民衆の視点と民衆の連帯

特輯 | 再び東アジアを語る

 

 
 

孫歌
中国社会科学院文学研究所研究員。中国現代文学・日本近現代思想史・比較文化専攻。韓国に紹介された著書として『竹内好という問い』『アジアという思惟空間』などがある。

 

 

*本稿は、本誌の依頼により筆者が中国語で執筆した原稿を全文翻訳したものである。原題は、「民衆視角與民衆的連帶」である。 ⓒ 孫歌  2011 / 韓国語版 ⓒ 창비 2011

2011年11月の下旬、台湾の金門島に東アジアの各地域から知識人が集まった。この特殊な地理空間において、彼らは「冷戦の歴史と文化」というタイトルで、「東アジアにおける批判的雑誌会議」を開いた。この会議には、『創作と批評』(韓国)、『けし風』(沖縄)、『現代思想』(日本)、『台湾社会研究』(台湾社会研究季刊、台湾・台北)、『熱風学術』(中国・上海)など、各地域で影響力がある雑誌の編集員と筆者、そして、台湾と東アジアその他の地域からの若い聴衆が参加した。

今回、金門島で開かれた「東アジアにおける批判的雑誌会議」は、2006年のソウル、2008年の台北に続き、3回目の会議である。しかし、今回の会議は、少し特別なものであった。ここでいう「特別さ」というのは、現在まで国家をめぐる論争の中において、常に周辺地域として扱われてきた金門島と沖縄が、会議の中心話題であったことである。中国大陸や日本が、討論の中心になれなかったことはもちろんのこと、しかも、常に東アジアの周辺地域として取り上げられる韓国と台湾すらも、今回は、周辺の側にも入らなかった。民族国家を中心とする論争の枠の中には、いつも陰にいた金門島と沖縄が、過去又は現在も冷戦の最前線に位置するという理由で、今回の会議においては参加者からの注目を浴びた。しかし、その注目が、歴史的な省察にまで進んでいったきっかけは、単に金門島と沖縄が、冷戦構造の中で核心的な位置にあることだけでなく、これら地域と民族国家のアイデンティティの間に存在する歪んだ関係のためである。

金門島は、行政区域としては台湾に属するが、台湾の本島より中国大陸の福建省にもっと近い島である。ここは、国民党が内戦に失敗し台湾に退却する時に、最後まで固守した反共戦線で、1949年から1956年までは軍事管制を実施、1956年から1992年までは軍事化した統治が行われた準戦時状態の島である。ここから飛行機で台北の松山空港まではほぼ1時間がかかるが、中国の厦門の五通港までは船で30分もかからない。金門島の西北側の海岸からは、厦門の高層ビルが明確に見えるため、夜になると厦門の夜景を見ようとする遊覧客が訪ねて来る。1958年から中国大陸は、金門島に「隔日砲撃」を実施し、実弾からビラまで至る攻撃は、20年余り続いた。国民党の軍隊も、ここで厦門や泉州の一帯に向かって砲撃を加えた。そのために、この地域の民衆の間では、「初の爆弾に当たってしまえ!」という恐ろしい呪が日常的に使われていたという。このように、長い戦時状況の中で、金門島は、完全に戦争に「適切な環境」として武装し、一般人の生活も戦争によって構成されていった。島の中の主要地域は、地下がすべて掘られ、地上の重要な建物も何キロメートルにもなる穴蔵につながっている。沿岸地域に引かれている地雷は、現在までも完全に除去されていない状態である。両岸関係が緩和し、厦門と金門島の間には「小三通」 2000年12月13日、台湾の政府が、金門島、馬祖地域と中国大陸間の往来を一部許可するために発表した通信・通商・通航政策の俗称。これに対して、より幅広い内容を含めている中国政府の両岸往来政策は「大三通」と呼ぶが、中国大陸と台湾の合意によって、2008年12月から実行された。:韓国語訳者注 が実現された。このお陰で、両岸の民衆間の交流が増え、また、金門島の人々は大陸にわたり、家を買ったり就職したりする場合もある。しかし、「脱冷戦」後も、金門島は、軍事化の痕跡を完全に消すことはできない。この地域の民衆は、軍事化がもたらした否定的な結果を背負いながら、他方、今までの歴史を叙述するのに適切な「叙事様式」を模索し始めたのだ。

沖縄の戦後歴史は、金門島よりも、より複雑である。1951年、日本は、連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、主権を回復する代わりに沖縄をアメリカの管理下におくこととした。1972年の沖縄は日本に返還されたが、本当の意味での「独立」と「自由」を得ることはできなかった。いわゆる「戦後」になり、アメリカの民政府の管理下にあった時も、日本の一つの県として存在している時も、沖縄は常に戦争状態であったし、米軍基地は、常に沖縄の人々の生存権を脅かす存在であった。2010年は、沖縄の人々による米軍基地反対闘争が激しくなった年である。普天間飛行場を辺野古に移転するという日本とアメリカの合意に反対し、米軍基地の退出のため、沖縄の民衆は持続的に大規模の集会を開きデモを行った。この間実施された沖縄県知事選では、史上初、基地問題が選挙のスローガンとしても登場した。しかし、こうした闘争は、今日までも最終的な勝利を得ることができず、沖縄の人々は未だに安心できない状況におかれている。

東アジアにおけるアメリカの軍事的な覇権に反対する点においては、沖縄は、韓国社会とより少し似ている。今回、基調講演をした沖縄大学の前総長で、基地反対運動家である新崎盛輝も、この点について言及した。彼によると、1995年、米軍兵による沖縄少女レープ事件で沖縄民衆による大規模な抗議が起きた際に、沖縄の人々は韓国の基地反対運動家と連帯することを望んでいた。しかし、韓国の現状をよく把握していないこと、そして韓国の知人に負担をかけるかもしれないという心配から、自らの実践はできなかった。しかし、韓国の基地反対運動家が、先に沖縄に訪ねてきて交流することを要請し、その時から沖縄は韓国の民主化運動を参考するようになったという。

このように米軍基地反対に関しては連帯しているが、しかし、沖縄は、韓国社会とは異なる「問題」を抱えている。それは、困惑しているアイデンティティの問題である。韓国社会も、分断体制をはじめとする「不完全性」や、そこから派生する問題などはあるが、沖縄のような複雑に錯綜したアイデンティティの問題は存在しない。沖縄は、日米関係及び東アジアの国際関係の中で、常に日本の一部分として扱われた。そのために、沖縄の人々の要望や利益は、いつも無視され、彼らの願いや日本本土との複雑な関係は、全く注目されてこなかった。そして、そのように注目されなかった状況は、再び国家を基本単位とする「叙事」により隠ぺいされることで、東アジアの視点において、沖縄の人が自ら表現できる空間は存在していなかった。沖縄の問題が複雑であることは、まさにこの点から始まっている。基地反対運動に捧げてきた沖縄の人々は、時間が過ぎていくことにつれて、自分を「琉球人」と呼ぶようになったが、これを「独立運動」までに展開しようとはしない。こうした理由で、反米闘争の一定の段階において、孤立状態におかれた沖縄の人々は、周辺の社会が彼らを日本人と見なす時、やむを得ず被害者としての対価と加害者としての責任をそのまま背負わなければならない。

沖縄と同様、常におそろかにされ、「視野」の外側に存在した金門島という空間に入ってから、私は、近代的な行政の枠の中に、強制的に帰属された地域が背負ってきた苦痛を、初めて強烈に感じることができた。とりわけ、この地域が、戦争がもたらした否定的な結果を、不本意に背負わなければならない苦難とは、周辺の社会としては理解しがたいことである。金門島で、「精神的な病」を回復させる事業をしている洪徳舜は、今回の会議で金門島における「精神的な病」の実態について報告した。彼によると、1949年以後、金門島では、10万名余りの国民党の軍隊が進駐していたが、当時の金門島の人口は10万名以下だったという。この膨大な軍隊と半世紀にわたる軍事管制が、島の住民に深いトラウマを残したことは言うまでもない。そのために、金門島では、多くの人々が「精神的な病」にかかったが、大半が女性だったという。ところが、金門島には医療施設がなく、住民は伝統の巫俗や風俗に頼り、そのため、より深刻な後遺症に悩まされた。台湾の本島が、統一か独立かをめぐる論争に熱中になっていた際に、金門島の民衆は、長期間の緊張状態から始まった悪影響に直面しなければならなかった。金門島の高粱酒は、本来は軍隊の補給品として生産された軍事産業の産物であったが、今は地域住民の戦争のトラウマを慰める手段になっているという。「脱軍事化」が進行していくことにつれて、金門島の人々は、「昨日」の影から脱したように見えるが、骨の奥までに刻まれた戦争の記憶は、それほど簡単に忘れることはできない。1949年、国民党と共産党の軍隊の間で、激しい戦争が繰り広げられた「古寧頭鎭」には、今も銃弾の痕跡が生々しい壁が残っている。住民は、当時の残酷な状況に対しては、何も話さない。惨劇を沈黙したり、強制的に死体を埋めたり、負傷者を生き埋めしたりした村民は、今も沈黙を守っている。統一/独立の対立を主軸にする台湾社会の叙事の中で、このような金門島の人々のトラウマ的な記憶は、い続けられる場所がない。

同じく沖縄の民衆も似た事情がある。江戸時代、琉球は薩摩藩の島津一家の侵略によろ支配されるようになって、清及び江戸政府と二重の朝貢関係にあった。1879年には、明治政府が琉球を正式に合併し沖縄県にしたが、これを「琉球処分」と呼んでいる。その中、第2次大戦末期、米軍が日本本土に攻撃を加えることで、沖縄を占領しすぐに米軍基地を建て始めた。1951年、日本はアメリカなどの連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、日米安保条約を締結した(1952年発効)。それから、沖縄は日本から離されて、沖縄に入ったアメリカの「民政府」の管理におかれ、東アジア及びアジアを統制する米軍の最大基地として変貌した。1972年、沖縄の「施政権」 信託統治地域に対して、立法・司法・行政の三権を行使する権限:韓国語訳者注 は日本に返還され、本土の人と沖縄の人との自由な往来が開始された。しかし、その返還で、沖縄の民衆に実質的な自由と自主が与えられたことではなかった。むしろ、日本政府は、本土のすべての米軍基地を沖縄に集中させ、このため、沖縄の人々は、1952年と1972年の状況を、1次の琉球処分に続く2次・3次の処分と呼んでいる。1990年代半ば、日米政府は、安保条約に「補助的な条約」を挿入することに同意したが、その中には、普天間の軍用飛行場を辺野古海域に移すという内容が含まれている。これは、辺野古と沖縄県民衆の激しい反対に直面される。米軍基地に対する大規模の反対運動は、この数十年間持続されてきたが、普天間問題で政権交代した民主党政権の初の内閣が辞退することとなった。沖縄の米軍基地反対運動は、現在も継続されており、飛行場移転
条約が破棄されない限り沖縄の人々による反対運動は続けられるのであろう。

過去に、金門島、沖縄、そして韓国は、冷戦構造の最前線におかれていたし、現在もそうである。お互いに、異なる「歴史的な文脈」を持つために、その最前線の意味もそれぞれ異なる意味を持つ。しかし、冷戦構造下において、アメリカが主導する西洋の側にいながらも、直・間接的にアメリカの影響や統制を受けるという点においても同様である。そうした意味で、金門島における冷戦問題を論議したことは、非常に「適合した」選択であったと考えられる。しかし、問題がここで終わることではなかった。似た状況でありながらも、異なる「歴史的な文脈」を持つこれら地域を、同時に考えることで、私は、一連のヒントを見つけ、一つの地域に中ではキャッチしがたい問題に関する考え方を進展させることができた。

今まで、私は、沖縄の人々が本土の日本人に、なぜあんなに強い拒否感を持っているのかを理解しようとした。自己批判意識が強い本土の左派知識人さえも、沖縄の人々から認められることは容易くないからである。ところが、金門島に来て、漸くその理由を理解することができた。民族国家の「叙事」の中で、自己主体性が消された地域、とりわけ沖縄のように、長年日本政府によって「振り回された」地域で、本土の政府や社会に対する信頼を築いていくことは、最も難しいことであろう。しかし、金門島とは異なり、沖縄の人々は、彼らのトラウマ的な経験を、単純に「同一視」しない。なぜならば、長年の民主化闘争を経て、沖縄の人々が、被害意識の中で高度の責任意識を刻み込んだからである。新崎盛輝の発表によると、1960年代半ば、ベトナム戦争の反対運動があった際に、沖縄基地の労働者がストライキを断行した。その時の彼らの考えは、「我々が、24時間ストライキをすれば、その分、米軍の足を止め、ベトナム側が24時間、より主動的に戦うことができる」とのことであった。ベトナム戦争当時、沖縄の人々は、ベトナムの民衆と連帯しようとすでにスローガンを掲げていた。彼らは、1995年、米軍兵のレープ事件で、沖縄県の全域で基地反対運動を展開した時も、同じく兵軍基地問題に直面している韓国の民衆とも連帯することを望んでいた。ところで、沖縄の民衆と日本本土の民衆の間では、むしろ色んな理由で実質的な大規模の連帯が実現されたことがなかった。本土の進歩知識人の連帯行動も、少数の支援活動を除けば、沖縄の人々に対する謝罪の心情及び同情のレベルに留まっていた。少数の連帯関係を除いて、全体的に見れば、沖縄の社会と日本の社会の間には、明確な歪みが存在する。「中心」と「周辺」という平面的な概念では、これが理解し難く見えるかもしれない。なぜならば、冷戦という特殊な歴史とアメリカ軍事力の東アジアの侵入という特別な条件によって、沖縄の社会が本土の社会とは異なる方式で組織され運営されたら、沖縄の民主化運動も本土とは異なる問題意識によって絶えず動いてきたからである。簡単に言えば、沖縄は、本土のような「国家意識」を持っていなく、だからといって、本土の進歩人事のように「反国家意識」を持っていることでもないからである。この二つの意識は、実際、沖縄の闘争の中で、冷戦状態の緊迫な課題のために、様々な政治的要求に変形された。「国家意識」の場合、沖縄の人は、明確な「琉球アイデンティティ」を持っているが、だからといって、真なる意味での「琉球独立運動」を展開することもなかった。同時に、様々な運動において沖縄の社会運動家は、「日本国家反対」を前提としたこともなかった。彼らには、より「細部的な闘争」の目標があるだけであった。

新崎によれば、沖縄の基地反対運動で「加害者にならない」という自覚こそ、彼らの闘争の動力であるという。このように、高い政治的な目標のお陰で、沖縄の民衆運動は、分裂と対立の中において持続され、重要な瞬間ごとに正確な選択をすることができた。一つの例として、沖縄の独立を主張する運動家はいつも存在し、また今も独立運動を推進しているが、選挙では独立をスローガンに掲げる候補者の得票数が最も少ない。新崎は、これに対し、沖縄の人々に独立する権利はあるが、この権利を行使するかどうかは、慎重に考えるべきであるからだと分析している。なぜならば、ユーゴスラビアが残した経験のように、もし独立運動が地域の平和を考慮しないとしたら、それは平和を破壊するという大きな対価を払わなければならないからである。また、新崎は、尖閣/釣魚島問題に対しても、両国政府が主権問題に執着することで対置することではなく、具体的な思案をおいて対話しようとする姿勢を持つと同時に、尖閣/釣魚島の海域で生活している当事者としての沖縄の人々を尊重すべきであると指摘した。

2010年の下半期、東アジアでは多くのことが起きていた。日中間では、政府や社会で尖閣/釣魚島問題をめぐる反対運動が発生し、これは、尖閣/釣魚島に最も近い沖縄と台湾まで巻き込んで、より複雑な帰属論争を作り出した。韓国と北朝鮮も、ヨンピョン島の砲撃事件で、一時期緊迫した状況に落ちいた。この短い何ヶ月の間に、東アジア地域における危機は、一触即発の状況におかれるようになった。その後、様々な政治的な勢力の動きで、ある程度緩和されたが、この地域の平和は未だに脅されている。

冷戦の歴史と文化をテーマにした今回の金門島での会議は、まさにこのような地域情勢を背景としてものであった。会議に参加した批判的雑誌のメンバーは、各地域の多様な情報を共有しながら、どのようにして効果的な連帯の道を見つけるのか、地域内の民衆運動をどのようにして互いに連結していくのか、という緊迫した課題について熱く議論した。

今回の会議では、韓国の代表的な知識人である白楽晴(ペク・ナクチョン)と白永瑞(ベク・ヨンソ)が、参加者に対し東アジアの問題を考える新しい視点を提供してくれた。それが、「分断体制論」と「複合国家論」である。その具体的な内容に関しては、また別の機会で論じたい。ただ、ここで強調しておきたいことは、金門島会議をきっかけで、韓国の思想界が東アジアにおける言説に大きく貢献したことである。事実、近来の東アジアに関する根本的な考え方を導いてきたのも、まさに韓国の思想家であった。彼らは、すでに、東アジアの各地域の理論生産に対して、効果的な「参考体系」を提供してきた。

白楽晴の「分断体制論」と「複合国家論」、白永瑞の「二重的周辺の視覚」と「東アジア論」は、すべて具体的な現実から出発し根本的な探索をするという点では共通するという思想的な特徴を持っている。韓国の思想家によれば、ここで言う現実とは、「推力」が必要な可能性の一部であって、決して既定事実ではない。そのために、国民国家の存在方式や韓国・北朝鮮の緊張関係に対する彼らの思考は、新鮮で弾力のある理論的な仮説を提供する。朝鮮半島の外に住んでいる人として、20世紀の間、常に外勢の覇権関係におかれた朝鮮半島の歴史、とりわけ、1950年代の初め同族間の戦争を経験してから、再び分断の状態が続いた韓国の政治的な局面を理解することは、決して容易いことではない。実際に、東アジアを論じる際に、大陸の中国人はもちろん、日本の進歩的な知識人されも、朝鮮半島の主体性を忘却し、ただそれを東アジアの冷戦の前哨基地としてのみ扱っている傾向がある。しかし、朝鮮半島の分断の歴史を、一種の社会体制の形成の歴史としてみる白楽晴の説明においての分断は、これ以上、一つの受身的な過程ではなく、主体的な参加の課程として変化する。白楽晴は、分断が、韓国・北朝鮮の既得権勢力の間の共同体制として、その総合依存関係が、自身を絶えず再生産すると見なす。ひいては、分断体制とは、冷戦の直接的な結果だけでなく、冷戦構造を牽制しながら利用すること、また、それは、近代民族国家の形態の「転覆」であると同時に、新しい複合国家モデルを創出する可能性を持つとし、その特殊な性格を鋭利に指摘している。

白永瑞は、著書や発言を通して、朝鮮半島の「脱中心化」過程と全世界における韓人ネットワークの成立、連動する東アジアの建設過程が共に動いているという基本見解を繰り返して強調した。これも重要な理論で、実践的な命題である。また、それは、完全に新しい感覚の方式を意味する。暫定的に「開放的な結集点」これは、様々な方面の力量を結集させると同時に、解放性を持っていながら、覇権的中心にはならないという意味を示すために、筆者が作った用語である。白永瑞が繰り返して強調する朝鮮半島の脱中心化と韓人ネットワーク共同体の関係、すなわち、朝鮮半島が地球的な規模の韓人共同体の「中心」になっても、それを通じて脱中心化し自身の解放的な結集を完成させることを表現したものである。一言でいえば、「非覇権的中心」と通ずる。と呼べるこの感覚方式は、既存の「中心」と「反中心」という構図を代替する。そうした次元において、白永瑞は、朝鮮半島が冷戦的な意味において国際資本の世界体制に直接的に影響を与えただけでなく、より積極的な意味において東アジアと国際世界に主体的に参加する可能性があると強調した 。 より詳細なことは、白永瑞(ベク・ヨンソ)『思想東亜』台湾社会研究雑誌社、2009年を参照。

どうすれば、韓国の思想界に蓄積されてきたこれら思想的な資源が、韓国を乗り越えて東アジアの知識界でも共有できるのであろうか。今回、金門島での会議は、沖縄や韓国のような地域の「思想的な資源」が提示されることで、原理的な思考が、互いに検証され補充される機会になった。このお陰で、単一な背景においては理解しがたい言説が、立体的に表現され、より多くの理解と想像を導いてくれた。

沖縄の思想家である岡本恵徳は、一連の重要な思想に関するテキストを書いた。その中で、すでに中国語で紹介された「水平軸の発想―沖縄の「共同体意識」について」『熱風学術』第4輯、上海人民出版社、2010年8月。なお、日本語の原文は、岡本恵徳「水平軸の発想-沖縄の「共同体意識」について」谷川健一 編『叢書わが沖縄 第6巻 沖縄の思想』木耳社、1970年、131~192頁。:日本語訳者注は、白楽晴・白永瑞の思考と迂回的に呼応する重要な文献である。岡本はこの中で、沖縄の共同体意識という敏感な問題を取り扱った。彼は「沖縄の人の自己卑下は、日本本土の差別から始まる」という既存の認識方式を拒否し、「水平軸」という一つの座標を設定することによって、日常から人間関係と秩序感覚が形成される方式を検討した。「水平軸」とは、個人としての民衆が、共同体に対する帰属意識を構築する際、自身と周囲の関係が妨害されるかどうかを基準としてすることを言う。言い換えれば、共同体の構成員は、特定な対象の間の位置と距離に基づいて自身の態度を決定するために、抽象的で絶対不変という判断とは存在しないことである。個人の是非を判断する基準は、該当する個人が関心を持つ対象及び領域が、自身と結ぶ関係の安定性によって制約されるが、この安定性を、岡本は「秩序感覚」と呼ぶ。当然のことながら、この時の秩序感覚とは、必ず具体的であるべきで、なお必然的に対象と領域の変化によって異なっていることがわかる。だから、岡本は、このように絶えず変動する秩序感覚を「共同体の生理」と呼んでいる。岡本が注目した問題は、沖縄社会の共同体意識が、イデオロギーではなく、生きている民衆の生活感覚であるという点、ここで共同体意識とは、複合的な形式を通した無数の個人が、秩序感覚にバランスを付与することで存在する点である。無論、それの志向性は、上から民衆のアイデンティティを統合する思惟方式とは異なる。

彼は、戦時中の「集団自決事件」1945年、太平洋先生が終わる頃、日本軍は米軍の沖縄占領が明確になると、駐屯日本軍と住民に「名誉に自決」することを強要した。その結果、島で、家族と親戚、近隣同士がお互いを殺し合うという惨劇が起きた。:韓国語訳者注と、1972年の「日本復帰運動」 原文には、「1972年の日本復帰運動」とされているが、「1972年までの日本復帰運動」がより正確な表現である。1945年、米軍の沖縄占領以来、沖縄住民の日本への復帰運動が継続された。1960年以降、平和憲法が貫徹される日本の本土のように「民衆の権利が軍事に従属されない沖縄」へ復帰する中、日本全体の米軍基地を撤去させるという「平和憲法、下からの復帰」を基本戦略とした。日本復帰運動は、1972年の日米間の沖縄返還協定の発効とともに、表面的には一段落されたが、この協定が日米同盟の強化に貢献するだけであるという認識の中で、今まで米軍基地の反対運動が続けられている。:韓国語訳者注を事例にして、「共同体の生理的な基礎」を分析し、沖縄の共同体意識のもう一つの側面、すなわち集団自殺という悲惨な事件の根底には、「共生共死」という集団的な価値観があったことを明らかにした。沖縄の人々にとってこうした価値観は、いわゆる「近代」の個人主義的な価値観より、より広く受容され彼らの精神世界を左右してきた。岡本によれば、共同体意識は、明治期に始まった皇民化教育に利用され沖縄の人々における「日本人になること」や「異質的な占領者」(米軍)に抵抗する力となった。しかし、民衆の視点からみれば、このような状態は、その他の論理、すなわち民衆は、行為規範としての「秩序感覚」を必要とする反面、天皇制は、共同体の風の中に内在しているこうした機能を巧妙に利用し、「愛国心」を作り出したことを見せてくれる。そのために、天皇制を頂点とする「日本共同体」というイデオロギーは、沖縄では決して第一の「秩序感覚」にはならないのである。それは、ただ、戦時中の生死の危機に直面した時に表れた特定のイデオロギーに過ぎない。言い換えれば、沖縄の民衆が保ってきた「共生共死」という秩序感覚が、特定の時期における天皇制の政治権力によって深刻に統制され、表面的にそれは、日本の天皇制に対する同一視の方式のように見えた。しかし、日本に忠誠を誓う「愛国心」のように見えたものが、実は、沖縄の人々における「共生共死」という秩序感覚の表現に過ぎなかったことがわかる。

岡本は、沖縄の人々の共同体意識の根底から新しい社会の可能性を模索したと考えられる。彼は、一連の素朴で健康な「集団無意識」は、「民族主義」や「国家主義」に簡単に還元できないものとしているが、もし適切な通路があれば、彼等の社会的エネルギーは、より実際的な責任感と連帯感として噴出されるのであろう。また、彼は、民衆の共同体意識を構成することは、「官辺イデオロギー」が上からの統制した結果であるだけでなく、「水平軸」の上の生活感覚から始まる生活秩序という最も重要な問題をキャッチした。これらの秩序が権力によって作られたことを明らかにするだけでは、問題の核心を把握することができない。「構成される」、「統制される」のような言及は、権力の支配関係を表すという点においては、批判的に機能するが、日常における民衆の主体的な能動性を理解するのには役に立たない。事実上、民衆の共同体意識は、皇民化イデオロギーにより利用されそうな要素を含んでいるが、それと同時に「共生共死」という民衆の間における連帯感も含んでいる。これら二つは、同じく人生の経験という「水平軸」の上におかれて、また複雑に絡んでいることもある。民衆の共同体意識を一つの基準で、容易く肯定したり否定したりすることはできない。それは、ほぼ生理的本能(岡本が「共同体の生理」と指摘した)に近い連帯感としての強権体制に利用されるエネルギーになることもあり、それに抵抗するエネルギーになることもあるためである。問題は、どのように民衆が納得できる方式として、この「生理本能」を彼らの主体意識に転換させるかということである。

単純な自由主義は、民衆を啓蒙の対象として扱い、単純なマルクス主義者は、民衆を革命の動力として見なす。このような民衆観は、対立されるように見えても、すべて民衆の上に立っている「外部の視点」という点では同様である。ところが、岡本が提供した「水平軸」という視点は、民衆の中に位置づけられるという特徴を持ち、より重要なことはそれが民衆という複雑な集団の動態的性格を効果的に表してくれる点である。沖縄の基地反対闘争においても、岡本の指摘する二つの異なる様相が見られる。戦争末期の集団自殺にしろ、戦後の日本回帰運動にしろ、その中にはすべて沖縄民衆自身の「生き方」の論理が含まれており、これは、彼らがやむを得ない状況において、やむを得ない選択をしたことであろう。したがって、彼らを被害者としてのみ考えたり、彼らが集団自殺するようにさせた日本軍だけを批判したり、もしくは日本復帰運動が、日本政府に利用されたという事実だけが明らかにされたりすることは、全て沖縄の民衆が経験した被害の外在的な要素だけを表すこと(無論、このような作業は重要であり、これからも続けられなければならない)である。慎重的に接近しなければならない重要なことは、彼らがやむを得ない選択をした際に、何を基準にしたかという点であろう。沖縄の知識人が、民衆と基地反対運動を容易く理想化しなかったことも、民衆の判断と選択を決定する基準が、イデオロギー的な理由ではなく、まさに「水平軸」の上の生活感覚だからである。民衆の生存状態によって決定される抵抗の形式は、最も混沌的で多重的である反面、知識人の理念化された分析は、その原因を単純化したり、生活から分離させたりすることで、さらには、歴史からは、かけ離されることもあった。

岡本のこうした見解を借りて、再び韓国の思想家の話に戻ってみよう。同じ次元で白楽晴の「分断体制論」を考えてみると、その中に岡本と最も類似な問題意識が存在していることがわかる。白楽晴が、分断体制克服運動を「日常生活の実践」にさせようと主張したことで、彼は、まさに民衆の秩序感覚の次元から、政治の含意を新しく定義していたこととなる。彼は、韓国社会の分断体制は、すでに「頑固たる」日常的な構造として変化してきたために、それを克服することは、必然的に日常生活の秩序に対する巨大な転換を意味していると指摘した。もし、戦争という手段を通して、この転換を完成させることではなければ、唯一、実質的な選択とは、絶えず人生を改造する日常運動を展開させることだという。ここで、白楽晴は、岡本が提起した問題から進み、民衆にとって水平軸上の秩序感覚が一次的な判断基準とするなら、改革を推進する運動家が考えるべき切実な課題は、運動の目標をどのようにしてこの基本の上に設定するかであると指摘した。

もしかしたら、この共同体の生理という次元で、「国家」が本当に相対化されるかもしれない。岡本と白楽晴の分析を通じて、我々は、本能的な次元において、民衆が国家と結ぶ関係は、消極的な忍耐ではなく、積極的な選択(もちろん、大概は不自由な状況におけるやむを得ない選択であるが)であることがわかる。したがって、複合国家の構想は、国家的な視点ではなく、民衆の視点から提案されたものであり、まさにその点において、連帯の課題は実際的であり、それに伴う「苦境」もより容易く判別できると言えよう。

白楽晴は、朝鮮半島の分断体制の特徴を分析したあと、事実上、「分断」は、東北アジア地域の基本問題でもあると指摘する。彼は、日本と他の地域間の分断、中国と他の地域間の分断を「巨大分断」この言葉は、孫歌が書いた「巨型分断」を訳したものであるが、これは、白楽晴が使った用語ではない。白楽晴は、これを朝鮮半島の分断と異なることであること強調するために、「分裂」と表現したことがある。「東アジア共同体の構想と韓半島」『歴史批評』2010年秋号、231頁-韓国語訳者注。とし、この巨大分断を背景として朝鮮半島の分断体制問題を論じる。同時に、注目すべきことは、彼が新しく定義した「第3世界」という概念である。彼は、民衆の視点において世界を一つの単一な総体としてみる必要があると提案した。彼が言う第3世界とは、実体的に世界を三つに分けることではなく、機能的に認識論的な角度から、世界を一つの総体として新しく整合することである。しかし、上から下に行く資本の全地球化の過程とは異なり、白楽晴は、第3世界という民衆の視点を通して「下から上に向かう全地球化」を完成させようとする。

こうした「全地球化」が国境を超越する民衆の連帯であることは言うまでもない。資本の全地球化時代の民衆の「秩序感覚」という最も基本的な問題を直視するために、彼は異なる重要概念として「民族文学」を提示した。彼は、1970年代、韓国の民族文学運動は「国民文学」とは異なり、分断体制を超越する民衆文化運動であったとした。彼は、「民族文学運動は、一種の民族運動であるが、単なる民族主義的な運動や方案だけではない。(中略)それは、抽象的な民衆や民族概念をあがめ称えることではなく、韓国で圧倒的に多数を示す構成員らが、本当に必要とする問題を処理するためのもの」「全地球化時代的第三世界及民族文化概念」『白楽晴-分断体制・民族文化』聯經出版社、2010年、197頁。であると指摘した。

上記のような「三つの基本範疇」  白楽晴が提起した三つの範疇(分断体制、第3世界、民族文学―韓国語訳者注)は、台湾で3回にわたった彼の講演からのもので、前掲『白楽晴-分断体制・民族文化』に取り上げられている。の関連の中において、我々は、一連の重要な理論的思索の経路が発見できる。その思索の経路は、最も難しい問題の一つを提起する。すなわち、もし、批判的知識人が現実から離れた政治的な「正しさ」に関する言説に満足できず、また、民衆の生によって規定される「日常の規律」にも同一視できないのであれば、それは、創造的な変化が人々の日常の中で出来始めたことを意味する。白楽晴は、「平凡な人々の日常的な生を通しても、創造的な変化が成し遂げられ、ひいては、生活の中で具現される真理だからこそ真理の名に値すると信じる場合には、日常性との微妙な緊張とバランスは、歴史的に意味ある運動が、不可避に担われるものになる」前掲、81~82頁。原文は、『揺れる分断体制』創作と批評社、1998年、15~16頁。と指摘する。

国家を超え連帯する民衆に対する論議をする時に、最も難しい問題が、まさにこのような「微妙な緊張とバランス」であろう。それは、白楽晴の「第3世界」という機能論的な視点と、岡本恵徳の「水平軸の発想」の間で、真なる接点を見つけ、国境を超越する民衆の連帯意識と共同体の秩序感覚を有機的に結合させなければならないことを意味しているためである。そうしなければ、世界を一つの総体として見なしている民衆の「下からの」全地球化構想や生活領域を本位とする民衆の「共生共死」という共同体の感覚は、単なる修辞の次元に留まるのであろう。また、資本の全地球化と国家の共謀の中で、それらは、緊張関係にある有機的な組合ではなく、対立する生活の形態として作られてしまうのであろう。岡本恵徳、白楽晴、白永瑞の思想作業は、まさにこのような困惑した課題と対面することであり、それをより進展させ効果的な認識論的道具を作り出すためである。たとえば、彼らは、すべての民衆の「民族感情」を民族主義とし単純に否定できないと、それぞれ異なる方法で指摘した。さらに、白楽晴は、今日までも民族主義は必要であると強調している。また、岡本が、「愛国心」から沖縄民衆の連帯意識を求めようとしていることも、開かれたアイデンティティ成立の可能性を打診するためである。なお、白永瑞が構想する「朝鮮半島の脱中心化」と「韓人ネットワークの構築」という逆説的な課題は、もし民衆の共同体アイデンティティが排他性を持っているものであれば、どのようにして民衆の次元において国境を乗り越える連帯が可能であるかという問題を、より直接的に取り扱っていると言える。

国家の枠を乗り越える民衆連帯は、どのような社会過程であろうか。その実際的な状況と知識人における言説や実践の間において、どのような関係があるのか。知識人の言説の中において、「民衆」は、大概、主体的かつ社会的な存在というより、一つの言説の範疇にすぎない。言説や分析の対象になったり、又は意志の対象になったりする場合にも、大概、民衆は一つの単数の集団として還元され、せいぜい明確に正義できる社会勢力に縛られるだけである。こうした状況において、民衆連帯に関する知識人の議論は、時々、社会集団としての民衆自身の政治的不正確性や政治的選択の主体的意思を看過し、それを知識人自身の価値判断として代替したりする場合もある。このような理論的ジレンマは、すでによく知られている。社会状況に対する知識人の推測は、度々現実とズレがあるだけでなく、現実を評価する時にも、我々は民衆に対する状況評価が、基本的に省略されたり、過度に抽象化したりすることを発見する。これは、知識人の民衆概念が、民衆の「共同体の生理」が持つエネルギーの特徴を理解するよりは、その道徳的な正当性を付与するのに偏っているためである。共同体の生理が、必ずしも政治的にも正しいということではないために、民衆は、立ち遅れた保守勢力として見なされたりするが、知識人のエリート意識は、まさにそのような共同体の生理の前で挫折したりする。こうした難しい問題を処理する時、最も容易い方法が「民衆」を一つの範疇として抽象化し知識人の価値判断をその中に投射することである。

しかし、東アジアの言説において民衆連帯は、一つの課題となった。もし、この課題を知識人の観念の世界に埋められないようにするのであれば、それは、「水平軸」の視点から、再び知識人の思考と問題意識を調停しなければならないという意味なのではないだろうか。まさに、これが、金門島会議から得られた「基本問題」だと考えられる。

東アジアの知識人が金門島に集まったことで、多元化する議論を広げられるという意義深い機会が作られた。この間、東アジアに知られていなかったこの金門島という空間にいることで、今までの既成的な思考から脱出することができた。これは、私に、「批判的な知識人にとっての「民衆」という言葉が持つ深い意味が何であるか」を考えさせた。

もし、冷戦構造下において、国民党と共産党が対置していなければ、金門島は、白永瑞が言った「核心現場」になることはなかったと言える。しかし、金門島の人々には、そうした対置状況は二番目の問題である。彼らにとっての一番目の問題は、他ならぬ彼ら自身の生活の問題である。金門島の穴蔵が、観光地として生まれ変わり、落下防止の「杭」が漁民らの牡蠣の採集場となり 、国民党と共産党の対置時期に、大陸の空軍部隊が落下することを防止するために金門島の沿海地域に数多くのシメントの「杭」を打ち込み、落下傘を破れるようにその上に針も作っておいたという。しかし、実際にそのような攻撃が行われたことはなかった。このシメント「杭」は、未だに残っているが、今は、そこに牡蠣が生殖し、住民の牡蠣採集の手段として使用されている。 商売人が当時の薬莢を拾って刃物として作り売っても、彼らが過去の残酷な歴史を決して忘却したことはない。金門島の人々は、確実に彼ら自身の方式で、歴史を受容し背負っていることである。金門島の繁華街で、「老金門懐旧館」という飲食店の看板を見ながら、私は「民衆の秩序感覚」という言葉が示唆する意味に気づいた。この小さな食堂の看板には、大きな毛沢東の肖像が描かれ、その横には「毛沢東ミルクティー」という広告があった。この広告の下には小さい文字で「時代が変わり、ミルクティーが変われば、運命も変わる」と書かれてある。その下には、より具体的に「ここに来て、統独と藍緑「統独」とは、大陸に対する台湾における二つの政治的な主張、すなわち、統一派と独立派を意味する言葉である。一般的に、前者は国民党、後者は民進党が代表的である。国民党の党旗が藍色で、民進党の党旗が緑色であるため、「統独」を「藍緑」とも呼んでいる。のことは置いておいて、両案が共存する平和的な雰囲気を、気軽に楽しんでみてください」と書いているのだ。

我々が、視点を民衆の生活の「水平軸」の上におくことができれば、非常に興味深い事実を発見することができる。それは、社会の下層であればあるほどデオロギーの衝突と対立が弱い反面、上層に行けば行くほどイデオロギーの対立が重要視され、なお明確的なものへ変化していく、ということである。上層のイデオロギーが、権力によって民衆の生活の中に入っていった際、民衆は、多くの場合、イデオロギーの消費者になる。しかし、これは、すぐに民衆が上層の構造から来るイデオロギーを、無条件で全部受容するという意味ではない。彼らには、彼ら自身だけの選択基準が存在する。戦争期、他の選択が不可能であった極端的な状態を除けば、民衆の選択基準が、たとえ、大衆媒体と様々な宣伝手段の影響を受けるとしても、彼らが権力によって操られるイデオロギーを完全に「受動的に消費」することではない。民衆の多様な要求(たとえ、彼らの要求が互いに衝突するとしても)が、どのように彼らの姿を作り出せるのか、そして、どのようなルートを通して社会の上層構造に到達するのか、これは批判的知識人が、必ず対面しないとならない課題であると言える。

岡本恵徳の「水平軸の発想」の重要性は、まさにこうした課題を直視しようとしたところにある。このテキストは、民衆の共同体意識に対する慎重的で省察的な態度を示していることで、深い歴史性を獲得する。これが、この沖縄に関するテキストと白楽晴のような韓国の知識人における思想言説とが呼応できる理由である。白楽晴らが声を上げて言っていること、すなわち、民衆の視点で分断の体制を克服しようという提案は、決して簡単な政治的代案ではない。それは、認識論のレベルで、批判的知識人らの言説を根本的に調整すべき問題である。また、国家イデオロギーが上から民間の方へ染み込んでいくような今日において、どうすれば国境を超越できる民衆連帯が可能であるかを真剣に考えるべきだと示唆している。

私は、これが東北アジアの知識人における共通の課題になることを願っている。その時が来たら、東アジアをめぐる言説は、実質的なものになるのであろう。

 

韓国語文翻訳:任佑卿(イム・ウギョン)•聖公會大 HK教授
日本語文翻訳:朴貞蘭(パク・ジョンラン)

季刊 創作と批評 2011年 春号(通卷151号)
2011年 3月1日 発行


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