リアリズムと共に消え去ったもの

特集_韓国における批評言説の社会性のために

 ―運動としての「総体性」

 
 
 
黃靜雅(ファン・ジョンア)  文学評論家。翰林大学校 翰林科学院 HK教授。訳書に『盗まれた世界化』、『キューバのヘミングウェイ』、『従属国家日本』(共訳)、『なぜマルクスが正しかったか』などあがある。jhwang612@hanmail.net
 
 
 
 

1. リアリズムという膠着

 
基本概念の歴史を追跡することで、社会的変化を描き出す研究分野がある。概念史と呼ばれるこの方法を適用して韓国文学史を再構成すると、欠かせない基本概念の一つが「リアリズム」である。近代文学が始まって以来、リアリズムの名ほどずっとその歴史の一角を占めなかったことがない例を見出すことも難しいだろう。それにこの概念の歴史そのものが、互いに異なる意味の熾烈なぶつかりや、いわば経験空間と期待地平経験空間と期待地平は、よく概念史を代表する人物として数えられるコゼレック(R. Koselleck)が、歴史的変化を認識するため必要な「メタ歴史的」範疇として提示したものである。ラインハルト・コゼレック、『過ぎ去った未来』、ハン・チョル訳、文学ドンネ、1998、394~99頁参照。ここではリアリズムの概念で実際に経験されたところと期待されたところとの間における差異を指し示す。 との間の鋭利な間隙、政治的・イデオロギー的党派性の不可避な表出のような劇的な要素で豊富である。このような特性はいくらか今も続いているが、劇的な歴史にきまって伴われる「栄辱」の波乱万丈さを完成するかのように、今日文学の意味の場でリアリズムはみすぼらしくて古い時代錯誤を指し示し、せいぜい他の名の新鮮さを証明してくれる背景として召還される有様である。
 
リアリズムが文学的思惟を促進させ、時に飛躍させる現在的概念としてはほとんど消え去ったのではないかと思われるこの頃、以外にもいつくかの文芸誌にこの概念の復権可能性を慎重に検討し、要請する評論が載せられた。意外だとは言ったが、そういう兆しがまったくなかったわけではない。すでに文学と政治を巡った論議とか現実の帰還を感知した批評的分析に、その歴史的連続性に対する一抹の反芻があったし、そこに明確に発話されない痕跡としてリアリズムの席がすでに設けられていたかも知れない。『今日の文芸批評』は「再びリアリズムである!」といった大胆な(?)タイトルの特集として、それぞれ焦点を異にした三つの評論を載せたが、その中で曺貞煥(ゾ・ジョンファン)の評論曺貞煥、「内在的リアリズム:リアリズムの廃墟で考える代案リアリズムの潜在力」、『今日の文芸批評』2014年春号。 の冒頭でリアリズムを巡った争点をリアルなもの、あるいはリアリティに対する定義の問題だとまとめたことは示唆的である。おそらくリアリズムを「再び」論じ得る根拠も、消え去らないリアリティの厳然さにあるだろう。『子音と母音』の特集は「一つでありながら多数である、リアル(リズム)」という多少用心深いタイトルであるが、同じくリアリズムの問題を提起した。ここで權晟右(グォン・ソンウ)は「リアリズムは単に可能な小説様式のなかの一つではなく、相変わらず文学で最も核心的な美学的態度に当たる」權晟右、「リアリズムの品格と美しさ」、『子音と母音』2014年春号、175頁。 と力説する。
 
この二つの季刊誌でリアリズムを実際批評の次元で論じた崔元植(チェ・ウォンシク)と權晟右の評論は、偶然にも両方とも韓国戦争と分断の歴史を描いた金源一(キム・ウォンイル)の『息子の父親』(文学と知性社、2013)と曺甲相(ゾ・ガプサン)の『夜の雪』(サンジニ、2012)を取り扱った。崔元植は「ルカーチ式正統リアリズムから一歩外れてい」ながらも、忘れていた小説の力を強烈に呼び覚ます二つの作品を詳細に読みながら「「形式のエンゲージメント」という急進的次元」の開拓を促す。崔元植、「事実の力、真実の法廷:『息子の父親』と『夜の雪』」、『今日の文芸批評』2014年春号、63~64、78頁。  權晟右は古いものとして見なされる歴史的素材に、常に「新たな観点が形成されうるし、未だまともに小説として形象化されない新鮮な素材が数多く存在するという事実を想起せよ」權晟右、前掲評論、192頁。 と強調する。二つの評論はリアリズムを喚起することで、作品が具現した美徳を積極的に説明した反面、その美徳に基づいてリアリズムを再構築する作業には取り掛かっていないようだ。実際、リアリズム「論」という側面から見る際、両雑誌の特集はリアリズムに対する既存の通念を受容してから進んでいる印象なので、更新方案を提示する瞬間そのような更新の方案は『今日の文芸批評』の場合、「内在性のリアリズム」(曺貞煥)、あるいは「ポスト-リアリズム」(張成奎、「ポスト-リアリズムのための三つの論点」)という用語で提示され、『子音と母音』では「ネーションを越える共通的なものの想像」(ホ・ヒ、「異國と二國」)として要約される。にも 一定の敗北主義の様子が滲み出る。
 
このような判断には具体的で個別的な論議が裏付けられなければならないが、本稿もまたリアリズム論を全面的に検討して分明な改善案を提示しようとする試みではないという点を前もって明かしておく。それだけでなく今必要な文学論の更新がリアリズム論へと収斂されうるかの可否にも、準備された答えを持っていない。その代わりにリアリズムが助長し、遂行した一連の美学的志向と運動が当然続くべきだということ、しかしこのような続きがその依然とした名で遂行されるせいで、リアリズム論はなかなか突破口を作りにくい状態だという前提から出発する。そのような膠着状態から少しでも身動きのできる空間を作り出すために、本稿はリアリズムという重くて鈍い塊から「総体性」という一つの細部をねじって取り出してみることにした。

 

2. 総体性と書いて全体主義と読む

 
いざ「細部」となるには、総体性もまた、かなり重たいのが事実である。もしかしたらリアリズムの膠着に、何より総体性のかさこそ大きな責任があるかも知れない。かつて代表的なポストモダニズム論者であるリオタール( J. F. Lyotard)が的を射て「総体性との戦争」(a war on totality)を宣布したことがあるが 、去る数十年間、この概念を巡って批判に批判が繰り返されたあまり、もうそこに翳された「暗雲」は取り除きがたくJean-François Lyotard, The Postmodern Condition: A Report on Knowledge, Manchester: Manchester UP 1984, p.82.、評判は取り返しがつかないほど損傷されたのではないかという疑問さえする。総体性批判はフレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson)の指摘通り、ほとんど「時代精神」に近いと言えようがFredric Jameson, Valencies of the Dialectic, New York: Verso 2010, p.210参照. 、それが「時代精神」である限り、これを反復再生産する側では敢えてその時その時自らを正当化する必要さえ感じないし、そういう点で事実上、是非を「超越した」席を占めているように見える。
 
まず、総体性に与えられてきた否定性の細目を簡略にまとめてみよう。ジェイムソンの要約を参考すると、まず知的権威という面で総体性は総体的知が可能な、ある特権化した主体を指し示し、社会的関係の面では差異と分化の抑圧を、政治という面では多元的社会運動と対比される一党政治を、哲学の面では他者と自然を抑圧するヘーゲル(G. W. F. Hegel)式思惟を、美学の面では有機的統一体としての作品を、倫理と精神分析の面では中心化された主体と単一な生の企画を意味することとなった。上掲書、210頁参照。  この多様な「罪の種類」に盛り込まれた共通点をより簡単に抜き出す時、詰まるところ総体性は中心があり、単一で差異を抑圧する有機的全体であり、これはつまり全体主義だという等式が出てくる。「全体主義」というレッテルはだいたい向後のある進んだ論議や再考も不必要であることを確証する役割をするので、一応全体主義と結合する瞬間、総体性は絶対避けるべき危険目録の上位に簡単に即位する。
 
このような批判が一つの公式のように広く通用されたことは、リアリズムの刷新を要請する文章でさえ確認される。「過去のリアリズムが現実の多様な側面を「総体性」という概念を基準にして還元させてきたことは周知の通り」であり、今も「総体性の名で抑圧されていたものは帰還できずに、散発的に再び抑圧されたという表現が適合」すると診断した張成奎(ザン・ソンギュ)の陳述がそうである。張成奎、前掲評論、56~57頁参照。  事情が実際にそうだとしたら、リアリズムを改めて言及すること自体がきまり悪いわけで、その刷新の要求はおまけに無謀なこととなる。
 
かつて「常に歴史化せよ」(Always historicize!)というスローガンを掲げたジェイムソンは、総体性との戦争もまた、歴史的に理解する必要を提起しながら、この「時代精神」が知的にも政治的にもマルクス主義の運命、特にフランスマルクス主義の運命と緊密に連係されていると説明する。1990年代以後起こった文学の場における変化を顧みる際、この点は韓国の状況でも同じく適用されるに価する。だとしたら、ここで歴史化のメカニズムをやや異なる方式でもう一度稼動して、総体性批判が現在の時点でどのような歴史的活動を遂行するかという質問も投げかけてみることができよう。この質問はつまり総体性概念の依然とした必要性という問題とつながっているが、この概念を「時代精神」の水準より、少しでもより真摯に論議するためには、まずマルクス主義の伝統で総体性に対して絶え間なく異なる解釈を提示してきたことを記憶する必要がある。
 
総体性との戦争で明示的であれ暗黙的であれ、しばしば「悪の軸」の役割を担うこととなるルカーチ(G. Lukács)の総体性概念からがそうだ。彼にとってリアリズムとは、「総体性に向った熱情」(passion for totality)この表現はネグリ(A. Negri)のMarx beyond Marx: Lessons on the Grundisse (Autonomedia 1991)に出る。総体性解釈の多様性を示すもう一つの事例として、次のくだりを引用しておく。「われわれはここで〔Grundrisse〕総体性に向った熱情を見ることができるが、画一的な意味ではまったくなくて、連続と飛躍の多元性(multiplicity)という形の総体性である。それは何より複数性(plurality)、そして同じく多様な主体性を持つ力学であり、どこにも閉ざされているところがない。」(13頁) にほかならなかったことは広く認められる事実であるが、ルカーチを習慣的に全体主義的総体性の代弁者として処分するに先立って、彼の総体性が全体に対するある実定的(positive)提示を含まないという解釈を勘案すべきである。例えば、彼の美学で総体性と特権的関係にある長編小説が、いざ総体性よりは「総体性を遮る条件と契機」を表わし、「否定的な方式で〔叙事詩で可能であった〕「肯定的総体性」を喚起」するだけだとか金敬埴、「ルカーチ長編小説論の歴史性と現在性」、『創作と批評』2013年夏号、336~37頁。 、彼にとって総体性とは知の形態ではなく、批判的で否定的な方式でイデオロギー戦略を脱神秘化する「方法論的基準」(methodological standard)であり、アルチュセール(L. Althusser)的「不在原因」にほかならなかったというFredric Jameson, The Political Unconscious: Narrative as a Socially Symbolic Act, London: Methuen 1981, pp.52~53. 主張らは、簡単に無視できない一貫性を持っている。このような解釈で見る際、ルカーチが長編小説と現実との間に言わば透明な反映という相同関係を設定したという通念もまた、成立しにくい。彼の総体性概念はむしろ習慣的認識の直接性をかき乱す「「異化すること」を内包」Jameson, Valencies of the Dialectic, p.206参照. するからである。
 
われわれの時代に珍しく批評家でありながらマルクス主義者として残っているジェイムソン自身の総体性解釈も参考に価する。「総体性はそれで終わる何かではなく、それで始まる何か」上掲書、15頁。 という主張は、上記のルカーチの解釈とも共鳴するくだりであるが、ここでジェイムソンが何より強調するのは、そもそも「総体的体制を構成しながら総体化する」側は全地球的資本主義だということである。上掲書、286頁。  なので資本主義を批判する立場に対して、総体性概念を廃棄しないと非難するわけにはいかないのである。ところで、ジェイムソンにとって資本主義は総体化する体制でありながら、同時に自らの総体性を隠蔽しながら維持される体制なので、批評でも総体性概念はそのような二重性をすべて担わなければならない。そこから「物神化と破片化の克服」でありながら「差異を削除することによってではなくて、根本的差異を捨象しない状態で破片を単一な精神的行為のなかへ結合し得る概念的、あるいは美学的緊張を通じて成される」克服としての総体性という主張フレドリック・ジェイムソン、『文化的マルクス主義とジェイムソン:世界の知性16人との対話』、シン・ヒョンウク訳、創批、2014、65頁。 が出てくる。言い換えると、総体的体制というものと共に(物神化と破片化の形で隠蔽される)その体制の総体化過程にも同時に対応するものが総体性概念なのである。
 
このように見なす際、言わば現実に対する総体的認識と再現が原則的に全体主義的単純論理となれない理由が、取りも直さず現実の総体性が持つ複合性にあると言える。その反面、この点は総体性概念の具現がそれほど難しいという反証となれるし、ひいてはもしかしたらそれの「不可能」を語る根拠として働く素地もある。総体性のこのような両面はマルクス主義伝統とつながるジジェク(S. Žižek)の説明でより明確に確認される。彼はマルクス主義で総体性は「理想ではなく批判的概念であり、ある現象をその総体性に置くということは、全体の隠された調和を見るという意味ではなく、一つの体制のなかにそれのすべての「症状」、その敵対と不一致を、取り離せない内的一部として含むという意味」Slavoj Žižek, Living in the End Times, New York: Verso 2010, p.154. だと説明する。ここでも総体性概念の「非全体主義的」性格は体制の属性から始められている。ところでジジェクにおいては通常的な全体というもの自体が、事実上完結され得ない構造だという点が強調される。総体性に関する限り、ルカーチより一層疑惑の対象であり、全体主義という嫌疑の象徴となってしまったヘーゲルの総体性概念をジジェクは次のように擁護する。
 
ヘーゲル的総体性は定義上、「自己矛盾的」であり、敵対を含めて一貫性を持たない。「真理」(the True)である「全体」(the Whole)は全体にその症状ら、つまりそれの非真理性を表わす、意図せぬ結果を付け加えたものである。マルクスにとって資本主義の「総体性」は危機を不可欠な契機として含み、フロイトにとって人間主体の「総体性」は主体の公式的イメージでは「抑圧された」指標としての病理的症状を含む。ここに敷かれた前提は、全体とは決して真の全体ではないということ、全体に対するすべての概念は何かを欠かしているし、弁証法的努力はこの過剰を含んでそれを説明しようとする努力に他ならないということである。(…) ヘーゲル的総体性の空間とは、まさに(「抽象的」)全体と全体によって発生したが、それの手中から抜け出る細部間の相互作用の空間である。Žižek, Less Than Nothing: Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism, New York: Verso 2012, p.523.
 
このくだりでまずジェイムソンが「体制が作り出した隠蔽」として説明した要素が、「体制の不能」という次元へ移動した変化が目に留まる。もちろん、この際不能は「弁証法的努力」が発生する条件であり、全体と全体ではないものとの相互作用としての総体性が稼動される条件である。ところが、問題は「全体」が真の全体となれないという事実と、「全体に対する概念」が常に何かを欠いているという事実が、同一なレベルに置かれた点である。このことは現実を象徴体系として捉えるラカン主義の一般的態度でもって説明できようが、そうすることによって体制の不能が体制認識、あるいは体制再現の不可能性へと一気に移っていく所持も生ずる。総体性が全体主義の嫌疑を脱ぐ代価として、自らの無能を自認する格好となりかねないのである。
 
 

3. 不可能との接続

 
不可能に関する限り、破片化の克服が非常に複雑な手続きを要求するというジェイムソンの指摘にすでに端緒が与えられている。実際に「ポストモダン」時代を意味ある断絶として強調する彼の説明は、総体性が不可能となったという診断に近づく場合が多い。資本主義体制があまりに巨大で複雑であり、破片化したあまり、それが相変わらず総体的体制であることが明らかであろうとも、それに対する総体的再現は極めて難しくなったというふうである。例えば、総体性再現の核心的な媒介として「アレゴリー」を提示する時も一定の曖昧さが現れる。ジェイムソンは聖書に対するアレゴリー的解釈や、マルクス主義の土台―上部構造のアレゴリーを例に挙げてアレゴリーが還元論であるどころか、解釈の地平を切り開く媒介となるという説明を出したことがある。Jameson, The Political Unconscious, pp.31~33参照.  同じ脈絡で彼は「ポストモダニティにおいて普遍と特殊はアレゴリーでもって始めて互いに連関されたものとして理解」されるし、「一つの体系が自分の普遍的要素を除去することを望んで、これ以上一つの体系として認識され得ない時 (…) その〔普遍と特殊との間の〕連関はいつもアレゴリー的に成されるべきだ」と主張する。しかしもう一方で、そのような「アレゴリーはまた、不完全な再現、あるいは再現の失敗」、つまり「充満した再現がいつも必然的に失敗するということを意味」すると敷衍するのである。フレドリック・ジェイムソン、『文化的マルクス主義とジェイムソン:世界の知性16人との対話』、278~79頁。インタビューで構成されたこの本で、ジェイムソンが脱構造主義的立場に立ち向かって自分の見解を繰り広げなければならない防御的位置にある時が多いという点は考慮すべきである。
 
だとしたら、総体性概念は「明らかに出来ないだろうが、試みはすべきだ」という悲壮な倫理的ジェスチャーに過ぎないのか。そうならば、いっそ最初から限界を認めて退いた方が潔いのではなかろうか。最近の批評でよく出会う不可能の言述、特に「(再現)不可能性に対する再現」という診断に、このような質問が内包した苦境が端的に圧縮されているし、論議を閉鎖して解釈を終結させるという点で、不可能の宣言はもう一つの「時代精神」へと発展する兆しさえ示している。このような状況で総体性概念が依然として必要なのを立証することは、解釈を正すこととは異なる次元の作業を要求する。総体性が不可能の次元に接続される際、それに圧倒されないことができるだろうか。不可能をその一部として含む総体性が、批評的遂行性をきちんと発揮できるだろうか。この質問の答えを見い出すためには、まず「不可能性」としてひっくるめられた修辞の曖昧さを取り除き、そこに連累された差異に注意を注ぐ必要がある。一時、「再現不可能性」の象徴として取り上げられていた「アウシュビッツ」を論じたアガンベン(G. Agamben)の議論を通じてこの点を見てみよう。
 
アガンベンは「アウシュビッツで起こった事件一つ一つを列挙し、描写できるとしても、われわれが真実に理解しようとする際、その事件は独特と不透明なこととして残る」という話で論じ始め、そのように「事実的な要素を超過するしかない一つの現実、そういうものがアウシュビッツのアポリア」だと述べる。このアポリアは「歴史的認識そのもののアポリア」として「事実と真実との間の、立証と理解との間の非一致」に他ならない。Giorgio Agamben, Remnants of Auschwitz: The Witness and the Archive, trans. Daniel heller-Roazen, New York: Zone books 2002, p.12. 続くくだりはこの本の1章である「証人」(The Witness)の内容を要約したものである。  ここですでに一種の不可能性が登場している。ただし、それが事実的次元ではない、真実と理解にあるという点に注目すべきである。
 
アガンベンによると、あまりに多く、あまりに早く理解したがりながら不器用にすべてを説明しようとしたり、逆に理解を拒否して安っぽい神秘化を図ることは、このアポリアを正しく押し進める姿勢ではない。例えば、アウシュビッツ生存者たちの証言を審判( judgement)と混同することは、「不器用な説明」に当たる。アガンベンにとって法的範疇としての審判は、正義を正すことでも真理を証明することでもない。アウシュビッツに関する法的手続きは当然必要であるが、同時にその手続きはアウシュビッツの問題が解決され克服されたという間違った考えを流布するおそれがある。また一方、「安っぽい神秘化」に当たる例は、アウシュビッツに対して「語り得ない」(unsayable)とか「理解し得ない」(incomprehensible)と語ることである。アガンベンは「なぜ語り得ないか。なぜ皆殺しに神秘の威厳を与えるか」を反問しながら、語り得ないことと理解し得ないことは神の属性として描写されてきたものなので、意図がどうであれこのような発想はアウシュビッツを沈黙で敬い、それの「栄光」に寄与する態度だと退ける。
 
だが、アガンベン自身も真実と理解の不可能性を言及したのではないか。でも、ここでアガンベンが反対することは理解不可能性そのものではない。理解不可能なものとして理解すること、正確に言うと、理解不可能だと語ることによって理解作業を終結付けることに対する反対である。「われわれが真実に理解しようとする際」という先述の引用文が持つ意味がここで現れる。不器用な説明と安っぽい神秘化はそれぞれ明示的で暗黙的に不可能性を否認することに他ならない。不可能性が始めて現れる瞬間は、取りも直さず「真実に理解しようとする際」だからである。
 
類似した差異が、生存者の証言が本質的に「抜け落ち」を含むという説明にも維持される。「生き残った」人々として彼らは「真正な」、あるいは「完璧な」証人である死者たちを代理する類似証人たち(pseudo-witnesses)であり、彼らの証言は抜けている証言に対する証言に過ぎない。だが、同時に死者たちの証言とはそもそも存在したり成立することがないので「代理」という規定は、理に適っていない。そういう意味で「彼ら〔死者たち〕の名で証言する人は、証言することの不可能性という名で証言しなければならない」上掲書、34頁。 わけである。このくだりは厳密に言って、生存者の証言そのものが不可能だとか、その証言が指し示す内容が直ちに証言の不可能性に関するものだという話ではない。むしろ(生存者の)証言が(死者たちの証言することの)不可能性から発生するということ、言い換えると、不可能性に土台を置いて証言の可能性が生じるという意味として解釈されるべきである。アガンベンの論議を再現という見地で翻訳してみるならば、再現に内在した不可能性を受け入れる態度が、自らの不可能性を繰り返して言う「自己反映的」再現に還元されないという事実が露わになるだろう。
批評において不可能性という範疇が広く流行ったことには、不可能性としての「実在」(the Real)を語った精神分析談論の役割を欠かせない。この談論の影響は危機と破局とわざわいを語る批評で特に際立つが、ここではある突然でぎょっとする破片や、何を持っても満たされない深淵のように、象徴界としての現実に合わせて入れることが不可能なものこそ、核心的重要性を持つと考えられる。総体性ではなく、総体性が破られる地点に真実があるということだ。だが、「実在」範疇の導入が現実に対する一層緻密な探求へとつながる代わりに、現実の彼方を暗示してくれる外像的なイメージを発見し、再現することに没頭させる瞬間、「実在主義」と名付けそうな、ある批評的安易さが生じてくる。この点に関する詳しい論議は、拙稿、「実在と現実、そして「実在主義」批評」、『クリティッカ』6号、オル、2013参照。
 
実在は象徴界としての現実と、それに対する認識に記入され得ないものであるが、同時に象徴界の外や彼方に「もう一つの中心」として存在する「より深くてより真正な核、あるいはブラックホール」のようなものではない。ジジェクによると、実在が、再現が及ばない外像的な「物資体」という考えこそ、実在を隠す「究極的な誘惑」や「究極的なベール」である。Žižek, The Puppet and the Dwarf: The Perverse Core of Christianity, Cambridge, M.A.: MIT Press 2003, p.67.  ラカン的実在の一貫した規定は、それが象徴界としての現実が内包する空きでしかないが、それに頼って象徴界が一貫性を維持し、それとの遭遇を避けようとする試みを通じて象徴界が作動するという点で、象徴界そのものを成立させる空白だということである。だから実在の不可能性とはつまり象徴界が露呈する不可能性であり、実在の再現とは象徴界の不可能性、あるいは空白を再現することである 
 
ところで、この際、空白が言葉通りある空きや深淵、あるいは独特な外見を帯びた一つの実体として存在するのではなければ、それを記入するためには象徴界が作動しない場を見い出して、その作動不可能を再現するしかない。ここで再び、作動しない場とは単純に一時的障碍や枝葉の誤謬ではなく、「象徴界」自体の構造という次元で発生したものでなければならない。実在とは実在概念の属性を連想させる現実の断片を発見することではなく、現実をその限界まで思惟する時、始めて現れる。総体性が前提されてこそ、総体性が破られる地点が捉えられるのである。だから、総体性は完結したものとして成立することが確かに不可能であるが、他の意味ではこの不可能性自体が総体性を通じて、より正確に言うと総体性を捉えようとする思惟の効果として始めて現れる。
 
 

4. これが全部であるかを問うこと

 
リアリズムという名が消え去るとしても、文学で現実に対する真摯な関心と探求が無くなるはずはない。しかし、われわれの時代における文学読み、つまり批評が自分のやるところを遂行するに必要なものが、リアリズムと共に無くなってはいないか、その無くなるものを生き返らせるために、その名の力をしまっておくべきではないかと見てみることは重要である。そのような点検の一つとして、リアリズムを構成する重要な一部であった総体性概念を取り扱ってみた。先述した論議に照らして総体性概念の依然とした必要性は何なのかをまとめることで本稿を終わりたい
 
まず、否定的で批判的な方式でイデオロギー的認識をかき乱す不在原因としての総体性は、実際にポストモダニズムが遂行する総体性との戦争にも常にすでに作動している。従って、自己理論の展開に必須的に求められることを自ら否認する理由はないという意味で、総体性概念は他の何に先立って理論的自意識の次元と関わっている。マルクス主義伝統という面で総体性概念の根拠は、何より資本主義が他のいかなる体制に比べられない規模で総体化する体制でありながら、同時に総体的認識を一層難しくするというところにある。従って、この概念の必要性は資本主義を体制として思惟する必要性と連結されており、「体制というものがなければ、体制的変化を喚起することが不必要で不適切」Jameson, Valencies of the Dialectic, p.299. となるという意味で、「美学的生産や理論的分析においては言うまでもなく、政治的行動の前提条件のなかの一つ」フレドリック・ジェイムソン、『文化的マルクス主義とジェイムソン:世界の知性16人との対話』、77~78頁. と言える。総体性概念が体制の外に対する政治的思惟と行動の前提ならば、それは再び批評的判断の厳密性ともつながる。ジェイムソンは「すべてのものが体制を複製する反面、体制のなかの微細な変化と変奏こそ、あるものを転覆や再専有として作ってくれる」と見なす態度を、「モダニズムの論理」として指摘したことがある。Jameson, Valencies of the Dialectic, p.359. モダニズムの論理がこうならば、ポストモダニズムの論理は転覆という発想さえ無効化して、破片化そのものを多元性という見地から褒め称える方式だと言えよう。もちろんジェイムソン自身の立場もまた、体制の複製と体制を超えたユートピアを鮮明に分けられるということとはかけ離れており、「弁証法的な対立物の統一」に基づいた分析を要求する方である。  総体性概念は取りあえず転覆自体ができないと前提しておいてから、一際基準の低い転覆性の認定を乱発する批評的判断のナイーブさを警戒し、どれが真に外に向う転覆性なのかに関する模索を持続させてくれる。その際、総体化するこの体制が縫合できない内的亀裂と空白を孕んでいて、決して完結された総体化が不可能だという点が総体性概念を廃棄する根拠とはなれない。この不可能性を完全に表わして保存し、これを他の可能性の糸口にしようとすることが、取りも直さず総体性の作用だからである。なので総体性こそ不可能性とある特権的関係にあると言えよう。
 
ところが、その名さえ巨大なこの総体性という疑念が、必ずしも体制という巨大単位を思惟する際にのみ登場できるわけではない。私たちが出合うその時その時の、一つ一つの問題的現実に総体性はどのように介入されるか。今日、私たちに特別な意味としてやってくるしかない「証言」物語を記憶してみよう。死者たちの不可能な証言が現実に記入される瞬間は、取りも直さず生きている者たちの証言が続く間である。そして、この証言は今私たちに「真実に理解しようとする」質問の形で成される。ついに残すところなく応えることはできないというのを示すためにも、私たちは問い、また問うしかない。これが全部なのか。これまで見て語ったことが現実の全部で真実の全部であるか。そしてそれらが私たちが今語れ、また語れない全部であり、私たちが今でき、またできない全部なのか。この問いを出来る限りすべての方向で出来るだけ長く持続すること、このことが総体性概念の存在様式であり、消え去ってはならないリアリズムの「運動」なのであろう。
 
 
 
翻訳:辛承模
 
 
2014年 6月1日 発行


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