あとどれくらい落ち続ければ、底にたどり着くのだろうか

2014年 冬号(通卷166号)

 

 

金鍾曄(キム・ジョンヨプ)   / ハンシン大学社会学科教授

 

朴槿恵大統領の統治には耐えられなくする何かがある。周知のように、朴大統領は高齢者年金、4大重症疾患、幸福住宅、半額授業料等の数多くの公約を次々とないがしろにしてきた。最近は無償給食と無償保育の間にフィクション的な対立をつくり、消耗的な論争を呼び起こしている。それでもこのような嘘は耐えられるほどである。嘘で社会と政治のすべての領域において約束する能力を浸食したことが非常に遺憾ではある。ところが、野党側のものを盗んで、それに少し修正を加えてつくった「増税のない福祉」という呪術的公約は、最初からその実現が疑わしかった。そもそも意図された嘘の素地が十分あるものの、朴大統領の判断能力が低くて引き起こされた可能性もある。

ところが、それは朴大統領の嘘に限らない。昨年3月4日、朴大統領は対国民談話文を発表した。そこにおいて彼女は自身の推進する政府組織改革が「良い働き場を多くつくり、国民の生活をより向上させるという目的の外に、如何なる政治的私心も入って」おらず、「一部で主張する放送掌握は、そのような意図もまったくなく、法的にも不可能」だと強弁した。また「すでに数多くのソーシャルメディアとインターネット言論が溢れている社会において、政府が放送を掌握することが何の意味があるのでしょうか」と反問した。

これが明白な嘘であることは、セウォル号惨事が起った後、KBS前報道局長の金時坤が暴言波紋で辞任し、KBS前社長・吉桓永の報道介入を暴露することによって明らかになった。それ以後、吉桓永は、セウォル号惨事の遺族の面談は断ったが、遺族が青瓦台の前に行って座り込むと、そこに現われて謝ることによって、自身が青瓦台の直接的指示を受けていたことも証明したことになったのである。このような嘘は減税撤回を実行しなかったか、または税収が足りないという理由で、お金がなくて福祉ができないということとは性質が違う。嘘が説得力を持つ典型的な場合は、嘘をつく者があまりにも堂々とする時だが、この場合の朴大統領がそうなのである。

さらに驚くのは、今年の9月16日の国務会議で「大統領に対する侮辱的な発言が度を過ぎた」という発言の二日後、検察がサイバー名誉毀損刑事処罰の強化を公表したことである。同日、最高検察庁は「サイバー上の虚偽事実の流布等の弊害が深刻な水準」だとし、未来創造科学部、安全行政部、放送通信委員会、韓国インターネット振興院、主要ポータル社等とともに対策会議を開催した。このような事態の進み方は驚くべきものである。「度を過ぎた」という判断を大統領が下していることだが、そのような姿には判断を独占する暴政の影がちらつく。検察の迅速な対応から青瓦台との交感や事前調律の可能性を考えざるを得ない。さらに、名誉毀損は反意思不罰罪である。検察の名誉毀損刑事処罰に対して、朴大統領が反対するという意見を出したことがないので、それは大統領が望むこととしてとらえるべきであろう。民間企業の主要ポータル社が顧客の情報を保護するどころか、政府の対策会議に参加したことも民主社会において想像し難いことである。

これの意味することとは、すでにソーシャルメディアとインターネット言論が溢れる時代であるため、放送を掌握することはあまり意味がないと公言した大統領が、まず放送を含めて巨大言論を掌握し、その次にソーシャルメディアとインターネット言論を掌握する意思を表明したということである。この過程において「カカオトーク」社(LINEのような無料コミュニケーションアプリ)が検察の盗聴要求に充実に応えてきたということが明らかとなって衝撃を与えたが、それよりもっと重要で驚愕なことは、検察が大統領の意を大事にし、市民に対する盗聴や検閲を公然と遂行すると宣言したことである。陰で盗聴し、尾行することと、それを公式的な政府の政策として遂行することには質的差異がある。後者の場合、私たちがテロの古典的定義に直面することである。テロとは展示的暴力を通して恐怖を普遍化する支配様式だからである。これが成功的といえるのは、軍事評論家の金鍾大が海外モバイルメッセンジャ「テレグラム」に加入した後、ツイッターに書いた文章によくあらわれている。「私は先週の土曜日にサイバー亡命をしました。実際行ってみたら新大陸です。ところが、警察、検察、軍人が先に来ていました」。国民を査察し、心理戦を行い、スパイを操作する彼ら自らが査察されることを恐れているという事実ほど、恐怖の普遍化をよく見せてくれるものはない。

南北関係においても嘘と自家撞着と決まり文句が頻発している。執権初期、開城公団をめぐる北朝鮮との葛藤の面においては比較的堂々とした姿勢で粘り強く交渉したことに対する大衆的支持がかなり大きかった。今年の初め、統一大当たり論を提起する際は、大胆な構想と政策が行われる可能性が予想されたりもした。ところが、全部お世辞だったのである。10月23日、戦時作戦統制権の取り戻しを再延期することによって、再び公約を破棄しただけである。さらに、今回は取り戻し条件が整備されるまでの延期であるが、その条件というのが北朝鮮の核とミサイル脅威に対処する「キルチェーン」(kill chain、攻撃型防衛システム)とKAMD(韓国型ミサイル防御体系)の構築、連合防衛を牽引する韓国軍の核心の軍事能力、そして北朝鮮の非核化の進展等の域内安保環境である。膨大な武器投資や高い水準の平和が東アジアに定着される前まで取り戻しはないということであるが、二つの要素が相反するため、実現される可能性は程遠い。

これより低いレベルではもっと低劣な行動が現れている。政府は十分な制裁手段を持っていながらも、対北朝鮮ビラを飛ばす団体の行動を放置しており、一部の団体は総理室からの支援を受けている。自分に対する名誉棄損は公然と捜査対象としながら、北朝鮮指導者に対する名誉棄損は育成しているのである。さらに、老巧化し危険なので、軍が決定した愛妓峰展望台の撤去に怒りを隠さない大統領の姿は、これまでのすべての対北朝鮮政策や宣言が正常な判断を経たものなのか疑問を抱かせる。

これらよりもっと残酷なのは、他でもなく、セウォル号参事に対して大統領が見せた一貫性のない行動、そして遺族に見せた薄情で残忍な態度である。しかし、これについてはもうこれ以上話したくもない。精一杯称えても「保守」政権執権期としかいえない時間がすでに7年経とうとしている。嘘が横行し、ますます公然としたテロに近づいていく政権の様子を見ていると、黄貞殷の短編小説『落下する』が思い浮かぶ。小説を借りていえば、私たちは今7年目「落ち続けている。(…)このまま落ち続けると、いつかは底や何かに衝突すると思ったが」、もう7年も落ち続けているのである。このように落ち続けているにもかかわらず、変わらぬ朴大統領への支持率をみると、「落ちる途中、上下が逆転され、本来は上である部分を下だと思い」こんで、「上がって」いるようにとらえてしまう錯視現象も深刻のようである。

このように落ち続けているが、いったい何が起こっているのだろうか。再び黄貞殷を引用すれば、こうである。「いきなり火に焼けたり、水に流されたり、崩れ落ちる建物の下敷きになることもなく、もう少し欲を出せば、苦痛の病に長く苦しむことなく、死を迎えることができたらいいなと思っていた。そのように言ったら、一緒に会話をしていた人の中の一人が私に対して、最近のように人の死が険しい時代に、一生涯善行を実践し、真面目に生きても訪れるかどうかわからない至福を願っているんだね、君は、と言いながら笑った」。

 

落ち続けるのは、底にたどりつけなかったからであるが、落ちることを終えるためには底を待つだけでは駄目で、底をつくらなければならない。白楽晴の特別寄稿「大きな積功、大きな転換のために:2013年体制論以後」は、そのような底をつくろうとする作業の一つである。彼が指摘するように、今私たちが直面しているあらゆる弊害は、当然成すべき転換を成しておらず、そしてそのような転換を成すほどの積功が足りなかったことからもたらされたものである。彼はこのような点を指摘しながら、転換のための積功の方向を念入りでつくっている。「セウォル号以後」への根本的転換を要請する声が高い今、同論文に格別な関心を寄せていただきたい。

今号においてもう一つ読者に注目していただきたい部分は、チョン・ヘシンと陳恩英の対話「ご近所の天使を探し求めて:セウォル号トラウマ、どのように克服するか」である。二人の対話は遺族、生存者、生存者の家族、行方不明者の家族、被害学校の教師、地域住民と死亡者の友人が経験した苦痛の同様、かつ異なる様相を詳細に伝えてくれる。それによって、苦痛の治癒は傷ついた心の行路に対する深い理解を求めるということを改めて感じさせる。

「特輯」は「小説で現実に出会う」をテーマに4本の論文を集めた。イム・ヒョンテクは廉想涉の『三代』を植民地近代における左右派対立の渦中に「シンパサイザー」という立地から形成したリアリズム作品として分析し、その中で「近代適応と近代克服の二重課題」をいっそう円満に遂行しようとした廉想涉の志向を読み取る。ユ・ヒソクは光州民主化運動を扱ったハン・ガンの『少年が来る』と孔善玉の『その歌はどこから来たのだろうか』を中心に証言と小説の関係を検討しながら、二つの作品がなぜ優れた小説であり、真正な証言になるかを詳細に見せてくれる。「もう一つの光州」を目の当たりにするようになる今の現実状況において文学の証言も再び始まめられざるを得ないことを気付かせる。シム・ジンギョンは、パク・ソルメの小説に対する緻密な批評的分析を試みながら、彼の小説に登場する人物が世界を劇場で経験し、情念をなくした主体であることを明らかにする。そしてその主体がアルバイト労働によって現在という時間に閉じ込められた青年世代の経験と如何なる関係を持っているかについて考察する。最後に、キム・ドンスは文学的リアリズムの基本概念である「典型」がシェリング(F. Schelling)からノディエ(C. Nodier)とバルザック(H. Balzac)を経て、エンゲルス(F. Engels)に至るまで経験した変転、それをドイツの古典主義伝統から再構成したルカーチ(G. Lukács)の作業、そしてルカーチとベンヤミンの間の論争を綿密に検討する。4本のすべての論文が、小説が現実と出会う様相、そして小説が現実を盛り込む形式に対する探究といえよう。

「論壇と現場」でイ・ギジョンは、進歩系教育長時代に彼らが何をすべきかに対して重要で簡明な注文をする。単刀直入にいうと、生徒の幸せのために務めることが進歩系教育長の義務であり、その際、幸せを優先すれば、幸せを過酷に猶予するものとしての入試競争から抜け出す道が開かれ得るということである。宮嶋博史は、イム・ヒョンテクの最近の二つの著書を通して、イム・ヒョンテクが40余年間学人として歩んできた道を広く検討している。一国史的観点から脱し、東アジア的視野を持って作業してきた二人の知的同伴者の優しい対話の雰囲気が感じられる。元々秋号に掲載される予定だったが、筆者の事情によって延期となり、そのスポットライトを受ける対象が「特輯」の筆者として参加した今号に掲載されたのである。論壇の最後の論文は、第4回社会人文学評論賞の当選作であるパク・ガブンの「変身するリバイアサンと感情の政治」である。総括的社会規定の負担を嫌がらず、「反応社会」という概念を掲げながら、ネットワーク社会の規範である共有が「反応」という受動的感情に基づいており、行動に向けた政治的プログラムを欠如していることを鋭く分析すると同時に、そこから抜け出せる道を模索する。

「文学評論」のファン・ヒョンサンとキム・ヨンヒの平文も一読に値する。元老批評家にもかかわらず、若い詩人の前衛的作業に強い愛情を贈ってきたファン・ヒョンサンは、今の詩が本という慣れた家を離れ、映画やSNS、スローガンや落書き、朗誦会など、私たちの日常の各所で様々な様相として漂いながら、自身の概念を広めていることを、そしてそのような実験の中で「詩の未来」が開かれることを語ってくれる。キム・ヨンヒは20世紀英文学批評の大家であるF.R.リーヴィス(Frank Raymond Leavis)の小説論を扱いながら、彼が提示した英文学の「偉大なる伝統」や「劇詩としての小説」という概念を新しく検討し、文学固有の創造性に対する信頼や近代文明に対する根源的批判意識を盛り込んでいるリーヴィス小説論が、今私たちにとってどのような批評的意味を持っているかも緊要に析出する。「作家スポットライト」では、最近4本目の詩集を発表し、いっそう深まった作品世界を披露した詩人のソン・テクスに評論家のキム・スイが会い、彼の詩が生まれて育ってきた過程を細心に検討し、今後の行路を期待に満ちた目で眺める。

一年を終える今号の「創作」欄も豊富である。申庚林、高炯烈、キム・ギテクをはじめとする12名の詩人が「詩」欄を充実に飾っており、2回目を迎えるキム・ミウォルの長編連載と金愛蘭、ユン・ソニョン、チョン・セランの短編小説もそれぞれ個性を発する。小説家のチョ・へジンを招待した「文学フォーカス」の座談は、今年の下半期における韓国文学の問題作6冊に対する興味深い地上討論を披露する。1年間座談会の固定参加者としてご尽力いただいたカン・ギョンソク、ソン・ゾンウォンのお二人にお礼を表したい。この欄は、来年新しい参加者が運営していく予定である。その他にも話題の図書を各界の専門家が巧みに紹介する「寸評」欄も是非お勧めしたい。

第16回白石文学賞の栄光はチョン・ドンギュン詩人に贈られた。彼の詩を愛する多くの人々とともにお祝いを申し上げる。第4回社会人文学評論賞の当選者であるパク・ガブンにも多くの声援を贈っていただきたい。一方、第8回創批長編小説賞は残念ながら当選作がなかった。応募してくださった方々に感謝するとともに、よりよい作品をお待ちしているという言葉で寂しさを和らげたい。

惨憺たる心情で過ごした旧年を送り、新たに新年を迎える。私たちがやってきたことに対する自己省察を基盤として、読者とともに積功と転換の一年をつくっていきたい。

 

翻訳:李正連(イ・ジョンヨン)