[インタビュー] とどまることなき詩精神、高銀文学50年

対話│文壇デビュー50周年記念対談

 


 

高銀(コ・ウン)詩人。詩集『彼岸感性』『夜明けの道』『萬人譜』『白頭山』『君の瞳』『明日の歌』『独島』『置き忘れた詩』など。

李章旭(イ・ジャンウク)詩人・小説家。詩集に『僕の眠りのなかの砂山』『正午の希望曲』、散文集に『私の憂鬱なモダンボーイ』、長篇小説に『カーロの愉快な悪魔たち』など。

 

 

とき:2008年 7月 22日

ところ:細橋(セギョ)研究所

 

 

雨の合い間にかすかに陽光が射した。かすんだ陽光の合い間を思い出したように鳥たちが飛んだ。西橋洞(ソギョドン)の細橋(セギョ)研究所で高銀(コ・ウン)先生にお会いした日の空模様がそうだった。私は世界的に名声を得た韓国の代表的詩人ではなく、文学青年時代の1ページを飾った私の心の中の詩人に会いに行った。陽気のせいだったろうか。興奮やときめきよりは、長く読んでいてもどこか違和感のあった彼の詩と、その詩の50年がおぼろげながらに感じられた午後だった。50年もたったとは。それはどのような歳月だったろうか。戦争と虚無と民主主義を経て、彼の50年はすでに個人史的な回想の対象であると同時に、韓国の近代文学の一章になってはいないだろうか。

遠巻きにはお会いしたことがあるが、直接対面したのは初めてだった。先生は席につくとコーヒーではなく焼酒をくれと言った。なんとなく嬉しかった。私は詩歴50年を記念し回顧する対談の場ではなく、おそらく私的な酒席で詩人のお話しを聞きたかったのかもしれない。

 

李章旭 梅雨なので湿気もありますし雨もよく降りますが、最近ご健康の方はいかがでしょうか?

高銀 普通に暮らしていますが、特に健康のためには何もしていません。家にいる時は夕飯を食べた後に妻と一緒にたんぼ道を30分くらい散歩します。普通の人のように夜寝て、朝起きて、働いて、遊んで……。

李章旭 ある対談を見ると、かなりの遠距離を移動されても時差をあまり感じないとおっしゃっています。健康的な体質でいらっしゃるのは何よりです。

高銀 鳥の移動感覚に少しずつ近付いてきているようです。だいたい鳥は南北に行き来しますが、別に時差もなく現地の時間に合わせてすぐ適応するじゃないですか。西方へ行く時より西の方から帰って来た時の方が時差の緊張を感じます。

李章旭 最近、『詩と詩学』誌に新作詩を36編載せています。一番の最初の「インド洋」という詩が印象的でした。「泣く//この滅亡のような赤道インド洋の海原を出て/これまでの50年を泣く」で始まりますが、ここで「50年」というのは、先生が文壇デビューした1958年以降これまでを指すのではないかと思いました。詩の末尾を見ると、「いつの間に/真っ赤な日没/はやく真っ暗になれ」と書いています。ある種の悲しみのようなものも感じられ、またある点から見れば、暗闇に対して超然としている声のような感じもします。

高銀 その詩は李さんご指摘の通り、私自身の50年でもあり、またあえてそれを「私」というものの他に意味を付与するならば、韓国の遠洋漁業がおそらくそのくらいの歴史を持っているのではないかと思いますし、そのようなものも念頭に置くことができます。だから私はインド洋という私の想像体系が、実は現実の多くのものとさほどかけはなれていないということを考えたかったのかもしれません。だから遠洋漁業の50年を振り返ることと私の50年を記録すること――この2つを接点にしたと言えます。

実は50年や100年というのは、ある宇宙の獣が閉じていた目を開けたことほどのものかもしれませんし、でも、それが人であるとき、時間というものを作って意味を付与するので、あらためて50年だとか100年だとか、そのようなものに私たちがこだわっているのかもしれません。私は私自身の前世の年譜というものを設定しました。1933年から始まる私の現生の生はなぜか制限的なので過去に延ばして見ました。そこでは今の詩人としての50年よりもはるかに多くの生の意味を持っています。にもかかわらず厳然たる現実は私に与えられた現在の50年であり、その時それを振り返る行為があるでしょうが、ちょうどこの50年は、私もそこに居合わせることとなった韓国近代詩の100年と出会うことであり、だから韓国近代詩の半分を私が生きてきたのであるという、そのような意味を確認したくなったりします。だからといって、それ以前の50年が私のものではないというわけでもありません。なぜなら実際に私は「海から少年に」の詩人、六堂・崔南善(チェ・ナムソン)に会って彼とお茶も飲み、また私の同じ年配の友人で金冠植(キム・グァンシク)という人は、はなはだしくは六堂の愛弟子であると自称し、また弘恩洞(ホンウンドン)の山頂に家を建てた時、六堂を追慕する家という意味で「六慕亭」と名付けたりしました。ですから、近代詩の第一世代と1950年代に文壇デビューした私たちは同じ風雲の中で生きてきました。そして実際にその時、李光洙(イ・グァンス)は拉致されて会うこともできませんでしたが、その奥さんとはよく往来がありました。孝子洞(ヒョジャドン)の産婦人科へ行くと李光洙が『元曉大師』を書いた部屋を記念に空き部屋にしていました。だから100年と50年の詩的な時差のようなのがほとんどなく、ひとつになって生きてきたのです。そしてその後、金素月(キム・ソウォル)や鄭芝溶(チョン・ジヨン)のような人々も夭折や戦乱で会えなかっただけです。1つの同時代の生でした。実は私の50年は、夭折する詩人の多い近代韓国詩史から見れば、2度以上の夭折が可能な月日でもあります。

李章旭 2度以上の夭折が可能な月日だとおっしゃるとそれもまた新鮮です。今おっしゃったように、先生の詩歴50年は韓国の近代文学史と重なる時間でした。最近は海外にもかなりいらしていますね。

高銀 海外から招請を受けて10年くらいになります。10年くらい前に初めて海外に行った時は胸がどきどきしました。「ああ、あの人が活字を通じて会ったあの人だ」と思って。西欧の詩をうわさで聞いていて詩の実体に出会うと、まるで読者が作者に出会った時の古典的な胸のときめきのようなものが入り込んできたわけです。そのようなぎこちない段階が10年のうちにきれいになくなり、むしろ彼らが私により好奇心と関心を持って近付いてきました。それくらい変わりました(笑)。

李章旭 ギンズバーグ(Allen Ginsberg)やスナイダー(Gary Snyder)のような詩人と往来があると聞いていますが、韓国と東アジアを代表する詩人として、この西洋の詩人と同質感とか、あるいは違いのようなものも感じましたか。

高銀 私を東アジアの何とかとおっしゃいましたが、それは身に余ることです。ですが、韓国の詩がたとえば日本近代詩より遅く始まって、ある意味では日本の近代詩を受け入れた一種の二次移植とでも言えるでしょうが、にもかかわらず私が断言できるのは、詩は東アジアで日本より韓国の方が上です。また悠久の古代以降に名詩をかなり持つ中国の現代詩でさえ、今日の韓国詩よりも決して優れているとは言えない国際的なプライドを経験しています。郭沫若と崔南善の新詩を比較する段階はもう終わりました。

私が最初に出会った西洋の詩人はアメリカの詩人でした。ギンズバーグが韓国に来た当時の韓国は新軍部政権の強圧的な社会でしたが、そのことを直感した彼がこれは違うというので他を探してみたんです。創作と批評社の主催で彼と私が合同で詩の朗誦会を持ちました。そしてこの人が私に対する印象を持ち帰り、スナイダーと電話して、韓国に行けば高銀がいるから会ってみろと言ったそうです。ギンズバーグはニューヨークに住んでいて、スナイダーは西のカリフォルニアに住んでいました。だからスナイダーも、会う前から私に見当をつけていました。私の詩集がアメリカで最初に出た時、ギンズバーグが激賞してくれましたが、その数日後に彼は他界しました。私があの時、米軍放送をつけて見ていたらギンズバーグが死んだというニュースが流れて、その日はおかげでずいぶんお酒を飲みました。

そしてカリフォルニア州立大学バークレー校の招請でアメリカに行き、スナイダーと一緒に詩を読みましたが、あの時「ギンズバーグが私に、ニューヨークに来たらそのまま帰らずに西の方に行ってスナイダーに会って行けと言いましたが、ようやく会えました」と言ったら、スナイダーも「私にもギンズバーグがあなたに会ってみろと言いましたが、今日、ようやく会えました」と言われました。あの時、私は「死んだ一人の詩人が、生きている二人の詩人と一緒にいる」という詩を書いたこともあります。

 

李章旭 ギンズバーグも仏教と関連がありますが、スナイダーは日本で仏教に深くかかわっていたようです。やはり近さのようなものを感じました。

高銀 ギンズバーグはチベット仏教です。そしてスナイダーは日本の臨済宗です。臨済宗ですが、彼の世界は決して宗派主義に陥りません。彼は私に地球の向こう側の弟の詩人だと言い、また最近の詩集には私にくれた献詩もあり、また私のことを歌った詩も別途にあるほど格別な仲になりました。

 

 

今日書いている詩がもっとも祝福された詩

高銀 は生まれつきの北方系である。顔付きや容貌ではなく霊魂の構造がそうだという意味だ。彼には定住より遊牧の生がよく似合う。この遊牧的な生は、しかし現代社会の特性といわれるいわゆる「ポストモダン的」な遊牧ではなく、古代的な気象を秘めた流浪の遊牧に近い。だから精密な細部描写よりは草原の咆哮の方が、都市の裏路地よりは悠々とした山や瀧の風景の方が、彼には似合うと言うべきだろう。近代的市民の霊魂よりは古代的な霊媒の霊魂に近いとも言えるだろう。その豪放な裏面に存在する纎細な感覚こそ彼の力だろう。そのような意味で私は、彼の詩的な「故郷」がどこにあるのかを知りたい。いや、もしかしたら、旅立つこと自体を故郷とする詩人の内面、あるいは故郷を絶えず作り出して来た詩人の本能のことを知りたいのかもしれない。

李章旭 最近、発表された詩の話の方にまた戻りましょう。「雪の降る日」という詩を見ると、「素月よ/芝溶よ/君達はぼんやりと知っていただろう/人類最初の言語が/「ああ」/であったことを//ブレークよ/ヘルダーリンよ/君達はぼんやりと知っていただろう/人類の最後の言語が/「ああ」/であろうことを」とお書きになっています。おそらく「ああ」というのは、言語以前の言語、意味以前の言語のようでもあり、もう少し根源的な、故郷のようなものでもあるでしょう。

高銀 私たちの言語は人類社会の時間から見ればきわめて最近の行為です。ですが、まるでここから始まったかのように、私たちは言語に呪縛されており、また言語の中から到底抜け出すことができずに生きており、また他の生の体系とは全く異なり、言語内の独特の自分だけの存在自体を生きるという、人文的な虚像の中にいるのではないかと思います。ですが、実は人類史において言語生活はかなり短い期間にすぎず、私たち以前に生命系を導いて来たすべての生命体は言語なしに存在してきました。あのおびただしい、無限の言語不在の時期を経て、そこからようやく生まれたのが、「ああ」とか「おお」とかいう、感歎、恐怖、痛みのようなものを通じて出てきた音の記号でしょう。そのようなものから私たちの詩の非言語的な先史を受け継いできたという、あのはるかな詩の故郷、そこに一度触れて見ようという意味で、素月、またあちらのヘルダーリン(Hölderlin)のような方々に、私たちの言語の始めと終わりを思い起こさせてみたんです。そしてこの言語というものは、世界の自らの限界とも同じで決して永久のものではありません。言語というものはいつかみな消えます。それほど厳然たる不安としての空間を言語で満たしているということ、このような点で、詩、または言語の故郷がどこなのか、その終わりがどこまでなのか、非言語でも言語でもない「ああ」や「おお」のような感嘆詞の行方に近付いてみようと思いました。

李章旭 言語の限界というか、そのようなものを誰よりも鋭敏に感じていますが、にもかかわらず言語を通して語るしかないという、矛盾した状況にいる存在が詩人です。先生はこれまで150冊以上の本をお出しになって、2002年には各巻600ページ内外の分量で全38冊の全集を出されました。

高銀 あれも完全な全集ではありません。収録されていない作品もあり、なかなか見つからない作品もあります。そのようなものまで全集に入れたら40冊ほどになるでしょう。2002年に出たので、将来、追加しなければならないものもあります。当時、あの全集が出た時、ラッセル(Russell)のことを思い出しました。どのくらい書いたのかと誰かが聞くので、「私の著書は私の背丈ほどだ」と言ったといいますが、実際に私の全集も私の背丈173センチほどにはなります。子供のように「うちに麦がどれほどある、米がどれほどある」などと自慢でもしているかのようですが、酒を飲んだり働いたり遊んだりした、その名残です。おそらくこの成果は、近代詩100年の前半の先覚者の詩人らが、せいぜいのところ詩を数編書いて詩集一冊ほどで生涯を終えてきた事例に対する反動でもあるでしょう。

李章旭 これまで出された膨大な量の詩集の中で、それでも一番愛着のあるものがありますか。一種の詩的な故郷のような……。

高銀 私はまず自分の作品で憶えているものはありません。たかだか2行の短い詩……そうですね、それも今すぐには思い出せません。変なんです。『萬人譜』の世界や他の詩世界の素材は奇妙なくらいによく思い出せるのですが、いざ自分の作品については完全にだめです(笑)。なので特定の作品に対する愛情などははじめから成立しません。そして私には、今日書いている詩がもっとも祝福された詩で、一番いい詩です。そしてそれも、明日やあさってに書かれる作品にその座を渡して消えてしまいます。だから私の体質は自分の作品に対して徹底的に無責任な構造になっています(笑)。

李章旭 ある席で、先生はニヒリズムでも、民族でも、禅的な世界でも、自らその座を確保したどのようなものでも、それらのものから絶えず脱し、乗り越えて、これまでやって来たのではないかという主旨のことをおっしゃいましたが、今日書いている詩がもっとも祝福された詩であるというお話しも、おそらくそのような脈絡でしょう。詩人にはある種のユリシーズ・コンプレックスというか、そのような帰郷意識があるようですが、先生は故郷を眺めながら同時にそれを否認して絶えず進んでこられたのではないかと思います。

高銀 さきほど多くの曲折を経てここまで来たと言いましたが、それをユリシーズ(Ulysses)的な……韓国の現代史のなかで詩人の道だけが、ただ私にとって険しい道程ではありませんでした。ですが、ユリシーズの行路に自分の世界が反映されるのは好きです。好きではありますが、ここからあそこまで、またその次にあそこからまた異なるあそこへと旅立つ、その漂流と漂着の連続過程が私と合っているのであって、イサカ(Ithaca)に帰郷するユリシーズとはあまり合いません。その点で私は、今も一定の文学の帰着点に根をおろして定着するということを……まず私自身がそれを許容できません。私はある1か所では耐えられません。またどこかに行かなければなりません。だから私は終わりなきユリシーズの道、その道の文学であると言えます。

李章旭 ある意味で言えば、「遊牧的な生」とでも言えるでしょう。

高銀 現代の言説言語としての「遊牧」はあまり好きではありません。

李章旭 ジャック・アタリ(Jacques Attali)式のポストモダン的な遊牧とは違うでしょうが……。

高銀 遊牧というのは先史または古代からあったものじゃないですか。ですが、そのような人類史的・民族誌的な遊牧という概念よりは、単に「漂流と漂着の連続」という概念の方が、私にはより血縁化されているようです。昔の流行歌に「男は船、女は港」という歌があるでしょう。とにかく一つの港に錨をおろしていれば、翌日から自分の錨はさびてしまうはずで、船も腐ってしまって、船の中にいる船員も流浪する心臓の律動が止まってしまうでしょう。だから私はどこかに旅立たなければ先に進むことができません。私にとっては家さえも道です。李白の言葉を借りるならば「百代の過客」です。

 

 

1950年代、戦争と虚無の記録

高銀 は「遊牧」という表現ではなく「漂流と漂着の連続」という表現を選んだ。当然かもしれない。遊牧という表現にはある種の余裕があるが、先生のこれまでの人生はそのような余裕を許容しなかっただろう。漂流と漂着、この語彙にはある種の切迫感がある。私はその切迫感の遠い起源が1950年代であると思った。彼は50年代が終わる頃、文壇にデビューしたが、50年代はひそかに高銀の霊魂に火印を残しただろう。あの時代は戦争と惨禍の時代なのである。

あの時代を彼は、現実にはいない「姉」のやるせない病とともに耐えた。かの有名なデビュー作「肺結核」には、このような表現がある。「自分の苦しむ薄布団の日曜日を/姉さんがそのように見ている。/いつも来るものはなく去るものだけ/姉さんがチマの裾をなでながら/化粧をした顔の汗をぬぐう」。その苦しむ薄布団の日曜日、いつも来るものはなく去るものだけだった、その時代について質問してみた。

李章旭 先生の創作50年の歴史で、いくつかの時期について少しずつお聞きしながらお話ししたいと思います。先生の散文の中で『植民地のジプシー』という詩人・李箱(イ・サン)の評伝とともに、『1950年代』というエッセイを印象深く読みました。豊富な資料調査のうえにとても具体的なデッサンが加味された省察的なエッセイだったと記憶しています。先生が文壇デビューなさったのは1958年ですから、戦争時代の文壇……金東里(キム・ドンニ)のように比喩するならば「密茶苑(ミルダウォン)時代」というものを直接には経験されなかったでしょうが、とても鮮やかに描写されていました。あの本に書かれていたように、1950年代という時代は「戦争」と「虚無」が文学的なキーワードでしょうが、この時代が先生の初期の詩に及ぼした影響のようなものがあったと思います。

高銀 第一に50年代は詩にとってとてもふさわしい環境です。どういうことかというと、詩は唐詩があってその次に宋詞がある、たとえば唐の李白の次に宋の蘇東坡がいた、このように言うと詩は死んでしまいます。唐の国がなくても蘇東坡はいなければならないのです。そのような意味で詩には太初性があります。父親がいないのです。母親もいません。宇宙の孤児に生まれついたのが詩人であり詩です。彼に父がいて過去の遺産があったら、遺産の痕跡にとどまるしかありません。反映論として詩があるならば、その詩を何のために書くのでしょうか。詩はそのような点でとても荒々しい勃起の革命行為です。

ですが、どうして50年代かというと、50年代はすべて滅びてしまった時代だからです。家がすべて崩れ、明洞(ミョンドン)のどこに行っても草地やススキ畑でした。ようやく西洋から来たキリスト教旧教の聖堂一つを米空軍が確保して爆撃されなかっただけで、ほとんど廃墟だったんです。その廃墟がすなわち50年代のゼロ(zero)空間でした。そこで生き残った廃墟の孤児として、私は詩を書き始めたのです。私はその戦後のゼロ地点ほど、詩の祝福となる場所はないと思います。

もう一つは、そのような現実としての廃墟だけではなく、すでに自分の心も廃墟になってしまったのです。イデオロギーの低質な奴隷となって互いに殺し合う生存の限界状況において、純朴な田舍の農村の少年は、無智で暴悪な、手におえない精神の外傷を受けました。私の胸の中に灰燼がどっさりと入っていました。それがまさしく虚無です。あえて言うならば、西欧の19世紀末のニヒリズムに接近するはずもなく、といって東洋の老荘世界や仏教の無の思想のようなものが急に私に迫ってきたわけでもありませんでした。私はほとんど生得的にそのような廃墟意識や虚無意識の原点から始めたわけです。しいて言えば、それが私の初期の詩の虚無であるという指摘だったのでしょう。

李章旭 灰燼としての虚無、かなり物質的な虚無であると言えます。このような虚無感が先生の初期の詩では血縁的に「姉さん」の存在につながっているようです。ずいぶんと言われてきたことではありますが、デビュー作の「肺結核」もそうですし、「療養所で」や「奢侈」のような詩にお姉さんの話がかなり出てきて、ある評者は「姉コンプレックス」という表現を使ったりもしています。ひるがえって言えば姉コンプレックスというもの、姉や兄嫁に対する愛というものは、父親や兄の不在の状況についてのものであるかもしれません。だから金允植(キム・ユンシク)先生の場合には、父親と兄の不在状況を補うためのものが、その後の生の意志として現われ、まさにこの生の意志が表出された空間が鍾路(チョンノ)や光化門(クァンファムン)という(政治的な)空間であると説明しました。このように見ると、先生の60年代の詩と70~80年代の詩を分けて断絶的なものと見るのが一般的ですが、二つの時期の間の内的な必然性も考えてみることはできると思います。

高銀 いい指摘です。一つの真実には必ず偶然と必然が交差します。初期の詩と中期の詩を断絶的な概念として語る場合を知っています。便宜上はいくらでも可能でしょうが、実際に詩人の自己確認においてはそうではない詩の方が多いでしょう。どうしてそのように断絶的に把握してしまうことができるでしょうか。私は「初期詩」「中期詩」と名付ける時、その境界の接点が本当に難しいと思います。経験的な話です。私は実際に現実参与の行為としては通りの真ん中にいましたが、私の文学は過去の周辺のどこかで、なかなか鳴らない太鼓を打っていたようなものです。そうするうちに中盤以後に至って、当時の私の文学転換の位相と詩の行為が一致しました。ですからぴたりと「これからは後ろ向け後ろ!」と軍令によって動くそのような歩兵のような動作ではありませんでした。

李章旭 以降、先生の世界とつながる地点でもあるでしょうが、全集の序文に書かれていたように、この姉という存在自体が最初から世界の病を代わりに病んでいる人でもありました。

高銀 姉についていくつか申し上げます。私は事実としては姉がいません。金春洙(キム・チュンス)のような人はあまりに平面的で正直だから「私には姉がいない、姉がいたらどんなにいいか」と歌いました。ですが、私はそのように歌ってはいられません。私には姉がいません。私の心の中には、実際にはいない姉がいる姉として設定されました。私にはその虚構がもう一つの現実になりました。実際に幼い時期、家に女性といえば母しかいませんでした。だから姉を作ったのです。

李章旭 「ウニ」という名前も付けました。

高銀 とても美人でした(笑)。私と反対のイメージで姉を作ったんです。そして私は肺結核を病んだこともありません。そのような虚構とともに、私につきまとっていた死への志向が激しくなります。肺病で咳をして死ぬことが当時の私には一番理想的な死のイメージでした。夜の12時まで咳をしていて夜明け頃になると咳が消えること。そのような死です。馬山(マサン)のカポリ療養所、そのカポリに行って肺結核患者として療養して死ぬこと、それが私の夢でもありました。カポリがどこかも知らずにです。とにかく私が肺結核にかかり、だけど、その姉が私を治療していて、その病がうつって代わりに死にます。だから一種のバクテリアを通じた近親相姦です。その姉の死骸に化粧をして遺骨箱を持って流浪するのです。そうしているうちに西部の多島海の船の上で散骨をして入山し、このようになりました。その後、私は「姉コンプレックス」と言われるようになりました。

李章旭 あるものを読むと、先生が健康検診を受けたら……。

高銀 1980年代に内乱陰謀罪でつかまって釈放され、最初に健診を受けた時、片方の肺が完全になくなってセメント化していたことが分かりました。ですが私は、風邪はひいても肺結核にはかかったことがなく、血を吐いたこともありません。「喀血」という詩も書きましたが、白紙の紙の上に赤黒い血を吐く色感の恍惚性、このような虚構を作ることはしても、一度も自分の身体がそのような色感としての血を出すことはありませんでしたが、いつの間にか病が深く進み、3期が終わった後、片肺だけが残ることになりました。今も片肺です。だから講義をする時は、虚構は結局、事実あるいは真実に帰結すると言います。虚構と真実の違いはついになくなる、だから絶えず虚構を志向せよ、それは窮極的に現実の例外ではない――このように言ったことがあります。

李章旭 『浜辺の韻文集』に見ると「私の中の農業」という詩があります。そこに「私の晩婚の時期」という部分がありますが、この詩集が出たのは60年代中盤ですから、まだ結婚をなさっていない時ではないですか(笑)。見えない真実を引き出すものとしての虚構とも言えます。

高銀 だから私は自分の虚構を信じます。現実はもしかしたら虚構の物質的段階かもしれません。歴史というものにも事実の領域より虚構の領域がかなり占めているでしょう。だから歴史も詩です。

李章旭 初期の詩の話が出たついでに、もう一つ質問を差し上げます。『文義(ムニ)村に行って』までの初期詩を集めた選集が1974年に出た『復活』という詩集です。私が大学時代にすりきれるほど読んだ詩集でもあります。その後1983年に民音社から二冊の全集が出て、2002年に膨大な全集をお出しになりましたが、そのたびに改作をされています。ですから、ある場合には詩一編に四つの版本がある場合もあります。数名の研究者に聞いてみると版本の確定が難しくて大変だと言います。これから先生の詩を研究する後学のために一言お願いします。

高銀 自分の詩が研究の対象になっても忘却の対象になってもあまり気に止めません。人間の文学は有限の行為です。人生は短く芸術は長いという格言がありますが、このような激励も実は幼稚です。子供のような戯言ですね。ですから私の詩がどのようなテキストであることを願う理由はありません。博士論文や修士論文がありますが、そのようなものにこだわらないようにしたいと思います。

また、改作の問題ですが、詩史をよく見ると、ある詩人は一編を数十回直したという人もいます。詩集自体を何度も直した人もかなりいます。たとえば小説の場合、私の昔からの友達である『広場』の作家も作品に何度も手を入れました。私の改稿行為をそのような無礼に照らして牽強附会するわけではありませんが、私にとって芸術は完成品ではなく、芸術の未完成性、ほとんど永遠の未完成性――これが無限の魅惑です。すべての創造行為自体の未完成は、完成に対する虚像を省察させるでしょう。なぜなら言語の絶対というのは不可能だからです。マラルメ(S. Mallarmé)の言語結晶体と言っても、そこに無数の欠格が出てくるはずです。韓国の詩100年の作品が、みなそのようなところにあります。

言ってみれば、「あの丘を向かって行こう」という言葉は必ずしも正しい物語ではありません。「あの丘の方から来よう」と言うこともできるでしょうし、また、到底行くことはできないと言うこともできるのです。このような可変性がすべて省略されて、その一節だけ残されたのが詩ではないでしょうか。ならばこれ自体が世界を支えられないほど孤独かつ不安で、他の段階を例示する未完成なのです。そのような意味ですべての文学行為は未完成性、言い換えれば改稿の対象だと思います。このような主張は私の主張である以上に本質的なことです。

李章旭 ですが、たとえば第一詩集『彼岸感性』を見ると「詩人の心」という詩があります。この詩が1974年の詩選集と2002年の全集にも載っています。タイトルは同じですが本文はまったく異なっています。ですが全集には「『彼岸感性』1960年」と表記されていて、読者が錯覚をするおそれはないかと思うのです。

高銀 そのように書誌的なことを言えば、私はここに座っておられず逃げ出したくなります(笑)。おそらくそのたびにある種の当為が生じてそのようにしたのでしょう。そうして他の玩具にまっすぐ移ります。ですから私に責任の所在を問うことは意味がなく、赤ん坊に「お前は便をどうしてここにせずに、あんなところにしたのか」と聞くこととまったく同じです(笑)。

高銀の改稿はすでに有名な話だ。彼は絶えず自分の作品を新しい作品に作り変える。60年代の「詩人の心」は2002年の「詩人の心」に生まれ変わる。先生は赤ん坊に「お前は便をどうしてここにせずに、あんなところにしたのか」と聞くこととまったく同じだという詩人らしい賢答で、私の愚問をあっさりと一蹴した。そのようなものが「詩人の心」なのだろう。

みなが知るように70年代と80年代の彼は熱かった。70年代をロマンチックな情熱の時代と、80年代を理念的な抵抗の時代と区分する便宜的な方法では、高銀のこの時代を説明することができない。ロマンチックな情熱と理念的な抵抗という二つの項目は、詩人の身体と詩の中で分けられずに一つになる。詩的なレベルでそれらは「リアリズム」という議論の多い語彙を中心に旋回するしかなかっただろう。私はまず彼の「70年代」について質問した。

病んだ姉から死んだ労働者に

李章旭 最近『文学思想』に連載されている日記を面白く読んでいます。1974年3月20日付で始まっていますが、私のような人間には70年代の風景が興味津々です。70年代というと政治的な自由と文化的な自由がともに必要な時代ではなかったかと思われます。西洋式に言うならば、「68世代」とか「ヒッピー世代」などと違いもありますが、また似たような脈絡もありそうです。

高銀 70年代は私自身にも運命的な時代です。そのような70年代が私に与えてくれた意識の深化の恩恵を大切にしています。私は以前、武橋洞(ムギョドン)というところで、夜間通行禁止の時代の酒乱として、刺激を常に日常化しながら生きていました。(テーブルの上の焼酒の瓶を指差して)このような焼酒、このようなものは本当に優雅じゃないですか。あの時代の焼酒は飲めば自然と喉から「カァー」と音が出ます。そして武橋洞のタコ料理もほとんど原始的な味覚の衝撃ではありませんか。そのような自己虐待の日々でした。あの時代は虐待が勲章でしたから。そのような状態が悪くなる時、自殺に近付きます。

あの時は通行禁止があったので飲み屋で寝ます。飲み屋のテーブルの上で寝るのですが、じゃあそのまま寝られるか? 酔っ払っているから床に落ちて寝たりして。李文求(イ・ムング)が特に私とそのようによく寝ました。彼はどんと落ちたらそこでそのまま寝ています。私はそれでも目は覚めます。私よりもかなり鈍いやつでした(笑)。そのように床で寝ていると新聞の切れ端が落ちていて、そのようなものを拾って見ると、そこに労働者の焼身自殺に関する社説や社会面の記事が出ていました。これは何だろうか。自分は常に死を考えているので、死に関することには特に関心があったんです。また、その死と自分が試みてきた死を本能的に比べて見たんでしょう。その死と自分がまだ実行できていない死、だけども常に予感してきた死……。そうするうちにその労働者の死に磁場が生じて、そこに導かれて行って、その死のうしろを見ると、そこに現実の矛盾があります。民族もあり、南北の分断もあります。当時は私のような人間だけでなく、たとえば法学部に通っていた張琪杓(チャン・ギピョ)や趙英来(チョ・ヨンネ)のような学生も時代に目覚めるきっかけになりました。社会各界で当時、志のある人々がみなそうでした。その次に維新〔当時の朴正煕大統領が1972年10月17日に特別宣言を発表、国会の解散や、政党・政治集会の中止などを決定し、全土に非常戒厳令を発して独裁色を強めた一連の宣布のこと――訳注〕が来て、金芝河(キム・ジハ)も監獄に行き知識人が泣きました。金炳翼(キム・ビョンイク)も飲み屋でおいおいと泣きました。このような状況で私の情緒の地層のマグマも噴出し始めたんです。言ってみれば私の精神の火山の火玉が噴き出しました。それが70年代の初めです。

李章旭 あの時代の圧倒的な現実のためだったでしょうが、その頃の詩の中に「比喩を捨てろ」という表現がよく出てきます。詩集『晦日の夜』にある「湖南線」という詩も、88年に出た『君の瞳』でも、91年の『明日の歌』でも「比喩など疑いはじめて久しい」とおっしゃっています。

高銀 詩人は詩学と関係なく比喩の信徒です。特に隠喩や換喩なくして詩人は自己を再現する過程を一時も耐えられません。私たちは比喩の能力しかありませんから。まさにこの詩の桎梏を打破したかったのです。そしてそれまでそこに属して来た詩の場を蹴飛ばして出てくるような比喩からの解放を切望したのです。言ってみれば、自分が母親の乳を飲まなければならないのに、母親の乳がなくなってしまったらいい、他の汚水や河の水を飲んで生きたいと思っていたのでしょう。

李章旭 「比喩を捨てろ」というのは、詩人としてはとても熾烈な自己否定と理解することもできます。

高銀 そうです。自己否定です。比喩の持つ犯罪性、また比喩の持つ真実に対する欺瞞性があるじゃないですか。比喩は事実、事物自体の本質を指摘するのではなく、本質を迂回し歪曲し解体することもします。ついには本質から遠く離れて、異なる事実の私生児になったりもします。そのような点で比喩の信徒でありながら、比喩を逆賊と見なければならない義務もあります。そのようなことなどが比喩を捨てろというほとんど盲目的な強調に至ったようです。

李章旭 白楽晴(ペク・ナクチョン)先生が「禅詩とリアリズム」という論文で高銀先生の詩を語りながら、「比喩を疑うけれど比喩を使うしかなく、はなはだしくは新たな比喩の創案さえするのが詩人の運命」であるということを書かれたことが思い出されます。おそらく比喩から離れることはできないが、それを絶えず捨てて疑わなければならないという矛盾した状況に対するお話しとも考えられます。

高銀 そうです。「禅詩とリアリズム」はアメリカの雑誌に英文で発表した作品論です。その後、韓国語にも訳されて発表されました。実は私は禅詩の可能性、直観自体を高度のリアリズム行為だと思っています。何かを直観すること、何かを説明して分析するのではなく、そのような演繹と帰納をすべて制して直ちに直観すること、それ自体がリアリズムの一つのあり方だと思います。その点で禅詩とリアリズムの接合を理解しています。

 

 

比喩を取り除け、そこに壮大な世界がある

特に禅詩を語る時、高銀詩人のリアリズムは、ドストエフスキー式に表現すれば、いわゆる「高次元的リアリズム」と言えるような何物かに近いように見える。しかし彼の「高次元的リアリズム」には、ドストエフスキー式の宗教的な事由でなく詩的直観の力が強調される。この直観が一単独者の感情と世界認識を越えて公共の領域に拡張される瞬間、彼の連作詩や長詩が生まれる。それは朝鮮半島の詩的な地理誌であり、白頭山(ペクトゥサン)の歴史的ドラマであり、また万人の生に対する膨大な詩の報告書としてその姿を現わす。

李章旭 禅詩以後、2000年に出た詩集が『南と北』です。白頭山から休戦ライン、そして光化門(クァンファムン)から済州島(チェジュド)に至る、ある意味で考えれば朝鮮半島全体を包み込む詩的な地理誌とも言えるでしょう。

高銀 私がUCバークレーで韓国詩を講義していた時でした。学期が終わって卒業式を見て行こうかどうしようかと思っていて、そのまま東部のハーバードに行かなければならなくなりました。そちらに行く直前に家で寝ていると夢に詩が出てきました。『南と北』のような詩でした。誰かが私にこのような詩を書かなければならないと強く勧めます。私もそれが誰だかはわかりません。とにかく誰かがそのように書けと言うんです。そして夢の中で私は書くと誓いました。朝、妻と食堂に行って朝食を食べていたら、その夢があらためて思い浮かびました。ハーバードに行って秋学期直前まで30日で書いたのです。私には恨(ハン)に劣らず、いや、恨以上に興趣のようなものがあるようです。私の詩はまさにこの興趣の遊びのようなものです。

李章旭 最近もペンで詩を書かれますか? コンピューターを使う世代もずいぶんと書く速度が早くなったといいますが、先生のようにはいかないでしょう。何かにつかれたように……。

高銀 私は物を書かない時は廃人のような存在です。神が降りてくれば詩が湧き起こり、そうでなければただの酔っ払いです(笑)。

李章旭 そろそろ長詩『萬人譜』のお話しも聞いてみましょう。完結を目の前にしていますが、1980年に南漢山城の陸軍刑務所に収監された時に構想して、86年から書き始めたものと聞いています。30冊で3500人を詩として描くことが目標でした。

高銀 あえて詩の数に意味を与える理由はありませんが、3500人は超えたでしょう。実は分量で見れば初期は一冊に110編ほどあったとすれば、今は一冊にそれより多くの詩が入っているので、初期の編数の通りに計算すればもうとっくに30冊をはるかに超えたでしょう。今年、完結させるつもりです。草稿はできています。今回は1980年の光州(クァンジュ)が入ります。また87年の6月抗争や80年代後半あたりで完結するでしょう。もちろんそれだけではなく一定の時期にこだわらない人物が配列されます。

李章旭 来年には完結するでしょうか。

高銀 おそらく今秋には創批に原稿を送るつもりです。

李章旭 いくつかの海外の雑誌を見ると、主として『萬人譜』についてお話しになっていますね。「すでに火が消えていた世界が光を得た」という評もあり、また「膨大な壁画」だという評もあります。全般的に見れば『萬人譜』が先生の代表作と考えられている雰囲気です。

高銀 わかりません。何かの烙印を押されると、たいていそれが一つの当為性に固まっていくものですが、『萬人譜』だけが私の作品ではありません。他の詩片もそれぞれ自らの尊厳を強烈に内在させています。だから私は、どれかが私の代表作だと言われることを詩の他者化であると疑っています。

李章旭 ですが海外では『萬人譜』だけに注目しています。

高銀 そのように見ることをありがたく思わなければならないかどうかわかりませんが(笑)、たとえば『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』(The New York Review of Books)のようなところでは「20世紀世界文学の最大企画だ」と褒めてくれていて、スウェーデンのようなところでは2005年に「今年の本」に選ばれたりもしました。外国の翻訳書がこれに選ばれたのは初めてで、しかも詩がそうなったのはこれまでなかったそうです。それだけでなく『萬人譜』についで『瞬間の花』も「今年の本」になりましたし、小説『幼い旅人』も2007年の「今年の本」に選ばれました。3年連続でした。

李章旭 『萬人譜』はかなり膨大な作品じゃないですか。韓国の文学史では1920年代末に林和(イム・ファ)のような人の詩を「短篇叙事詩」と言ったり、30年代になると白石(ペク・ソク)や李庸岳(イ・ヨンアク)のような詩人の詩を同様に「物語詩」のような用語で呼称したりしますが、実は『萬人譜』とは性格や容量自体が全く違っていると思います。ある意味では韓国だけでなく世界的にも前例のないケースではないかと思いますが、むしろゾラ(Zola)のルーゴン・マッカール叢書(Rougon-Macquart)やバルザック(Balzac)の『人間喜劇』(La Comédie Humaine)のような散文的企画の詩バージョンと比喩することもできます。

高銀 崔元植(チェ・ウォンシク)教授が「かつてバルザックはパリの戸籍譜と競争すると言ったが、『萬人譜』は私たち民族の戸籍譜と競争するだろう」と言ったことがありました。おそらくこの『萬人譜』が完結した後、私の詩の世界は一つの段階を越えて他の世界に進むのではないかという予感で一杯です。『萬人譜』以降という、私の後期の詩が待っていますから。

李章旭 執筆期間がずいぶん長くかかりましたし、分量も膨大ですから、『萬人譜』について先生自らお感じのところも違いがありそうです。満足な点もあるようですが不満足な点もあるようです。

高銀 たいていの続編は失望の対象であるという言葉があります。『萬人譜』にもそのような面があります。ただ一つ、『萬人譜』は多彩な目を持っているということです。長い時間が収められています。その時々はこの詩を始めた80年代の目ではありません。あの時の人物を今、書いたら、違うように書くべきじゃないでしょうか。そのような点で多くの時期と時制の多様性が介入しているということは自然に保障されました。ですが、ずいぶんと長い間書いていたら作業に対する執念自体が薄れてしまうような感じもありましたし、また緩んだりもしました。ですから、あるものは、はなはだしくは、新聞記事のように構成されたものもあるでしょう。骨のような文体も見られます。私が好きなベケット(Beckette)式の文体レトリックの捨象ですね。私はそれこそは詩の実感を凝結させていると思います。このようなすべての作品の実在可能性にもかかわらず、私の芸術的力量が及ばなかったり、以前にあった集中した愛着が今は緊張がなくなったりしている点が如実に見られる場合があると思います。私はあの世に行っても自分の詩の魂帛が改作の本能を発揮するかもしれません。

李章旭『白頭山』の場合はどうでしょうか。同じタイトルで趙基天(チョ・ギチョン)の『白頭山』もあります〔趙基天(1913-51)はまだ南北が分断される前の北朝鮮の文壇で1946年にデビューした詩人。貧農の出身だが国費生としてソ連留学の経験もあり1945年にはソ連軍に参加して北朝鮮に帰還した。代表作である長篇叙事詩『白頭山』(1947)は植民地状況に苦しむ民衆の姿を回想し、豆満江の流れを通じて解放された祖国の現実と未来を描き出した作品で、北朝鮮の革命伝統思想を表現した記念碑的な作品と評価された――訳注〕。

高銀 この間死んだ蔡光錫(チェ・グァンソク)が、私が『白頭山』を書くと言ったら、「先生、趙基天には勝たなければ」と急き立てたことがあります。そう、私が「趙基天に勝ったら革命が死ぬ」と答えたことがあります(笑)。もちろん趙基天の『白頭山』とは名前だけ同じで全く違った物語です。小規模の物語です。ただ韓国の詩はこれまで月夜に訴える情緒だけにとどまっていましたが、彼の詩の世界が雄渾たる気象を形象化したということ自体は最高の文学行為として評価するに値します。讃歌というものとは別にです。私の『白頭山』はそうではなく民族全体を担保にする物語行為です。民衆の物語です。特定人物は借景に入って行くだけで、話者や主体ではありません。北朝鮮でも『白頭山』が初めて出た時、好評でした。

李章旭 先生の長詩に対しては、あまりにも膨大なので学問的にも批評的な照明がまだまだのようですが……

高銀 照明なんかされませんでしたよ。そのまま倉庫に在庫になっています(笑)。

李章旭 先生が初めて書いた長詩が『ニルバーナ(Nirvana)』でしたか?

高銀 ええ。それは済州島にいる時です。

李章旭 その次に『死刑』(『日飾』)と『須彌山(スミサン)』があって……。

高銀『須彌山』は80年代のある日、急に思い出したように書いたものです。

李章旭 ですが、面白いことに『ニルバーナ』は仏教的な構図の解脱を歌っているし、また『死刑』は福音書にもとづいた話法を持っていて、宗教的な主題を横断しようという意志のようなものが全面に出ています。

高銀 私が済州島にいる時、スピノザ的な神というものを設定して見ました。世の中の人々がどうしてまだ神から離れられないでいるのか。ある天才がいくら詩を否定しても、どうして相変らず神は存在するのか。これは何か。私もその単純な集中に一度傾倒してみようと思って、キリストの最後の何日かを描いて見たんです。後で神がくたびれたのか私がくたびれたのかわかりませんが、ちょうどそのような関心から始めました。あの時済州島では、人間の日常よりそのような種類の形而上学的な発想が私を支える力になっていたんです。なぜなら海は絶景としての風景、それ以外は一日中、波だけで、水平線には何もない、一種の精神的な「謫居」の空間である時、観念の破片として来たのか、あるいはイメージとして来たのか、あるいは私の依存本能が強くなってそうなったのかはわかりませんが、神というものが私にしばらく近付いていました。だからその時それを体現した人がキリストだったので、この結末を描いてみようと思ってそのように一度書いて見たんです。

そして私が1962年に還俗した時、江華島(カンファド)の摩尼山(マニサン)に登って夜を明かしました。夏だけど寒かったです。文学の道か、それとも宗教の道かを選択しなければなりませんでした。当時の私としては、一方は他の一方を捨てなければなりませんでした。あれかこれかの両極端の境界で私は文学を選択して、無鉄砲にも世に出てしまうことになったんです。私は自分の文学が宗教に近付いているのではなく、宗教というものが私の文学の一質料にすぎないと思っていますし、それがこれまで私の芸術的な自尊心を守って来ました。私は文学のためにそれらを資料として書くのであって、私がそこに帰依して、そこの何かになってというようなことは受け入れられません。決して文学がすべてのものだとかトータルであると言い張るわけではありませんが、文学はすべてのものを収める一切の居所である、いや文学行為が世界の救援と治癒、また慰労の能力を生んでいる、そればかりか文学だけが人間の自由を剥製にしないと信じるようになりました。そのような点で私は文学を通じて解放された人間です。また詩人は、特定の宗教への決着による単純な専門化の現象を警戒しなければなりません。J・M・マリがかつて面白いことを言いました。詩を神の上位におかなければならないということです。実は詩人は世界の複合性やカオスの中を掻き乱して入っていかねばなりません。そのような点で詩はテキストではなく生それ自体です。

 

李章旭 宗教さえ一つの文学的な質料であるというお話しが印象的です

高銀ええ。私は文学の奴隷になろうとも宗教の赤子になりたくはありません。

 

 

文学の奴隷として文学の境界を越える

文学の奴隷になろうとも宗教の赤子になりたくはない。当然のごとくこの文章は、いわゆる「文学主義」のようなものとは質がまったく異なるものだろう。文学が現実の変化の道具的な契機としてのみ理解され得ないように、文学の内的価値に対する神聖視もやはり根源において虚構的なものであろうからである。私は彼の言葉をこのように理解した。ある意味で文学をするということは救援と超越を拒否することでもある。それは必死にあがいてこの世俗世界の様々な衝突にとどまることである。キリストの神聖がキリストの人間性をついに圧倒できない地点、その人間性が神聖に属さない苦痛の霊魂の位置、文学はその世俗の十字架にはりつけられて初めて文学なのだということである。1962年に摩尼山で高銀が自らに投げた問いと答えは、おそらく私たち韓国の近代文学には幸福な場面だったろう。その後、彼が喀血するように吐き出した創作物は、詩から長詩に、長詩から小説に、小説から評伝や評論や研究に至るまで、文字通り全方向に向かっている。ジャンルに対する質問から始まった彼の話は、私たち韓国の近代文学の方に進んで行った。

李章旭 長詩というのは叙事的な物語じゃないですか。先生のある対談を見ると、「私の虚栄は叙事にある」とおっしゃったことがあります。李白にもコンプレックスはないとおっしゃいましたが、ある意味で初期に見られた姉コンプレックスというものが抒情的なニュアンスを持っているとすれば、ホメロス・コンプレックスは叙事的なものと関連がありそうです。

高銀 私には系譜があります。私の体質に合うものがあります。まず荘子がいて、新羅の恵宿(ヘスク)がいます。元暁(ウォンヒョ)、その次に李白もいて屈原もいて。ですが、屈原はかなり階級的です。屈原は雑草と蘭をあまりにも区別する人です。そのような自らの差別性をあまりにも露呈してしまう階級主義です。とにかくその屈原がいて、その次に郷歌(ヒャンガ)を書いた新羅の月明(ウォルミョン)、笛を吹く月明がいます。その次にペルシアのオマル・ハイヤーム(O.Khayyam)がいて、イタリアのカンパネラ(Campanella)がいます。『太陽の都市』のカンパネラ。そして明末の李卓吾、そして朝鮮の許筠(ホ・ギュン)は私にとても合います。近代ではイデオロギー的な偏向と関係なく林和が体質に合っています。もちろんヘルダーリンの末期の場合も私の性向と同質性があります。このようなものなどが私の詩の来歴かもしれません。

李章旭 大部分が思想家や詩の方に近い人々ですが、小説家の方ではどうでしょうか?

高銀 小説家は別に話す機会がありますが、私はユーゴー(Hugo)が詩人だからという理由で小説家としても好きです。単なる小説家として見られないのです。またゲーテ(Goethe)も偉大な詩人であるということのために、『ビルヘルム・マイスター』なども、だから好きなんです。小説の極点にもやはり詩の不可欠性なしに到逹することはできません。

李章旭 先生も詩だけではなく小説も書かれましたが……。

高銀 李さんもお話しを聞いていると、詩と小説をすべて一緒にしています。だから同じ親戚同士だなというある種の親近性を感じました(笑)。私は全方位の行為が好きです。特に現在、現代文化の傾向が微分化して、その領域だけに忠実なのに、それら一つ一つが有機的に通じる全体性や、その交響楽的な融合がなければなりません。一人の人が多くの分野、多くの活動の場に自らを付着させるべきです。韓国の開化期の文芸運動にもそのような可能性がありました。六堂もそのような人ですが、丹斎・申采浩(シン・チェホ)は報道人、史家、詩人、小説家、評論家、ジャーナリストなど、すべてをやっていたじゃないですか。このような全体性は過渡期以降の平凡な時代にも一定して備わるべきだと思います。また、現代社会の専門性以外にも、韓国の文化行動に少し閉鎖的な潔癖症があります。詩人はひたすら詩だけを書くべきで、小説家は小説だけを書くべきであるという情調主義がありますが、これはよくないことです。

李章旭 冒頭で少しお話しになりましたが、先生の詩歴は韓国の近代文学史の重要な場面を通過してきました。最近、海外に出られて、外の視線から韓国の近代文学を見る時、一風変わった感じもあろうかと思います。

高銀 最近はどこでも言説の序論で普遍性を強調しています。文学も例外ではありません。私はむしろこの普遍性への盲信が大きな落とし穴だと思います。自らの文学行為は特化されるほど生命力があると考えて、その特殊性をさらに開発すべきだと考えています。いや普遍性自体が特殊性から始まったのです。特殊性がかなり広がって人々に知られればそれが普遍性になってしまいます。普遍性はヘーゲル(Hegel)の歴史法則のように、すでにその枠が組まれた無謬性であり、特殊性はその普遍性の偉大さから疏外されるわけではありません。この二つは常に出会うべきです。普遍性も特殊性の力を借りずして再生することはできません。そのような点で二つは絶えず二律背反的な疎通をすべき一つの共鳴関係であると言えます。私たちは普遍性を語る時、西欧的な文学の普遍性を受け入れることだけを語ります。西欧の人々がおおよそ機械的に、韓国で文学の普遍性が今後可能だと言えば、それは褒め言葉のようですが、そのようにばかばかしい言葉にだまされてはいけません。これが一つです。

もう一つは、私たちは西欧の普遍性を自らの方式で読み込む読法にあまり慣れていません。韓国文学はいまや近代文学の移植論の段階を乗り越えました。李さんの詩論を見ると、私たちも外の詩や外の文学行為を、さほど気も遣わずに営んでいるという観点があって同感でした。過去には、はなはだしくは土俗的な詩人の場合にも、常に外部に対するコンプレックスがありました。ですが、現在はかなり堂々としています。これだけでも韓国文学史の主体が強固になったのです。これからは過去のようにエリオット(T.S.Eliot)のモダニズムを無条件に尊敬したりはしないじゃないですか。60年代でさえ西欧の詩のあるものなどは神的な対象でした。今はそうじゃないでしょう。ただ現在、私たちは自ら作った普遍性というものに閉じ込められ、本当に驚嘆するに値する、新たな普遍性はそうたやすくはないようです。その点でまだ私たちは境界主義に陥っているのではないかと思います。これからこの境界が崩れるべきでしょう。

 
 

 

キャンドル抗争、芸術的に政治的な

普遍と特殊に関する詩人の言葉は、この二つの二分法をはるかに越えていた。普遍と特殊は互いに不和の関係にあるが、その不和自体を通じて互いを構成する。普遍は特殊との不和を条件にして自らを構成し、特殊は普遍との葛藤によって自らの存在を定立する。この時の特殊とは、一般化に収斂されない、代替不可能な単独性に近いと言うべきだろう。彼の言う通り文学の歴史もこのような緊張に頼るだろう。キャンドル抗争はどうだろうか。民主主義の歴史はこの特殊な現象をどのように受け入れ、どのように自らの普遍史を再構成するだろうか。詩人はこの問いに対して本能的な答えを持っているようだった。あの熾烈だった70~80年代を監獄と街頭の双方で過ごした人だ。私は彼の「六感」が知りたかった。

 

 
李章旭 5月に始まったキャンドル集会がずっと続いています。何か新たな政治的エネルギーが出てくるのではないかという話もあります。

 

 
高銀 本で見ると、フランス大革命の時、太陽王や王室の貴族だけが黄金の馬車に乗って通った通りを、平民と奴隷、乞食が一か所に集まって円舞のような祭りをしたんです。民衆らが興に乗る遊びの場になったのです。そのようなものとも、もう一つの人類史的な美学が今回のキャンドル集会で韓国的な美学として具現されました。これまでの政治至上主義がこのように生活芸術に溶け込み、そのどこでも政治の虚勢が許容されない、一次的な市民の多様性と統合性がひとつに合わさりました。驚異的なことです。韓国のキャンドル抗争は地球上の祝福です。私はあまりにもうっとりとして、キャンドル抗争の詩の一編も書くことができませんでした。詩人にとっては絶望の幸せでした。

 

 
李章旭 学生を含めて市民が街頭で遊びながら自己主張をするのですが、諧謔的な文句、あるいは急所を突くようなユーモラスなスローガンを叫んでいました。

 

 
高銀 平素は他者で一杯の通りや広場が、自我の空間、共同体の場になりました。前世紀の80年代の市民デモの力量がさらに市民の生活に体化したようです。ベビーカーや家族の遠足風景なども見られて本当にすばらしい風景でした。

 

 
李章旭 ある人々はキャンドルをたいまつのように過大評価してはならないと言い、組織化されていないとか直接民主主義の要素が制度圏の中に収斂されないとかいう限界を指摘してもいます。

 

 
高銀 私はキャンドル抗争を政治的有効性だけに縮小して語りたくはありません。むしろそれ自体、ある結果論なしに、その行為自体として、韓国社会がこのようにすばらしい自画像を持っているということの方が眩しいほどです。そのような後に韓国の政治現実は、このようなすばらしい到達点に到底付いて行けないという点も、今回、実感したということを言いたいと思います。付いて来られないんです。にもかかわらず、このような境地を裏切って歪曲し、これを冒瀆する行為を今後どれほど続けるでしょうか。いまや生の直接性は、文化に対する野蛮さや卑属さではまったくない時が来たのかもしれません。今、為政者はキャンドル抗争の現実に帰依して、そこに自らの位置を設定しなければなりません。そうせずに以前のように軍事的な弾圧で一貫すれば、これからもっと恐ろしい政治的大衆の爆発をもたらすでしょう。
 

 

李章旭 政治家に対して警告性のメッセージをおっしゃったものと理解できそうです。

 

 
高銀 政治家は絶えず警告を聞かなければなりません。政治家は何にイライラするのかというと警告に鈍いという事実です。まず一つの政権が樹立されると、その政権以前の過去に対する継承と克服という二つの軸の政治行為が行なわれるべきですが、それを否定することで、まだ咲いてもいない花を誇示します。民主主義の履行としての政権は革命ではありません。失われた10年などと言っています。ならばこの人たちが去った後に、また失われた10年が再来しないという保障はあるでしょうか。このようなばかばかしい計算法などどこにもありません。以前あったことは悪でも善でも自分の負債です。それを負って行かなければなりません。
 

 

李章旭 それに最近は対北朝鮮の関係もあまりよくない面が著しくなっています。あれこれの内外の流れもよくありません。2000年代以降は統一の方法はもちろんのこと、統一以降を否定的に見る声も大きくなっているような感じです。

 

 
高銀 私は集会でも常に話しますが、韓国の統一は点ではなく線である、ベルリンの壁が崩れるような一つの出来事、劇的な出来事で終わるのではなく、統一はそのどこかからどこかまで行く、長い時間の過程である、だから真の統一は、いつ統一したのかわからないような統一でしょう。白楽晴先生が統一の現在進行形を主唱しました。統一はある単一の帰結ではありません。現在のこの分断時代の変化自体が、統一のある種の接点に来ているんです。ここに峠があります。そのような峠道を息を切らして登るのです。この峠になにも障害がないとしたら、どうして統一が可能でしょうか。だから私は、統一の長い熱望こそが生活化されるべきなのだと思います。
 

 

李章旭 楽観的にお考えですね。

 

 
高銀 統一の生命力がそうなのです。私たちはまだやるべきことが山ほど多いのです。巨大な未来の歴史を持っています。死火山ではなく活火山の歴史です。そのような点で私たちは完全に新しく生き生きした歴史空間を生きています。逆説的に言えば休戦ラインが私の青春です。

 

 
李章旭 その未来のために出た本のうちの一つですが、この間『統一文学』という南北合作の雑誌が出ました。どのような方式であっても、いつかは南と北の詩人や作家が一緒に作品を書いて交流していくようになるでしょうが、実は一方では想像がなかなかうまくできなかったりもします。

 

 
高銀 私は1980年代中盤から南北の作家が会うべきだと主張しました。あの時はこのように一言いってもおびただしい苦労を経験しました。80年代後半になって民族文学作家会議が南北作家の出会いを推進しました。このような種が後で芽を出して、結局、2005年に南北作家会議という大型の祝祭に至ったのです。白頭山に登った時、月がまだ落ちずに西の空に浮かんでいて、日が昇って来て東の空に浮かび、そのように太陽と月が互いに助け合う中で、その頂上で詩を読んで宣言を叫びました。とても感激的な時間でした。あの時、山から下りる道でずいぶんと泣きました。『統一文学』という雑誌、政府ではこれが出たこと自体をタブーの対象にして配布もできないようにし、また北ではほとんど幼稚なほどに、ある単語を一つ入れなければならないと主張しました。しかしはじめはこのようにギクシャクした感じで始まるものです。ただ強調しておくことは、南と北の共同の民族文学雑誌を一つ作ったことは、今は誰も認めませんが、これは書誌学を越えて歴史的に大きな起点になるでしょう。

 

 
李章旭 作品次元で北の詩人や作家が書いた作品を見て、どのようにお感じですか?
 

 

高銀 まずこのように言うことができます。分断文学史が文学史的に世界のどの現代文学史よりもきらめき輝いて美しいということ、もし南北が統一して1945年の解放以後、朝鮮半島が一つになって暮らしていたら、今の韓国の近代文学史の様相とあまり違うところがなかったでしょう。ですが、分断して全く異質の二つの文学が存在してきたんです。まさにこの事実が、後に文学史家にどれほど豊かな資料になるでしょうか。それだけでも韓国の文学の現段階は豊かです。これをまず認めてから話をするべきでしょう。当然のように北では指導理念を貫徹する文学しか許容されていません。ですが、最近になって党の文学の外で生活の文学があれこれと出ています。このような現象が後に南北文学の総和の広場でみな出会うことになっています。だから私たちがあの人たちの文学の実体を認めれば、結局、私たち民族全体の文学の滋養分になると考えます。

 

 

「私は過去より未来の方が豊かな人間です」

多くの市民にとって高銀は、ノーベル文学賞候補であると同時に、2000年6・15南北首脳会談の晩餐会場で詩を朗唱した詩人として記憶され刻印されているだろう。そのような意味で彼はすでに公人である。私はその公人の裏面に潜伏している私的な生活のことが気になったが、彼は公的な生活と私的な生活を分ける人間ではないということをすぐに思い出した。ただ単純に近況とこれからの計画について質問した。
 

 

李章旭 先生の近況をお聞きすることで、この対談をそろそろまとめたいと思います。最近はどのように過ごされていますか。
 

 

高銀 私の天職は年中無休です。そして私の仕事は遊びです。私は動物です。手が動き、目が動き、口が動き、体が動けば、私は生きることができます。眠る時もおそらく動くでしょう(笑)。私は書く作業、読む作業を私の宿命にしています。おそらく私のように新刊書を読む人間がいるだろうかと自慢したくなるほど、私の読書の目は貪欲です。このような読書以外では、新刊の詩集と散文集が出る予定で、秋には長年の宿願である書画展示会も開く計画です。
 

 

李章旭 ブリタニカ事典にも人名として掲載されたそうですね。

 

 
高銀 2007年のブリタニカ年鑑に韓国人では3人が掲載されました。李明博大統領と、ピ(Rain)と、私です(笑)。ですが、今年の4月にドイツ・ベルリンの「世界文化の家」の招請で1週間の行事を終えた時、あるインドの詩人が私に「おまえは詩人ではなく詩だ」という賛辞をくれました。これは今年、私が激励を受けた一つの事例でもあります。

 

 
李章旭 現大統領と先生が一緒に掲載されたのを見ると、すべての面で相剋のようで、妙なアイロニーのようなものが感じられます。
 

 

高銀 何が相剋でしょう。あの人は公的に酒も飲めず、私は公的にも私的にも酒をよく飲むという大きな違いがあります(笑)。

 

 
李章旭 先月はカナダに行っていらっしゃいました。詩の分野では世界的に大きな賞として知られているグリフィン賞の平生功労賞を受賞されました。

 

 
高銀 なかなかいい賞でした。私は国内外の賞をいつの間にか14ももらいました。賞をくれる人たちに感謝すべきことでもあり、受賞者としては少し恥知らずな面がありました。海外のものとしては、一つはノルウェーで勲章をもらい、その他の新たに制定されたものをもらいました。今回カナダでもらったその賞の授賞式はトロント大学の大劇場で行なわれましたが実に荘厳でした。有料入場者800名余が満員だったんです。グリフィン賞財団の理事長はその父親が財閥でしたが、幼い時「おまえも詩を一つ覚えろ」と言われて、覚えれば小遣いをもらったりしたそうです。だから小さい頃、小遣いをもらう楽しさで詩が好きになった人です。そうするうちにお父さんの事業を受け継いだそうですが、私にそりに乗って北極旅行に行こうと誘ってくれました。私は10数年前、ヒマラヤへ行った時、死境をさまよったこともあって、北極への冒険はとても怖いんです(笑)。

 

 
李章旭 多くの賞の中でも特別に記憶に残っているものはありますか。
 

 

高銀 賞は間違いなく喜びを享受させます。ですが、文学の表面張力と言うか、そのような緊張をゆるめます。受賞すれば無用な傲慢さも生じて、世の中に対する安易な視角もできます。そのような点で常に自らを警戒するべきでしょう。そして賞をくれる者に対してもらう側の義務も生じます。もらうことで終わるのではなく、必ずそれを他の方式の寄与で返さなければならないということ、これは絶対に無償ではなく有償であるということ、そのような恐ろしい事実を認知しなければなりません。アメリカの詩人ロビンソン・ジェファース(RobinsonJeffers)がフォークナー(Faulkner)とアーネスト・ヘミングウェイ(Hemingway)を推挙して、賞の方で彼らを落としたという弾劾の詩を書いたことがあります。他山の石にしなければなりません。

 

 
李章旭 今、先生の作品で海外に翻訳されているものが40種類を超えると聞いています。国家数では18か国です。初期の作品が相対的に顕著ですが、先生の作品は行間の距離、語彙と語彙の間の距離、情緒と情緒の間の距離のような次元で、詩的な飛躍が極大化した場合であると考えられます。外国語に翻訳するのがやさしくない韓国の詩の一つではないかという気がします。

 

 
高銀 ですが、私は翻訳詩が読めませんから(笑)。しかし私には経験的に翻訳の質を見分ける直感があります。犬の嗅覚のようなものがあります。1960年代から韓国の作品が翻訳され始めましたが、70年代まではおおよそ初歩的な翻訳です。これは次の段階のための試みに過ぎませんでした。90年代に入ってからようやく翻訳が軌道に乗り始めます。自然現象や文化現象、または政治経済の水準や文化の水準は、特異な場合を除いては一致するのが普通のようです。

 

 
李章旭 そうですね。そろそろまとめたいと思いますが、これからの作品計画はいかがでしょうか? 

 

 
高銀 私は過去より未来の虚栄の方が大きな人間です。まだ公開的に言う段階ではありませんが、『萬人譜』が近日中に終わるとすれば、その後『娘』という長詩を書こうと思います。『娘』は形而上学的な詩になるでしょう。沈清(シム・チョン)のことですが、長い間構想したものです。陸地と竜宮世界をつなげる形而上学の世界になるでしょう。その次は『運命』を書くでしょう。この詩は私の後期のすべての力量が投入される夢です。東西の思想、観念、その他すべてのものが入ることになりそうです。

 

 
李章旭『南と北』は空間的な次元で朝鮮半島を一つにする長詩でしたし、『萬人譜』はこの空間で歴史的に生きてきた人たちの物語でした。これから書く作品はこのような時空間を越えて、ひょっとしたら形而上学的に総合する作業になるかもしれません。

 

 
高銀 そうかもしれません。そして朝鮮半島を隅々まで旅したいです。旅をすればかならず収穫できる果実があるでしょう。またロシア大陸に行きたいです。モスクワの行事にしばらく行って来たこと以外に、若い日のリルケがそうだったように、私は自分の詩の後期にその広大な大陸体験を収めたいと思っています。あるテレビ放送で私がシベリア横断列車に乗っていく番組を作ろうと言ってきましたが、そのときは受けませんでした。最後の旅行空間として残しておいたんです。80歳くらいになった時に旅行してみたいです。シベリアが私のシャーマンの故郷でもありますが、私の文学的体質とも合います。私は20歳の頃、ある星の上でか、あるいはシベリアで死にたかったんです。

 

 
結局、焼酒が2、3瓶あけられた。私はもう酔っていた。先生は対談が終わるやいなや何瓶かの酒をさらにあけた後、あわただしく次の約束の場所に向かった。私は彼のうしろ姿を眺めた。相変らずディオニソス的な情熱を失わない詩人のうしろ姿がそこにあった。

 

多くの人々にとってもそうであるように、私にとって先生は、カオスを詩の秩序に肉化することに卓越した詩人である。手に触れるものは何でも詩にできるような魅力が彼にはある。違いが絶対化された悪無限的な混沌を警戒しなければならないように、創造的な混沌と亀裂を内蔵しない秩序に対しても私たちは警戒するべきである。そのような意味で彼は、ほとんど本能的に、カオスを横断してある種の詩的ロゴスに至る詩人である。秩序と呼べない秩序、混沌自体を通じて構成される秩序、それが詩歴50年を迎えた詩人の創造性かもしれない。「カオスの中を掻き乱して」入っていき、「生自体」になることである。

 

私はシベリア横断列車に乗って窓外を見つめる彼の姿を想像した。シベリアほど彼によく似合う空間もないだろうという気がした。シャーマンの故郷、シャーマンとしての旅路。私は彼が必ずやあの荒野を横断できることを心で祈った。それはこれまでの生の虚無と混沌と情熱と栄光を通り過ぎ、見えない故郷を確認する詩人の旅路かもしれない。(*)

 

 

 

訳=渡辺直紀

 

 

 

季刊 創作と批評 2008年 秋号(通卷141号)

 

2008年9月1日 発行

 

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