民主主義を回復させる法治の道

 
 
 
白承憲(ペク・スンホン) 弁護士。民主社会のための弁護士の会会長、「希望と代案」共同運営委員長、新しい政治ビジョン委員会委員長歴任。
 田秀安(チョン・スアン)社団法人ソン顧問。ソウル高等法院首席部長判事、光州地方法院長、大法院判事(2006~2012)歴任。
金斗植(キム・ドゥシク) 慶北大法学専門大学院教授。著書に『憲法の風景』『平和の顔』『不滅の神聖家族』『不便でも大丈夫』など。
 
金斗植(司会) 李明博・朴槿恵政権と続いてきて、検察の無理な起訴とそれにともなう無罪判決が繰り返され、国家情報院の大統領選挙介入事件まで起こり、民主主義と法治主義に関する根本的な疑問が提起されています。今号の「対話」では、韓国社会の民主主義と法治主義をめぐるさまざまな問題を診断し、解決方法をさぐってみようと思います。白承憲弁護士と田秀安・前大法院判事のおふたりをお迎えして、お話しをお聞きしたいと思いますが、『創作と批評』誌の読者のために、私が少しの間、おふたりの紹介を差し上げながら近況をお聞きします。白承憲弁護士は「民主社会のための弁護士の会」会長を歴任して、良心犯の弁論だけでなく、総選挙市民連帯や連合政治運動など、市民運動に積極的に関与してきました。田秀安・前大法院判事は1978年にソウル民事地方法院判事として任用されてから2012年に退任するまで、34年間、判事として在職され、退任後、自由人を夢見て「自発的失業者」を標榜されていましたが、最近、公益法人で社会貢献活動を計画しておられます。白さんは最近、「新しい政治ビジョン委員会」と関連してマスコミにたびたび出られましたが、田先生は何をしておられるのか、まったく分かりません。

 
田秀安 最近は主に旅行中です。夫といっしょの引退旅行ですが、始めてみるとこのように夫といっしょにいるのが生まれて初めてなんです。以前は家に一緒にいても別のことを考えて、夫の話もうわの空で聞いていましたが、今になって初めて互いに耳を傾けて関心を持つようになりました。だから、これまで本当に申し訳なかった、今からでもと思って過ごしています。
 
金斗植 うらやましいです。白さんはどのように過ごされましたか? 新しい政治ビジョン委員会の活動で忙しかったでしょう。
 
白承憲 最近は少しそうでしたが、それは短期間の仕事なので、常にその仕事のために忙しいわけではありません。外部では私がさまざまな社会活動でマスコミに映る時は、忙しくやっているように思われ、あまり見えなければ少し余裕があると考えるようですが、実際に私の日常は、弁護士活動を中心に成り立っていて概して均質のようです。30年近い弁護士生活の間、長く休んだのは1か月ずつ2回休んだのがすべてだったためか、田先生が退任後、余裕ある生活をされているのが特にうらやましいです(笑)。
金斗植 おふたりをお迎えしてお話しをお伺いできて光栄です。では、民主主義と法治主義という主題を論じるために、まず現実の診断からしてみようかと思います。朴槿恵政権がスタートして1年半ぐらい過ぎましたが、いわゆる民主政権10年を過ごし、保守政権が6年半ぐらい過ぎたこの時点で、法治主義と民主主義がどのような困難に直面しているのか、お聞きしたいと思います。
 
 

国家情報院の大統領選挙介入で私たちが失ったもの

 
 
白承憲 今日の座談会の主題をうけ、民主主義と法治主義の現実を考え直してみました。いつからか人々が民主主義の中に法治主義や法による支配が含まれるかのように考えていますが、はたしてそうでしょうか。民主主義の概念が登場する前の社会や民主主義でない社会でも、たとえば法家などの方法による統治はありました。法治主義が法による支配だけを言うならば、法治主義と民主主義がかならずセットでなければならないのか、それは違うと思います。民主主義時代に突入して、法による支配だけでなく、法の平等、法の前の平等という概念が法治主義の必須要素と認められ、法治主義と民主主義の結合が成り立って、今の法治主義が可能になったのではないのかと思います。そのために今日、この対話が、韓国社会の法治主義が元気かどうかを問うものならば、それは単に法治主義が確立されたかを問うにとどまらず、民主主義の脆弱性や不安定性に対する問題も一緒に議論されるべきだと思います。韓国社会で法治主義がまだ安定していないとすれば、民主主義も根付いておらず、まだ道は遠いということでしょう。逆でも同じですが。
 
金斗植 単に法治主義の危機というよりは、民主主義と法治主義がきちんと根を下ろしていない状況に対する話から始めようということですね。事実、法治主義と民主主義の関係を語ろうとすれば際限がないでしょう。法の支配というものは、王の支配でなく、安定した法と制度による支配を意味するのと同時に、民主主義を実現する道具としての意味も合わせ持ちます。ならば、以前の民主政権の下で法治主義が完全に定着していたかというと、それは違うのだということを、あらかじめ明らかにする必要があります。
朴槿恵政権のスタート以降、個人的にはこのような疑問があります。現在、この政権の正統性をどこまで認めるべきかということです。裁判所の判決を待つべきですが、それがどうであれ、国家情報院がインターネットを通じて選挙に介入した事実が明らかにされています。今の民主主義で政府の正当性とは、票を通じて確認でき、結局、最も多くの票を獲得した人が最も多くの権力を行使するようになっています。直接民主主義が実現されにくい構造なので、選挙の時だけ瞬間的に公論の場が形成され、またすぐ消えて、再び次の選挙の時に生き返る形で、今、民主主義がかろうじて維持されています。
そのような状況ではありますが、維持された民主主義と公論の場が前回の大統領選挙で根本的に傷つけられました。インターネットにコメントをいくつつけたのが、実際はいくつどころではなく、途方もなく多かったものと明らかになりましたが、選挙結果にどのような影響を及ぼしたかよりも、公論の場自体が傷つけられた方が大きな問題です。私も前回選挙の時、ツイッターをしましたが、本当におかしな文章やアカウントを多く見ました。いつの間にか忘れられるからまだいいものの、おかしな人々がこんなに多いのかと思うような文章がずいぶんアップされていました。そのうち摘発されて問題になると、すぐに消えて何もなかったようになりました。これはもしかしたら進歩的な人々ではなく保守的な人々の方が怒るべき状況だと思います。オンライン空間でひとつのことに対して保守的な意見を書き込めば、今後10年くらいは「君、国家情報院のアルバイトだろう?」と反問されることになりますから。公論の場が動揺している状況で、大統領もそうで、みな裁判所の判決を待とうといいますが、私は国家情報機関が選挙に介入したことについて、裁判だけで真実を糾明できるという考え自体が理解できません。大統領が自分の下に置いている機関の誤りについて真実を明らかにする意志があるならば、裁判所の判決を待つのではなく、先に立ち上がって真相調査をして、その結果を発表しながら、前政権で行われたことだから、この政権は過去を反省してきれいに出発すると宣言するべきです。そのような時期をのがしたまま1年半が過ぎ去った状況で、この政権の正当性をどこまで認めて従うべきか疑問です。かなり根本的な民主主義の危機だと思います。ですが、さらに驚くべきことは、このように途方もないことが広がり、それが明らかになっているにもかかわらず、市民が動かないということです。いつも同じ人だけが集まって、市庁前広場で声を上げていますが、大統領は反応せずに市民もまもなく忘れます。地方選挙が目前に迫っているのに、国家情報院の選挙介入は最初から話題にさえなっていません。民主主義に向けた国民の熱望が、数年の間にどこに行ってしまったのか、これは民主主義または法治主義の最大の危機ではないかと思います。
 
白承憲 1987年に作られた現行憲法の前後で何が最も違うかを考えてみると、選出された権力の正当性が挑戦を受けているかどうかということのようです。87年末の大統領選挙の過程に多くの問題があり、実際に軍事クーデターの主役が大統領に選出されましたが、その選挙を含めてその後も選挙の正当性は滅多なことでは問題になりませんでした。公安政局、労働法・安全企画部法の突然の改変、狂牛病ろうそくデモなど、どの政権も相当な危機を経験しましたが、それがいくら深刻でも選挙自体が無効になることはありませんでした。反面、1987年以前の権力は、いくら圧倒的多数によって選出されたとしても、独裁政権という指摘を免れ得なかったという点で大きな違いがあります。ですが、このように選挙の正当性の上に立っているという理由だけで、執権者がすべての責任から免除されるわけではありません。選挙自体もそうですが、民主主義が流動的で前向きの概念であると考えるならば、選挙以外の時期にも執権者は自らの正当性に対して省察的でなければなりません。このような努力を強化するほど、それが蓄積されて、権力の正当性も確保され、韓国社会の安定した発展が担保されるのではないでしょうか。ですが、前回の大統領選挙とその後の状況を見ると、国家機関が選挙に介入したことと、これを調査して処理する過程の双方で正当性が深刻に傷つけられました。
法治主義の観点で今回の事態を見れば、ひとまず法治主義とは、どのような勢力が権力をにぎろうが、どのような検察であろうが、どのような司法府の判事が事件を担当しようが、同じ結論に至るという信頼だと思います。ですが、はたしてこの事件をめぐって検察が現在の執権者の下で捜査をしたことと、そうではないことの違いを国民に問うたら、どのような返事が出てくるでしょうか。これは法の前での平等がまったく貫徹されていない状況です。そのうえ捜査の過程でも多くの問題がありました。蔡東旭・検察総長をいわゆる「マーク」した過程をみると、この政権は結果的に正当性を強要するだけであって、問題があるのかないのかを確認し説得する社会的過程は無視すると思います。まだ事件は終わっていませんが、これと関連して唯一、一審判決が下されたのが、金用判・前警察庁長官の件ですが、はたしてこの事件で検察が最善を尽くしたのか、あるいは検察総長が辞任して捜査チーム長が強制的にポストから追われる状況で、控訴維持をきちんとやったのかがきわめて疑問です。
 
 

金用判裁判の問題点と大統領の責任

 
 
田秀安 原則的に、民主主義が代議民主主義や多数決による原則を要とすると考えるならば、法治主義とかならずしも調和がとれるわけではないでしょう。しかし、先進的な自由民主主義と実質的法治主義の間には衝突がありえず、民主主義が先進的でなく法治主義が実質的でない時だけ、衝突するという見解もあります。米国で、大法院の違憲法律審査を牽制するために、民主主義と法治主義の衝突ないし民主主義の優位を誇張したという見解もあります。私たちも、大統領弾劾事件や首都移転法の論議などを通じて、民主主義と法治主義の緊張を体験しました。代議民主主義が選ばれた権力に翼をつけることならば、法治主義は権力が過剰になる瞬間に困難に陥る鎖にならざるを得ません。
自ずから憲法裁判の問題を考えることになります。米国とは異なり、憲法に明文の規定を置いている韓国の違憲法律審査制度は、代議民主主義が法治主義の統制下にあることを宣言することによって、法治主義が民主主義の下位にないことを示すものだと思います。民主主義と法治主義の接点に位置する憲法裁判所の地位と役割を重く見るのは、主としてそのような理由からです。自由民主主義が萎縮した時期であるほど、憲法裁判所は、財産権保護には積極的で、自由権保障には消極的であるという指摘と、政治状況に敏感であるより鈍感な方がいいという憂慮に耳を傾け、死刑制度廃止、良心的兵役拒否の認定、労働権や政治活動保障など、自由民主主義の根幹となるさまざまな問題に関して、国連や国際人権基準に符合する普遍・妥当な決定を留保しないことによって、時代的な召命を果たすべきでしょう。
当面の問題に戻るならば、国家情報院の大統領選挙介入事件は、国家権力の創出に民意でない国家機関が介入することによって代議民主主義を歪曲しました。民主主義の根幹を揺るがした重大な事案であるから、事実関係を明確にして責任を問うことは再発防止のために必須でしょう。国家情報院の行為自体は現政権スタート前にありましたから、一応、特別な事情がなければ、現職大統領が責任を負うべきことではないでしょう。しかし、そのような一連の行為が知らされた後、真相を明らかにして責任を正すのは、大統領の現在の職務です。再発防止もまた、任期末に次期選挙を管掌すべき、現職大統領の喫緊の任務です。そのように見る時、政権スタート前のことだからといって、大統領が国家情報院の大統領選挙介入事件の真相究明に積極的に乗り出さないのは、名分においても実利においても賢明な処置ではありません。大統領の消極的態度は、当然、直接・間接に検察の捜査に影響を及ぼすことになり、実際にもそうでした。蔡東旭総長事件もそのような疑いをかけられた状況で広がったものです。つまり、国家情報院の大統領選挙介入事件は、民主主義の核心である代議民主主義を歪曲したという点で重大であるばかりか、歪曲の程度も深刻なものだと思います。余談ですが、さきほど金用判・前警察庁長官事件に対する白先生のお言葉の中に、裁判所に対する批判はなく、検察が、捜査や起訴維持の過程で間違っているとおっしゃいましたが、前職裁判官の発言として安心しました(笑)。
 
白承憲 一般論ではありましたが、当該裁判所の個別判断に対して、今、いくら関心を持って詳しく見ても、記録が持つディテールや厳格な証明の原則に照らし、無責任に発言することは難しい部分があります。しかし、今回の判決について、私が、裁判所の論理を批判しないわけではありません。裁判所に対する批判に先立って検察を問題にしたのは、検察が捜査段階から控訴維持まで、その責務を果たしたのか、果たすことができる条件になっているのかが、まず批判されるべきだという点を強調したのです。
 
田秀安 私も報道を見て、権垠希(国家情報院の大統領選挙介入事件当時、ソウル・水西警察署捜査課長)という人が、公務員だけでなく弁護士資格もある人ですが、その方に特別な動機や意図が発見されなかった状態で、本当にその人ひとりでそのような虚偽陳述をして、他の人はみな真実を言ったということなのかという素朴な疑問を抱きました。
 
金斗植 誰を信じるかは、結局、証明力や判断の問題ですが、一方は組織で生き残らなければならない人々で、他方は組織で生き残ることをあきらめたまま、不利益を甘受しながらひとりで違う話をしています。誰を信じるべきかは自明ですが、おかしな結果が出ました。
 
白承憲 今回の判決で最も指摘されるべき部分です。証人陳述の信憑性の判断に最も重要な要素のひとつが、虚偽陳述の動機があるかないかでしょう。この事件は公務員の身分を持つ人が、生きた権力に対して不利な陳述をしたケースですが、その人に虚偽陳述の動機が発見できないならば、信憑性を簡単に排斥することはできません。真実が多数決で決まるわけではありません。
 
 

市民の挫折と自暴自棄、保守政権の管理法?

 
 
金斗植 やはり法律家なので、具体的な事件について記録を見ていない状態では、気を付けて発言するしかありません。学校で刑法や刑事訴訟法を教える教授の立場では、これまで6年半ぐらいは「いい時期」ではなかったようです。学生たちに説明しやすい事件が続出したためでしょう。ある面では法学の教師もよく分からない内容を、そのつど参照させ勉強させる政権でもありました。たとえば、国家情報院の選挙介入事件も、控訴状の変更における公訴事実同一性の有無、「包括一罪」(いくつかの行為が包括的にひとつの構成要件に該当して一罪を構成する場合)における公訴事実同一性の有無や控訴時効の問題のようなものがみな関わっているでしょう。私は最近、授業をしながら、これが包括一罪であるために、控訴時効が過ぎてから、後で控訴状の変更を通じて追加された犯罪事実も、同一性が認められうると説明しました。ご存じでしょうが、これは司法試験や弁護士試験にもしばしば出題される刑事訴訟法上の難題のひとつです。ですから、一般国民にこの複雑な内容を説明しながら、これがどれほどおかしな捜査だったのかを示すことが難しいと思います。法廷で争う問題になってからは、ますますかなり専門的な法理知識を必要として、市民の抵抗をむしろ阻んでいるのではないのかと思います。
 
白承憲 捜査と裁判という司法領域に入って、問題が専門家だけに任されているという点を指摘されましたが、同感です。このような乖離が、重要事件に対する市民の自主的な判断を遅らせ、そのような体験が繰り返されて、市民自らが社会や制度に対する期待水準をかなり下げることになったのではないかという気がします。法治主義と民主主義の間の緊張の一例でもあるかもしれません。最近、見ると、このように固着した現実に対して、仕方ないかもしれない、一般市民の力ではこのくらいだろう、検察というのは、せいぜいあのようなものだという、半分あきらめの情緒が韓国社会に広まっているのではないかと思います。市民がそれ以上の民主主義を想像せず、さらに進みでることもせず、自らに対する慰労に陥るならば、これはただ政界や司法だけの問題ではないでしょう。
 
金斗植 去年の夏でさえ、清渓川に集まって、集会もやっていました。ですが、それがさらに進展しないのを見ると、保守政権が市民の抵抗を管理する方法を完全に体得したようです。車の壁を作って外側から見えないようにして、その少数の人々を隔離して無反応で一貫すれば、ある時点からは結局、関心が低くなるという管理技法を知ったのではないか……。私はそれが民主主義の危機であると思います。
 
白承憲 アテネが民主主義の模範を示し、自ら堕落して没落する道を歩みました。韓国社会がこれまで経済的にもそうで、社会的にもずっと発展してきたので、民主主義が逆行しうることをそこまで意識できないのではないでしょうか。そのような意味で、私たちが民主主義に対してかなり楽観したあげく、それを守って発展させつづけることがどれほど難しいことか、充分に検討することがなかったという気がします。
 
田秀安 ここでマスコミの役割についてお話ししましょう。今のマスコミの現実が、おっしゃったそのような事態に大きな影響を及ぼす原因であると考えます。マスコミが順機能的に作用しない時、市民をして、最初はマスコミに投影された現実に反発したり懐疑したりさせて、ついに挫折に至らしめるのではないかというおそれがあります。
 
白承憲 国家情報院の大統領選挙介入事件は、代議民主主義を傷つけたのと同時に、オールタナティブなマスコミの場としてこれまで自ら成長してきたオンラインにおける言説の場を破壊したと思います。インターネット空間の自律性やそこでの討論過程が傷つき、既成の制度マスコミだけが世論に圧倒的に強く影響を及ぼす状況につながり、さらに政権など既得権が民意を簡単に操作できるようになりました。「傾いた運動の場」という表現もありますが、制度マスコミの均衡が機能せず逆機能が大きいという現実において、インターネット空間ですら市民の自律の力が発揮され得ないならば、実際の民心がきちんとまとまることはあり得ない状態になります。
 
田秀安 民主主義だけでなく法治主義を語るには、最近のソウル市の公務員スパイ疑惑事件に触れないわけにはいきません。国家情報院の大統領選挙介入事件が代議民主主義の根幹を揺るがしたとすれば、この事件は法治主義の基本を揺さぶったものです。捜査の時点と対象からみて、地方選挙前に特定候補を狙った選挙介入の疑惑を提起する声まで出ているのを見れば、民主主義とも関係がなくはありません。一般的にソウル市の公務員の中でスパイ疑惑を受ける人がいないとは断定できません。誰もがある日突然、犯罪疑惑で捜査や裁判を受けることもあるでしょう。しかし、私たちの中で誰かが偽造された証拠によって捜査を受け、もしかしたら有罪判決を受けるかもしれない社会で生きることはできません。捜査が合法的手続によって成立するという信頼がない社会は、法治社会でも民主社会でもありません。報道された内容だけを見ると、証拠偽造の主体である国家情報院は言うまでもなく、検察もその善意を信じることは困難です。韓国の検察がそこまで誠意がなく無能力だとしても問題ですが、そうではなく、証拠操作の事実を知っていたとすればより一層問題です。不幸な過去の歴史の影をまた見せられているようです。
 
金斗植 これまで韓国社会の法治主義や民主主義の危機状況について、いくつかの事件の事例をみてきました。では、法治主義と民主主義という2つの理念を、現実においてどのように調和させていくのか、一言ずつ整理して頂ければと思います。
 
田秀安 社会が正常でなかったり危機局面に処することになれば、民主主義と法治主義がある瞬間相反するように見え、そのような場合、法よりも多数の意が優先するという信頼が力を得やすいのです。私はそのような場合にも法治主義の方に重きを置くべきだと思います。韓国社会が信頼する最小限の安全装置がまさに法治主義ではないかと思いますし、そのような法治主義の枠組みの中で民主主義が調整・発展するべきだと思います。
 
白承憲 民主主義と法治主義を同じ線上に置いてお話しするならば、選ばれた権力と選ばれなかった権力の間の関係でもあるようです。直接民主主義ならばそのような問題がないはずですが、代議制民主国家では選ばれた権力にあらゆることを任せます。したがって、選ばれた権力と、専門家など、社会的権威を持って制度化された非選出権力の間に、牽制や均衡、分立が作動するべきです。すべての問題を裁判所に持ち込んで解決しようという司法万能主義は政治領域を矮小にします。行政首都移転の違憲判決(2004.10.21)は、そうした点で批判しうる側面があります。反面、選ばれた権力だからそれ自体として権力行使が正当だという循環論理に陥れば、法治主義は機能しません。両者の間の緊張関係は、代議民主主義が存在する限り避けられないことですから、均衡をよくとるべきです。どちらか一方の過剰と他方の縮小は、民主主義も法治主義もともに制限すると思います。韓国社会は、現在の民主主義も法治主義も非常に矮小になっていると思います。市場権力をはじめ、他のさまざまな問題が両者の先循環的な発展を阻んでいるという気がします。
 
田秀安 あまりにも当然の話ですが、社会の各分野で政治家や公務員、企業家など、社会を主導する階層が、憲法や法律で定めた社会契約の内容を遵守し、最小限違反せず、その趣旨や目的を見直す意識や努力が法治主義実現の基礎です。同時に、そのような社会主導層の行為を監視し告発して、それに抵抗する市民意識とその表出が法治主義実現の担保です。ですが、そのような構造がどれかひとつでも正常に作動することがなければ、法治に関連するすべての問題は、結局、裁判所に流れ込み、司法の判断でまとめざるを得ません。私たちが法治という時、ある社会が憲法や法律によって運用され維持されることを望むだけで、裁判による統治を望まないことはもちろんですが、現実においては司法制度の水準がまさにその社会法治の水準を計る尺度になるのも、そのような理由からです。
 
金斗植 立法府や行政府は、票の数で権力の正当性が出ますが、司法府の正当性は、半分ぐらいは冗談ですが、勉強ができて試験に受かった人々だというところからくる側面があるでしょう(笑)。ですから、金英蘭・前大法院判事のような方は、司法府の権威と正当性が少数者の権益保護に由来するといったりもしました。多数決に対抗して少数の権利を保護するのが司法府の存在理由だということでしょう。民主主義と法治主義の両者の調和を説明する立派な論拠だと思います。自ずから司法についての議論になってきましたが、多少軽い質問で、今の司法府をどのように見るか、お話し頂ければと思います。いい判決と悪い判決、このように分けるのは少し問題ですが、最近出た判決の中で特にいいと思われたものはありますか?
 
 

裁判所の相対的進展と依然として残る問題

 
 
白承憲 基本的に検察は同一の単位・権力として理解される反面、裁判所はある事件を個々の判事が判断する、個別化した過程を持つという特徴があります。したがって、判決の良し悪しが、司法府の健全さや全体の流れを直接的に示すわけではありません。特に現在の事件は評価が容易ではありません。司法府の機能自体が、事件が広まった後、相当な時間を持って判断するものであり、また、司法府の判断が正しかったか間違っていたかという歴史的評価は、それからも多くの時間が流れてようやく可能なものなので、同時代的な判断は非常に難しく、中途半端なこともあるという点を前提とするべきです。このような限界があるにもかかわらず、これまでの数年間、検察の不当な横暴であると感じるほどの事件の相当部分が、裁判所によってより選別されてきたといえます。あまりにもおかしな起訴が多く、相対的にそのように見えます。これまでの民主主義発展という土壌なく、司法府がそのような判断を続けられたかと考えれば、司法府もやはり韓国社会の民主発展の最も大きな受恵者のひとつといえます。そのような意味でも、裁判所が、良心による独立的判断が可能になるように、また社会的少数者の人権の最後の砦として機能が果たせるように、さらに努力するべきだと思います。これは褒めているのです(笑)。
批判を排除することはできません。ひとつ例をあげます。他の見方をすれば、別の事件ですが、最近出た大法院の通常賃金に対する判決(2013.12.18)と、過去の歴史事件に対する損害賠償判決(2013.12.12)を読みながら、いぶかしさを強く感じました。少し紹介しましょう、通常賃金に関する判決で、大法院は、企業が従来の慣行に照らして予測の可能性がなかったと考え、大法院判決以前に支給された賃金に通常賃金の法理を適用すること、すなわち遡及効を否認しました。反面、過去の歴史事件においては、再審による無罪確定判決、または「過去史真実和解委員会」の決定後、6か月が経過して提起された損害賠償訴訟を、相当な期間が過ぎたという理由で棄却しました。それ以前には法律上明示された3年の時効を適用することが一般的でしたが、その「6か月」が法典に明示されているわけではなく、そのように判断した先例があったわけでもありません。にもかかわらず、大法院判決が下される以前に提起されていた過去の歴史訴訟に対して、いかなる例外もなくすべてこの6か月の法理を適用して棄却しています。多くの物的・人的機能を保有した企業は、予測の可能性がなかったという理由で、過去の賃金の支給義務の免除を受けることができる反面、過去に国家権力によって犠牲になったと裁判所が認めた被害者に対しては、彼らが到底予測できなかった短期間を設定して遡及適用することによって、加害者である国家の責任を、その国家の一部である司法府が免除するのです。強者に対して厳格で弱者に配慮する司法府ではなく、強者は強者の論理で配慮され、弱者は数十年ぶりにやっと名誉回復をして司法府の最後の救済手段にすがろうとし、ふたたび被害を受けることになるという二重基準です。
 
金斗植 2つを比較してみると、裁判所が、結局、強者の肩を持ったり、さらに国家自身の肩を持ったのではないかという指摘が可能です。
 
白承憲 以前、司法府が過去の歴史事件、つまり国家権力による人権侵害に対して謝罪したことがあります(2008年の司法60周年記念式でイ・ヨンフン大法院長(当時)が緊急措置違反事件関連の裁判など、過去の権威主義の時期の誤った判決に対して、対国民謝罪を発表し、再審手続の重要性を強調した――編集者)。その後、昨年は、故・張俊河先生の緊急措置第1号違反事件の再審判決を担当した裁判所が、無罪を宣告(2013.1.24)して遺族に謝るなど、個別の裁判でもそのような例がありました。それに照らすならば、さきほど申し上げた、過去の歴史事件における時効適用の問題はきわめて矛盾する態度です。司法府全体を判断する時は、保守的か進歩的かという論理に先立って、是々非々という常識の尺度が優先しますが、依然として道は遠いと感じさせた判決です。
 
田秀安 最近の通常賃金の判決に対して批判的におっしゃいましたが、私も同様の考えです。信義則(信義誠実の原則)というものは、それこそ「法の通り」の結論が不当だったり問題があったりして、正義感に照らして到底容認しにくい場合に、結論を修正するために、修正とはいっても結論をひっくり返すために適用するということです。ですが、賃金事件で勤労者に法の通り賃金をすべてあげろという結論が、使用者と勤労者の間に、はたしてその程度で不当なのでしょうか。それに関してはすでに法理論上でも、社会経済学的に多くの指摘と議論があり、私も疑問を持つ側に属しています。それより私が注目するのは、そのような判決を下した多数の大法院判事の判断が、今、韓国社会の多数の常識と大きく違うところがないと思われる点です。民主主義社会で多数の考えは常に妥当なのか、あらためて省察してみたくなります。
 
金斗植 おふたりのお話しに全面的に同意します。ただ、以前には見られなかった、なかなかいい判決も少なくありません。まず夫婦の間に強姦罪が成立するといった大法院全員合議体判決(2013.5.16)のように、かなりおかしかった過去の判決や法理論を正したことを例としてあげることができます。過去に、妻を殴ったのは処罰できるが、妻を殴って性関係を結べば処罰できないという奇異な結論が出されたことがありました。下級審ですが、ソウル南部地方法院のMBC労組員解雇無効確認訴訟判決(2014.1.17)もよかったです。過去には、勤労条件の向上のためのストライキだけが適法だといいながら、その勤労条件の範囲を非常に狭く解釈していました。今回の判決では、公正放送と公正報道が放送法にも保障された重要な課題であるために、それを破棄した社長と戦ったストライキが、勤労条件の向上のためのものと認められました。既存の法理論からさらに一歩踏み出した立派な判決だったと思います。
また軍服務中に自殺した場合にも、教育訓練、職務遂行と死亡の間に相当の因果関係があれば、国家有功者と認定するべきという判決(2012.6.18)も記憶に残ります。田秀安・前大法院判事が主審でした。私は韓国でも人のにおいがする判決を常日頃から見たいと思っていました。韓国の判決はあまりにも機械的で、人のにおいが感じられないでしょう。ですが、この判決を見ると、「軍隊内の自殺に対しても、一般社会での自殺と同じように、それを自殺者個人の意志薄弱や弱さのせいにばかりするのは、成熟した社会の姿でなく、遺族に対する適切な慰労や補償もまた国家の責務である」(田秀安大法院判事補充意見)というような「生きた」表現が出ています。以前に比べて大きな発展だと思います。
 
 

法条文と通念に拘束されない判決を

 
 
白承憲 私もその判決を見ながら、司法府が最小限の社会的通念だけを受け入れるのでなく、長い間触れずにいた問題に挑戦する面があることを確認しました。被害者を意志薄弱者として扱ったり、個人の問題にすることによって、全体が責任を免じる方式に対して、そうではない、同じ責任を負うべき問題だとしながら、韓国社会に暗黙的に広まっている通念に対して厳しい忠告をしました。このような点でいい判決というのは、韓国社会をより健全に導く先導的な機能を果たすことだとも思います。
 
金斗植 私は反省もします。私を含めて、司法試験に合格して法実証主義的な教育を受け入れた人間ならば、法規定に自害や自傷は国家有功者として認定できないと記されているのを見た瞬間、自殺した彼らが苛酷な行為を体験しようがしまいが、可哀想だけど法規定の解釈上では仕方ないという風に結論を下しやすい傾向があります。誰lsが聞けば、質問の内容にかかわらず、私もそのように答えたでしょう。そのような通念に挑戦した弁護士がいるということはいいことで、大法院が通念の壁を越えたという点で非常に意味のある判決だったと思います。
 
田秀安 金先生が引用された判決の最後の部分、軍隊内の自殺を自殺者個人の意志薄弱や弱さのせいにできないという表現の行間には、軍隊に行ってよく適応し、無事に除隊する人だけが真に正常な人間なのか、という疑問も隠れています。これは人文学的な観点から申し上げるものです(笑)。
 
金斗植 そうですね。ひょっとしたら、息子さんを軍隊に送ることで、そう思うようになったのではないでしょうか?(笑)
 
田秀安 以前からそのように考えていました。私は、韓国社会の各分野の希望が、女性構成員が多くなることにあると思っています。その理由は、女性が本来、社会構成員の半分であるからではなく、韓国社会の特殊性のためです。男性の場合、20代はじめの最も感受性が鋭敏で人格が形成される時期に軍隊に行きます。その2、3年の間、軍隊の組織や文化に接して、結局はそこ順応します。よく適応した人間は社会に戻りますが、適応できない人は正常に復帰できません。結局、軍事文化に適応した男性たちが社会を支配することになり、その結果、韓国社会が全体的に軍事文化に感染しているのではないかと考えてみる必要があります。私たちが「ちがいます。できません」と言うべき時に、「わかりました、そのまま(命令通り)実施します」という文化に順応してはいないでしょうか。ですが、実は女性だからといって、完全に自由なわけではありません。間接喫煙のように文化も2次感染します。夫がいて、息子がいて、職場には男性の上司がいます。それでも相対的にあまり汚染されていないという点で、女性が希望だと主張するのです。特に検察こそ、女性の検事が多くなれば、現在とはかなり違ってくると思います。
 
金斗植 検察で勇気ある挑戦をする方々は、女性の検事である場合が多いと思います。検察組織は軍隊組織と似た面があるので、男性は上の人との衝突を避けます。
 
田秀安 せっかくですから、いい判決についての話をもっとしてもいいかもしれません。おっしゃった通り、公正放送を貫徹するためのMBC労組のストライキが、究極的には勤労条件向上のためのものだと考え、ストライキの正当性を認めた法理は新しいものです。双龍自動車の解雇無効判決(2014.2.7)もそうです。2つの判決はともにまだ確定しないので、今後も控訴審で法理の攻防はあると思います。双龍自動車の問題だけをとってみても、リストラ解雇の要件である、避けられない経営上の理由があるのかが争われましたが、企業の経営が難しいといっても、それよりさらに切迫しているのが勤労者が直面している事情ではないだろうか、という常識の線で、裁判所がいい結論を出したと思います。
国家情報院の大統領選挙介入事件で、裁判所が控訴状の変更を許可したことも注視すべきです。検察がはじめは2万 6千余りのコメントに対して公訴を提起して、ツイッターなどの他の行為まで含めて5万5千件余りで控訴状を変更し、また121万件余りまで追加して、今年の年初に78万件余りに整理されました。その過程で追加起訴をするのかしないのか、公職選挙法違反を含めるのかなどについて検察内部で葛藤がありました。控訴状変更によって追加で起訴された行為は、初めて起訴された行為と様態は異なりますが、全体的に見れば同じ目的、意図の下に進められた一連の行為であるというのが検察の公訴事実ですから、そのような事実が認められるかどうかは別の議論として、裁判所が控訴状の変更を許可したことは適切な裁判の進め方だと思います。もし許さなかったとすれば、多くの行為が控訴時効満了で陽の目を見ない事態にもなり得たでしょう。
 
金斗植 国家情報院の政治介入禁止規定は、選挙介入のように時効が短くないために、控訴状の変更なしで政治介入禁止の義務違反として追加起訴して処罰するのは、充分に可能だったでしょう。もちろん今回の事件の本質を直視するならば、選挙介入で処罰する方が正しかったんです。
 
白承憲 各論ですが、選挙法の控訴状変更について言えば、選挙法の控訴時効は例外的に短期でしょう。任期がとうに過ぎた後に起訴されたり、起訴後に長引くことを防ぐために、控訴時効も短縮し裁判も迅速にやるのですが、逆に6か月さえ過ぎれば免罪符が与えられるものと理解され、制度の善意と結果の公正性が背反するケースとなりました。
金斗植 ええ、ですから、選挙の時に不正を犯した人々は、選挙が終わって6か月過ぎることだけを待っています。
 
 

司法独立とエリート主義の問題

 
 
白承憲 話が出たついでに、はたして裁判所の独立的な地位がどれほど保障されているかという点について話してみたいと思います。私の弁護士の初期だけでも、いわゆる時局事件では、すべての判決が被告人に不利だったといっても過言ではありません。政治権力や人権と関連した事件で悪い判決が繰り返され、人権の基準を正しく立て直す判決はきわめて少なかったようです。
 
田秀安 あまり勝訴したことがありませんね(笑)。
 
白承憲 その時期の時局事件がそうでした。先輩たちの話を聞くと、維新時代などそれ以前はもっと深刻だったといいます。とにかく過去とは異なり、司法府に対する肯定的な評価が少しずつ増えている今の状況が続くかについて、私は憂慮する部分があります。司法権力システムの問題や社会的な雰囲気の問題が作用するのですが、2つの側面で司法府の構成員の努力が必要だと感じます。1つは、司法府の独立性を守るという意志がなくては独立的な判決は難しいということです。2つ目は、社会的通念に対する無批判的な受け入れ、たとえば企業が経営困難になってはいけないという見解や、国家主義的な観点のようなものが、判決過程に知らず知らず影響していく問題を克服するべきだという点です。さきほど議論されたいい判決を勘案すれば、私は現在の司法府に対して憂慮まじりの期待を持っています。
 
田秀安 社会的通念の問題は、おっしゃったように難しい問題です。白さんは、企業や国家に友好的な観点が、いつの間にか無批判的に判決に受け入れられることが問題だと指摘されましたが、一方ではそれと反対の観点から出た判決を「目立つ判決」「裁判官の偏向した見解」「主観的良心に従った判決」と攻撃する声の方が大きくないでしょうか。社会的通念が誰のものなのか、国民の名で語る人間は誰なのか、というような問題は、事実、簡単でありません。政治家も企業家も、左も右も、保守も進歩も、みな国民の名で要求し非難して、時には称賛するでしょう。まずは数的に多数を基準として考えることができます。ですが、その多数の意見がどのように収束するのか、世論がどのように形成され誘導されてきたのかを考えるべきで、そうすれば多数でない中間人、または平均人が基準なのかと考えることになります。
韓国社会の善良な普通の人ならば、私たちが加害者と呼ぶ人々が、実は警察や検察、もしかしたら国家情報院から犯人に指定されただけだという事実にうなずくでしょうか? だから、みなが凶悪犯に対する厳罰を叫ぶ時、裁判官は被告人がはたして犯人なのかを疑うべき唯一の人間であるということを了解するでしょうか? 社会通念や国民のような概念は、裁判官生活のなかでずっと私の悩みの源泉であり話題でした。しかし、おっしゃった最初の問題、少なくとも裁判官の形式的な独立に関してならば、裁判所では特定の裁判官の素養や価値観のために、いろいろな判決が下されるわけで、裁判官が裁判所内部の他の要因と戦わなければならなかったり、それを意識して自分の考え通りに判決することに躊躇しているとは思いません。
 
金斗植 外圧によって揺れるわけではないというお話しですね。その人の個人的な良心に従った判決であって……。
 
田秀安 ええ。ですから、申暎澈大法院判事事件(ソウル中央地方法院の院長在職当時である2008年11月、「狂牛病ろうそく集会事件」を担当した判事にEメールを送り、夜間集会禁止条項に対する憲法裁判所の違憲法律審判の審理を待たずに判決を下すよう促した事実が明らかになり、外圧の議論を呼んだ――編集者)の時も、この人がなぜこんな仕事をさせられたのだろうかと何度も思いました。結局、判事たちは静観しませんでした。そのようなことは裁判所でそのまま伏されてしまうようなことではありません。
 
金斗植 裁判所が示す肯定的な変化について、私はこのように考えました。今、裁判所の中枢を形成している部長判事、中堅判事は、概して80年代に大学時代を送っています。他の人々が民主化運動をしている時、司法試験の勉強をしていた人々の持つ若干の負債意識のようなのが、一種の社会的責任として作動し、裁判所がさらに悪くならないように努力しているようです。また他の面では、何でも極端になれば、その極端の持つ長所もありますが、韓国の裁判所はとにかく最も極端にエリートが集まっているところです。そこから派生する短所もありますが、どちらが正しい方向か決まった時、急速に変化するという長所もあると思います。裁判所が拘束中心の裁判から不拘束中心の裁判に、書類中心から公判中心にドラマチックに移行したのが、そのような結果だと思います。
 
白承憲 エリート知識人に対するかなり高い評価ですね(笑)。
 
金斗植 心配なのは、社会全体の雰囲気と関連することです。私は父が学校の教師で、私の家に新年の挨拶に来る親戚の中には、タクシー運転手のような底辺労働をしている人たちもいましたが、私の子供は親戚の中にそのような人をほとんど見ずに育ちました。格差社会が深刻になって、幼い時から貧しく苦労する人々をほとんど見ずに育った世代が、今後、裁判所のエリート層を形成する可能性が大きいということです。それを考えると、今、私が肯定的と考えている雰囲気が持続するかどうか懐疑的になります。
 
白承憲 エリートが多いことが司法府にとってはいいことかはわかりませんが、社会的に均等な発展のためにはたしていいことなのか、また、その個人たちが異なる領域に行ったら、もっとうまくやれるのに、司法領域にあまりに集中していないかという点で、弊害の方がはるかに大きいと思います。また、専門家裁判官制が、一部、陪審制の導入などで緩和される側面はありますが、少なくとも予測可能な未来には維持されると思いますが、専門家が専門性を正しく発揮するためには、常に専門領域の外側と疎通する構造があるべきだと思います。一種の圧迫と挑戦を受けるべきだということです。80年代の世代は、かならずしも民主化運動の世代だったからではなく、一定部分、そのような悩みを強要された時期だったので、そのようなことが可能だったと思いますが、今後の世代にも続くだろうかという問題は宿題かもしれません。そのような点でも現在のエリート主義教育システムはよくないと思います。
 
田秀安 本当に今後の裁判官がどうなるか気になります。奨学金があるといいますが、経済的条件がいい人だけが行けると考えられている法学専門大学院の出身はどうなるのだろうかという気もします。裁判所がエリート集団だとおっしゃいました。悪い気はしませんが(笑)、お言葉の真の意図は、称賛より憂慮にあるだろうと思います。そのような憂慮は、今後、法曹一元化(判事・検事・弁護士の間の障壁を取りはらい、多様な経験や経歴を積んだ法曹人を必要によって選出する制度)が施行されれば、相当部分、解消されると思います。法曹界の一部では、法学専門大学院出身の法曹人の実力に対する不信があり、裁判所では将来、全面的な法曹一元化時代の裁判官の資質に対する憂慮の声がありますが、極端なエリート裁判官に対する憂慮ほど大きなものはないと思います。弁護士や検事として成功した人が、あえて裁判官になるだろうかという前題のもとで、ある職域で成功できない人は他の職域でも成功しないだろうという予断は、おそらくエリート集団の視線の高さによるものです。
これとは少し矛盾する話のようですが、最近は、裁判所が、他の政府機関や、さらに一般企業よりも、マスコミや国民に対する対応や広報をうまくやっている、ずいぶん変わったものだとたびたび言われるのですが、このような部分は、精鋭エリートで組織された裁判所の行政部分と、その頂点にある歴代大法院長の役割が大きかったと評価します。順機能と逆機能をともに含蓄する意味でそう思います。まず、量刑基準の確立、不拘束裁判や参加裁判の拡大のようなものだけでも、全体的な雰囲気を主導してきたことは大法院長や裁判所の行政部分の功労で、このようなものは順機能の例だと思います。ですが、彼らが個別の裁判官の裁判に直接影響を及ぼさないとはいっても、日々出される指針と基準は、裁判官に、自らの法廷で、毅然かつ大胆でいるよりも、小心で萎縮させるような面があります。どの場合でも過剰にならないように警戒する必要があります。
 
白承憲 エリートの比重は、今の司法制度よりも、日帝時代の方がはるかに高かったんですよ(笑)。ですが、当時の司法システムがうまく作動したとは誰も言いません。他の見方をすれば、抽選など、非競争的な方法によって任命される公職者が、選出や試験による公職者ほどに、あるいはそれ以上に能力を示して社会的に寄与できるならば、そちらの方がすぐれた社会ではないでしょうか。
 
金斗植 そうですね。このような話を始めたことについて少し弁解するならば、私は裁判所の行政部分に対する批判をずいぶんしてきましたが、その結果、最近はむしろ極端さの美しさのようなものが見られます(一同・笑)。あのグループにそのような美しさもあるのかという一種の再発見をしました。
 
 

検察改革は検察自身のためにも必要

 
 
金斗植 司法府に対する議論が続きましたが、それに劣らず重要な機関である検察についてお話しして頂きたいと思います。これまで検察と関連する社会的イシューがかなりありました。最近も国家情報院の大統領選挙介入事件の捜査を担当した尹錫悦・驪州支庁長が特別捜査チーム長から更迭されましたし、蔡東旭検察総長(当時)の個人史の議論、および辞職などについて、いわゆる「追放」疑惑が提起されたりもしました。その他にも各種の捜査過程で無理に公訴権を乱用したり、反対に理解できない不起訴処分が乱発される様相も指摘されます。このような事例をはじめ、韓国の検察がどのような様相を示しているのか、おふたりの評価をお聞きしたいと思います。
 
白承憲 検察が過去の歴史に対して反省したことがあるのかについて、まず取り上げて論じようかと思います。韓国の現代史の屈曲のために、国家権力すら過去に対して自ら反省せざるを得ない過程がありましたが、ほとんど唯一の例外が検察ではないかと思います。ある時期に適用される「検事同一体の原則」(1人の検事が独立で職務を処理して「単独官庁」の性格を持つような検察の特性上の個人の独断を防止し、全国的に統一された検察権を行使するための、制度的な装置の準備のために確立された原則で、2004年「検察事務に関する指揮・監督」と用語が変わったが、本質的な内容は維持されている――編集者)を拡張し、過去と現在の間にも適用できるのではないかと思います。最近、姜基勲氏の遺書代筆事件の再審に、私も弁護人として参加しましたが、90年代初期の法廷に座っているような感じがしました。今の検察が今一度、1991年当時の起訴が正当であり、新たに出てきた被告人に有利な証拠は操作されたものだという趣旨の主張をする姿を見て、はたして検察はどのようなところなのかと頭をかかえました。
専門家の領域は変更が難しく、その改革は外部の力だけでは無理ですが、専門家自らの自己改革の動力なくしては、さらに難しいといいます。全世界的に韓国の検察ほど、多くの機能をひたすら一機関が、それも司法機関の形で保持するところがあるでしょうか。訴追・控訴維持・捜査指揮の機能に加えて、捜査を直接することもあります。これに公安機能、相当期間、犯罪情報を収集する機能まであります。牽制と均衡のための検察の内部システムもあまりないので、私は、検察機能と権力が分散するべきであり、これは検察自身のためにもかならず必要だと思います。検察が内部の不当な事態にどれほど勇気をもって対応しているかについて、ますます信頼度が落ちています。自ら改革が難しいならば、誰に能力があり、誰にないか、という狭い枠組みでなく、本当に制度改革を通じて検察権を分散するべき時期だと思います。そうでなければ、ある時期にはしばらくよく見えるかもしれませんが、その持続性を決して担保することはできないでしょう。
 
金斗植 たとえば、常設特検のような競争機関の存在を念頭に置かれているのですか?
 
白承憲 ある部分から始まるという脈を探す問題も重要ですが、私は全面的な再構成が必要だと思います。サービスを受ける主権者である国民の立場で、最も望ましい捜査・司法システムを再構成するべきです。たとえば権限を分散すると言う時、検察の捜査権を一部委譲されることになる警察権力を、今、このまま放置したまま進めるならば、改革の効果は肯定的であるなどと大言壮語することはできません。警察をどのように、さらに公正かつ清廉で有能にするか、このようなことが同時に議論されなければ、いたちごっこになるんです。権限を分掌するところがなく、一方がずっと持つことになり、他方は、分掌してこそ改革できるという理由で、要求しつづけるという過程の中では、結局、国民が持続的に悪いサービスを受けるだけです。
 
田秀安 特検の場合も、理想的には常設特検がない社会がいい社会であり、検察としては反対するのも当然だと思います。これまでの不幸な経験から出た苦肉の策ではありますが、これまで施行された何度かの特検も、制度より運用が問題であったという点で、大きな期待はありませんでしたが、それすらいろいろと縮小された形で国会を通過したといいますから、今後を見守りたいと思います。検察と関連して、最近、問題になった事件としては、国家情報院の大統領選挙介入事件や証拠操作事件のように、論議の渦中にある事件の他にも、朱真吁記者や安度眩詩人の事件、少し前には鄭淵珠・前KBS社長の背任事件、番組「PD手帖」製作スタッフに対する名誉毀損事件まで、社会的に議論が続いた無罪判決があります。過去に有罪判決が確定したものの再審が必要な事例があったのと同様に、無罪判決が宣告されたからといって被告人に罪がないと断定することはできないので、無理な起訴だからといって一括して罵倒するわけではありません。しかし、罪の有無を別にして無罪判決が宣告されたというのは、証拠が不充分だったり、あるいは証拠があっても無理に収集されたものですから、どちらも検察の責任です。過剰捜査や無理な起訴は正義感の過剰から始まるケースが多いですが、犯人をすべて起訴するという正義感も必要ですが、ひとりでも無実の人を起訴しないという正義感も大切だということを、より一層留意する必要があります。なにより犯人であるという確信があまりにも強いことが問題ですが、事実、常識的な話ですが、誰であっても、あの人が犯人だと確信できますか? いくら検事だからといっても同じことでしょう。そのような謙虚な姿勢が必要です。
もう一つ、裁判所の立場で理解できない点は、検察が公判手続において裁判所に向かって「証明」すべきだったことを、裁判が終わった後にマスコミや世論に向かって「主張」するということです。なぜそのようなことをするのでしょうか? さきほどお話ししましたように、公訴事実を証明できないのは能力と意志のうち1つに問題があったからだと推論できます。通常の事件できちんと証明できないのは、適法手続を軽視してきた捜査慣行から始まったことであって、政治的事件や社会的波紋が大きな事件で証明できないのは、無理な起訴意志や意図、すなわち公正性に問題があるのではないかと思います。ただ、私たちが検察を批判したり改革を語る時、看過してはならない点は、検察の人事権者と首脳部で代表される検察という機関自体と、それなりの勇気を発揮しようと奮闘する構成員の検事たちを分けて考える必要があるということです。
事実、検察改革は、理論上では検察権を行使する検事ひとりひとりの意識転換と改革意志によっていくらでも可能ですが、このように検事個人の善意を期待するのは、検察組織の特性上不可能だということが、これまで充分に明らかになりました。そして検察人事の公正性が確保されないかぎり、検事個人にすべて組織内で闘士になることを要求することもできません。結局、検察の改革は、検察人事の客観性と透明性の確保なくしては難しいと思います。公正で正義感あふれる個別の検事を、人事権者の不当な指示と圧力から保護する装置が必要だということです。検察人事が裁判所人事と異なる点は、予測の可能性がないということです。裁判所はこの人が次にどの地域に行くのか、誰でも大体予測できて、そこから外れる人事はすぐに問題になりますが、検察は人事権者の意中にかかっているというのが問題です。
 
金斗植 冗談ですが、今でも予測の可能性はあるんじゃないですか。無罪判決をたびたび受けた検事ほど、いいところに行くという話があります(笑)。
 
白承憲 起訴されたこと自体で、すでにその人が半分は罪を犯しているように認識されるので、司法府の無罪判決だけで完全に名誉回復されたということにはなりません。無罪が出た人の中に真犯人がいるという可能性は、実際には存在しても、司法手続内で検事が語る言葉では絶対にありません。そのような意味で「違うならやめて」という態度はあってはなりません。ですが、万一、金先生のお話しのように、本当に大法院の判決で判断されるのではなく、起訴をするかしないかで人事考課がおこなわれるならば、これは自ら人事原則を放棄することです。無罪判決が下された他の事件では、人事考課に否定的に反映する反面、いくつかの政治的ケースに対して起訴以降の結果に責任を問わないのは、自ら公正性を放棄することだと考えるべきです。
権力を持つ人に厳正で、弱者に対しては寛容な態度を持つべきだということに照らしてみれば、今、検察の起訴行為は、逆におこなわれているケースが多いと思います。たとえば、2人が交通信号を違反したが、交通警察がひとりだけを捕まえて「私は君だけを見つけたので、あの人は関係ない、君だけ処罰すればいい」という態度を示すならば、正義の観点、公正性の観点に反することです。さらに、ある時は起訴をしなかったり、非常に不充分な状態で起訴をして、また、ある時は法を違反したのかさえ不明な事件なのに、あらゆることを遅らせて起訴をして、無罪が出ても責任を負わない構造について、はたして検察に自ら守るべき尺度があるのか懐疑を持ってしまいます。個々の検事がいくらでも立派でありうるということには充分同意しますが、検察が国民の鋭い視線を受け止め、それを解決しようと組織的に努力する人が、検察内部にどれほどいるかはわかりません。そればかりか、そのような組織文化の中では、見ないふりをした人だけが生き残る構造もあります。個別検事の問題ではなく、広い視野を通じた自己反省と熟考の姿勢が重要です。
 
金斗植 背任疑惑で起訴されて無罪判決を受けた鄭淵珠・前KBS社長の事件やPD手帖事件などに見るように、事実、犯罪で一番重要なのは故意です。故意の立証ができない状態で起訴をすれば、後で無罪が出る可能性が非常に高いことがわかっていながら、無理な起訴をすることで、政治的な流れで脈を切ったり、火消しをする消防士の役割を検察がやってきたようです。国家情報院の事件もまた捜査の一般原則が全く守られませんでした。コメントを直接した人々をひとまず逮捕した状態で、上に誰がいるかを追及するのが捜査のABCですが、手足はみなそのままにしておいたまま、さらに起訴猶予をして釈放し、上の人だけを起訴をするという形でした。後で起こった尹錫悦検事の事件を見ると、捜査チームも自ら苦悩していたのは明らかですが、誤った起訴だけでなく、このように初歩的な原則からもはずれた捜査を継続したことは指摘されるべきです。
ならば、検察がなぜこのようになったかという問題が語られるべきだと思います。私が見るところ、検事の方が判事よりさらに早く昇進し、早く退かなければならない構造があるからではないかと思います。ある程度の地位まで昇進した状態では、現政権の5年のうちにさらに高い地位に昇進することがとても重要になります。それができなければ数年のうちにそのポストから追い出されるわけです。検察上層部は人事権を握った人々が考える方向に進まざるを得ず、だから結局、たびたび無理な起訴をすることになります。実際にそのような人々が栄転します。若い検事たちもそのような雰囲気に巻き込まれるのです。ですから、おふたりがおっしゃった人事の重要性においても、本当に検察の未来について考える人が内部にいるのかという問題が、かなり重要な指摘ではないかと思います。
 
白承憲 私は、検察と裁判所の双方をあまり対比させない方がいいという立場です。日帝時代から検察権力は裁判所と双子のような位置にありました。さらに建物の構造や任用システムのようなものまで似ています。そのような考え方が今でも相当部分続いていますが、実は両者の機能は異なっています。互いにとても仲がいいというのが問題です。最も緊密だったのは権威主義の時期でした。裁判所が弁護士との距離以上に検察との距離が離れていなければなりません。任用システムや組織もそうです。そうなることによって、司法府は司法府として独立し、検察は検察として自らの機能を見出すという次元で考えるべきです。
 
 

制度改革の限界を越える市民的疎通の重要性

 
 
金斗植 さきほど司法府を評価しながら出てきた話のような脈絡で起きている問題ですが、昔は司法研修院で一番できる人が裁判所に行きました。最近のロースクール(法学専門大学院)では首席が検察を志望しています。裁判所で裁判研究官を選びますが、これは正式の判事ではないので、優秀な学生たちが検察を選択するんです。
 
田秀安 時期的に早く選ぶからですね。冗談で青田買いと言われています。
 
金斗植 ですが、新任検事を部下として持つ部長がこのような話をします。検事は本来ぶつかる時はぶつかりながら自己主張もするバイタリティがなければなりませんが、「首席卒業」が入ってきて、このような気質が消えているというのです。純化されるという程度でなく、部長に質問ばかりするのだそうです。初めから自分が決めて部長の決裁を受ける構造なのですが、あたかも模範答案を求めるように、部長に質問ばかりする検事たちが出てきているといいます。
 
白承憲 ロースクール制度は司法試験制度の下のように画一化された人々でなく、多様な人々を補充する目的で導入されたものですが、おっしゃられたように、まだそれほど成功しているようには見えません。
 
金斗植 私はロースクールの導入を通じて、さきほど白さんがおっしゃった、裁判所と検察の双生児的な様相を克服する問題について、比較的、肯定的な展望を持てるのではないかと思います。
 
白承憲 ロースクール制も導入でひとつの契機を準備しました。望ましい方法の選考を創り出す課題が残っていますが、相当な時間が必要でしょう。
 
金斗植 それではここで、全体的に司法改革の成果や限界、未来についてのお話しをして頂ければと思います。重要な司法改革では、ロースクール制度や国民参加裁判、法曹一元化(判事・検事・弁護士の間の障壁を取りはらって、多様な経験と経歴を積んだ法曹人を必要に合わせて選出する制度)のようなものがあります。特検についての議論もそうです。ただ誌面の関係上、制度上の詳細な議論は避け、法治主義と民主主義という、この対話の主題に合わせて、総合的に評価をして頂ければと思います。
 
白承憲 法曹内部の改革については評価する部分も多く、今後、残されている課題も多くあります。そのような意味で少し他の角度でお話しするならば、私は法曹界がさきほどお話しした通り、専門家固有の領域であるだけに、ロースクールでも司法試験でも養成システムを完全に開放できない部分が明らかにあったりしますが、そうであればあるほど、市民と疎通する構造、国民の視線に合わせる文化がかならず必要だと思います。
 
金斗植 国民参加裁判を念頭におかれたお話しですか?
 
白承憲 かならずしもそのことに限定されるわけではなく、専門家のわなに陥って国民一般と乖離しないための多様な努力が必要だということです。
 
田秀安 このあいだ偶然、法学専門大学院、国民参加裁判、大法院判事推薦諮問委員会、量刑基準、このようなものを導入すべきだという議論に接しましたが、2006年に刊行された本でした。今はみな施行中の制度です。思ったより比較的短期間に多くの変化がおきたことがわかりました。私は個人的にそのうちの相当部分が肯定的に定着していっていると思います。参加裁判の場合、満足するほどの水準ではありませんが、憂慮しなくてもいい段階には来ていると思います。それらを進めている裁判官も、過重な業務にもかかわらず、肯定的評価が多かったと思います。参加裁判として進められた朱真吁記者の無罪判決の宣告時に、裁判長がこのように言ったと報道されました。「検事と弁護人の双方がすべての力量をつくして、最大・最高の弁論をした状況で、裁判所も陪審員の意見を受け入れる」。法学専門大学院の役割についても賛否両論ありますが、私は基本的にこれも韓国の法曹文化の改善に資するだろうと楽観的に考えている方です。増加した法曹人を通じて、住民センターごとに保健所水準の法律支援をするならば、みなが憂慮するような、本当にそのように大変なことになるでしょうか?
 
白承憲 弁護士数が統計的にどの程度の線が適切かについては、ロースクール導入当時ぐらい真剣な議論があればというのが私の考えです。私はロースクール導入の当時も、完全な制度はなく、制度はすべての問題の根源であり、制度がすべての問題を解決する万病薬と考えるのは危険だという考えでした。ロースクールはアメリカ式の制度を持ってきたものですが、文化や諸般のシステムが違うので、所変われば品変わるように、ややもすると移植過程にみられる問題点も少し心配でした。司法の特権を解消する問題は、司法試験の合格者数だけで解決するわけではなく、教育の正常化にカギがあると感じました。今のロースクールの状況はその当時の憂慮が相当部分、現実化しているように思えます。すべての人に実質的に開いた教育機会になるのでなく、学校の序列化現象をそのまま拡大再生産しています。当初、期待した多様な法律教育機会の保障のような面で大きな問題点を示しているので、追加的に真摯な議論が必要です。
 
金斗植 事実、ロースクールを導入する時、学校教育の正常化という側面で主張した方もいるでしょうが、弁護士の定員を制限する障壁があまりにも堅固なので、ロースクールを通じてそれを避けていこうという方々もいました。ですが、ロースクール導入後も弁護士数の制限は相変わらずですから、それにともなう副作用が見られます。今、ロースクールは、その導入以前の時期よりも、さらに深刻な上級公務員試験の学校になっています。弁護士試験が判例暗記中心なので、学生たちに理論を教えるとみな嫌がります。なぜ試験に役に立たないことを教えるのかといいます。このような形で行けば、過去よりさらに画一的な法曹人が出てくるかもしれません。私も白さんの意見のように、ロースクール導入を主張した側と反対した側が、互いにもう少し打ち解けて話し合ってみたらどうかと思います。そうすることで、何が問題で、どのような方向へ行くべきかを探ってみたらどうかと思います。過去のロースクール導入の局面で、弁護士資格を持つ法学部の教授たちは、発言権は半分だけだと自嘲的なことを言っていました。何か言えば、「おまえは司法試験に受かったからと、そのようなことを言うのか」という反応が出てきたからです。さまざまなことをみな打ち明けて話すことが必要だと思います。最後に一言申し上げるならば、私を含めて既成の法曹人の場合は、これまで本当に悪い時期を経験したので、今、この程度ならよくなった方だと安易に考えやすいと思います。私は本当にそう感じます。昔はどうだったのか、いや、何かこのような話をしながら本来、韓国社会の民主主義と法治主義が進むべき未来をなかなか眺望することができない問題が、既成の法曹人にあるのではないかと振り返ってしまいます。
 
白承憲 民主主義と法治主義の理想的な関係はおそらく、民主主義は法治主義をたてて発展させる土台を作り、法治主義は民主主義を保護するということでしょう。このような関係を通じて、はじめて代議制を通じた民主主義が完全になるのだと思います。現在、韓国社会では、特に法治主義が民主主義を保存する役割を果たすことがとても重要です。民主主義の逆進防止、あるいは安全弁の機能がうまくいくための、いい法治主義を実現するために、法律家の責務がさらに重くなりました。
 
田秀安 今日、この対話もそのような憂慮から始まりました。永遠に来るとは思われなかった民主化の時代が、ある日、到来するやいなや、これからは断絶なく歴史の進歩だけがあるかのように安易に考えていなかったかと反省します。歴史はどちらか一方だけに流れるのではなく、急進的に前に行ったり、しばらくとどまったり、時には戻ったりもするように思います。市民社会が沈潜し市民が沈んでいる今、私たちが互いに引っ張って声を出し、民主主義が座礁しないように大きな流れを維持することが重要だと思います。法治主義という筏を逃してはなりません。法治主義の価値は、民主主義が危機に処した時、さらに光を放つだろうと信じます。
 
金斗植 それではこれで今日の対話を終えたいと思います。長時間、大切なご意見をお聞かせ下さりありがとうございました。(2014年4月10日/於・細橋研究所)
 
 
訳=渡辺直紀
 
 
2014年 6月1日 発行


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