが明らかにされた。 「YH労組金景淑の死亡関連捏造疑惑事件」真実・和解のための過去史整理委員会、2008年。   この事件が、導火線になって、政局は、金泳三新民党総裁の除名、釜馬抗争の勃発、10・26事件勃発へと急速に展開していった。

民間人虐殺の記憶を持たない当時の学生たちは、金景淑の死があったにも関わらず、軍事独裁政権が学生や抵抗勢力に銃を向けることが可能であるという事実を実感できずにいた。金泳三新民党総裁が国会で除名されると、釜山の学生と市民がデモを始めた。デモが広がると政府は、10月18日の夜0時をもって、釜山地域に戒厳令を宣布し、20日には、馬山・昌原地域に衛戍令を宣布した。釜馬抗争自体は、軍兵力を投入し、武力鎮圧として一段落されたが、この事件は、朴正熙の死と維新体制の崩壊をもたらした。 『釜山民主運動史』釜山民主運動史編纂委員会、1998年、387~430頁。 釜馬抗争は、学生たちの先導的なデモが学内に留まらず、街に出た市民の支持と参加により、その規模が大きくなった事件であった。学生たちのデモと市民の参加というモデルは、1960年4月の革命以後、朴正熙政権が最も警戒してきたことであった。緊急措置期間には、学生たちを学内から出られないようにしていたが、学生たちと一般市民の「合勢」は現実となってしまった。しかも、中央情報部長の金載圭(キム・ゼギュ)は、釜山の現場を直接見てから、このデモは、「文字通り、民乱」であるとし、ソウルを始め、5大都市へ拡散されるかもしれないと予想した。朴正熙は、この報告を聞いて、急に怒り出し「これから、釜山のような事態になったら、僕が直接発砲命令を下す」とした。また、同席した警護室長の車智澈(チャ・ジチョル)は、「カンボジアでは、300万名を殺しても問題なかったから、私たちも、デモ隊員を100万名~200万名くらい殺しても問題ありますか」と言ったという。金載圭は、誰よりも朴正熙については、よく知っている人物だったが、「このような朴大統領の反応は、ただ口にしただけには済まない」ことであると加えた。   金載圭 「控訴理由補充書」『国民の皆様!民主主義を満喫してください:10・26再評価のための資料集』10・26の再評価と金載圭名誉回復推進委員会、2000年、124~126頁。「控訴理由補充書」は、 金載圭自身が書いたもので、弁護人団が作成した「控訴理由書」に比べ、彼の考えがより生々しく書かれている。 金載圭は、4・19のような流血事態を防止するためには、朴正熙を銃撃する以外、「他の方法は、全くなかった」と裁判中に何度も強調したのである。

金載圭の朴正熙射殺は、維新政権の終焉をもたらしたが、軍事独裁の終焉をもたらしはしなかった。彼が投身して防ごうとした大規模な流血事態も、発生時点が半年ほどの遅れて、他の場所になっただけで、結局は現実となってしまった。1980年5月、全斗煥をトップとした新軍部勢力は、自分たちの不法的政権奪取に合わせ、民主主義を訴える光州市民相手に、虐殺を敢行したのである。

 

4. 光州、そして、死との出会い

 

軍事独裁時代の韓国政治史は、基本的に過大成長した国家機構対過小成長した市民社会の対決であったと言える。国家機構の中においても、最強だったのは軍部であり、市民社会内で国家権力と対決できた集団は、学生たちであった。軍と学生の対決は、5・16軍事反乱以後、20年間の現代史において基本軸を成している対立関係であったが、その対立が直接的な流血事態へ発展したことはなかった。しかし、光州では違った。全南大に進駐した空輸部隊は、学生たちを残虐に鎮圧した。街でも空輸部隊は、学校や劇場などまで行って、若い学生たちを手当たりしだいに殴ったり連行したりした。

当時、高校生の市民軍として参加したカン・ヨンジュは、5月18日、道庁を過ぎて東明洞ロータリーで空輸部隊と会う。軍人たちは、角材の木を持って突進してきて、デモ隊は、その勢いに抑圧されて、逃げるしかなかった。カン・ヨンジュは、空輸部隊から追われた時は、怖くて逃げるしかなかったが、後で、鎮圧軍が人々を殴って無差別に暴行している姿を思い出すと、その怒りを耐えられなかったという。翌日、学校に行ってみたら、友人が、市民が死んでいくことを見ているだけではだめだから、学校でデモをしようと提議した。その日のデモは、学校当局が、学生たちを早く帰宅させ霧散になったが、何人かの友人とは、その後、数日間も集まって、学生を動員することなどを相談したという。その時、すでに何人かが死んだという噂が出回っていたが、カン・ヨンジュも友人と集まり、デモに行く前に、髪と指の爪を切っておいた。デモ現場では、自分たちが死ぬかもしれないことを気づいていたからであった。   ガン・ヨンジュのインタビュー、2008年12月9日、ソウル平和博物館建立推進委員会。以下は、本分において、日付、場所を括弧の中に書いておく。インタビューは、ソウル平和博物館建立推進委員会(以下、平和博物館)と光州5・18記念財団(以下、財団)などで行った。

空輸部隊の酷い目にあった光州市民が、死に直面することになったのは、5月21日、道庁の前で、空輸部隊が市民に向けて発砲してからである。隣にいた人が銃に打たれ、倒れていく光景を、市民は見守っていた。カン・ヨンジュによると、銃に打たれていく人をみて、怖いというよりは、怒りの感覚が沸いてきたという。カン・ヨンジュは、倒れた人を、他の青年と一緒に車に乗せて病院へ向かったが、病院に到着して看護師さんに聞いたら、その人は、すでに死亡していた。その看護師は、カン・ヨンジュの手を見て治療すると言ったが、その時に、カン・ヨンジュは、自分の両手が全部破れて血だらけになっていることに気付いたという。生と死が分けられるその瞬間は、皆、気が動転していた。

我々が出した税金で、武器を買い月給をもらう軍人たちが、我々に銃を向けたという事実に対して、混乱と怒りがあった(ジョン・ヨンファ、インタビュー、2009年1月22日、財団)。また、こうして多くの人々が一気に死んで、体育館に棺が並んでいることを見ていると、とても不慣れな風景で、実感が沸いてこなかったという(ジョ・ジンテ、2009年1月23日、財団)。光州の人々が、こうしたカオス状態において、死と対面しながらも、その死を実感できないでいた時に、新軍部側は、光州の死を再び殺そうとした。当時、光州は、徹底的に孤立状態であった。光州の外側では、光州が暴徒たちに掌握され、暴徒たちはスパイに操られていると噂を立てた。実際に、5月23日には、光州事態を扇動するために、南派された北朝鮮工作員のイ・チャンリョンをソウル駅で検挙したという根拠のない警察の捏造工作員事件の発表があった。   「デモ扇動南派工作員1名検挙」『朝鮮日報』1980年5月25日。 このような新軍部の試みは、光州においての抗争と死が持つ意味に、「赤」を色づけることであった。しかし、光州市民は、それに惑わされず死と真正面から向き合おうとしていた。すべての光州市民・市民軍がそうであったとは言い切れないが、最終日が近づいてきたその日も、道庁を守ろうとした人々は、明らかに存在していた。

全南大の復学生であったチェ・ヨンシク(仮名)は、25日、道庁に向かった。銃を使ったことがある人がおらず、戦警として軍の服務を終えた彼が、小隊長になり警備責任が任せられた。小隊員は、全部で18名であったが、26日になったら16名はどこかに行ってしまって、朝鮮大の医学科に通っていた学生と彼の2人だけで残ったという。チェ・ヨンシクは、26日の朝から、1人2人いなくなることをみて、死が恐ろしいものであることを実感した。彼は、死ぬ覚悟をしたつもりではなかったが、死ぬかもしれないという状況におかれていたこと、隣の人が死んでいくことを見ても、逃げなかったことが、これから我々が考えるべき課題であると回顧した。チェ・ヨンシクは、なぜ、その場を去っていかなかったのか?という質問に対しては、恥ずかしさのためであったとし、そのような状況で、この国に残り、誰かが死ななければ、(我々の現実が)どうなるのかと問い返した。しかしながら、彼は、もしも、戒厳軍が27日の明け方ではなく、28日の明け方に来ると思っていたら、自分も家に帰ったかもしれないと言い加えた。人間としての品位を失わないために、銃を持って、その場に残っていたが、正直、とても恐ろしくて、帰りたかったという。特に、マスクをしている彼を、息子であると気付かない母が、彼を探している姿を見た時には、本当に心が揺れたと語った(チェ・ヨンシク、2009年1月22日、財団)。

高校生のカン・ヨンジュは、26日の夜、夕食をした後に、「教錬服」(訳注:教錬の時間に着る制服)を着た。母に「クンジョル」(お辞儀)をした後、道庁を守りにいくと言った。当然、母は、びっくりして息子を止めようとしたが、息子は母に「だったら、この国の民主主義は、誰が守るのですか?」と食ってかかったという。母は、泣いた後に、「お前がやりたいようにやりなさい」と言った。また、しばらく待ってと言って、煙草2箱を買ってきた。カン・ヨンジュが、クンジョルをして「じゃ、行きます」と言うと、母はずっと泣いたという。その時、カン・ヨンジュと母は、生きて再会することはないと思ったという(カン・ヨンジュ、前掲のインタビュー)。

その日、光州は、死ぬことと生きること、勝つことと負けることを考える余裕などない状況であった。どうしたら、良く戦えるのか?それだけが、人々の頭の中を支配していた。当時、高校3年生であったキム・サンホは、以下のように回顧している。

 

今、考えるみると、人々が、どうして、あんなに献身的に動くことができたのか不思議です。皆、自分の命がかかっている状況だったのにも関わらずですよ。不思議にも、頭の中が空っぽで、何にも考えることができませんでした。まるで、現実ではないような気がしたのです。死ぬかもしれないということよりも、前に進んで戦うしかない、ということしか考えてなかったと思います。   ・ジョンファン「市民軍の尹祥源と光州民衆抗争が我々に残したもの」『』(言葉)20056月号、106111頁。

 

その場を守った市民軍の中で、果たして、死にたいと思った人はいただろうか。光州市民の皆がそうであったように、生きて「解放、光州」を迎えることを願っていた。アメリカ航空母艦のコーラル‐シー号が、朝鮮半島に向かった目的が、光州市民を助けるため   1980年5月25日、第3次民主守護市民決起大会で配布された「光州市民の皆様」というチラシには、米7艦隊の航空母艦6隻が釜山に停泊し、ジョン・デゥファンの野蛮な行為を牽制していると書いてあった。パク・チャンスン「宣言文、声明書、チラシを通じてみた5・18」光州広域市5・18史料編纂委員会『5・18民衆抗争史』393頁。 であったという虚しい期待をしたことも、そのようなことが起きたのなら、皆が生きていけると考えたからではないだろうか。金山(キム・サン)が、『アリラン』で指摘したように、歴史は時々、最も平凡な人の中から、最も意志の強い闘士を作り出せるのだ。その日、彼らがいなければ、我々の歴史にも、光州というのは存在しない。

収拾対策委では、武器を返納し、軍当局と妥協すべきであるという主張が強まっていた。軍隊と最後まで戦っても、勝算がないということは、誰もが判っていることであった。対策委は対策委なりに、市民は市民なりに武器を返納し、「事態を収拾」すべきか、最後まで戦うか、について激論した。生きている人々を一番に考える者は、銃を降ろそうとし、死んだ人々を考える者は、銃を降ろそうとはしなかった。結局、対策委から去っていく人は去っていき、残る人は残った。このまま、降伏できないとした人々、空っぽになった道庁を戒厳軍に渡すわけにはいかないとした人々、「死ぬことで、彼らの声を伝える」べきだと考えた人々だけが残った。その中心に、尹祥源(ユン・サンウォン)がいた。   ユン・サンウォンに対しては、パク・ホゼ(朴琥載)・イム・ナクピョン(林洛平)『尹祥源評伝』プルピッ、2007年。   「夜学」で尹祥源から教わっていた溶接工のナ・ミョングァンは、このように回顧した。

 

戒厳軍が道庁に攻めてきた時に、皆が逃げて、誰もいないと考えてみてください。歴史が1980年の光州をどのように記録したのでしょうか。サンウォンさんを始め、道庁に残っていた人々のお陰で、5・18が、暴動ではなく、民衆抗争として記録されることができたのです。きちんと戦えず、死んでいくことを知っていながらも、最後まで、道庁を守った人々なのです。    ハ・ジョンガンのHP「ハ・ジョンガンの労働の夢」(www.hadream.com)から再引用。

 

勝算が見えてこない戦いで、人々を支えた力は、どこから出てきたものであったのか。光州の最後の夜と、明け方には、勝利を確信する遊撃隊の力強い進軍ラッパの音は、鳴らなかった。そこには、歴史において、負ける戦いから逃げなかった人々の凄然さと寂しさが存在した。光州はこうして、我々の傍に、いや、我々の心の中に入ってきた。光州の話を聞きながら、同時代を生きていた人々は、死と対面しなければならなかった。これ以上、死というものは、遠い所の話ではなかった。光州を経験して、すべてが変わってしまった。「生きることと死ぬことの境界が無くなり、もちろん、死ぬ覚悟をした人々だけが、闘争に参加することはないが、人々は、自分が戦う政権が殺人政権で、自分も死ぬかもしれないという事実を平然と受け入れていた」。    韓洪九、前掲。

 

 

5月27日、尹祥源を始め、死のうとした人々が死んだその朝も、太陽は昇った。そして、生き残った者たちの悲しみが、ゆっくりと沸き始めた。その悲しみを耐えられない人々、多くの人々、軍部の悪宣伝に騙され、光州の真実を知らないと言う事実を耐えられなかった人々、光州の虐殺者たちと同じ空の下で居られなかった人々が、自ら命を絶ち始めた。

光州が鎮圧されてから3日後、ソウルのジョンロ5街、キリスト会館6階から、その下にある戦車の横へ、青年1人が投身した。西江大の学生、キム・ウィギであった。彼は、建物から、投身しながらばら撒いた「同胞たちへ捧げる文」で、以下のように書いた。「同胞たちよ、われわれは、今、何をしているのか?武装した殺戮で、多くの善良なる民主市民たちの熱い血を、この暑い5月の空の下で、成せた蜂起が、維新残党たちの悪辣な言論弾圧で、歪曲と嘘と悪意に溢れた虚偽宣伝として塗られていることをみている同胞たちと、われわれは、今、何をしているのか?」キム・ウィギが、その遺書で指摘しているように、光州の真実は、外部にはほとんど知らされていなかった。彼は、光州の真実を少しでも知らせようとして、自分の身を投げたことであったが、「新しい時代」の言論は、この死に関して、切手の大きさ程の小さい記事も、報道しなかった。友人すらも、キム・ウィギが死んだことを知らなかった。労働運動家のハ・ジョンガン(河琮剛)は、キリスト学生会の活動でキム・ウィギと知り合ったが、80年5月には、学内問題で、手配された状態であった。彼も後で、手配が解除されてから、キム・ウィギが投身した事実を知った。それを伝えてくれた先輩は、泣きながら、こう言ったという。「貴方達、賢いやつは、すべて悪いやつらだ。ウィギが死んだのに、棺を運ぶやつもいないとは。バカなやつを集めてお葬式をあげたよ。貴方達は、皆、悪いやつらだよ」(ハ・ジョンガン、2009年3月2日、平和博物館)。キム・ウィギの葬式の後、6月7日には、労働者のキム・ジョンテが新村で、「光州事態の責任転嫁と歪曲報道は、国民を愚弄させる仕打ち」としながら焚身した。

 

5.死を抱きしめて

 

光州が鎮圧されてから1年後である1981年5月27日、ソウル大の学生らが、校内で、光州抗争犠牲者の慰霊祭を行おうとすると、警察が阻止、これに1千名余りが、沈黙デモを行った。この時、図書館の6階で勉強していたキム・テフンは、「全斗煥は、下野しろ」と3回叫んで、自ら投身した。キム・テフンはこの日、慰霊祭を準備した側でもなく、事前に投身を準備したこともなかった。彼は、光州出身ではあったが、いわゆる「運動圏学生」ではなかった。1981年3月19日と4月14日の2回にわたって、ソウル大の学内デモを主導したユ・ギホン(柳基洪)は、学生運動を主導した運動圏学生たちは、光州抗争の便りで隠れてしまったのに対し、むしろ一般の学生たちが、もっと抵抗的になったと証言した。彼は、キム・テフンのような大人しい学生が身を投げるほどの雰囲気を作らせたこと、まさに、それが光州の底力であったと回顧した(ユ・ギホン、2009年1月19日、平和博物館)。

 

血を流し、冷たいセメント地面に、まだ生きている彼の身体の上に、数えきれないほどの催涙弾が投げられた。数千の光州民衆を虐殺した彼らには、たった1人の命ぐらいは何の罪悪感もなかった。「人が死んだ」、「卑怯なやつら、出てきて戦おう」、悲鳴、絶叫、怒り、催涙弾の煙、爆音。1981年5月27日、午後3時ごろ、多くの学友たちの涙中で、また一人の命が民主の祭壇に捧げられた。次に誰が、その祭壇に捧げられるかは、誰も知らなかった。誰もが、自分自身ではないとは言い切れなかった。それがまさに、80年以後の暗黒期である。   サイバー民主・人権情報館、http://cyberhumanrights.com/Kor/Information/1st/PERSONVIEW.html?code1=HCL07&lang=KOR&lpage=33&no=842  

 

キム・テフンが、図書館から落ちて、まだ生きていた時、周囲の学生たちが走っていくと、警察は、催涙弾を発砲した。キム・テフンの動いているその身体の上に、白い催涙弾の粉が撒かれた。その光景を見た人々の人生が、大きく変わっていたことに違いない。

光州の死、その記憶は、もう1度、送還された。それは、1982年10月12日で、光州刑務所で80年5月の当時、全南大の総学生会長であった朴寬賢(パク・グァンヒョン)が、長い断食の後、命を絶った時である。運命の5月18日の午前10時、抗争が始まった全南大の校門の前では、デモ隊を率いてきた総学生会長のパク・グァンヒョンの姿は見えなかった。パク・グァンヒョンは、新軍部の行動があるかもしれないという雰囲気に気づき、麗水まで身を避けていた。それから、ほぼ2年が経って、逮捕された。後輩のイム・ナクピョンは、パク・グァンヒョンが逮捕される直前に彼に会ったことがあるが、彼の中では、その日、市民・学生たちと共に行動しなかったが、大きい罪悪感として残っていたという。朴寬賢は、獄中で、断食を繰り返した。光州の死に対する抗議として、「看守たちの暴力が乱舞し、不正腐敗が横行する刑務所の中で、すべての在監者たちが、非人間的な状態で生きて」いく現実に対する抗議として、何回も断食を繰り返した。2週間の断食で、彼は、骨だけが残ったようなその身体で、法廷に出てきて、最後の陳述を行った。

 

いつか、歴史は、この政権を審判すると思います。わが市民たちが、いや、抗争が、街から離れてしまったという屈辱がある私が、市民たちと共に、審判するのでしょう。死んでいった、未だに、怒りで悔しく、目を閉じることができないでいるわが同胞、わが兄弟の英霊たちに、恥ずかしくならないように、我々は、明確に、正確に、審判しなければなりません。

 

そして間もなく、朴寬賢は、光州刑務所で、命を絶った。光州の息子と呼ばれたパク・グァンヒョンが死んでから、光州では、80年以後最大のデモが行われた。しかし、市民たちは、彼の葬儀をすることができなかった。当局が、遺体を奪取し、故郷であるヨングァン(霊光)に送り、家族で葬儀を行わせたのである(イム・ナクピョン、2009年1月22日、財団)。

全南大の社会学科教授であるチェ・ジョンギは、80年5月当時は全南大の1年生で、朴寬賢を護衛したが、彼は、軍隊にいる時に、従弟の手紙を通じて、朴寬賢の死を知った。「朴寬賢が死んで、大騒になった」と。手紙を読む瞬間、「だけど、この人は、最後まで、守り抜いた」と思った。涙が止まらなかったが、同期たちと「朴寬賢が死んだよ。だから、今日は、一杯しよう。弔意を表さなければ」と言いながら、お酒を飲んだという。同期たちのお陰で、朴寬賢の死を哀悼することができた。チェ・ジョンギは、そうした殺伐とした5共和国の時代の軍隊で、朴寬賢を逝かせてあげた。彼は、今も、授業の時間に、5・18や朴寬賢の話をすると、急に涙が止まらなくなるという。恥ずかしいことだけど、それは、どうしようもないことであった(チェ・ジョンギ、2009年1月21日、光州のある飲食店にて)。

 

6. 死の文化

 

こうして、1人2人、人々が死んで行き、死んだ人々の中で、相当数が望月洞に埋められた。光州と望月洞の時間は、1980年に止まっていなかった。虐殺者たちは、光州と関連したすべての記憶を消そうとした。彼らには、望月洞が残っていることだけでも、気持ちが穏やかではなかった。彼らは、光州犠牲者遺族を説得して(時には脅迫して)、望月洞に埋められた遺骸を他の場所へ改葬させようとした。こうした中でも、毎年5月になったら、全国から多くの人々が、この望月洞を訪ねた。軍事政権は、人々が、望月洞を訪ねること自体を良くないと思い、5月18日は、望月洞一帯に戦闘警察を待機させ、道を封鎖した(ジョ・ジンテ、2009年、1月23日、財団)。光州においての死、そして、光州から始まった死は、すでに我々の周りに、そして、我々の内部に入っていたが、死んだ人々を会いに行く道は、警察の阻止を避けなければならないという苦行の連続であった。

人々は、なぜ、警察の阻止を破ってまで、望月洞を訪ねたのか。必ずしも5月18日ではなくても良かった。光州の人々は、時々、望月洞を訪ねた。ある人は、生きる事が大変で、欲が出てきた時は、望月洞を訪ねると、少しでも気持ちが良くなったとし(ジョ・ゲソン、2009年1月22日、財団)、また、ある人は、1980年6月に、初めて望月洞を訪ね、先輩の身元を確認したりして、心では、「2度と来ない、仕事をせねば。戦わねば。2度と来ない」と決心しながらも、辛い時は、ここに来て涙を流した。毎回、望月洞を訪ね、もっと仕事を頑張らないと、と決心することが、強迫観念のように自分を支配していたということであった(イム・ナクピョン、2009年1月22日、財団)。

光州の死から始まった「烈士」たちが1人1人と増えていき、人々は、光州を忘れることができなかったし、忘れようともしなかった。光州の死の上に、違う死が重なり、その上に、また違う死が重なることが繰り返された。1987年7月9日、延世大で、イ・ハンヨルの葬儀があった時、前日、晋州刑務所から出獄した文益煥(ムン・イクファン)牧師が、弔辞を述べるために、祭壇に登った。朝だったが、日差しは強く、軍事政権が遺体を略奪するのではと、何日も徹夜した青年学生たちは、葬式場のアスファルトに座り居眠りをしていた。この時、文益煥牧師が、急に大きい声で、「ジョン・テイル烈士!」と叫び始めた。人々は、彼が、どうして叫んでいるのか知らなかった。ムン・イクファン牧師は、叫び続けた。

 

キムサンジン烈士!ジャンジュンハ烈士!キムテフン烈士!ファンジョンハ烈士!キムウィギ烈士!キムセジン烈士!イゼホ烈士!イドンス烈士!キムギョンスク烈士!ジンソンイル烈士!カンサンチョル烈士!ソンギャンヨン烈士!パクヨンジン烈士!光州の2千余りの英霊よ!○○○烈士!キムジョンテ烈士!パクヘジョン烈士!ピョジョンデゥ烈士!フアンボヨングク烈士!パクジョンマン烈士!ホンギイル烈士!パクジョンチョル烈士!○○○烈士!キムヨングォン烈士!イハンヨル烈士!

 

ジョン・テイルを始め、「光州の2千余りの英霊」、そして、イ・ハンヨルに至るまで、その1人1人の名前は、そのまま、韓国現代史が直面した、胸が苦しくなる死であった。余計な説明がなく、名前を呼ぶということだけで、「招魂」を成し遂げた。眠りが襲って来るあの暑い日に、人々も、深いところから沸いてくる涙を我慢することができなかった。順番など関係なく自然と呼ばれたこの名前の数々。その名前を思い出すことは、1つの死に、もう1つの死を重ねてきた韓国現代史を復元する作業であった。韓国現代史は、これ以上、「死さえも殺されてしまった」非人間的な歴史になってはならなかった。1人ずつ、名前を思い出すことだけで、人々は慟哭した。その日、その場所を守った人々は、それなりに、光州の記憶の中で、80年代を生きた人々であった。だから、彼らは、文益煥牧師が、ただその名前を読み上げただけなのに、それを自分たちが生きてきた、そして生きていく歴史として読み取ったのである。

1981年3月、新学期がスタートすると、高校3年生として、もしくは、浪人をしながら、直接、光州を経験した学生たちが、大学に入学するようになった。81年に大学1年生であった学生たちは、目つきが異なっていた。命をかけることができない者は、進み出てはならなかった。いつからか光州は、後輩たちが先輩を「虐める」口論や批判の武器となった。

事実、光州で起きたことは、光州市民たちが、自らの目で見ても信じがたいことではないか。当時の言論は、新軍部により完全に掌握され、新しい時代の賛歌だけを歌う時であった。他の地域の人々の大半が、光州のことを良く知らないことは、当然のことであった。光州の惨状を目撃した人は、他の地方に来て、その話を伝えながら、自分たちが目撃した惨状に悔し涙を流した。また、その事実を信じてくれない人々の無関心に涙した。河琮剛(ハ・ジョンガン)は、光州出身の1人の青年が、光州の話をする最中に、いきなり包丁を取り出し、信じてもらえないなら、ここで死ぬと騒動を起こしたことを、鮮明に記憶している(河琮剛、2009年3月2日、平和博物館)。
光州の死は、このように、生きている人々の中に滲んできた。インタビューに応じた多くの人々は、「我々は、死と共に生きた」と、当時の雰囲気と心境を表現した。ムン・ヨンシクの個人的な体験は、もう少し強烈であった。彼は、「正直、死ぬ勇気はなかった。運悪く死んでも仕方がないと思っていたが、結果的にはどうなった?その運動のせいで、本当に、周りの人は死んでいった。」と回顧した。1981年5月にソウル大学の図書館で投身したキム・テフンは、ムンの高校の同期で、1983年11月に同じくソウル大学の図書館でデモを主導し、死んだファン・ジョンハは、ムンのサークルの後輩であった。また、1985年に、変死体で発見されたウ・ジョンウォンは、彼の組織員であった。1987年1月に、治安本部で拷問を受け死んだパク・ジョンチョルも、ムン・ヨンシクの組織員であったパク・ジョンウンの所在を探していたために死んだ(ムン・ヨンシク、2009年1月19日、平和博物館)。
「旗(깃발)」事件で、自分も酷い拷問を受けながら、生と死を目の当たりにしたムン・ヨンシクの体験は、激動した80年代においても少し変わっている経験であったと言えるが、同時代の人々にとっても、死というものは、本当に近いところに存在するものであった。高校時代、光州についてほとんど聞くことがなかった人々が、大学に入ってから、初めて、この政権と戦い、その死を覚悟・自覚するようになった(チャ・ミギョン―83年に大学に入学―、2009年1月19日;ジョン・イルジュン―82年―、2009年1月20日;ジュ・ジンウ―82年―、2009年3月9日、以上、平和博物館)。

光州を経験し、死を経験し、その死が、自分に近づいてきていると感じながら、運動に対する意識は変わっていった。まず、人々が運動に臨む態度が変わった。ジュ・ジョンリプは、自分たち大学生が、光州の虐殺者であるジョン・デゥファンとは、同じ空の下では生きていけない敵として考えるようになったと回顧した(ジュ・ジョンリプ、2009年1月21日、財団)。

もう、政権と運動陣営の間には、「完全な敵対関係」が作られ、「相手が死ぬか、こっちが死ぬか」のように、死ぬ覚悟で決着をつけようとした。その過程で、運動は、死ぬことを覚悟させるようになっていった。ムン・ヨンシクは、朴正熙政権時代には、維新打倒は訴えても、朴正熙を処断するとは考えられなかったが、光州を経験してからは、ジョン・デゥファンの処断は、あまりにも当たり前のような運動の目標となったと話した(ムン・ヨンシク、2009年1月19日、平和博物館)。

もちろん、80年代を見ても、ジョン・デゥファンを物理的に処断しようとする試みは行われていなかった。しかし、朝鮮戦争以後、民主化勢力側の暴力が、いわば、小さい石だった韓国で、「我方他方(아방타방)」「ジルロ진로)」のような地下パンフレットが、武装闘争を力説し始めた。80年5月、光州で銃を持った経験が、以後、韓国の運動においては再現されなかったが、銃を手にしたその記憶は、それより激しくはない他の闘争形態に対するタブーを破った。

このような人々が主体となる運動は、当然のことながら、理念としても急進化され過激化された。ムン・ヨンシクは、70年代と80年代を以下のように比較した。「70年代に革命の話をしたとしても、その時は、いわゆる、小数の点にあったことで、80年代の光州を経験してからは、革命に関する話が全面化された。この点が繋がって、線になり、いや、線の程度ではなく、「面」を作ったと言える。70年代の先輩たちをみると、全国の運動圏(お互い知り合いだった)は、80年代になってからは、その勢力の規模が100万学徒という言葉があるほど、大きくなった(ムン・ヨンシク、前掲のインタビュー)。こうして、主体が確立され、勢力ができ、戦略と戦術に関する論争と対立が激しくなり、また、こうした論争を通じて、急進組織が作られた。70年代に、ネオマルクス主義や従属理論のレベルに過ぎなかった学生運動陣営の理論範囲として、80年の光州を経験することで、毛沢東の著書、マルクス―レーニン主義・スターリン関連書籍の次に、北朝鮮の原典までに至った。反米の「無風地帯」であった韓国は、光州を経験してから、この地球上、最も激しい反米運動が展開される国となった。70年代の最大の組織事件として呼ばれる人民革命党再建委員会は、当事者たちが、どんな形の組織も、結成しないように働いたにもかかわらず、反国家団体として捏造されたとしたら、80年代には、急進的な青年学生や、労働者たちが、革命の参謀部である地下党を結成するために、忙しくかけまわっていた。

生きている人々は、もしかしたら、光州に対して、恥ずかしさや罪悪感を超え、一種の強迫観念を持っていたかもしれない。そうした強迫観念は、自分自身にも他人にも、何かしなければならないと抑圧をかけていた。何かをしなければならないということは、彼らにとっては、あまりにも、当たり前のようなことであった。ジョン・イルジュンは、大学生たちが、運動に「参加することに対して勇気と決断が必要であったのではなく、そこから離れていくことに対する決断が必要」だった時代だとし、「当時、我々の人生は、光州により一定程度、支配されていた」と回顧した(ジョン・イルジュン、2009年1月20日、平和博物館)。当時、運動陣営にいた人々は、常に、自分が死ぬかもしれないということを覚悟し、光州の死を、心で受け止めなければならない人生を送るしかなかった。ジョン・ヨンファは、それを「生きている状態でも、死んでいる状態でもない」と表現した(ジョン・ヨンファ、2009年1月22日、財団)。当時、闘士たちは、ある意味、自分の人生のみならず、死んだ人々の人生を生きていたかもしれない。

運動をするためではなく、しないために決断が必要であった時代に、死ぬことを知りながら、闘争の現場に立った闘士たちは、本当に、怖がらない人々であったのか?チャ・ミギョンは、毎回、「街頭闘争」に出かける度に、本当に怖くて、催涙弾もとても恐ろしかったと回顧した。白骨団(訳注:デモを鎮圧する私服警察を示す)に追われて、倒れている「同士たち(仲間)」を踏んで逃げた時の辛い記憶は、その時にできた傷跡とともに、未だに残っている(チャ・ミギョン、2009年1月19日、平和博物館)。ジュ・ジンウは、ジョン・デゥファンのような虐殺者は、当時のスローガン通り「引き裂いて殺す」べきであると考えたが、相手を引き裂くと、私も引き裂かれるという現実のせいで、本当に怖かったと回顧している。彼は、街頭デモに多く出かけたが、もしかしたら、自分も殺されるのではないか、という恐怖は、言葉にできない程であったという。彼は、自分のこうした恐怖を、同僚や先輩後輩たちと共に分かち合えたか、との問いかけに対し、たとえば、ジョン・デゥファンに対する憎悪は、お互い確認できたが、恐怖に関しては「心の内側(繊細的な)の問題」であったために、話し合ったことはないと語った。また、街でデモをしている時に、私服警察が現れたら、まず、皆逃げ出し、「(心が)揺れないように」同じ歌を歌いながらも、検挙組が見えたら、みんな怖がって、逃げるのに精いっぱいであったという(ジュ・ジンウ、2009年3月9日、平和博物館)

80年代は、運動に参加・介入する程度の差はあったが、その運動の意義に関しては、少なくとも大学内においては、共通の認識を形成していた。胸一杯の恐怖を抱き、闘争現場に向かう運動圏の学生の中には、レポートや試験ができなくても、単位をもらったり、卒業できたりする人も多かった。当時は、誰かが、警察に逮捕されて、試験を受けなかったり、レポートを提出できなかったりすると、先輩や友人らが代わりにしてあげた(ジョン・イルジュン、2009年1月20日、平和博物館)。この先輩たちと友人らは、闘争の一線ではない「安全地帯」にいたが、闘争の現場にすべてを投げかけた先・後輩や友人らに対し、負債意識を持っていて、何か役に立ちたいと思っていた人々であった(ジュ・ジンウ、前掲のインタビュー)。

光州の力、その「死」で光州を作り上げた人々が持つ力は、こうして、数多くの人々を変化させた。この変化は、人々が、自ら、自分たちの光州の要求に、光州の衝撃に合わせることで可能であった。柳基洪(ユ・ギホン)は、1980年5月17日の夜、家にいる時に、戒厳当局に検挙された。彼は、かなり時間が経過してから、光州のことを知るようになるが、仲間たちの死を受け入れることが容易ではなかった。彼は、朴正熙が死んで、これからは良い時代になると信じたのに、5・18のことを聞いて、その希望は自然と消えていった、と語った(ユ・ギホン、2009年1月19日、平和博物館)。

河琮剛は、いつかあの世で、キム・ウィギに会った時に、彼が「君は、あの時、何をしていた?」と聞いてきたら、「上手に隠れていた」としか答えられないことがとても悲しいとし、「私は、あなたのように、死ぬことはできなかったが、だけど、頑張って生きてきた」と、答えられるようにしたいと回顧した。こうした思考の根底には、もし、あの時に、光州にいたら、道庁に行くことができたか?という問いかけが存在している。河琮剛は、今も、机の上にある黒板に、「銃を持っただろうか?」と書いているという。河琮剛は、ユン・サンウォンのように、死ぬことを知りながらも、その場を守った人がいなかったら、光州は、ただ200人が死んでしまった事件としてしか位置づけられないとし、「だから、私は、運動を持続的に行うことが、複雑な理論ではなく、小さな原則であることだと思う」と加えた(河琮剛、2009年3月2日、平和博物館)。

1980年5月、当時、朴寬賢の護衛隊員だったチェ・ジョンギは、抗争勃発以後、田舎の親戚のところに身を隠し、この抗争期間を「安全」に過ごすことができた。そのために、彼には、生き残った者としての負債という感覚を持っていた。彼は、光州で死んでいた人々の中で、家族の保護を受けた大学生はほとんどいなかったとし、「仲の良い友だちの中には、死んだ人がいない。だから、結局、僕の友だちとは、皆、親から保護される連中だからね。親が保護する人々は死なない。僕みたいに、田舎に身を隠させられたり、家から出させなかったりするから」と言った。彼は、大学院に進学した後、修士論文を準備している最中、カトリック教会から、5・18を主題としたアンケート調査に参加することを依頼された。この作業に参加すると、準備している修士論文を書けなくなるという状況であったが、結局、修士論文を諦めて、そのアンケート調査作業に参加した。彼は、勉強をしている人には、色んな誘惑があるが、光州の体験が、「最低、こういうことは、してはならない」のような、良心的な基準になったという。2000年、彼は、韓国では初めて、「非転向長期囚」の問題で、博士学位を取得したが、1992年、論文の準備をスタートした頃の状況では、このようなテーマで論文を書けば、将来、大学に就職する可能性が全くなかったと語った。にもかかわらず、彼は、このテーマを選択した。「打算的になりたくなかった。やるべきことだったから。正しいと思ったことだから、やった」。その日、道庁に入った人々、そして、彼らを記憶する人々は、皆、頭の中の「計算機」が止まった(打算しない)時代を生きたのである。

 

7. おわりに

 

光州は長い間、同時代の人々の人生を規定し、また、多くの人々は、光州が規定した人生を歩んだ。光州を意識しながら生きて行く人々には、ある意味、1980年5月のその日に、道庁にいなかった事実自体が、原罪と同じだったのかもしれない。80年代に、運動陣営にいた人々は、誰も光州から自由になれなかった。彼らの人生の中には、80年5月の光州で、死んでいた人々の人生までもが、深く染みついていたし、光州の虐殺者たちと戦って死ぬかもしれないという自覚と恐怖があった。多くの人々が、白骨団と催涙弾の恐怖の中でも、闘争の現場から離れていかなかったし、また、離れていくこともできなかった。1987年6月抗争以後とは異なり、運動陣営にいた人々が、光州をながめる視線は、どの地域出身であるかによって、異なっているわけではなかった。光州は、始めから、「全国区」であった。地域を区別せず、多くの人を呼び寄せられることができたのが、光州の力であった。自ら、自分の人生を、光州の、道庁の呼び付けに呼応するようにしたその熱い姿勢が、結局、光州を継承した6月抗争を誕生させ、この国に民主化をもたらした事実は、誰も否定できないのであろう。光州を継承し、軍事政権と戦う過程において、多くの人々が死んで、焚身・投身・割腹しながら、命を捧げた。運動陣営の闘士たちは、民主化、民族統一、民族自主、民衆解放のような高い目標を追求しながら、「当為」として、死を「克服」した。人間という存在自体に対する否定である死は、運動陣営内においては、こうした方法で「克服」され、死んだ人々は、「烈士」という名目で、追悼だけでなく、賛美の対象となった。

ところが、これは、お話にならないことであった。「焚身、投身、割腹ということは、運動史の中で、少数運動圏を覚醒させ、瞬間的な動力を作らせたことには寄与したかもしれないが、大衆には、それが怖くておかしなこと」であった。ムン・ヨンシクは、生きていく人々に、生きる事に対する欲求を認めないで、「当為として死を克服することが、国民たちには、「左翼・赤」にしかならん。何を思っているかは別として、一般的な観点からみて、社会の危険勢力として映る可能性が多く、そういった宣伝扇動の対象になりがち」であると指摘した(ムン・ヨンシク、2009年1月19日、平和博物館)。同じ死であるが、焚身を選択したキム・セジン、イ・ゼホの死よりも、警察に引っ張られ拷問を受けてから死んだパク・ジョンチョルの死が、大衆によっては許せないことであったのも、同じ理由からである。

死は、すべて同じ死であるようだが、現実では決して同じ死ではなかった。死んだ人と私との関係により、その他にも、様々な事情によって、各々を「等価の死」ではなく、お互いに意味が最も異なる死とさせる。光州における死は、多くの人々を献身的な闘士とさせた。しかし、この闘士たちは、その「献身性」のため、一般の国民たちとの距離は遠くなった。その当時、闘士たちは、光州を知っても知らないふりをする人々、光州を無視する人々、ひいては光州を知らない人々を憎んだ。厳しい言論統制の上、集団的な死という最も重い主題も重なり、一般人が光州について、よく知らなかったり、暴動という偏見を持っていたりすることは、当然のことであった。光州で、どんなことがあったかをよく知らない一般国民は、光州問題に命をかける運動陣営を、当然、おかしい人々として思っていた。運動陣営の闘士たちも、常に「大衆性」という言葉を口にしていたが、光州に目をそらす人々を憎んだ。多くの人々が光州に目をそらすしかできない現実をよく知っていながらも、しかし、憎いことは憎いことであった。光州の死を、自分たちの人生の中で受け入れた人々と、そのようなことがあったことすら知らない人々は、相互に疎外の道を歩んでいった。

韓国は、東西冷戦が終わる前の1987年6月抗争を通して、民主化の軌道に入った。分断と戦争と虐殺が染みついた韓国で、冷戦が終わる前に、民主化がスタートしたことは、驚きであった。1987年と言えば、光州でのすさまじい敗北があってから、たった7年が過ぎた時点である。すさまじい敗北を短い時間内に勝利に転換できたことは、まさに、死と共に生きた光州の「息子」たちが、成し遂げたものであった。光州の「息子」たちが、主役となった民主化運動は、1997年には、ようやく選挙を通じて、政権交代を達成し、民主勢力は、10年間にわたり執権した後、2007年の大統領選挙に敗北し、権力を失った。そして、光州の「息子」たちの長兄の存在であったノ・ムヒョン大統領は、崖っぷちから投身し、自ら命を絶った。

ノ・ムヒョンの死は、民主化運動の時代が終焉したことを意味する。これで、光州が産んだ、生き残った人々の悲しみを持って、生きて来た人々の世代は、終わってしまった。李明博政権の登場以後、民主主義の逆行が深刻であると言われるが、しかし、光州の「息子」たちが、主役になって、民主化のために戦う時代は、すでに終わった。死と共に、生きてきた光州の「息子」たちは、一所懸命に戦い、多くのことを成し遂げた。しかし、成し遂げないことも多かったし、おかしくなった人も多かった。民主化が、彼らだけの民主化で終わってしまう間、韓国社会は、絶えず、新しい問題を作ってしまった。今、韓国社会の最大の問題として浮上した非正規職の問題は、民主化がスタートした1987年以前には存在しなかった。非正規職の問題は、民主政権時期に、収拾できない状態として広がっていった。民主化運動正大は、こうした問題が発生している事実に気付かず、その解決にも無能だった。この国に、民主政権が建てられたことは、光州の死と生とを何よりも重視した光州の息子たちが、追求してきた夢が、一先ず成し遂げられたことを意味した。 民主政権下で民主主義の持続的な発展は、いま、光州の息子たちよりも仕事、不動産の値段、教育費のような問題に命賭けでこだわるしかない人々、いや、もやしの値段100円にその場でこだわるしかない人々の手による問題になった。民主化となって、日常生活における経済が良くなったのだろうか。この民主化運動勢力は、大衆の信頼を受けることはできなかった。

胸が苦しむことであるが、光州の「息子」たちが主役であった民主化運動の時代は、27日の明け方、道庁での死から始まって、盧武鉉の死で終わった。光州時代は、仕方がなく、死を媒介に、生きた者と死んだ者とが、出会うしかなかった。光州の死から、盧武鉉の死までの30年、その1世代の間、韓国の現代史は、多くの死と対面せざるを得なかった。民主化運動の歴史は、勝利の記録でもあるが、同時に、挫折と敗北の記録でもあった。その敗北の大半は、道庁を襲ってきた戒厳軍の勢力にされたことではない。光州の死を見て生きてきた人々と、光州で何があったかも知らなくて生きてきた人々は、互に疎外した道を歩んできたが、その疎外というものは、そこだけ存在したことではない。

2003年10月、ハンジン重工業の労組合委員長・キム・ジュイクが、129日間のデモの末、85号クレーンに首を吊った時、盧武鉉は、もう「死」が闘争の手段になる時代は終わったと強く話した。光州の「息子」たちが、まだ分裂していなかった1994年、キム・ジュイクが、LNGの船上ストライキで拘束された時、盧武鉉は、キム・ジュイクの弁護士であった。果たして、光州において、そして、絶えず継続されてきた死の行列の中で、死が、闘争の手段であったことがあるのか。死ぬことの他に、やらなかったことがない人々が、高いところに上り、死ぬことしかできなかった人々が死んでいっただけである。「ああ、帰って良かった!」と言いながら、里帰りした盧武鉉も、その1年後に、身を投げてしまった。光州の「息子」たちは、キム・ジュイクの死と盧武鉉の死の間における距離のように、ちょうどその距離程、お互に疎外されている。

1980年5月27日の夜明け、道庁から戒厳軍を待っていた人々が夢見た未来は、どんなものであったのか。民主主義が生き溢れる韓国、その韓国で育つ人々は、どんな夢をみているのだろう。民主勢力が10年間執権した大韓民国で、将来希望を「正規職」と書く子どもがいたとしたら、どうして、あの時、道庁で、彼らは死ななければならなかったのか。その夜明けの彼らの死を崇高であると美化してはならない。しかし、われわれが、彼らの死を無駄にすることはできないのではないか?

                     

 

訳=朴貞蘭(パク・ジョンラン)

 

季刊 創作と批評 2010年 夏号(通卷148号)
2010年6月1日 発行
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