岐路に立った長編小説―長編小説と批評の課題

2012年 夏号(通卷156号)

 

特輯_再び長篇小說を語る

 

韓基煜(ハン・ギウク)  文学評論家、仁濟大英文科教授。評論集に『文学の新しさはどこから来るか』などがある。
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1. 論議を始めながら

 

2010年代は長編小説の花を咲かせうる絶好の機会である。韓国文学史においてこれほどの機会はめったになかったと思う。だが、この絶好の機会は深刻なる危機とかみ合っている。この時期を逃すと、しばらくの間やってこないはずの次の機会を待たなければならないが、その際は手痛い失敗の経験のため、機会を生かすことがより遥かに難しくなるだろう。ところが、この機会/危機の時期に批評はあまり動きがない。事実、この批評的対応の不在こそ韓国文学の危機を示す兆候ではないかと思われる。

『創作と批評』2007年夏号の特集であった「韓国長編小説の未来を開こう」以来、長編小説は目覚ましい量的成長を重ねて、言わば「長編小説ブーム」を迎えたし、これを切っ掛けに幅広くて密度の高い批評的論議が相次いで出てくることと予想された。しかし、長編小説の(不)可能な未来について金永贊(キ厶・ヨンチャン)、金亨中(キ厶・ヒョンジュン)と私が繰り広げた論争 韓基煜、「韓国文学に開かれた未来を:現段階における小説批評の争点と課題」、『創作と批評』2011年夏号;金亨中、「だから、「長編小説」とは何か?」、『教授新聞』2011年7月5日;韓基煜、「最近の小説と批評の行きすぎた脱近代的性向が不便な理由」、『教授新聞』2011年7月13日;金永贊、「共感と連帯:21世紀、小説の運命」、『創作と批評』2011年冬号参照。を除くと、長編小説に対する熱っぽい討論や論議を探すことは難しい。現在の「長編小説ブーム」が2010年代の韓国文学の地形を大きく変えていくことが明らかであるだけに、これに対する対応は批評の最優先的な課題であるが、批評家たちは個別の長編に対する論議は行うものの、重要なジャンルとして長編の可能性と方向性についてはなかなか発言していない。こういう理由で去る5年間の間、長編小説の氾濫のなかでわれわれの小説文学がどの地点まで来ており、どこへ行っているかに対する感覚は失われているようだ。私たちが今どこにいるか誰もが知っているかのように行動するが、実際は誰も知っていない状態と言おうか。

論の不在に対する解明として、批評的見解を本格的に開陳するには、まだ時機が早いという立場もある。例えば、長編小説の量的膨張にも関わらず、未だ芸術的成果を論じるほどの優れた作品はあまり出ていないという声をしばしば耳にする。一理がないわけではない。長い間短編を主として鍛えられた小説家たちが長編に挑戦して意味深い作品を書くためには、かなり長い時間が必要であろう。現在進行中の「長編小説ブーム」の規模と多様性、芸術的性格と質的水準の輪郭が現れるためには、これからまた5年ほどは待たなければならないかも知れない。しかし、その時はその成果と問題点を明確に回顧することはできるかも知れないが、批評的介入の適期は逃すわけである。

長編小説の「形式」に対する批評的論議がなかなか出てこない実際的な理由は、全く異るところにあるかも知れない。長編形式の特別な美徳が実感できず、「韓国の「長編小説」という概念は原稿の分量(そしてそれが与えてくれるいくつかの経済的利点)以外にさしたる内包を指し示さない概念となった」 金亨中、「フランケンシュタイン博士の小説書き:2011年夏、韓国小説の断面図」、『文学と社会』2011年秋号、223頁、脚注1番。という金亨中の主張に共感する批評家は少なくないと思われる。例えば、「長編小説終焉論」、あるいは「長編小説無用論」がさしたる論議も経ないまま、一種のイデオロギーのように評壇の内部に相当広がっているのである。また金永贊の場合がそうであるように、長編小説の重要性を信じながらも近代文学の終焉を確信する評者ならば、立ち遅れて渡来した「長編小説ブーム」にいかにも困惑することもあり得る。幸に金永贊自身はその困惑さをしばらく「患った」後に、「今は不可避な「長編の時代」」 金永贊、「共感と連帯:21世紀、小説の運命」、310頁。 だと闡明しながら、若い作家たちに長編の舞台に勇ましく飛び込むことを要請する。納得しにくいところがなくはないが、長編小説に対する彼の前向きな立場は取り敢えず鼓舞的である。

金永贊が「長編小説懐疑論」から「長編小説不可避論/期待論」へと旋回する立場を示したのに反して、金亨中は「長編小説懐疑論/不可能論」で揺らぎがなく、だからこそ金永贊のような困惑もない。もちろん金永贊と金亨中の外にも注目に値する探求と論議を遂行する批評家がいないわけではない。例えば、西欧の理論家の著述を活用して短編と長編の特性を明らかにし、長編小説の本質を「倫理学的想像力」から見い出す申亨澈(シン・ヒョンチョル)の批評的試みも検討に値する。それとともに、長編小説に関する見解を示してはいないが、特定の作品の選択と特定の方式の読解を通して長編に対する考えを示す場合も考慮すべきである。例えば、西欧の反体制的な知的遺産を滋養分にして、主にジャンル的で非主流的な小説を熱情的に読解する卜道勳(ボク・ドフン)の作業は注目に値する。

長編小説という形式も歴史的な産物であり、従って浮き沈みの変化から免れてはいない。長編小説が「叙事文学の花」だとか「近代文学における最高のジャンル」だと呼ばれてきたからといって、今後ともそのような特別な地位が享受できるかは未知数である。ただ文学の主体である作家と批評家と読者が自分の受け持った任務を充実に遂行するかしないかによって、長編小説の未来は大きく変わりうる。長編小説が岐路に立ったこの時点で、その行方に関する論議を繰り広げうる批評の役割が特に重要である。長編形式の核心は何なのか、今の時代における長編はどのような意味を持つかに対する論議を触発し、その現在的成果と問題点を診断して、それに基づいてこのジャンルの可能性と方向性を先に論ずることは専ら批評家の仕事である。

さらにこのような批評作業は韓国文学を一次的な対象としながら、世界文学の次元で、それから東アジア地域文学の次元でも成されるべきである。特に韓中日の三国で現れる長編形式の急速な変化と、互いに異る様相に注目する必要がある。ただし、本稿では世界文学の事例を参照するものの、韓国文学の脈絡に集中したいと思う。実際的な討論となるためには具体的な作品の論議が充分提示されるべきであるが、ここではいくつかの作品を寸評することで満足するしかない。

 

2. 近代/脱近代文学と芸術的保守/進歩

 

長編小説に対する論議で最も大きな障害物の一つは、「近代文学の終焉」を既定の事実と見なし、現在の文学を「近代文学以後の文学」(「脱近代文学」)として認識する発想である。たとえ「近代文学」が終わったわけではないとしても、すでに芸術的な効力を失ったのでもうすぐ消え去っていく運命の文学として認識することも、こういう発想の一つのバリエーションだと言えよう。この断絶の構図では「近代文学における最高のジャンル」という長編小説の位相が曖昧となる。これに対する反応としては概ね二つの批評的傾向が現れると思われる。

一つは金永贊のように「「近代文学」以後を生きていく韓国小説が近代的意味の長編(novel)を超えて、新しい時代の長編を創造的に再構成する課題」 金永贊、前掲評論、304頁。を新たに設定する道である。既存の形式とは異る新しい種類の長編を試みようという趣旨はあっぱれだ。物足りないところは韓国小説が「「近代文学」以後」を生きていくと規定することによって、「近代文学」が内蔵している豊かな資産──その中で最も値打ちのあるものは近代に対する抜本的な批判と洞察──をこの新しい芸術的企画に活用しにくくなるということである。このような断絶による貧弱な芸術的資産を持ってしては「新しい時代の長編を創造的に再構成する課題」の実現は難しくはなかろうか。言い換えると、「近代文学」の資産を活用して創造的に再構成された「新しい時代の長編」が出てきても、その真価が見分けできない公算が大きいと思われる。彼が朴玟奎(バク・ミンギュ)の『亡き王女のためのパバァーヌ』(イェダム、2009)と金愛爛(キ厶・エラン)の『ワクワク我が人生』(創批、2011)を長編の成果として認めないのも、このことと無関係ではなかろう。

もう一つの傾向は長編というジャンル、さらに小説というジャンルそのものの有効性を疑い、その境界を解体する方へと進む道である。こういう傾向が2000年代以後、小説創作で一部現れるのは事実であるが、批評が先立ってこのような傾向を突き動かす側面が目立つ。例えば、ある若い評論家は次のように述べる。

 

小説は詩や戯曲、または個別民族の多様な文学ジャンルをそれ自身に服属させながら成長する方式を取った。その結果、小説と小説でないものとを区分する方法はほとんど無くなった。例えば、1930年代の李箱の小説とエッセイは区分が難しい。学者の方式によって、あるエッセイは小説として区分されている。事情は今も変わっていない。金兌墉(キ厶・テヨン)と韓裕周(ハン・ユジュ)の小説をエッセイと呼ぶ人もいる。李起昊(イ・ギホ)が聖書の組版方式と言語習慣を借用して書いた小説はどうか。朴馨瑞(バク・ヒョンソ)が研究論文の形式で書いた小説はどうか。いくらすぐれて賢い文学評論家だとしても小説と小説でないものとを区分することは不可能である。 徐熹源(ソ・ヒウォン)、「2012年春号を発行しながら」、『文芸中央』2012年春号、3頁。

 

このくだりを読んでおかしいのは、初頭の「小説」は長編(novel)のことで間違いなく、「1930年代の李箱の小説」を始めて相当数の「小説」は短編(short story)のことで他ならないが、最初の文における叙述は短編には当たらないからである。(このくだりを英語で翻訳することは不可能であるが、「小説」を「novel」または「short story」と区分して訳す瞬間、論旨そのものが崩壊されてしまう) 文脈で求められる長・短編の区分を削除したことが意図的なことなのかミスなのかははっきりしない。とにかく評者が無理と誇張を押しきって伝えようとしたことは、長編形式は勿論のこと、小説ジャンルそのものの境界が解体されているというメッセージであろう。 徐熹源が「小説」の代わりに考慮する用語は「フィクション」である。例えば「21世紀の韓国文学で「フィクション」を担当している四名の小説家と会った。朴馨瑞、金成重(キ厶・ソンジュン)、尹異形(ユン・イヒョン)、ゾ・ヒョンがその四名の方である」(上掲書、4頁)参照。

文学のジャンルと形式が時代に沿って変わることは当然であり、これを固着化しようとする動きは芸術的保守、あるいは守旧である公算が大きい。しかし、近代文学が終わったという仮定のもとで、近代文学のすべてのジャンルと形式を解体することが何でも芸術的進歩だと考えるならば、それは誤算である。「近代文学の終焉とそれ以後の文学(脱近代文学)」という発想の一次的な問題は、その中に敷かれている断絶論と段階論が歴史的状況を歪曲する可能性が高いというところにある。「近代」(modern)と「脱近代」(postmodern)という用語を取って、時代区分と性格規定の側面から考えてみよう。「近代」の核心的な性格を資本主義体制と関連づける立場からは、この体制が持続する限り近代は終わったわけではないし、従ってこの際の「脱近代」は近代以後の歴史的時間帯を意味するものではない。だとしたら、「脱近代」は近代の枠──近代の支配的理念・価値・制度──から脱しようとする衝動や傾向を意味したり(性格規定)、そのような衝動や傾向が目立つ近代末期の時間帯を意味する(時代区分)。「脱近代」という「時代」は近代に対する自己反省が深化しながら、近代の境界を超えようとする試みが頻繁となる時期であるとも言えよう。

文学論議では脱近代的性向が正確にいつから際立つようになったかの問題だけでなく、脱近代的な衝動と契機がどのような方式で専有されるかに注目を要する。近代資本主義体制は狡くて脱近代的な要素でさえも体制内に包摂して、文化商品として開発できるからである。否、もしかしたら体制の立場ではこの要素こそ必ず包摂すべき対象であるかも知れない。それらは新しい文化商品としての価値が高いのみでなく、その潜在的な変革性を無力化することが体制の自己保全の要となるからである。なので脱近代的な性向を「歴史化」(historicize)しないで、文句なしに進歩的/革新的なものとして認知することは、資本主義体制の包摂に引っ掛かりやすい。 ジェムソン(F. Jameson)の著書のタイトルである「ポストモダニズム(脱近代主義)、あるいは後期資本主義の文化論理」(Postmodernism, or, The Cultural Logic of Late Capitalism)そのものがこのことを雄弁する。 「同一性」の代わりに「差異」を強調し、「他者の倫理学」を標榜する西欧現代の理論もこういう包摂対象から逃れているわけではない。例えば、アラン・バディウは「差異」と「倫理」に特別な意味を与える最近の理論に対して辛辣な批判を加えたことがある。Alain Badiou, Ethics: An Essay on the Understanding of Evil, Verso 2002, 2章, 3章参照.  だからどのようにしたら脱近代の衝動と契機を資本主義の商品化過程と体制内の回路に包摂されないようにしながら、近代克服の大事な芸術的資源として作るかを苦悶すべきである。

一つの有力な方法は、近代の長編小説を根拠地にしながらも「脱近代的想像力」を、近代の境界を破って新しい道を開拓する一種の前衛部隊として活用することである。「脱近代的想像力」という前衛は根拠地で近代省察の勢力から力を補いながら、その内部の近代主義守旧の勢力とも戦うべきである。近代長編小説が内蔵した近代省察の豊かな知的資産と脱近代的想像力の結合、これが金永贊の提起した「新しい時代の長編を創造的に再構成する課題」が遂行できる核心的な戦略ではなかろうか。事実、優れた長編小説が内蔵した近代省察の知的資産の中には、すでに過去の色んな時代の脱近代的想像力が凝縮されている。それでも新しい時代の長編は新時代固有の脱近代的想像力を核心の一部として必要とする。長編小説は何より同時代性の芸術だからである。過去を取り扱っても現在との連関が重要であり、その芸術的触手はいつの間にか未来に向かって差し伸べられているに決まっている。

「近代文学」と「それ以後の文学」(脱近代文学)を段階論的に分けて、各々を芸術的保守(守旧)と進歩へと対応させる発想は、現段階における文学芸術の複雑な地形を通念的に単純化した結果である。これは西欧中心主義と全地球的資本主義体制の維持と拡張に有利な知的・文化的構図を再生産する。韓国文学でこのような発想が広がることとなった決定的な切っ掛けはもちろん柄谷行人の近代文学終焉論である。ところが、終焉論を追従する韓国の批評家が警戒心を持つべきくだりは、柄谷が文学の場から離れることとなった理由である。彼は「近代文学」を押し出した「近代文学終焉以後の文学」が芸術的な進歩どころか、娯楽に過ぎないものとして判断し、文学に対する希望を取り払ったのである。

 

3. 短編、中編、長編の本質的特性

 

先の図式的発想に捕らわれていなくても、長編小説の本質を明らかにすることは容易くない。だが、長編小説が何であるかを問わないままどうしてその未来が論じられるのか。世界文学で(長編)小説論はルカーチ(G. Lukacs)、バフチン(M. Bakhtin)、モレッティ(F. Moretti)のような批評家たちによって発展されてきたが、彼らの論議を取り入れて昨今の韓国長編小説に対する真摯な立論を試みた例は稀である。一時、マルクス主義文学論の神髄として莫大な影響力を行使したルカーチの小説論とその中枢である総体性、典型性、党派性概念は、現実反映論とともに古い美学のシニフィアンであるかのように扱われるだけである。異質性と多声性を強調し、総体的ジャンルを指向する長編小説の概念を提示したバフチン、西欧教養小説の終焉と「近代の叙事詩」(modern epic)という新しい発想を提示したモレッティの小説論も綿密に研究されるより、恣意的に抜粋・利用される場合が多い。

このような小説論の貧困状態で最新の西欧理論家の著述を活用して短編と長編の本質を明らかにし、作品の論議まで試みた申亨澈の評論 申亨澈、「「倫理学的想像力」で書き、「叙事倫理学」で読む:長編小説の本質と役割に対する断想」、『文学ドンネ』2010年春号。以下、この評論からの引用は本文で頁数のみを記す。に注目しないわけにはいかない。まず、ドゥルーズ・ガタリの著書を取り上げながら短編の特性を論ずるくだりを見てみよう。「『千のプラトー』の著者たちはコンテと短編を比較しながら短編の本質を規定する。コンテが「何事が起るのか?」という質問を中心に動くならば、短編小説は「何事が起ったのか?」という質問を中心に構築されるということである。コンテが「発見」の形式ならば、短編小説は「秘密」の形式である。」(376頁) 一見それらしくも疑わしくもする。確認してみたら、韓国語訳本は「nouvelle(novella)」を「短編小説」に、「conte(tale)」を「コンテ」にそれぞれ訳したが、誤訳だと言わざるを得ない。 韓国語訳本(『千のプラトー』、金在寅(キ厶・ジェイン)訳、セムルギョル、2001)は8章の題目(1874年─三つの短編小説または「何事が起ったか」)から「nouvelle/novella」を「短編小説」と翻訳する深刻な間違いを犯した。フランスで「nouvelle」は長編小説(roman)より短い小説を意味し、主に中編を指して称する。ドゥルーズ・ガタリが「nouvelle」の例として取り上げた作品も短編ではなく中編である。なので英訳者は「nouvelle」の訳語として「short story」ではなく「novella」を選んだのである。「conte」は短い物語で、その性格上英語の「short story」よりは「tale」により相応しい。フランス文学の「conte」は韓国語の「コンテ」とは全く語感が違うので「短編」と訳すべきである。8章でドゥルーズ・ガタリは「リゾー厶」(rhizome)哲学を適用してジェイムズ(H. James)の「鳥かごのなかで」(In the Cage)を始め、中編小説とフィッツジェラルド(S. Fitzgerald)の中編分量の自伝的エッセイ「崩壊」(The Crack-Up)を鋭く分析しながら、生の三つの「線」(line)概念を提示する。

妙なことはドゥルーズ・ガタリが「中編小説」の本質として提示した特性を「短編小説」の本質として理解しても、ある程度は理屈に合うということである。例えば、「中編は根本的に秘密(発見される秘密の材料や対象ではなく、ついに看破されないまま残る秘密の形式)と関連されている反面、短編は発見(何が発見され得るかと無関係に発見の形式)と関わっている」 Gilles Deleuze and Felix Guattari, A Thousand Plateaus: Capitalism & Schizophrenia, Tr. Brian Massumi, University of Minnesota Press 1987, 193頁. 翻訳は筆者によるものである。以下、この本からの引用は本文で頁数のみを記す。で「中編」のところに相当数の短編も入れるということである。私が見るに、權汝宣(グォン・ヨソン)の「銀の指輪」(『韓国文学』2011年夏号)は発見の形式というよりは秘密の形式である。メルヴィル(H. Melville)の「代書人のバートルビー」(Bartleby, the Scrivener, 1853)のような作品はどうか。発見と秘密が折り重なる形式として見なすのが妥当であろう。短編のなかで優れた作品ほど秘密の形式を含む確率が高いので、短編と中編は形式上折り重なる地点があるのだ。

だが、中編小説と短編小説が区分される地点がある。ドゥルーズ・ガタリは中編が「生の線を発生させ、組み立てる固有の方式」(194頁)に焦点を合わせる。例えば、フィッツジェラルドの自伝的エッセイに対する分析で、彼らは崩壊する「一つの生」を構成する三つの線を区分して見せる。それは彼の生を崩す三つの種類の決定的打撃が進む線である。一つは外部から来る打撃の線(切断線)、もう一つは内部から来る打撃の線(破裂線)、それから既往の生から完全に脱する断絶と脱走の線(断絶線)がそれである。この件を紹介した後、申亨澈は次のように述べる。

 

これで短編小説は切断線と破裂線と断絶線のすべてを効果的に組み立てる際、成立すると言ってもいいか。しかし、それはあまりに度外れの要求であろう。フィッツジェラルドから三つの線を見い出した彼らの観点に必ずしも符合するものではなくても、それなりに次のような最小限の定義を試みることはできるのでは   なかろうか。短編小説は「何事が起ったか?」を問い、生から一つの破裂線を見い出す作業だと。言い換えると、「生を横切る非常に微細な破裂線の一つ」を捉えるだけで短編小説は成立できる。(378頁、強調は原著者)

 

ドゥルーズ・ガタリは三つの線を語るが、申亨澈は一つの線のみを受け入れる。彼らは中編を、彼は短編を念頭に置いて論ずるからである。中編形式は三つの線の組み立てで構成されるが、短編形式では三つの線すべてを受容しにくい。これが両形式の違いであろう。申亨澈が三つの線のなかで「われわれの生を内部から少しずつかじっていく破裂線」(378頁)を短編の本質的な線として選んだのは妥当な選択である。「短編小説は「何事が起ったか?」を問い、生から一つの破裂線を見い出す作業」だという、彼が再構成した定義もドゥルーズ・ガタリの原案より説得力がある。だが、これよりもっとよい定義だとしても、このジャンルの本質を規定する普遍的な公式とはなれない。 アルゼンチンの小説家ピグリアの「短編小説に対するテーゼ」がよりよい定義に当たると考えられる。彼は短編小説とは「見える物語」とその中に隠された「秘密の物語」の多様な方式の組み立てであり、その中で「秘密の物語が短編形式のキー」だと主張する。Ricardo Piglia, “Theses on the Short Story,” New Left Review, July-August 2011参照.  中編形式に対するドゥルーズ・ガタリの論議も同じである。豊かな脱近代的な想像力と複雑・精巧な論理を持っていて、中編が増えている私たちの立場から傾聴に値するが、「軽長編」と呼ばれる500枚内外の小説──例えば、黃貞殷(ファン・ジョンウン)の『白の影』のように軽長編の連載を通じて誕生する小説の大多数──は英米文学におけるならば中編に当たり、これらの作品に長編小説論を適用することは無理である。これも中編を読む、一つの興味深い方法でしかない。

長編小説に対する論議で申亨澈は「特定の「世界」で特定の「問題」を設定して特定の「解決」を図る叙事戦略」という自分の持論を想起させ、その延長線上で「長編小説は最小限の場合、ストーリーテリングであるが、最大限の場合、議題の設定であるとともに社会的行動であり得る」という果敢な主張を繰り広げる(379頁)。長編小説を社会的な議題や行動と無関係なものとして見なす評壇の傾向に比べ、相当進取的な態度であると思われる。もちろんだからといって、長編形式を社会の他の談論形式と同一に取り扱うわけではない。長編小説は議題設定と社会的行動を「独自的な方式」で遂行するが、申亨澈はこれを「文学的判断」機能だと呼んで次のように説明する。

 

その機能は如何なる支配的な判断体系でもっても捉えられない真実があることを告知しながら、事件を特定の判断体系の権力から回収してすべてを根本から再び思惟するように仕向ける。これが正否に対する通念的な規定を揺さぶるという点に注目して、その文学的判断体系を「倫理学的想像力」と命名することができる。(380頁)

 

このくだりは明らかに長編小説はある最終審級の真実、あるいは真理と連関のあるジャンルだという意味なのだ。長編小説は早くから特定の個人とその個人の属した階層・体制の正/否と、善/悪の基準に囚われない「真理」の問題と取り組んできたのだから、これはそれほど新しい認識ではない。ただし、長編形式と真理との連関性を忘却したかのようなこの頃の評壇では想起する価値は充分ある。ここで注目すべきことは、「倫理学的想像力」という命名である。「倫理学的想像力」という用語に接すると、一般的に「他者の倫理学」を思い浮かべやすいが、ここでの意味はちょうどその反対である。この際の倫理学はバディウの「真理の倫理学」に由来するからである。

事実、バディウの『倫理学』に開陳された「真理の倫理学」が申亨澈の長編小説論──特にその核心である「倫理学的想像力」論──を新しく整えるのに決定的な役割をする。彼はこの本の第4章「真理の倫理学」の主なくだりを引用しながら「事件としての真理」の過程をかなり詳しく述べる。そして、バディウにとって「主体」とは「真理過程の享有者」であり、「真理の倫理学」とは「真理の過程を持続させる原理」であることを強調したりもする。事実、バディウ哲学の「事件」、「主体」、「真理過程」などの概念が長編小説形式に豊かな含意を持っていることは否認できない。申亨澈はまた「倫理学的想像力を分析し、評価できる一つの観点」が必要だとしながら、シュリンク(B. Schlink)の『朗読者』(The Reader)を検討し、この小説の三段構成──ある事件の発生(1部)、事件の真実が明かされる(2部)、真実に対する主体の応答(3部)──に注目する。それから「『朗読者』が従っている「事件─真実─応答」の三段構成を倫理学的想像力で書かれる長編小説の基本文法」(381頁)として想定し、「三段階の構造を「真理の倫理学」(バディウ)の豊かな含意が包括できるように整え」て作り出す視角を「叙事倫理学」と指して称してみようと提案する(382頁)。

これで申亨澈の長編小説論は「倫理学的想像力」(長編小説の議題設定と解決を可能たらしめる文学的判断機能)、「事件─真実─応答」の三段構成(長編小説の基本文法)、「叙事倫理学」(倫理学的な想像力を分析・評価できる観点)、三つの核心概念を中心に隙間なく組み立てられることとなる。素敵な名の概念で構築された彼の長編小説論はかなり素晴らしく見える。実際、現在の評壇で長編小説の論議のため、このような批評的建築術を示した事例は見い出しにくい。ところが、素敵な「命名」の欲求とすべてを特定の枠(定義や図式)を通して理解しようとする傾向が多少過度なことではなかろうか。彼の命名法とそれによる理解の図式が持った有用性と相対的な美徳を実感しながらも、無理で不当な面が目に見え隠れする。

まず、「倫理学的想像力」(そして「叙事倫理学」)という名称の適切性の問題を取り上げざるを得ない。バディウは『倫理学』の2、3章に渡って「他者の倫理学」だの「差異の倫理学」だのという最近の西欧理論の様々な「倫理学」云々の話を手厳しく批判しながら、専ら「真理(あるいは真理過程)の倫理学」のみが唯一の真なる倫理学であることを繰り返し強調する。こういう『倫理学』全体の論旨に照らしてみる際、バディウの「真理の倫理学」核心を持ってきて長編小説論に活用しながら、それを(「真理」との連関が現れるどころか、バディウがそれほど批判した「倫理学」云々の話を連想させる)「倫理学的想像力」と命名することは不当ではなかろうか。

長編小説の「基本文法」として提示された「事件─真実─応答」の三段構成は『朗読者』を含めた相当数の長編に有用なる図式となるかも知れないが、独創的な傑作長編にはよけいな足枷となりやすい。三段構成はバディウの「事件としての真理」過程と似ている。ところが、長編小説で真理が現れる/具現される方式がバディウの「事件としての真理」過程、あるいは「事件─真実─応答」の三段構成と同一であったり類似でなければならないのか。そうではないと思う。われわれは長編小説で真理がどのように具現されるかが図式化できない。優れた長編小説はそれぞれ真理を具現する固有な方式があると見なすべきだ。そして、小説のなかで事件の真実が明かされることと、芸術作品で成される真理の具現とは同一な次元ではない。 例えば、アメリカ文学における最高の長編として数えられる『白鯨』(Moby-Dick, 1851)の場合、異質的なジャンルと様式の混合によって、扇形的な三段構成を適用すること自体が無理である。たとえその中で伝統的な小説叙事に近いアイホップの狂気の物語だけを引き離して扱うとしても、第2段階で事件の「真実」はすっかり明かされるどころか、より曖昧になったりもする。妙なことはこのために却って作品次元で「真理」の現れが可能となる側面があるという点である。

長編小説の実際批評で何より重要なのは、作家の話より小説叙事の「芸術言語」に耳を澄ますことである。作家の意図と実際具現された作品との差に敏感に反応しながら、作家の注文ではない作品の言語を読む読み方が必要なのだ。「芸術言語が唯一の真実」であり「芸術家は大抵がつまらない嘘つきであるが、彼の芸術はそれが芸術である限りはその日の真実を知らせるだろう」というローレンスの発言は長編小説を読む際、特に肝に銘ずるべきである。D. H. Lawrence, Studies in Classic American Literature, Penguin 1983, 8頁. 申亨澈が「叙事倫理学」の観点から黃晳映(ファン・ソクヨン)の『お客さん』(創批、2001)と金衍洙(キ厶・ヨンス)の『夜は歌う』(文学と知性社、2008)を読む部分で目につくことは、一方では作者の意図に振り回され、もう一方では「事件─真実─応答」の三段構成に執着することによって、実際に作品に対する批評感覚がまともに働けないという点である。二つの長編は両方とも注目に値するが『お客さん』の場合、作者の意図が比較的成功的に具現されたのに反して、『夜は歌う』の場合はそうでない。

『夜は歌う』は複雑な構成と推理的技法、公式の歴史と食い違う事実を探り、手抜かりなく記録しようとする美徳にも関わらず、小説の核心を成している愛と歴史的真実の問題においてどこか物足りない。申亨澈が指摘するように、歴史という大きい物語を「一個人の愛とその喪失という小さい物語へと解体」(384頁)しようとする意図は明らかであるが、小説のなかの男女が本当に愛しているというよりは、作者が進んで二人は本当に愛しているという話をしている感じと言おうか。ところが、そういう話をすればするほど、愛は常套的で感傷的に感じられるしかない。話者のキ厶・ヘヨンがイ・ジョンヒとの思い出を思い浮かべる場面も、ヨオクと愛し合う場面もそうである。これは歴史という大きい物語の解体を念頭に置いて、愛という小さい物語を作為的に構成する側面が強いためだと思われる。

これに比べて金衍洙の新作『ワンダーボーイ』(文学ドンネ、2012)はそういう大きい物語解体の強迫から抜け出たように叙事の流れがいっそう軽くて柔軟であるが、これは超能力の子供を話者として設定したおかげによるところが大きい。歴史や愛に対して真摯で成熟の立場を取る必要がなくなったし、幻想的な要素の運用が可能となるからである。もちろん複雑な知的迷路を楽しむ衒学的な趣向は相変わらずだし、超能力の導入でポストモダン小説の特徴はより際立つが、その特有の脱近代的な発想と奇抜な言語遊戯は相当な効果──特に他人の心中の言葉が話者の読心術に感知されて出し抜けに霞んだ活字の形で出現する際の効果──を発揮する。

 

4. 生と死の衝動、2010年代小説文学の流れ

 

今の時代に長編小説の形式がどんな意味を持つか、特定の長編小説論がどれほど有効なのかを問うためには、注目に値する長編に対する批評的論議は必須的である。ところで今の時代の「注目に値する長編」として何を数えるかの問題から実は論議の始まりである。2000年代以来、小説文学は相当多様となっていろいろな長編が出版されているから、その中のいくつかを選択することには評者の批評的判断が働くに決まっている。個別作品の評価だけでなく、言わば「本格/ジャンル」の区分に対する立場も影響を及ぼすだろう。長編小説の可能性を信じない評者ならば、また他の観点から注目に値する作品を選別するだろう。金亨中は最近発表した二編の評論金亨中、「生きている死体たちの夜1」、『文芸中央』2012年春号および「生きている死体たちの夜2」、『文学ら』2012年春号。でそのような作業を試みるが、長編小説に集中した論議ではないが、長編形式と密接な関連があるので簡単に見てみることにしよう。

金亨中は最近翻訳・出版されたブルックス(P. Brooks)の『プロットのための読書』(Reading for the Plot, 1984)を参照して近年の韓国小説の流れをフロイトの精神分析学的な観点から再検討しながら、生の衝動より死・破壊の衝動が支配する叙事が「優勢種」となりつつあっていると主張する。欲望と希望の叙事より死と破局の叙事が増えているということである。彼はこういう主張の根拠として尹成姬(ユン・ソンヒ)の「ブーメラン」、韓裕周(ハン・ユジュ)の「盗まれるはずの手紙」、鄭泳文(ジョン・ヨン厶ン)の『ある作為の世界』、バク・ヒョンソの「私は『ブティの千年』をこう書こうとする」、キ厶・テヨンの「抱え主物語」、姜英淑(カン・ヨンスク)の『ダンベル体操をする夜』、キ厶・サグァの「正午の散歩」、金柳眞(キ厶・ユジン)の『隠れた夜』などを取り上げる。また、作品の論議は行わないが、ジョ・ハヒョン(『組立式菩提樹の木』、『キメラの朝』)、朴玟奎(バク・ミンギュ:『ピンポン』、「ギプ(深)」、「スル(膝)」)、白佳欽(ベク・ガフム:『コオロギが来る』)、金愛爛(キ厶・エラン:「水中のゴリアテ」)、片惠英(ピョン・ヘヨン:『青いガーデン』、『灰と赤』、『夕方の求愛』)、ソ・ジュンファン(『孤独もまた錯覚なのであろう』)にも触れる。

金亨中の今回の主張は、西欧の19世紀リアリズム小説以後、「世界がもうこれ以上有機的で因果的な認知の対象となれず、社会の総体的な眺望はこれ以上不可能なほど曖昧で破片的」に変わって、「長編小説を書くことは不可能であったり(…)望みのない作業」金亨中、「長編小説の敵:最近の長編小説に関する断層」、『文学と社会』2011年春号、256頁。となったという自分の「長編小説不可能論」と密接な連関がある。今回、彼がブルックスの著書から着眼したものは、19世紀小説の内部に入ってきた蒸気機関である。

 

ピーター・ブルックスの話のように、19世紀の小説が近代的であったことは、それが蒸気機関の支配する世界をうまく描写したからではなくて、初めから小説の内部に蒸気機関を持ってきたためである。19世紀の偉大な小説の内部には強力なエネルギーを噴出しながら叙事を突き動かし、プロットを作り、意味ある結末が出る前まで読者たちのリビドー集中を誘引する、あるモーターが装着されていた。それは時には作品で重要なモチーフの役割を行った蒸気機関であったりもしたし、主には主人公たちの欲望であり、身分上昇への意志であり、よりよい生に対する希望のようなものであった。より大きくは近代全体を支えていた、だが今になって考えると、別に根拠のなさそうな「限りない進歩」という神話であった。 「生きている死体たちの夜2」、279頁。  

 

引き続き彼は「前の時代の韓国文学のなかにも蒸気機関は装着されていた」と断言しながら、80∼90年代の韓国文学を突き動かした近代的エネルギーは、具体的な発現様態は違っていても、その構造において西欧の19世紀小説のそれと酷似していると主張する。この辺で金亨中の最終的な主張を推測することは難しくない。つまり、2000年代以後の韓国文学で、生の衝動エンジンを装着した小説より、死と破壊の衝動エンジンを装着した小説──先に列挙した作品ら──が次第に優勢種となっていっているということである。

金亨中のこういう主張に一理がなくはないが、一面の真実を全部であるかのように押し付けるもう一つの例である。イデオロギーがそうであるように、「半分の真実」は興味を惹くが、全くの出鱈目の論理より事態を歪曲するのにはむしろより効果的である。まず西欧の19世紀小説に対するブルックスの精神分析学的なナラティヴ研究が持った美徳と限界に対する批評的感覚がないし、ブルックスの論旨を単純化しながら自分の考えに符合する方へと持っていく問題もある。簡単な反論を行うと──『偉大なる遺産』(Great Expectations, 1861)のようなイギリスの長編小説もそうであるが──19世紀半ば「アメリカ文学のルネッサンス」を花咲かせたホーソーン(N. Hawthorne)、メルヴィル、ポー(E. A. Poe)の小説は、そのような一面的な「蒸気機関装着論」では到底説明できない。例えば、推理/恐怖/幻想小説の開拓者であるポーは、金亨中が2000年代以後、韓国小説の優勢種として取り上げた死と破壊の衝動を装着した小説の嚆矢である。またホーソーンとメルヴィルはどうか。アメリカの独立以後、希望に浮かれた時代の雰囲気のなかでアメリカ史と近代文明の闇を最後まで直視して「近代全体を支えていた(…)「限りない進歩」という神話」の最も深い根まで省察した作家たちではないか。ホーソーンの『緋文字』(The Scarlet Letter, 1850)、メルヴィルの『白鯨』と「代書人のバートルビー」のような小説は、取りも直さず近代の個人と社会内部に「装着された」蒸気機関に対する繊細で奥深い芸術的探査である。これに比べると、20世紀のモダニズム小説は自己内部の蒸気機関を解体することに没頭したあまり、世の中の蒸気機関が破局へ走っているのを直視しない/できなかった面があると思う。

金亨中が2000年代以後の韓国文学で優勢種として数える小説のかなり長いリストに対しては、まず死と破局の叙事が増えていることは明らかであるが、優勢種となっているという話は彼の主観的な判断であることを指摘したい。俗語で「量だけ」数えて優勢種として浮上するものは、商品性を最大化しようと努める大衆的小説ではなかろうか。こういう小説は売れるならば感傷的な事実主義は勿論のこと、推理とスリラー、ファンタジーだけでなく災難と破局の叙事もいくらでも受容できる。死の衝動を内蔵した作品らの「量」ではなくて芸術的な「水準」を問うためには、終末論的叙事の政治性を含めた幅広い論議が必要である。終末の政治的主体を中心に、注目に値する批評的論議を試みた例として、黃靜雅(ファン・ジョンア)、「災難の叙事、終末の想像:近来の韓国小説における一つの系列に対する検討」、『創作と批評』2012年春号参照。まずこのような系列の小説の間でもどの作品がより上出来なのかを見定める必要があるのみでなく、他の系列と比較すればどの位の水準なのかも評する必要がある。死と破壊の衝動で書かれる小説のなかでも、ポーの作品のようにある境地に達した場合は稀である。長編小説の論議と関連して注目すべきことは、死と解体の感覚が圧倒的なポーが(短編様式における業績は先駆的であったが)秀でた長編は書けなかった反面、生と死のリズム感を両方とも持ち合わせたホーソーンとメルヴィルがアメリカ文学における最高の長編を書いたという事実である。このことは優れた長編は生と死の衝動のなかで、ある一方の独走ではなく両方の協奏に近いということを暗示する。

2000年代以後登壇した韓国の若い小説家たちのなかでも、生と死の感覚、創造と解体のリズムとを併せ持っている作家が相当数いると思う。金亨中のリストに上がっている尹成姬、朴玟奎、金愛爛、そしてそのリストから抜けているが、特異な感受性を持った黃貞殷(ファン・ジョンウン)を含めて多数の作家がそうである。たとえ今はある一方の衝動が強い作家であっても、多様な叙事実験を通じて自分の新しい一面を見い出すこともあり得る。要するに、若い小説家たちがよい長編を書く可能性は確かにあるということだ。だが、これまでの成果は満足するほどのものではなかったことを率直に認めるべきであろう。申京淑(シン・ギョンスク)の『母をお願い』(創批、2008)と朴玟奎の『亡き王女のためのパバァーヌ』以後には、金愛爛の『ワクワク我が人生』くらいを確実な成就として数えられよう。この作品に対して長編なのかそうでないかの口論まであったが、それに対しては他の紙面で論じたことがあるので、 拙稿、「家族の再構成:家父長制と近代主義を超えて」、『今日の文芸批評』2012年春号、272∼78頁参照。申京淑、權汝宣、金異説(キ厶・イソル)、金愛爛、孔善玉(ゴン・ソンオク)の長・短編小説を特定の主題と連結して取り扱ったこの評論は、長編に焦点を合わせた論議ではないものの、筆者なりに注目した長編小説を論議に含ませた。權熙哲(グォン・ヒチョル)の真面目な評論(「感情教育:金愛爛の長編『ワクワク我が人生』のためのノート」、『創作と批評』2012年春号)もこの作品が単なるよい小説に留まるものではなくて、優れた長編であることを実感させてくれる。ここでは一言二言だけ付け加えることにしたい。

金愛爛の『ワクワク我が人生』は伝統的な長編小説論の観点から見ると、欠格理由が目につく。何よりもこの作品は社会的地平というべきものが──全くないわけではないが──貧弱である。よく長編で期待する、個人の生を超える共同体の歴史や社会的問題に対する関心と比重が非常に少ないと感じられる。しかし、長編小説が社会現実をどれほど、そしていかに取り扱うべきかを前もって決めておく必要はない。むしろ「長編小説が取り扱うものはあくまでも個々人の具体的な生が先」であり、「唯一無二の単独者としてその個人の生、その個人が他者と結ぶ関係、周りの自然や事物と結ぶ関係の真実に対して根本的な問いを続けていくと、それが時代現実に対する問いに届くしかない」という認識が重要である。 拙稿、「韓国文学に開かれた未来を」、227頁参照。

この作品はハン・アル厶という具体的な個人が結ぶ二つの関係に集中する。一つは両親、特に父親との関係であり、もう一つは仮想空間で出会ったイ・ソハという仮名を持った人との恋人関係である。両者との関係においてこの作品は、それ以前の小説が見せることができなかった新しい境地へと進んだ面がある。両親との関係では血肉を前提として結ばれ、天倫という当為性の与えられた伝統的な親子関係から脱して、両親もまた他者として受け入れる地点へと進んでいく。ハン・アル厶とイ・ソハの関係では仮想現実が生の重要な一部となった今の時代に、愛の本質が新しく探求される。例えば、愛とは固定された正体の個々人が相手の正体を知ってから、それに基づいて親密な関係を築いていくのではなく、「どちら様ですか?」という問いとそれに対する応答を本質にして結ばれる、ある瞬間の真なる関係結びが先であり、個々人の正体はその関係によって新たに再構成される面があることを悟らせる。だからこそイ・ソハが正体を騙したのを知ってからもハン・アル厶は「君とやりとりした手紙のなかで、君と私が交わした話のなかで、私は君を見た」(『ワクワク我が人生』、308∼9頁)と言えたのではなかろうか。

最近、ブームであるSFのようなジャンル小説と、災難と終末の叙事では、多くの秀作短編が出ており、これを土台にしてそのうち成功的な長編が出てくることを期待する。今の時代における女性の生とその時代的桎梏を省察する叙事もまた優れた短編が多いが、長編ではまだ確実に満足に足りるほどの作品は出ていないと判断する。ただし、金異設(キ厶・イソル)の『幻影』(子音と母音、2011)と崔眞英(チェ・ジンヨン)の『終わっていない歌』(ハンギョレ出版、2011)はその潜在力の面で注目に値するし、次期作を待ちたい。裵琇亞(ベ・スア)の『ソウルの低い丘』(子音と母音、2011)と韓江(ハン・ガン)の『ギリシア語時間』(文学ドンネ、2012)は二人の作家の各々の繊細な感受性で存在の新しい層位を探りながら、言語と存在、場所性と関係性に対する問いを投げかける。中編形式により相応しい作品という気がしながらも、彼らの次回の叙事的冒険を期待することとなる。

最近、中堅作家たちを中心に成長期の生を顧みる小説がどっと溢れ出ている。例えば、チョン・ミョングァンの『私の叔父、ブルース・リー』(全2巻、イェダム、2011)、金英夏(キ厶・ヨンハ)の『君の声が聞こえる』(文学ドンネ、2012), 權汝宣(グォン・ヨソン)の『レガート』(創批、2012)などは作者個人史の結節点と韓国現代史の重要な契機を連結して、現在の成熟した視角から書き直そうとする試みである。長編のみができる企画であり、映画、ドラマ、漫画のような大衆文化ジャンルのコードを活用することで、マーケットジャンル特有の活力を蘇らせようとする試みを悪く見なす理由はない。だが、大衆性と作品性をともに満足させることは容易くないが、芸術的な成就のかなめは歴史を楽しく消費する大衆文化の方式に帰着されずに、その個人の生と成長期の時代現実にどれほど核心的な質問を投げかけ、その質問を現在的な生との連関のなかでどれほど根気よく追及するかの問題であろう。この系列の作品は現在連載中のものも相当数ある。これまで発表された作品はそれぞれ長短を持っているが、人物たちの固有性と関係性に対する鋭敏な感覚、言語的密度と活力で際立つ『レガート』が注目に値する。苦しめられる生の現場を思慮深い心で察する孔善玉(ゴン・ソンオク)の『輝かしい時代』(創批、2011)と金呂玲(キ厶・リョリョン)の『刺の告白』(ビリョンソ、2012)はよく事実主義叙事、あるいは青少年文学として分類されて評壇の関心の外に置かれているが、注目に値する長編に含ませるべきである。また、ジンギスカン(テムジン)の成長期を取り扱った金炯洙(キ厶・ヒョンス)の『ジョード』(全2巻、子音と母音、2012)の出版を切っ掛けに、これまで歴史的真実に対する関心は薄れ、恣意的な解釈が溢れていた歴史小説ジャンルに新たな契機が設けられることを期待する。

金永贊の言葉通り、2010年代は不可避に長編の時代である。小説の創作現場は色んなジャンルと分野で短編の成就に基づいて成功的な長編を発表しようと奮闘している。言うならば短編の丘から長編のより高い山へ体を投げ出して登ろうとする、大変な冒険を敢行する形勢だと言える。批評家たちがその創作現場を守り、的確な論議を行うか、それもと沈黙を守ったりとんだ方向へ引っ張っていくかによって状況は大きく変わりうる。

 

翻訳:辛承模

季刊 創作と批評 2012年 夏号(通卷156号)2012年 6月1日 発行

 

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