[対話]中国文学の現在、東アジア文学の可能性

 

 

韓少功 – 白池雲

韓少功(ハン・シャオコン)  小說家。中国湖南省で1953年生まれ。代表作に『馬橋詞典』『报告政府』『暗示』など。散文集には『閱讀的年輪』など。
白池雲(ペク・ジウン)  文芸評論家。1971年生まれ。延世大学国学研究院研究教授(中国近現代文学)。訳書に 』『熱烈読書』(原題『閱讀的年輪』) 『帝国の目』『玉米』など。
白池雲こんにちわ。活字でお目にかかっただけの韓少功先生とこのようにお会いできて光栄です。『創作と批評』の読者のために、先生について簡単な紹介から差し上げようかと思います。1980年代に「ルーツ探し文学」(尋根文学)というスローガンで中国の文壇に登場し、1996年の『馬橋(マーチャオ)詞典』の刊行まで、韓先生は伝統と前衛の間を行き来し、文学的刷新を試みてきました。90年代以降は、激動する中国社会の文化生態を解剖するメスとして、「散文」ジャンルを新しく復活させました。文学と人生に対する先生の深い思惟と絶え間ない実験精神は、文学の終焉と危機が頻繁に喧伝される韓国の文学界にも多くの刺激を与えるだろうと思われます。今後、東アジアの文学者が互いに知恵を交換し、新たな道を切り拓いていくことを願っているこの時点において、このような機会が準備されて格別にうれしいです。まず今回、久しぶりに韓国に来られたわけですが、印象はいかがですか?
 
 
 

 

韓少功 私もうれしいです。韓国は今回が2度目の訪問です。10年前、瑞南(ソナム)財団から招請されて初めて来ました。韓国の作家との交流は多くありませんが、学者たちとは少し付き合っています。崔元植(チェウォンシク)先生や白永瑞(ペクヨンソ)先生とは、10数年前、北京大学で白楽晴(ペクナクチョン)先生の著書の出版討論会でお会いしましたし、その後も何度かお会いして親しくしています。以前も感じましたが、ソウルは本当に大きな都市です。管理もよく行き届いています。中国とほとんど時差もなく、食べ物の味も似ていて、私には自分の家のような感じです。

白池雲 そういえば先生は湖南地方のご出身でした。あちらの食べ物は韓国人にもよく合います。

韓少功 辛いでしょう。今朝もある方に、辛い食べ物は食べられるかと聞かれました。もちろん食べられると答えました(笑)。

白池雲 湖南料理が韓国料理より辛いことを韓国人はよく知らないんです。湖南は有名な作家も数多く輩出しています。丁玲(ティンリン)や田漢(ティエンハン)のような五・四運動期の現代文学の巨匠も湖南出身でした。

韓少功 沈従文(シェンチョンウェン)もいました。

白池雲 その通りです。私も彼の故郷の鳳凰(ポンファン)に行ってみましたが、本当に美しいところでした。以前、彼の小説『辺城』を読みながら、1920年代や30年代の苛酷だった時期に、どうやったらこのような一幅の絵のような作品が書けるのか不思議でしたが、実際に行ってみるとおのずから理解できました。小説の中の場面がそのままありました。聞くところによると、韓先生も湖南に帰郷されたようですね。特別な契機があったのですか?

韓少功 もう11年なりました。毎年1年の半分は湖南の漞羅(ミールオ)県で過ごします。漞羅江の近くです。長年、仕事をしてきた海南省作家協会と談判しました。辞職すると言っても聞いてもらえませんでした。結局、半分ずつ譲歩して、辞職しない代わりに半年の自由を得ました。漞羅にいれば畑仕事ができるのでいいですね。汗を流すと健康にいいです。また大学教授や編集者、記者、作家、評論家のような知識界から出ると、他の人々の生活がもっとよく見えます。

 

 

中国文学、今どこに来ているか

 

 

白池雲 では最近の中国文学の話から始めましょう。中国文学の動きが量的・質的にとても活発になりました。韓国の読書市場でも、明らかに2000年以降から翻訳が飛躍的に増えていますし、余華(ユーファ)や蘇童(スートン)のようにファン層を確保した作家も出てきました。ですが、このように押し寄せる中国文学を受け入れる準備が、韓国の読者にまだ充分できていないようです。現代中国の社会や歴史に対する理解が足りず、また紹介された作家が中国の文壇でどのような位置にあるのかもよくわかっていません。そのような韓国の読者のために、現在の中国文学の地形図を簡略に描いて頂ければと思います。中国文学は今、どこに来ているんでしょうか?

韓少功 概して文化革命直後の新時期(1970年代)以降の10年から15年くらいまでの間が、中国文学の全盛期だったといえます。あの時は誰かが何となく書いても50万部は売れました。

白池雲 50万部ですか?

韓少功 ええ。文革直後で人々は文学に飢えていました。またテレビやインターネットもなく、新聞も現在のようなものではなかったので、文学が主要なエンターテイメントでした。次の時期、ですから1990年代の後半に入ってから状況が変わり始めました。出版が商業化し、エロチックなものを描いたり、暴力を強調したりするような低級文学が主流になりました。それに加えて、株式投資関連の本や恋愛する方法、留学成功術のような、いわゆる「How to」シリーズが出現しました。テレビやインターネットも大きな衝撃でした。連続ドラマの視聴者が1千万、いや1億台を超えて、文学の位相はさらに小さくなりました。その小さくなった文学を、私は4つの色で区分しています。最初は「イエロー」です。お金のかかったベストセラーです。お金の色は黄色でしょう。数的にはこのイエローの比重が一番大きいです。2番目は「レッド」です。共産党機関が支援する革命の歴史や英雄列伝のようなものです。政府が投資している企画商品が多数あります。3番目は「ブラック」、西洋人の嗜好に合うように作られた商品です。これには包装された「地下文学」もあります。国外流出はさほど困難ではありませんが、わざわざフィルムに撮って、神秘的に西洋のメディアで大袈裟に振舞うんです。最後は「ホワイト」です。いわゆる「純文学」に近い純潔な文学でしょう。莫言(モーイェン)や蘇童のように芸術的・思想的指向を持った作家がこれに属します。80年代と比較すると、これらの市場は減る一方です。蘇童がそう言っていました。自分の読者数がゼロ1つずつ少なくなっていくと(笑)。

白池雲 蘇童は韓国でも有名ですが、最盛時にはどれくらい売れたんですか?

韓少功 80年代から90年代初期までは100万部売れるのは珍しくありませんでした。今は10万程度でしょう。

白池雲 現在の中国のベストセラー作家にはどのような人たちがいるんでしょう?

韓少功 韓寒(ハンハン)や郭敬明(グォジンミン)のような青年作家が売れています。木子美(ムーズーメイ)のように性を専門に主題として書く作家もいますが、このような本は、専門家は認めないけど、市場ではものすごく影響力があります。昨年の統計によると、中国に毎年6千種余りの長篇小説が出版されているといいます。ものすごい数でしょう。一日平均10編余りですから。ですが、文学と一般人の距離はますます遠ざかっています。以前、大学で文学専攻の修士・博士課程の学生を教えたことがありますが、『紅楼夢』を読んだ人は手をあげてみろといったら、4分の1ぐらいでした。ではフランス文学の作品を3冊以上読んだ人は手をあげなさいと言ったら、3分の1にもなりませんでした。これは20、30年前よりさらに後退しています。むしろ文化大革命のように閉鎖的な時期にも、中学生がロシア小説を10冊、イギリスやフランスの小説を10冊読むのはめずらしいことではありませんでした。だから現在を好況期などとは到底言えません。

白池雲 韓国も似ています。社会に対して考えることや文学的な情熱は、ともに萎縮しているような面があります。政治的に苛酷だった80年代が文学的にはより豊かだったかもしれません。

韓少功 物質主義、消費主義の風潮が人間の精神空間を圧殺しています。最も明示的なのが出版の市場化です。昔も出版社は利潤を追求しましたが、全体の利潤を考えたのであって、今のように本一つ一つに利益を考えようとはしませんでした。「単行本個別精算制」が普遍化して、誕生する前に死んでしまう詩や学術書が大半です。このような制度は文化の格を下げます。インターネットの衝撃も技術的な原因の一つです。インターネットで音楽を聞いて、株式やチャットの文化に馴らされて、静かに思索する能力を喪失しています。

白池雲 ですが、外から見ると、90年代以来、世界市場における中国文学の地位はますます高くなっていると思います。ここでいう世界とは、ひとまず西欧です。最近では韓国の出版界も中国文学に注目しています。もちろん中国という国の国際的な地位が上昇し、文学に対する関心も高くなっている面はありますが、やはり中国文学自体が外国の読者に与える吸引力も無視できない要因です。

韓少功 この30年の間、多くの中国作品が西欧に翻訳されたのは事実です。特に80年代の西洋は中国に格別の関心を持っていました。中国を、ソ連に共同で対抗する準同盟国のように考えていました。当時は中国と貿易摩擦もなく、経済的にも脅威になりませんでしたからね。また、ヨーロッパやアメリカも国際的に安定していた時期で、社会的に自信があふれていましたし、文化的な視野も広かったと思います。立派な評論家や出版人もかなりいました。読者の水準も高かったと思います。だから非西欧の文化にも関心を持ったんです。ですが今は中国が巨大になり、経済や文化的に摩擦が増えて、西洋人の警戒の対象になりました。中国に対する関心自体は大きくなりましたが、その心理は80年代とは違います。たとえば当時は、私たち中国の作家に対して、文学は政治から自由でなければならないと言っていましたが、最近はどうして共産党にもっと積極的に反抗しないのかと言ってきます(笑)。

白池雲 お話しを聞くと、文化的に80年代が重要だったようです。韓国人にとって80年代は時期的には脱冷戦でしたが、実感の中では相変らず冷戦でした。中国も欧米と対決状態かと思いましたが、ある面で中国の脱冷戦は韓国より早かったかもしれません。

韓少功 冷戦時代の西洋の主要な攻撃対象はソ連であって、中国ではありませんでした。鄧(ドゥン)小平(シャオピン)が70年代に初めてアメリカに行った時、ものすごい歓迎を受けました。『Time』誌の表紙にも出ました。ほとんど英雄扱いでした。

白池雲 それでは当時、中国にも、アメリカと同盟してソ連に対抗するという考えはあったんですか?

韓少功 もちろんです。中国とソ連はすでに緊張関係にあり、ときおり小規模な戦闘もありました。毛沢東(マオズートン)も鄧小平も「聯米抗ソ」の構想がありました。

白池雲 むしろ90年代に入って、中国に反米・反西欧主義の情緒が強くなりました。『ノーと言える中国』(中国可以説不)のような本が続出して、インターネットでナショナリズムの情緒が激しくなり、以降、学術界や大衆社会に「中国ナショナリズム」がイシューとして浮上してきました。

韓少功 脱冷戦以降、中国知識界の主流は親米でした。『ノーと言える中国』を書いた作家は知識界で孤立しましたし、その本も禁書措置になりました。ですが、最近の10数年で状況が少し変わりました。主にチベットやウイグルの問題、ソ連の解体、アジアやアメリカの金融危機を体験することで、親米指向の中国人が減少しているんです。チベットの問題をみても、アメリカ人は中国人(特に漢族)の考えを理解できず、中国人もアメリカ人を理解できません。そのように摩擦が大きくなって、当初はかなり少数派だった『ノーと言える中国』のような声がますます強くなったのです。最近、アメリカのピュー研究所(The Pew Research Center)が行った世界人の態度調査(Global Attitudes Project)によると、中国人の自国に対する満足度は88%でした。39%のアメリカをずいぶんと超えました。西洋人には理解できません。ここにはある種の傲慢や偏見が作用している部分もあると思います。

 

文化大革命前後の中国文学の激変

 

白池雲 さきほど4つの色で中国の文壇を概括されました。そのうち最初の3つは置いておいて、「ホワイト文学」についてお聞きしたいと思います。今、韓国の読者が主に接しているものですから。先生はその「ホワイト文学」をどのように見ておられますか? 特別高く評価している作品や作家はいらっしゃいますか?

韓少功 このような質問を受けると本当に複雑になります。大きな希望をかけていますが、目につく問題のために失望することも多々あります。今、中国文学は、最適の成長条件を備えています。まず市場が大きいでしょう。13億の人口は作家を育てる肥沃な培養土です。市場が大きいので翻訳市場も膨大です。世界各国の文学が中国に入ってきます。日本や韓国の文学も最近ずいぶんと入ってきました。韓国ドラマも中国に来て「韓流」になったじゃないですか。2つ目は5千年の歴史です。少し短く見積もって最低でも3千年という文字記録の歴史があります。そのうえ文字がほとんど変わっていないという長所もあります。繁体字が少し分かれば2、3千年前の文章を読むことができます。そこに東西南北に分布する56の民族、彼らの多様な生活はみな肥沃な文化資源です。3つ目はここ100年来、中国が体験した特殊な災難です。大部分は苦痛の経験でしょう。私たちは極度の左傾的社会主義を体験しましたし、また極度の右傾的資本主義も経験しました。問題も数多くありました。ですが、問題があってはじめて文学が出てきます。「不平則鳴」(苦痛にあえば反抗の声を出す)、「悲憤出詩人」(悲しみと怒りが詩人を作る)という言葉もあるでしょう。このように災難が頻発したこの100年は、文学の成長にとって非常に強力な動力となりました。そのような面で私は中国文学に対してかける期待がとても大きいんです。立派な作家も数多く出ました。莫言、蘇童、王安憶(ワンアンイー)、余華、畢飛宇(ヴィーフェイユー)もそうですし、史(シー)鉄生(ティエシェン)、張承志(チャンチェンジー)、北島(ペイタオ)、遅子建(チーズージェン)のような作家もいます。そのような反面、この100年間、中国文化が受けた弊害もなんとも言えないほど深刻です。

白池雲 矛盾ですね。苦痛と災難がいい文学を作るとおっしゃいましたが。

韓少功 文化には蓄積が必要ですが、今、中国にはそれが顕著に欠如しているんです。一番の大規模な文化的自殺行為が文化大革命でした。当時は読書自体が危険行為でした。「革命独尊」で大学は門を閉じ、書店もガランとしていました。文化砂漠でした。2つ目は市場経済です。すべての社会が拝金主義に狂奔しました。大学教授や学生も本を投げて市場に走ったのです。文化の精神は墜落し、全社会が魂と道徳の恐慌状態に陥りました。前の時期が狂的な「権威主義」ならば、後の時期は狂的な「拝金主義」であるといえます。両者は互いに相反しているようですが、文化を否定し亡ぼしているという点では同じです。事実、中国の作家らは暮らしていけるだけの環境があります。ひとまず市場が大きいですから。でも集まってもまったく文学の話をしません。株式や骨董品、ショッピングの話だけでしょう。

白池雲 文革の話が出たので、もう少し聞いてみたいと思います。さきほど当時の学生たちの読書素養が今よりましだったと言われました。ですが、当時のように本を読むことができなかった時期に、特に外国作品はどのように読んだんですか?

韓少功 50、60年代の中国は、海外で考えられるほど閉鎖的ではありませんでした。フランス、ロシア、英米、イタリア、北ヨーロッパの文学にそれぞれ有名な翻訳家がいました。文革の前はすべて公式に出版されましたし、文革中にも「内部読書物」として数百種は出ました。表紙を隠した別名「灰皮書」というものですが、ハイエク(F. Hayek)やソルジェニーツィン(A. Solzhenitsyn)のような反共著作も含まれていました。もちろんこのような本は高級幹部や知識人に供給されるものでしたが、実は一般社会にも広く流布していました。禁書措置にされた本も図書館に行けばありました。当時、私のような中学生も、その気になれば盗み読むことが可能でした。

白池雲 そうだったんですか。かなり以前、英文で出た先生のインタビューを見ると、中国の作家は概して20世紀前半まではソ連文学を模範とし、後にソ連と対立してからは欧米文学に向かったとおっしゃっていました。その転換点は80年代かと思いましたが、50、60年代からすでに始まっていたんですね。

韓少功 文革の前まではすべてから影響を受けていました。でも、より大きな師匠はやはりソ連でした。ですがソ連の文学にはフランス文学から受けた影響が大きいです。だから中国の読者もフランス文学が好きだったんです。「知青」(高等教育を受けた青年。1950年代から70年代の間に、志願または強制的に農村に行って労働した青年たち)の時代には、ユーゴー、バルザック、モーパッサン、デュマのようなフランス作家は決してめずらしくありませんでした。文革が終わってから、多くの青年たちの主要な読書対象は、超現実主義、不条理、意識の流れのような欧米のモダニズム文学に変わりました。今回、韓国に一緒に来た高行健(カオシンジェン)も、80年代に西欧モダニズムの紹介で重要な役割を果たした人物です。

白池雲 さきほど最近の作家に期待と希望をかけているとおっしゃいましたが、最近の中国の若い世代のなかで特に注視する作家がいらっしゃいますか?

韓少功 私は最近流行している「八〇後(パーリンホウ)」(1980年以後に出生した世代)や「九〇後(ジゥリンホウ)」の中から本当に優秀な作家が出てくればと思います。優秀だというのは、文化的素養があって社会的な経綸が豊富なことをいいます。そのような人々が大きな木として育ってくれればと思います。もちろん彼らが本当にそのように成長すれば、私たちの世代は飢えて死ぬわけですが(笑)、まだ私たちが食べられているというのは、全面的に彼らがきちんと活動していないからです。あまりにも急に、あまりにも大量にベストセラー作家になりました。以前、ある中学生が一人訪ねてきて、USBを差し出しながら、自分の作品を少し見てくれと言ってきました。まあ、短篇が1、2編だろうと思って開けてみたら、長篇が7編も入っていました。唐についてのものが1つ、明についてのものが1つ、それに宇宙人や機械人間まで(笑)。後で知り合いのウェブプログラマーに聞いたら、インターネットにはそのような小説が数千万あるといいます。スーパーのように何百グラムいくらで売れるくらいだそうです。彼らはどうしてもう少しゆっくり慎重に書かないのか、どうして自分により厳格な基準を求めないのかわかりません。

 

東アジアの小説伝統と現代性

 

白池雲 そのように書いて出すだけでも本当にすごいです(笑)。では先生の作品の話をうかがいましょう。私が散文集『熱烈な読書』(閲読的年輪、2008)を翻訳したときは、先生の本が韓国に紹介される前でした。その本の出版直前に長篇小説『馬橋詞典』が出て、一昨年は散文集『山南水北』が出ました。ベストセラーとはいえませんが(笑)、最近の本では感じられない深さと感動を感じたという読者が多いようです。先生の文章は中国文学や社会に対する理解がなければ接近が難しいかと思いましたが、意外にそうではありませんでした。『馬橋詞典』もかなり反響がありました。特に「詞典」(辞典)という形式が注目をかなり集めました。そのような形式を構想することになったのには、なにか特別な背景があるんでしょうか。

韓少功 中学を卒業する頃、全国の大学がみな門を閉ざしました。だから、私たちは農村に行って「知青」生活をしました。6年間労働しました。その時に行ったのが、現在、暮らしている漞羅県です。私も湖南の人間ですが、そこの言葉は本当に一言も聞き取れませんでした。後に大学で言語学の授業を聞いた時、音韻地図を見てようやくわかりました。ただ湖南省だけにさまざまなマークが数多くついていたのです。つまり湖南方言が格別に複雑だったんです。そこの言葉で「十里ごとに言葉が三つ」(十里有三音)というのがあります。そのように16歳で「多言語」的な状況を体験し、ときおり「比較言語学」を勉強しました。まあ「言語学」といっても、一人で田舎でその土地の言葉と自分がわかる言葉を比較しながら整理するだけですがね。そのように長い時間が過ぎて興味深い問題を思いつきました。ある単語は、他の言語体系において、それに正確に合致する単語がないということです。白池雲さんも翻訳をされていたら、きっとそのような経験があるでしょう。

白池雲 その通りです。特に中国語には韓国語にない表現が多いです。その反対もそうですが。
韓少功 モンゴルに行った時に見ると、そこには馬についての単語が本当に多いんです。一歳馬、二歳馬にそれぞれを指し示す単語があります。漞羅県で6年過ごして、言語と言語が決して対等でないことを知りました。言語の背後に生活があって、物語や人、特定の歴史や文化があるからです。60年代の西洋に「言語学的転換」という重要な哲学論争がありました。ヴィトゲンシュタイン以降、多くの人々が、哲学の問題は言語の問題であると考えました。それを私は漞羅県での経験と結びつけながら、ある歴史や人生について知ろうとするなら、言語から始めなければならないと考えるようになりました。そうするうちに、辞典を一つ作ってみようという気になりました。農村の生活辞典を。

白池雲 『馬橋詞典』の物語形式は確かに言語と関係が深いです。ですが、他の模索もあるようです。まさに小説と散文を結合する試みでしょう。『馬橋詞典』で印象深かった部分で、「主導性小説」の中の主導的な人物、主導的なあらすじ、主導的なプロットこそが主導性の覇権であるという言葉があります。そこで「主導性小説」というのは、西洋の近代小説(novel)のことをいっているんでしょう。先生には近代小説とは違った、「代案的な小説」に対する考えをお持ちのようです。

韓少功 私が知るかぎり、小説には2つの互いに異なる伝統があります。1つは「ポスト散文」であり、もう1つは「ポスト戯曲」です。東アジアにはすでに紙がありました。中国には紀元前の西漢時代からありました。紙があると文字が発達します。漢代の作家は大部分、数十万ないし数百万字の著作物があります。驚くべきことです。コンピュータを使う私たちもそのように書くのは困難です。当時は教育や文学が本当に発達していました。反面、西洋は他の道を行きました。13世紀になって紙を作りました。それ以前は高い羊皮紙を使いました。だから彼らの文化伝播の手段は主に口伝でした。叙事詩や劇のような口承文学が発達しました。口承文学と叙事文学はかなり違います。口承文学は観衆を念頭に置きます。識者でも文盲でもです。ですから、作品の展開における関心と興味がとても重要です。アリストテレスが強調したように、人物とプロットに精魂を込めてはじめて観衆が没頭します。叙事文学はそうではありません。文人を相手に書くからです。大衆ではない「小衆」、はなはだしくはひたすら自分の親友のために書きます。親友に会えなければ「名山に尋ねる」んです(司馬遷「報任少卿書」『史記』)。戯曲から生まれたヨーロッパの小説は大部分、人物、プロット、主題を主要素とします。当時のスペイン文学、フランス文学、英文学のような文学は大部分、劇化された風格を帯びています。しかし東アジアの小説伝統は違います。『史記』に収録された物語は立派ですが散文に近いです。後に出た『西遊記』や『三国史演義』のような中国の四大名著も私たちは小説と考えますが、五・四運動期にアメリカ留学から帰ったばかりの胡適(フースー)は、厳密にいってそれは小説ではないといいました。なぜそう言ったのでしょうか? 彼が持ち出した尺度はアリストテレスの劇だったんです。それに合わせてみれば、中国の小説はかなり緩慢で勝手な部分も多かったんでしょう。

白池雲 胡適の観点から見れば、先生の『馬橋詞典』も小説ではないでしょう。

韓少功 その通りです。散文化されているうえに人物に一貫性がないですから。前に出た人物が後でいなくなったり、後で出てくるのに前で探してみたらいなかったりします(笑)。清代に出た『四庫全書』に「説部」という項目があります。今、私たちのいう小説に該当します。ですが、この「説部」に収録された文献の90パーセントが、最近の人間の目で見れば散文に見えます。なぜなら、中国の小説と散文は本来入り乱れているんです。「分家」したのはせいぜい100年ほど前です。胡適のように西洋的な観念に精通した人が、小説の概念整理を新たに行ったのも、そのような理由からでしょう。もちろん悪いことではありません。私たちがヨーロッパ的な小説を書いていけないわけではないですから。ですが、文学は多様であるべきです。そのような点で「ポスト散文」の伝統を再発見し活用すること、だから、散文と小説の融合も試みたりするんです。

白池雲 試みるとおっしゃいましたが、私には既存の小説に対する批判が含まれているように思われました。先生の「魂の声」という作品の最初の文章は「小説が死んでいく」でしたが、その響きが長く残りました。私には、先生が『馬橋詞典』を通じて「小説(文学)の死」という現在の現実を打開する、新たな突破口を模索されたように思えます。

韓少功 本来、古代中国や東アジアでは、小説と散文を区分しませんでした。文・史・哲が一つでした。私たちの脳は、論理と理論で事物を明確に区別する時もありますが、形象やディテールで描写するしかない時もあります。それが文学です。概念と形象が一緒になってしまうのは、実はとても正常です。人が一日中、理論的な分析だけをしたり、一日中、描写だけをすると考えてみて下さい。おそらくみなうんざりして逃げ出してしまうでしょう。反面、最近の学問はとても細分化されています。「人材」ではなく「専才」を作ります。たとえば誰かが「哲学を専攻する」というと人は嘲笑します。「西洋哲学を専攻する」といってもやはり詐欺師扱いを受けます。さらに詳しく、少なくとも「ヘーゲル哲学をやっている」とか「ハイデッガー専攻だ」くらい言って初めて認められます。このように専門化されるほど知識はさらに狭くなります。それは危険ではないでしょうか? 一種の硬直性と閉鎖性が生じるのではないかと思います。

白池雲 文学はみなそうですが、特に小説は多様な形式が共存する空間でしょう。『馬橋詞典』を読みながら、私はバフチン(M. Bakhtin)の対話理論を連想しました。バフチンは、小説の中に多様なジャンル、言語、信念体系が対立的に共存するといいました。そのような多声性が『馬橋詞典』に生きているように思えました。

韓少功 小説にはつねに「主線律の覇権」が存在します。単一叙事の論理関係を形成します。ある人が死んだとすれば、その原因は殺人であり、そこには殺害の動機があるという風にです。ですが、その人の死には他の原因があるかもしれません。そしてその原因は、一面的な論理の中で見つからないこともあります。事物の変化の過程にかならず1つの原因と1つの結果だけがあるわけではありません。複数の原因に1つの結果があり得ます。ポスト戯曲的な小説様式はそのような複雑性を隠蔽する傾向があります。

白池雲 読者の立場から見れば、『馬橋詞典』のような作品は読み進めるのが難しい面があります。一貫したプロットや人物性格が存在しないんですから。一回だけ登場して消えたような人物も、後で見ると大きな網の中でみなつながっています。そのように破片的で断続的な関係を視野に入れながら読書することに慣れていません。前に出た人物が久しぶりにまた出てくると、誰だったのか忘れています。私も読みながら、人名をさがすのに苦労しました。『馬橋詞典』の続編ではぜひ人名索引を入れて頂けたらと思います(笑)。

韓少功 生活というものは本来完結していません。そのような破片性こそが、生活の本当の一部でしょう。今日、私が道である人と会ったとします。その人とその後二度と会えないかもしれません。ですが、その人が私にある印象を残すことによって、私の生活の一部になり得ます。このような破片性こそが真実です。切り取ってはいけないんです。

 

地方、中国文化の脱構築的な再構成の軸

 

白池雲 このあたりで、「地方性」の話をしてみたいと思います。他のものを見ても、先生が方言、あるいは地方性を重視されているという印象をかなり受けました。そこには北方を中心に構成された中国文化に対する、ある種の発言が含まれているという感じもします。たとえば、北方文化と南方文化をそれぞれ「龍」と「鳥」にたとえながら、「龍」に重ねられた権威的な象徴性を剥ぎ取るような試みが作品によく出てきます。中心と権威に対するこのような脱構築は、一面、ポストモダニズムと近接しています。ですが『熱烈な読書』に掲載されたものを見ると、また明らかにポストモダニズムと距離をおいておられます。なので、多少矛盾が感じられます。明らかに先生には中心に対抗する脱構築的な思考が濃厚に存在しますが、一方でポストモダニズムに対しては強く批判されているからです。

韓少功 中心の脱構築と権威の転覆に対するポストモダニズムの情熱は、明らかに肯定的なものです。さきほど話した方言のような場合も、事実、本来すべての言語がみな方言でした。イギリスのある言語学者は「普通話」(標準中国語)が「軍隊語」(the language of army)であるといいました。事実、「普通話」は権力化の過程が産んだ政治的な産物です。1949年に普通話を確定する時、国の会議で投票しましたが、西南官話(四川、重慶、雲南等の標準語)――鄧小平が使っていた言葉です――と北方官話(北京や東北地域などの標準語)の差がたった3票だったそうです。ですから、四川の言葉が標準語になっていたかもしれません。そのように見ると、標準語の中心性と権威は必然的なものではありません。方言の反逆性にも根拠があります。世界で最も巨大な標準語は英語です。通常、英単語は50万ぐらいあるといいますが、大部分はイギリスと関係がありません。世界各地の人々が参加しました。言ってみれば「英語という方言」は、英米という2つの地球的な覇権国家の歴史と緊密な関係があるんです。ポストモダニズムの脱構築的な方法は、このような歴史的真相の洞察に役立ちますが、時にはとても極端です。すべての意味と価値を否定します。そのようにいくと、結局は、彼らが反対するのと同じ道を行くことになります。相対主義を絶対化するのは、結局、絶対主義ですからね。

白池雲 方言と関連して、先生の文学と南方文化の関係について話してみたいと思います。古代から中国は、北方は『詩経』、南方は『楚辞』といって、南北の文化的な気質の差がはっきりしていました。先生の作品には『楚辞』に代表される、自由奔放で反抗的な南方文化の水脈が保たれているようです。

韓少功 中国の古代文化は、大部分、黄河流域の文人によって記録されました。孔子と孟子の故郷の山東地方も黄河下流です。秦、漢の首都・西安も北方です。そのとき南方にも優秀な文化がありましたが、歴史家によって記録されませんでした。宋代になって変わりました。モンゴルや突厥のように強大な遊牧民族が北方を占領し、漢族が南方に追われました。南京に首都を移して湖南にも学校を建てました。長沙(チャンシャー)にある岳麓書院のような有名な書院もそのときできました。ですから、私たちの南方文化も明らかに中華文明の一部です。ただし長い間、野蛮世界として、周辺文化として隠蔽されてきただけでしょう。

白池雲 このような区分が可能かわかりませんが、先生の書いたものを見ると、儒家よりは道家や仏家に対する格別の愛情が感じられます。もちろん儒家全般といえば誇張になるかもしれませんが、やはり老荘や仏教に対する好みが、先生の思想と文学の重要な源泉のようです。

韓少功 儒家という概念は時にはとても広いです。中国の古代文化をすべて儒家文化と見たりもします。小さな概念としての儒家は、道家や法家と区別される小さな学派です。今、人々の言う儒家は概念がとても紛らわしいです。大きな儒家、小さな儒家を区別しません。中国の古代文化の代表が儒家であるというのも、実際には適切ではありません。仏家もあります。そのうえ2千年の間、儒家には多くの変化があって、すでに儒家は1つではありません。ある意味では私も儒家思想に同意します。ですが、小さな儒家には問題が多いと考えます。たとえば儒家には過度なエリート主義があって、政治、社会、倫理に片寄っています。生命哲学、認識論、方法論に関しては、道家の荘子や老子、あるいは墨子の方が興味深いです。

白池雲 ですが、偶然の一致でしょうか? 老子も荘子も南方の人でしょう(笑)。どうも先生は南方という地域や文化に、ある種の血縁的な絆があるようです。

韓少功 私が生まれ育ったところが上古時代の楚です。今でもその地域の人々がいつも使う言葉に「周に服従しない」(不服周)というのがあります。相手に屈しないという意味でしょう。ですが、なぜ「周」という字が出てくるのでしょうか? ここでいう「周」は周天子、ですから、紀元前の周の中央政府を意味します。「周に服従しない」というのは(南方の人にとって)北方の周天子は怖くないという意味です。幼い時からその話を聞いていましたが、それがどこからきた話か知りませんでした。2千年前に使っていた言葉が、今まで通用しているんです。本当におもしろいです。

白池雲 では今でもその言葉が同じ意味で使われるんですか?

韓少功 今でも民間では多く使いますが、自由奔放で権威に屈せず、はなはだしくは無法者のような意味でも使います。やや無政府主義的なニュアンスもあります。南方の人々の気質をよく示しています。

白池雲 おもしろいですね。そのような南方の自由奔放な気質が、先生の作品に溶け込んでいると思います。ですが、この問題は「文学と政治」という主題ともつながりそうです。文学が社会にどのような役割を果たすべきかという問いは、高踏的ではありますが、最近のように文学の地位が揺らいでいる時、考えざるを得ない問題です。中国の場合、作家や知識人が社会に発言することが容易ではないといいますが、先生の書いたものには時に直接的な批判も含まれています。より重要なのは、そのような批判が外部(特に西洋)の人々に、単純な「反政府」や「反共」として理解されることを拒否しているということです。『馬橋詞典』で、田舎の人々がおいしいものをすべて「甘い」と表現するように、西洋人は中国人の反抗をみな「反共」に帰結させると叱責しましたが、それは西洋だけでなく韓国人もたびたび陥る陥穽です。その一方で先生の立場が少し曖昧に感じられたりもします。西洋人が期待する形ではない、中国の知識人がなすべき反抗は、どのようなものであるべきだとお考えですか?

韓少功 さきほど極端な権威主義や拝金主義について話しました。権力と資本こそ中国社会の2つの病巣です。両者が結びついた「権威的資本主義」、まさにこれに抵抗するべきだと考えます。もちろん長期的な課題でしょう。ですが、中国と西欧は歴史や文化の面でかなり違います。症状を見ながら処方すべきであり、一般的に薬を与えるだけではいけません。たとえば、西洋人は種族問題に特に敏感です。ユダヤ人に対して誤った発言をすれば、監獄に行ったり、最低限、食い口を失ったりします。ですが、中国ではそれほどではありません。韓国も同様でしょう。反面、中国人が特に重視するのは家族です。古代には税金を「人」でなく「戸」単位で課しました。この前、新聞でこのような記事を見ました。ある人が交通事故で死んだのですが、調べてみるとその人が誰かに借金をずいぶんしていたそうで、その債務を両親と兄弟が代わりに返したといいます。西洋ではそのような義務がないでしょう。個人の債権と債務は家族と関係ありませんから。これがまさに西洋の「個人本位」です。では私たちはこの現象をどう見るべきでしょうか。「家族本位」にももちろん問題があります。ですが肯定的な面もあります。借金を代わりに返すことが美徳でないとは言えないでしょう。ただ、西洋の法律の角度で、それを情けないことだと嘲笑するならば、世界で起きる数多くのことが理解できないでしょう。英語の人称代名詞のなかで「私」(I)だけは大文字で書きますが、そこに内包された文化観念に問題がないとは言えません。ともすると過剰な自己本位、自己憐憫、自我閉鎖のようなものを産みます。

白池雲 『馬橋詞典』や『山南水北』を読みながら、中国人民に対する先生の観察がとても鋭いという感じがしました。非合理的なようだけど、彼らにも一貫した人生の態度と論理がありました。国家や政府に対して無力なようだけど、それなりの観点と対処の形がありました。たとえば馬橋の人々が記憶する1948年は、「国共内戦」という国家の公式の記憶と異なりました。共産党と国民党を記憶する方式もとても具体的です。イデオロギーに簡単に左右されていません。それを見ると、頑強な形ではなくても、彼らなりの抵抗が人生に溶け込んでいると思います。それは西洋人の想像する「反共」と明らかに違います。その違いが、微妙だけど重要だと思います。

韓少功 そうですね。生活は複雑で、イデオロギーは単純です。イデオロギーは是非を明確に区別する白黒の論理でしょう。ですが、実際の人民の生活はとても複雑です。だから文学が有利なんです。具体的なディテールを描くので、イデオロギーの単純さから最大限自由でいられます。

 

文学は文革をどう記憶するか

 

白池雲 先生の作品と文革についてお話しをうかがってみたいと思います。1980年代の先生の小説はたいてい直接・間接に文革の問題を扱っています。個人的には先生の初期の中篇や短篇はかなり衝撃的でした。その最大の理由は、その形式の前衛性とモダンさですが、その話は少し後でします。2つ目は、文革について私の知っていたこととは全く異なる、新しい視野を開いて示してくれたという点です。中国現代文学の専攻者たちも、たいてい文革といって思い出すのは、やはり「芙蓉鎮」のような映画です。国家が個人に加えた抑圧を告発する、暗く憂鬱な作品でしょう。ですが先生の小説は違いました。暗い面がないわけではありませんが、「西の牧草地」(西往茅草地、1980)や「青い空を飛んで」(飛過藍天、1981)のような短篇は、まずとてもおもしろいです。当時の「知青」たちは、私が考えたように、国家に操縦されるだけの受動的な人々ではありませんでした。自分の主観がとても明確です。たとえば「西の牧草地」の主人公は、農民幹部の教条的な愛国心をばかにしながら、悪知恵ばかり働かせますが、その一方で自らの思想的な堅実さに対して厳格な面もある、矛盾のある人物です。そのような矛盾が、先生が文革に対して抱いているある種の考えと共通しているのではないかと思います。主に国家の被害者としての個人を浮き彫りにした、当時の「傷痕文学」と異なり、先生には、文革に対する矛盾した、分裂的な認識があると思います。

韓少功 長いこと私は「傷痕文学」に不満でした。とても単純です。それは私たちの生活と歴史の真実ではありません。実は「芙蓉鎮」の原作者は私の友人ですが、でもあの映画は少し程度が過ぎます。あたかも文革に絶対的な善人と悪人がいるように、幼稚に描いています。実に残念なのは、世界を白黒で分けるあの映画の論理が、冷戦的な思考を持った西洋人たちに吸収されやすいという点です。文革は上層と下層、前期と後期の状況がそれぞれ異なりました。また政治派閥や個人によって多面性がありました。被害者が加害者になることも茶飯事でした。決してアウシュビッツ収容所ではありませんでした。逆らった人々の思想的な資源と闘争手段に大きな問題があったりもしました。彼らが被害者なのはその通りですが、その被害が誇張されているような気がします。あるいは被害者だからといって、彼らの悪行が縮小されている面はないでしょうか? 冷戦的な思考だけではこのような状況を理解することはできません。何年か前にそれについて少し書いたことがあります。

白池雲 私も読みました。アメリカのデューク大学で発行する学術誌『boundary 2』に掲載された「文革はなぜ終結したか?」(Why Did the Cultural Revolution End?, 2008)ですね。それを見て、文革について私たちは何も知らずにいるのだと思いました。

韓少功 そこで書いたように、当時、抵抗には最低3つほどありました。1つは造反型です。はじめは文革を擁護して、後で自分たちが攻撃されると転向して逆らったケースでしょう。2つ目は疎外型です。王朔(ファンスォ)の小説に出てくる青年たちがそのようなケースでしょう。大部分は幹部の子弟で、西洋音楽を聞いてふんだんに飲み食いしながら、ごろつきのように群をなしています。政治から離れていますが、間接的に反抗を表出したのです。3つ目は継承型です。文革の思想理論をすべて受け入れた人々です。その中にはマルクス主義者もいます。ですが、毛沢東は間違っているとして文革を激しく批判しました。天安門事件の時もそのような人々が多数いました。西洋人の冷戦論理で最も理解困難なのがこのような類型です。マルクス主義と文革は一体なのに、どうしてマルクス主義を信奉しながら文革に反対するのかということでしょう。彼らはただ、文革が自分たちの理解するような形であることを望みます。

白池雲 「青い空を飛んで」を見ると、私が想像した文革とはずいぶん違いました。はじめに遠大な理想を抱き、農村に身を投じた「知青」たちが、時間がたつとあれこれと手段と方法を動員して農村を離れます。結局、コネもなく、媚びる才能もない主人公だけが一人残ります。そのような彼に、先に都市に脱出した友人が手紙を寄越して、「頭を使え、幹部に褒められることができなきゃ、嫌われても出てこい」という部分は本当に滑稽で……そのような場面は、直接の体験なくしては発想できないものだと思います。

韓少功 多くの私の小説の中には、私の分身が入っています。私の経験から見れば、文革の大きな特徴は、権威的な制度と革命的な理想の錯綜です。権威的な制度は悪いですが、平等を主張して官僚主義に反対する革命の理想までは否定できません。「西の牧草地」に退役軍人が出てきます。とても権威的な独裁者です。ですが、彼には社会に対する満ち溢れた情熱と人情があります。至公無私の人物でしょう。あの小説が80年代に発表された時、かなり多くの論争がありました。当時の傷痕文学の主流の中で、単純なことに慣れた人々は、このような矛盾した人物を受け入れることができなかったんです。

白池雲 おかしいですね。常識的に考えても、そのような人物は現実の中にいくらでもいるでしょう。むしろ真実により近いと思いますが。

韓少功 当時の国家政策もそのような単純化を促しました。共産党中央で文革の「全面否定」という結論を下しました。その後、文革は禁断区域となり、その中で発生した複雑な状況を論じることは容易ではありませんでした。

白池雲 「文革はなぜ終結したか?」という文章の最後にこのようなことを書かれました。文革は理解困難な事件だが、文学の任務はまさに理解困難なことを理解可能にすることだと。私が読んだ作品はわずかですが、文革の深層と正面対決したケースは多くないように思えます。私たちとしては、最初に接したのが傷痕文学で、それからが余華の『人生』 『許三観売血記』のような作品でした。傷痕文学が主として迫害される知識人を取り上げたとすれば、余華は人民が文革の激動期をどのように生き延びたかを描きました。ですが、本来、文革の主役である紅衛兵や「知青」はつねに背景として出てくるだけでした。

韓少功 文革のタブー化と悪魔化が、むしろ文革批判を無力にしました。だから文革の清算という歴史的任務は、これまで完遂されることがなかったんです。文革を取り上げた作品は数的に決して少なくありません。ですが、大部分は単純化という病巣を抱えています。悪魔化すればするほどさらに理解できなくなります。理解できないということは、まさに認識的な失敗を意味します。中国で文革が勃発した時、インドネシアにも大きな災難がありました。アメリカやイギリスが支援したクーデターでしたが、2年の間におよそ100万人が死にました。その事件は何年か経過してから西側のマスコミに出始めましたが、知識界ではなかなか言及しませんでした。おそらく中国人も95%以上がそのことを知らないでしょう。冷戦イデオロギーは多くの事実を選択的に隠したり、単純化・悪魔化したりする形で処理しました。そうした点でアメリカと中国の主流知識人は同じ道を行っているのです。事実、中国の文革でもインドネシアの虐殺でも、さらにヒトラーや日本軍国主義についても、絶対に悪魔化してはいけません。そのような批判には力がありません。事実をもとに戻すことは、批判する人間の自信から始まるんです。

白池雲 先生の文学において、文革はどのような意味を持つんですか?

韓少功 文革は私の小説の重要な資源です。私の青春期の、最も忘れることのできない時間です。私の父親は文革中に自殺しました。家全体が崩壊しました。ある台湾の作家がこう言いました。韓少功は文革に対して発言権があると。ですが、感情的な態度で過去に対することはしたくありません。当時、私の父親を死に追いやった人々も悪魔ではありません。彼らがそうしたのには複雑な原因があるのです。本当に社会の病巣を直そうとするならば、まずその原因を探し出さなければなりません。
白池雲 以前、私は、「知青」たちがみな、強制的に地方に「下放」されたのだと思っていましたが、先生の作品に出てくる人物は、両親の反対も拒んで志願しています。当時の状況はどうだったんでしょうか?

韓少功 大部分はやはり強制的な下放です。やむをえず行く場合が多かったと思います。ですが、一部に、理想主義、英雄主義に陶酔して志願した人たちもいました。私もそのようなケースでした。

白池雲 外からはそういうことが見えにくいんです。祖先が文革中に迫害されたわけですよ。そのような状況で志願するというのが……。

韓少功 話をすると長くなります。父親は自殺しましたが、数か月後に復権されました。政府からも生活補助金が出ました。こうしたことは文革中にはとても多かったんです。当時私は私の父親の名誉を回復させた人々に対する感動もあり、また、かならず革命をなしとげて、社会の正義を取り戻すのだという覚悟もありました。率直にいえば、文革中、私は、ある時は悪魔であり、またある時は幼い羊でした。学生たちは勉強したくないでしょう。文革が始まって、学校も門を閉じて先生たちを批判するので楽しいんです。だから誇張された政治的レッテルを先生に付けて、陰で一緒にそわそわしたりしていました。これは私がやった悪行です。ですが、父親が迫害される時、私はかわいそうな羊でした。また、至高な理想を抱いた青年だったんです。下放中は「反革命」分子にされて監獄にも行きました。傷痕文学の目から見れば「英雄人物」でしょう。そのような具合に複雑なんです。多くの中国人はみな私のように多重的だと思います。

 

文学の新しさはどこからくるか

 

白池雲 それでは今度は、文革が終結して改革開放が始まった80年代の文化的な環境について伺いたいと思います。まず形式実験についての話から伺います。今でも先生は不断に新しい実験を続けておられますが、80年代の作品は今見てもずいぶん前衛的です。「帰去来」(1985)、「爸爸爸」(1985)、「女女女」(1986)のような小説には、老荘思想、マジックリアリズム、意識の流れ、表現主義など、東洋や西洋のあらゆる形式が鋭く変奏されています。その時期は中国文学全般がそのように急進的で前衛的な実験に向かって疾走していたようです。むしろ90年代になって平凡になりました。いったい80年代にどうしてあのようなアバンギャルドが盛んだったのでしょうか?

韓少功 文革の終結直後に外国の文芸思潮や作品が大量に押し寄せました。それが文学刷新に対する意欲を刺激しました。そのうえ当時の作家には市場の圧迫がありませんでした。他の人々が理解できようとできまいと関係ありませんでした。それとともに多くの作家が美学的な反省を行いました。1949年以降の社会主義リアリズムの偏狭性を打破する多様性を渇望しました。このような思いの中で、作家は「何を書くべきか」だけでなく「どう書くべきか」に注目しました。そうしてあたかも約束でもしたかのように、互いに区別することなく実験に邁進しました。ある人はかなり西欧的なスタイルで書き、またある人はかなり土俗的に書きました。それとともに80年代の繁栄が来ました。それがどうして90年代に入って退潮したのか? 私の実感では、やはり市場が大きな圧力に変わったせいだと思います。大衆の美的慣習に挑戦する実験的作品は、ますます生存が難しくなりました。また西洋文学に対する消化の作業が一段落したこともあります。知ることはみな知り、ずいぶん遊ぶこともしたので、次は自分の場を整理するのだということでしょう。私も「意識の流れ」のようなもので書き、結局はやめました。最近の「ポスト散文」的な小説伝統に対する私の関心は、外観上から見ても、これ以上西欧的なものではありません。

白池雲 80年代当時、先生が唱えた「ルーツ探し文学」は、中国文学史においてとても重要な出来事です。ですが、今、考えれば、やはり曖昧なところがあります。一般的に「ルーツ」といえば伝統を考えるでしょう。ですが、当時の先生の小説は、今の感覚で見てもとてもモダンです。伝統的な要素もありますが、「現代に向かって」という色彩が確かに内在しています。80年代という時点が新しい「現代」を模索する時でもありました。そのような点で当時の「ルーツ探し」というスローガンには二律背反的な性格があると思います。

韓少功 例を一つあげてみます。ある遺伝子専門家いわく、最も優秀な遺伝子は最も古いものだといいます。多くの優秀な遺伝子は古墳や原始林から出ています。ですが、そのような原始種を識別して活用するためには、最先端の遺伝子技術が必要です。ならばそのように探し出した種は古いものでしょうか? そうです。現代的な産物でしょうか? やはりそうです。古代と現代が互いに浸透したものですから。80年代に提出された「ルーツ探し」は明らかに本土文化を意味しました。ですが「本土化」こそが現代化の産物です。グローバル化が引き起こした現象でしょう。私たちに西欧に対する理解がなければ、中国が何なのか、アジアが何なのかわかりませんし、その反対も同じことです。ポルトガルの作家ペソア(Fernando Pessoa)が言うように、私たちが裸体の美しさを鑑賞できるのは、まさに私たちが服を着ているからです。

白池雲 少し具体的な質問を付け加えたいのですが。散文「クンデラの軽さ」で70、80年代の中国にラテンブームが起きたとおっしゃっています。韓国でもその時期「第三世界」に対する議論がかなり真剣になされました。ラテンアメリカ地域の文学や変革理論に対する関心とともに、それに対する批判的な止揚を通じて、民族文学の世界文学的な視野を獲得しようとする言説的な試みが『創作と批評』でもありました。どこかで莫言もマジックリアリズムの影響を受けたと告白しているのを見たことがありますが、先生にとって南米文学はどのように記憶されているんでしょうか?

韓少功 ラテンアメリカのマジックリアリズムは、実はインディアンの伝統的な文化資源を大量に活用したものです。神話、伝説、迷信のようなものです。中国の作家に大きな影響を与えました。厳密にいってそれは「第三世界文学」とは言えません。ヨーロッパ文学の延長、すなわちスペイン文学の地方版でしょう。ですが、いい成果を出したことは間違いありません。20世紀の類まれな文学的最高峰の1つでしょう。その後そのような成果は出ていないと思います。

 

真の世界性を獲得するために

 

白池雲 おっしゃる通り、マジックリアリズム以降、特定の文学思潮が地球的な影響力を持ったケースはあまりないようです。その後しばらくは文学が一国に閉じ込められたようになりました。そうするうちに、出版市場の超国境化のせいもありますが、最近になってまた文学の世界性に対する関心が高まっています。『創作と批評』でも最近取り組んでいる問題ですが、新たに到来する文学の世界性は、過去のヨーロッパ文学を中心に構成された世界文学とは異なる次元で準備されるべきだと思います。

韓少功 おっしゃる通りです。本来、世界文学とは欧米文学の世界化を意味していました。ですが、いまや各文学の間の平等な対話の機制としての、新たな世界文学の概念を提出する時期がきました。同質化と異質化が相互に背馳することなく、ともに進んでいく新たな局面が必要です。何が世界であり国際なのか、多くの中国人はそれを正しく認識していません。西洋が世界だと考えています。韓国や日本も似ているでしょう。これでは大量の経験と文化的資源が視野に入ってくることはありません。中国の場合、ヨーロッパやアメリカに対しては雄弁ですが、すぐ横にあるミャンマーやタイ、インドに対してはまったくの無知です。また「世界文学」は絶対に同質的なものではありません。同質の中に差異があり、差異の中に同質があります。言い替えれば、すべての国の文学が同質になるのではなく、互いにやりとりして交錯する過程で、豊富になり成熟するんです。その点で私は既存の「世界文学」とは異なる理解を持っています。

白池雲 私も同感です。グローバル化の風は強まっていますが、周辺国家に対する理解は相変らず低い水準です。おっしゃったように自我閉塞の状況を打ち破り、視野を広げていくグローバル化のためには、東アジアがもう少し互いを近いものとして参照することが必要です。そうした点で最近、おもしろい試みがあります。韓国の『子音と母音』、中国の『小説界』、日本の『新潮』が共同で、韓・中・日の作家に1つのキーワードを与えて作品を書かせ、三国の雑誌に同時掲載するという企画です。それを見るとグローバル化の経験を、互いに異なるけれども、ともに共有しているのだという気がします。

韓少功 意味のある試みです。交流の方法はいくらでもあります。重要なことは、声を出して明確な目標と方向を定めることです。既存の世界文学はせいぜいその半分、いや偽物の世界文学でしょう。西欧の見解しかないので、むしろ西欧自身に対する描写や解釈にも誤りが多いと思います。たとえていうならば、アメリカ経済が好況にある時、原油価格は1バレル当たり1ドルでした。それが西欧の真実でしょうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれません。価格が低かったのは、世界の絶対多数が石油を使わないという前提があったからです。ですが、インド人、日本人、ベトナム人、中国人、韓国人が石油を使い始めて、原油価格は一気に100ドルまで上がりました。西欧の外側の状況、ですから石油を使っていなかった人々が視野に入ってこなければ、西欧を本当に理解することは困難なのです。新しい世界文学は、かならず世界のこのような複雑性と対面しなければなりません。これは決して反西欧主義ではありません。真の世界的視野を樹立しようということです。

白池雲 少し敏感な問題かもしれませんが、先生の作品に「国境の彼岸と此岸」という散文があります。10年前に韓国の瑞南財団主催の会議に参加された経験を土台に書かれた作品です。その時、中国にアジアという観点がないことをさほど心配していないという話をされました。そこには2つの根拠がありました。1つは1960年代中国の第三世界経験です。ミャンマーやベトナム革命に対する中国の支援が「革命輸出論」に変質し、結局、それらの国家と関係が悪くなりました。もう1つは中国がその後、勢力的に大きくなり、「アジア」を提起すれば、それこそ危険ではないかとおっしゃいました。正鵠をついた指摘だと思いますが、一方では心配です。中国がアジアに対して持っている歴史的経験や実感は、私たちとはかなり異なります。それだけに両国の間に信頼と共感を重ねていくことも難しいようです。率直に言って、中国が東アジアの、韓国のパートナーなるだろうと考える韓国人はそう多くないでしょう。大部分が脅威になると考えています。

韓少功 中国は土地が大きいので、韓国や日本が不安に思うのは当然です。だからアメリカを引っぱってきます。米軍が駐留すると中国としてはまた不快です。あなたたちはいつも東アジアを叫びながら、どうしてアメリカを連れてくるのかと考えるんです。私の考えでも東アジアの団結はとても重要です。そればかりか、より大きな団結を語るべきです。でなければ、東南アジアや南アジアの人々がどう考えるでしょうか? このような団結が本当に現実化されるためには、大きな危機の克服に取り組まなければなりません。生態危機や経済危機のようなことです。そうして初めて団結に対する願いがさらに切実になり、障害を克服することになるでしょう。

白池雲 東アジアがともに危機を克服する経験が必要だというお話しですが、現実的に可能でしょうか。中国は今、上昇傾向ですが、近いうちに危機が来るでしょうか?

韓少功 それはわかりません。2008年に全地球的な金融危機が来るだろうと誰が予見できましたか? 明日のことはわかりません。もしそうなっても誰も私たちを助けてくれません。東アジアが自らの問題を解決し、ひいては世界に対しても責任を負わなければなりません。ですが中国はまだ準備ができていません。特に文化的な混乱や価値恐慌、精神的な方向喪失は巨大な時限爆弾です。それが経済的な成果や政治改革に爆撃を加えることもあります。この時限爆弾に対して中国人は警戒心がかなり緩慢です。経済が発展したのだから、他の問題もうまくいくだろうと考えるのは、純真に過ぎるというものです。南米や東欧は一時、経済が順調でしたが、一瞬にして崩壊したじゃないですか。東アジアの人間は賢いのですから、さらに遠くを見るべきです。同様に韓国も南北分断の問題を自ら解決するべきです。10年前に韓国に来た時は、南北関係はうまくいっているように見えました。当時、板門店で展示を見ましたが、北側を攻撃したり刺激したりする言葉がほとんどありませんでした。ですが、ここ数年、どうしてこのように対立するのかわかりません。希望をアメリカ、中国、日本、ロシアなどに寄せるのはナイーブに過ぎます。その点を韓国と北朝鮮が真剣に考えなければなりません。

白池雲 分断の話をされましたが、南北の関係が緊張するほど中国に対する警戒が大きくなります。政治や外交レベルだけでなく、同じ地域で共存すべきパートナーに対する理解のレベルで見ても、このような状況が肯定的であるとは思えません。私は、中国という国家の特別な体質に対する、新たな理解とアプローチが重要だと思います。中国は国民国家ですが、その内部には過去の帝国の運用機制が依然として残っています。もちろん領土が大きく、様々な民族が共存するだけに、それが必然的な面もあります。ですが、そのために、隣接国家に対しても、陰に陽に帝国的なやり方が介入します。このような点のために、互いにナショナリズム的な反目が大きくなったりします。力や大きさ、性格が互いに非対称の国家の間に、どのように平和な共存体制を構築するべきか、ともに知恵を集めて考える努力が必要です。

韓少功 アメリカとサウジアラビアは互いに違いの多い国ですが、互いに概して平和な関係でしょう。中国とパキスタンも宗教や社会制度が違いますが、うまくやっている方です。うまくやれるかやれないかは、相互尊重にかかっていると思います。今の中国は「千の顔」を持った国です。腐敗や貧富の差のような暗い面が深刻で、おっしゃったような帝国や民族主義の問題もあります。ですが肯定的な面もあります。そのように互いに異なる顔が一体になったのが中国です。将来を占うことはできませんが、もし中国が帝国になって各地に軍隊を派遣して覇権を主張するならば、その時は韓国も勇敢に対抗するべきです。そして良心的な中国人もかならずその戦いに参加するべきです。たとえば中国がアフリカに行って資源ばかり買い入れて、商品を売るだけで、技術を伝授しないならば、それは利潤至上主義です。植民主義と異なるところのない、恥ずかしいことでしょう。もちろん長期的に、民族国家体制は最終的に歴史から退場するでしょう。すでに多国籍企業もあるのですから、多国籍の大学・文化団体・宗教団体・政治団体のようなものが生まれないと誰が大言壮語できるでしょうか? 民族国家という形式が立ち行かなくなる時がくれば、そのとき東アジアは代案的な言語で浮上するでしょう。今、インターネットを見ると、国境のない共同体が数多く存在します。音楽愛好家、自動車愛好家、アフリカ勉強会など、色とりどりのコミュニティがあります。彼らは自分の隣人よりも互いに親しく、同胞よりも強い同質感を互いに対して感じています。将来の世界スポーツ大会も国家対抗でおこなわれると誰が大言壮語できるでしょうか? ホワイトカラーvsブルーカラーの、同性愛者vs異性愛者の対抗になってはいけないというルールなどありますか? 私たちには想像力と創造力が必要です。民族や国家の存在しない幻想小説を書くなというルールなどありますか? おもしろいと思います。そのようなことこそが、文学ができることだろうと思います。

白池雲 はい。おっしゃるように、私たちの疎通を阻む障壁を、文学的な想像力で打破していけるといいと思います。すでに与えられた時間をかなり超過してしまいました。今日は長時間、本当にお疲れさまでした。(2011年5月24日、細橋研究所)

 

※)この対話は2011年5月24日、ソウルの細橋(セギョ)研究所で中国語で進められ、延世大政治学科博士課程の宋文志(ソン・ムンジ)氏が録音された内容を中国語で記録し、ペク・ジウン教授が原稿整理と韓国語への翻訳を担当した。誌面の関係上、翻訳の過程で若干の縮約をおこなった。

 

翻譯 : 渡辺直紀

季刊 創作と批評 2011年 秋号(通卷153号)
2011年 9月1日 発行

 

発行 株式会社 創批
ⓒ 創批 2011
Changbi Publishers, Inc.
513-11, Pajubookcity, Munbal-ri, Gyoha-eup, Paju-si, Gyeonggi-do
413-756, Korea